ファミコン皇室のреволюция   作:星乃 望夢

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まさかこの歳になって日露戦争とか第一次世界大戦の事を改めて調べて勉強することになるとは思わなかった。


第三話 ツァレーヴィチの暮らし

アナスタシアにバターと蜂蜜がたっぷり塗られたホットケーキを食べさせてもらい、ひとしきり姉の甘やかしを堪能した後――フリストフォルは自室のさらに奥にある、小さな私室へと足を運んだ。

 

そこは、同じ寝台で眠る双子の姉アナスタシアでさえ立ち入ることを遠慮させている、フリストフォルの完全なプライベート空間であった。

 

そして、その禁域の扉の内側に足を踏み入れることを許されている人間は、世界でただ一人しかいない。

 

「お帰りなさいませ、坊ちゃま。作戦会議、お疲れ様でございました」

 

澄んだ、涼やかな声が出迎えた。

 

部屋の窓辺に佇んでいたのは、一人のすらりとした少女――フリストフォルの専属付き人、チヨノーチェであった。

 

今年で18歳になる彼女の装いは、ロシア宮廷の侍女としては極めて異端であった。

 

裾の広がったフリルのメイド服ではなく、フリストフォルの強い推薦によって仕立てられた、仕立ての良い漆黒の燕尾服。

 

美しい銀髪は後頭部でシンプルな黒のバレッタによって留められ、すっきりと開いた襟足からは滑らかな白いうなじが覗いている。

 

まるで舞台劇に出てくる美貌の若き貴公子のようなその佇まいは、宮廷内の同世代のメイドたちからも黄色い悲鳴を浴びるほどの大人気を博していた。

 

だが、フリストフォルにとって彼女は、単なる「かっこいいイケメン侍女」などという枠には到底収まらない存在であった。

 

彼女は、前世の記憶を持って生まれてしまったフリストフォルにとって、神がこの極寒の異国へと遣わしてくれた、唯一無二の女神であり天使そのものだったのである。

 

十二歳で宮廷に入り、十五歳で独り立ちしたチヨノーチェの最初の仕事が、生まれたばかりの皇子フリストフォルの身辺警護と世話係であった。

 

オムツを替え、子守唄を歌い、まだ首も据わらない赤子の頃から彼に寄り添ってきた彼女が、なぜこれほどまでに特別な存在となったのか。

 

理由は、彼女の血筋にあった。

 

明治の開国に伴い、遥か極東の日本から海を渡ってロシアへと定住した日本人を祖父に持つ彼女には、「ちよ」という日本の響きを織り込んだ「チヨノーチェ」という名が与えられていた。

 

そして祖父の影響で日本語を理解し、話すことができたのだ。

 

さらに宮廷教育によって英語も習得しており、ロシア語、英語、日本語の三カ国語を自在に操る類まれなるマルチリンガルであった。

 

思考が完全に日本語で構築され、知っている外国語といえば単語を並べただけの片言英語と、挨拶程度のロシア語しかなかったフリストフォルにとって、その事実がどれほどの救いであったか。

 

それを知るに至った経緯は、今思い出してもフリストフォルの背筋を冷や汗で濡らす。

 

生後一年目、フリストフォルは宮廷内で「夜泣きをひとつもしない、極めて大人しい赤子」と見なされていた。

 

しかし、一歳を過ぎても一言も言葉を発しようとしない皇子に、皇帝ニコライ二世や母アレクサンドラ、乳母たちは「我が子には言語障害があるのではないか」と深刻に動揺し始めていた。

 

無理もなかった。頭の中では「どうしてこんな所に転生したんだ」「これからどう生きればいいんだ」と日本語で激しく葛藤していたフリストフォルだが、ロシア語はさっぱり分からず、迂闊に日本語を話せば化け物扱いされるのではないかと怯え、固く口を閉ざしていたのだ。

 

そんなある日の昼下がり。

 

チヨノーチェの腕の中に抱かれながら、フリストフォルは「どうせ誰にも意味など通じるはずがない」と油断し、思わず日本語で小さく弱音を吐いてしまったのである。

 

『あーあ……もう嫌だなあ。日本に帰りたいよ……』

 

その瞬間、抱きしめていたチヨノーチェの身体がピクリと硬直し、銀色の双眸が大きく見開かれた。

 

そして彼女の唇から、おぼつかない発音の、しかし紛れもない日本語が漏れ出たのだ。

 

『……坊ちゃま、今、何とおっしゃいましたか?』

 

あの時の戦慄を、フリストフォルは一生忘れないだろう。

 

声が出せることを知られた動揺と、なぜかロシア人のメイドが日本語を話したという二重のパニックに脳を焼かれた一歳のツァレーヴィチは、幼児の小さな手を必死に振り乱しながら、完全に狂乱の墓穴を掘りまくった。

 

『アイム・ドント・ノースピーキング・ロシア! ロシア、ムリ、ダメ! ノー!』

 

『坊ちゃま……?』

 

『ヒミツ! ナイショ! トップシークレットだからね!!』

 

一歳の赤子が、片言の英語と日本語をチャンポンにして手振り身振りで「自分はロシア語が話せない」と必死に主張し、口止めを懇願する――客観的に見ればこれ以上ないほど奇怪で怪奇現象じみた光景であった。

 

だが、チヨノーチェは聡明であり、そして何よりフリストフォルに対して絶対の忠誠を持っていた。

 

彼女は主の異様さを誰にも告げ口することなく、そのクールな美貌の裏で静かに事態を受け入れ、それからの一年間、フリストフォルと二人きりの空間で「秘密のロシア語猛特訓」を敢行してくれたのだ。

 

生まれた最初の一年をロシア語の雑音の中で無言で過ごし、 二年目をチヨノーチェとの二人三脚による猛勉強に費やし、そして三年目を迎えた現在――フリストフォルは、まだ時折怪しい表現が混ざるものの、ようやく宮廷の大人の前で流暢にロシア語を操れるまでに成長を遂げたのであった。

 

「ふう……」

 

フリストフォルは小部屋の安楽椅子に深く腰を沈めると、小さく息を吐き出した。

 

外の作戦室で見せていた「冷徹な戦術家」の仮面も、アナスタシアの前で見せている「甘えん坊な弟」の顔も脱ぎ捨てた、前世の素顔に戻る。

 

チヨノーチェは銀髪を揺らしながら、音もなく歩み寄ると、フリストフォルの前に温かい紅茶のカップを置いた。

 

「お疲れ様でした。作戦卓の上で、ずいぶんと派手にお暴れになられたようですね」

 

その口調は、二人きりの時だけ許された、流暢なロシア語に微かな日本語のニュアンスを含ませた親密なものであった。

 

「暴れたくて暴れたんじゃないよ……。チヨも知ってるでしょ。僕、ただ美味しいもの食べて、ナースチャ姉さまに甘えて、ぬくぬく暮らしたいだけなのに」

 

フリストフォルがカップを受け取りながら愚痴をこぼすと、燕尾服を着たクールな美貌の従者は、クスリと悪戯っぽく微笑んだ。

 

「その『ぬくぬくとした暮らし』を守るために、ロシア帝国の全軍を動かしてしまわれるのですから、私の主人は本当に恐ろしいお方です」

 

「うるさいや。……でも、チヨのおかげだよ。僕の言葉を全部ロシア語に直して、事前に将軍たちへの言い回しを練習させてくれなかったら、あんなの絶対に喋れなかった」

 

フリストフォルが感謝を伝えると、チヨノーチェは恭しく胸に手を当て、優雅に一礼した。

 

「すべては、坊ちゃまの平穏のために。……さあ、冷めないうちにどうぞ。お気に入りのジャムも用意してございます」

 

過酷な歴史の荒波と、甘すぎる姉の愛情の狭間で戦う幼きツァレーヴィチにとって、この銀髪の「イケメン従者」の淹れる紅茶だけが、唯一の息抜きの場であった。

 

 

◇◇◇

 

 

大枠としてのグランドデザインを提示してしまった以上、それを机上の空論で終わらせるわけにはいかなかった。

 

前世で無数の戦略ゲームをやり込み、兵站の綻び一つで大軍が崩壊する様を骨の髄まで知るフリストフォルは、責任を持って将軍たちの開く最高軍事会議へと連日顔を出していた。

 

作戦室にはいつしか、三歳の幼子のために設えられた特製の高い椅子が置かれるようになっていた。

 

その隣には、弟が大人たちにいじめられてはいないかと心配そうに見守り、時折フリストフォルの口元へ菓子や水差しを運んでくれるアナスタシアの姿がある。

 

豪奢な軍服に無数の勲章を佩用した歴戦の将官たちが、手帳とペンを手に、幼い皇子の一言一句を逃すまいと息を詰めて耳を傾ける光景は、帝国の宮廷史においても空前絶後の異様な情景であった。

 

「大雑把な方針だけじゃ、現場の兵隊が迷うからね。もっと細かく詰めていこう」

 

椅子の上で小さな足を揺らしながら、フリストフォルはまず、潜水艦と飛行船という二つの新兵器の具体的ドクトリンを叩き込んでいった。

 

前世においてナチス・ドイツの潜水艦隊がイギリスを屈服寸前まで追い詰めた「群狼戦術」――それをフリストフォルはこの時代に適合させ、再定義した。

 

一隻で無謀に突撃するのではなく、複数隻で連携して敵の補給路に網を張り、交代で休息と補給を取りながら執拗に敵船団の側面を突く。

 

撃沈そのものよりも、敵に「どこからでも襲われる」という底なしの恐怖を植え付ける徹底したドアノッカーとしての運用である。

 

そして、飛行船の運用はさらに過激であり、革新的だった。

 

「飛行船から落とす爆弾だけど、専用のものを一から開発している時間はないでしょ?最初は、陸軍の要塞砲や大砲で使う重い榴弾をそのまま落とせばいいんだよ」

 

フリストフォルの言葉に、砲兵総監が目を見張った。

 

「信管をいじって落ちた衝撃で爆発するように工夫してもいいし、極端な話、爆発しなくたって構わない。数百キロの巨大な鉄の塊が、何千メートルもの空からものすごい速度で降ってくるんだよ? それだけで建物の屋根は突き破られるし、何より『空から正体不明の破壊が降ってくる』っていう心理的重圧は、地上の兵隊の精神を粉々にすり潰すよ」

 

さらに彼は、地上部隊を統括する陸軍将官たちに向け、未知の戦争概念を惜しげもなく開陳した。

 

「朝鮮半島の日本海側――奴らが兵隊や物資を揚陸する橋頭堡や兵站倉庫を見つけたら、飛行船の編隊で焼き払うんだ。これが『戦略爆撃』。敵が前線に鉄砲やご飯を送る前に、大元を絶つ」

 

小さな指が、作戦卓の満州国境付近を指す。

 

「そして、前線で陸軍同士が塹壕を掘って睨み合ったら、味方の頭上を越えて敵の陣地や大砲の真上に爆弾を落としてあげる。地上の味方を空から直接助ける『近接航空支援』だよ。これをやられたら、地上の歩兵は怖くて塹壕から一歩も顔を出せなくなる」

 

制空権の概念すら持たない将軍たちにとって、それはまるで未来の軍神が語る黙示録であった。陸と空が一体となって敵をすり潰す三次元の立体戦術。

 

それを三歳の皇子が、まるでおもちゃの兵隊の並べ方を教えるかのように淡々と説いているのだ。

 

続いて、フリストフォルは海軍の提督たちへ視線を移した。

 

「海軍の水上部隊も、ただ港に引き籠もるだけじゃダメだ。ウラジオストクや旅順の主力戦艦は、わざと煙を吐いて沖合に出て、目立つように動いて日本艦隊の主力――東郷平八郎たちの目を引きつける囮にするんだ」

 

「囮、でございますか……?」

 

恐る恐る尋ねる海相アヴェラーンに、フリストフォルは頷く。

 

「そう。連合艦隊が『ロシアの戦艦が出てきたぞ!決戦だ!』って色めき立って追いかけてきたら、こっちは射程ギリギリを保って逃げ回る。その隙に、足の速い防護巡洋艦や水雷艇の小艦隊を側面からぐるりと回り込ませて、無防備になった敵後方の補給船団を奇襲する」

 

戦艦同士の無駄な消耗を避け、敵の急所である輸送部隊だけを刈り取る。

 

「護衛の軍艦がいるなら、容赦なく魚雷で沈めていい。けれど、丸腰の輸送艦だけなら、沈めずに『拿捕』を最優先に狙って。日本の輸送船には、彼らが命がけで運んできた弾薬や缶詰、貴重な石炭が山積みになっているはずだ。敵から戦う力を奪いながら、こっちはタダで物資を補給できる。泥棒から荷物を奪い返すようなものだよ」

 

提督たちは思わず身震いした。敵の兵站を奪って自軍の糧とする――これほど合理的で、かつ相手を絶望させる戦法があるだろうか。

 

だが、そこでフリストフォルは表情を引き締め、かつてないほど冷厳な声音を響かせた。

 

「……ただし。これだけは絶対に守って。破ったら軍法会議で銃殺にしてもいいくらい厳格に徹底してほしいことがある」

 

その幼い顔立ちから放たれた凄まじい威圧感に、将軍たちの背筋が凍りつく。

 

「商船には、絶対に手を出さないこと」

 

静まり返る作戦室で、フリストフォルは一語一語を噛み締めるように告げた。

 

「運んでいる荷物が日本向けの軍需物資だったとしても、そこで働いている船員は民間人だ。イギリス人かもしれないし、アメリカ人かもしれない。それを警告もなしに沈めて、民間人を海に放り出して殺してしまったら……どうなる?」

 

フリストフォルは前世の記憶にあったドイツが潜水艦で無制限攻撃を行いアメリカからの民間船を沈めてしまった「ルシタニア号事件」が国際世論を沸騰させた過失を思い描いていた。

 

「『大帝ロシアは無辜の民間人を虐殺する野蛮国家だ』って、世界中から非難の嵐が巻き起こる。そうなれば、日本に金を貸している英米の世論が爆発して、彼らが日本側として直接戦争に参加してくる口実を与えてしまうんだ。そうなったら、僕たちがどれだけ軍事的に勝っていても、全部おしまいだよ」

 

戦争とは、戦場だけで完結するものではない。

 

国際世論と外交という巨大な枠組みの中でしか成立しないのだと、フリストフォルは叩き込んだ。

 

「怪しい民間船を見つけたら、国際法に則って必ず停船を命じ、臨検を行うこと。乗組員の安全を完全に確保した上で、軍需品だけを没収するか、中立港へ連行する。言い逃れの余地を一切与えない、完璧に合法的な手続きで首を絞めるんだ。……分かったね?」

 

「……ハッ! 御意のままに……!」

 

将軍たちは誰一人として異を唱えられず、揃って深く頭を垂れた。

 

軍事技術の最先端から、前線の泥臭い戦術、そして国際法と外交世論を操る国家戦略に至るまで――この幼いツァレーヴィチの頭脳には、帝国の全幕僚が集まっても及ばない「完全なる戦争の絵図」が収められていた。

 

「ふぅ……喋りすぎて喉が渇いちゃった」

 

緊迫した空気を自ら破るように、フリストフォルが息を吐いて椅子の上で身を縮めると、すかさずアナスタシアが駆け寄ってきた。

 

「はい、フリスチューシュカ。冷たいお水よ。……本当にすごかったわ、貴方」

 

姉が差し出してくれたグラスの水を美味しそうに飲み干すフリストフォルの頭を、アナスタシアは誇らしげに、慈しみを込めて撫でる。

 

その無垢な姉弟の姿を見つめながら、ロシア帝国の最高指導部一同は、確信していた。

 

極東の島国が仕掛けてきたこの戦争は、彼らが夢想したような「大国ロシアへの痛快な一撃」などには決してなり得ない。

 

3歳の軍神が紡ぎ出す綿密にして冷酷な網の目は、大日本帝国の命脈を、音もなく確実に締め上げようとしていた。

 

 

◇◇◇

 

 

ロシア語が話せずともフリストフォルが何一つ譲らなかった日課があった。

 

それは、入浴である。

 

しかも彼は、自らに与えられたロシア帝国皇子という至高の特権を最大限に行使し、一日に二回――朝と夕方に欠かさず湯船に浸かっていた。

 

寝汗をさっぱりと洗い流して頭を覚醒させる朝風呂と、一日を終えて心身の垢と疲労を癒やす夕風呂。

 

前世が日本人であった彼からすれば、息をするのと同じくらい当たり前のライフスタイルに過ぎなかった。

 

前世の世界でも外国人に「日本人はなぜそこまで風呂に入るのか、異常な綺麗好きだ」と呆れ半分に言われたものだが、入らない生活などフリストフォルには到底考えられなかった。

 

二日ならまだしも、三日も湯を浴びなければ頭皮は猛烈に痒くなり、皮膚から浮き出た皮脂や塩分が汗とともに目に入って焼けるように染みる。

 

その耐え難い不快感を身をもって知っているからこそ、フリストフォルにとって風呂は生命維持活動に等しかった。

 

だからこそ――この時代、この国の「当たり前」は、彼にとって耐え難い地獄であった。

 

二十世紀初頭の欧州、そしてロシアの宮廷においてすら、湯船に浸かって全身を洗う習慣は極めて稀であった。

 

一週間に一度入れば上等、下手をすれば月に一度程度しか湯浴みをせず、身体から立ち上る皮脂と汗の体臭を、濃厚な薔薇やムスクの香水で上書きして誤魔化すのが貴族階級の日常茶飯事だったのである。

 

設備も燃料も乏しい一般の民草に対し、「毎日風呂に入れ」などという贅沢を押し付ける気は毛頭ない。

 

だが、放置された不衛生がどれほど皮膚病や感染症の温床となるかを知るフリストフォルにとって、すぐ隣にいる家族がその悪習に浸かっている現実は、看過できるものではなかった。

 

何より、愛する家族と触れ合うたびに襲いかかる「あの臭い」に、彼の鼻腔が限界を迎えたのだ。

 

家族の生活様式を根底から叩き直した契機は、ある日の昼下がりにフリストフォルが放った、一撃必殺の「告白」であった。

 

あの日、日課の祈祷を終えて我が子を抱きしめようとした母アレクサンドラ、そして執務の合間に駆け寄ってきた父ニコライ二世、さらにはオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアの四人の姉たちを前に、幼いツァレーヴィチは息を止め、涙目で後退りしながら言い放ったのである。

 

『……みんな、僕に近付かないで。汗と香水の匂いが混ざって、すごく変な、酷い匂いがするの。……頭が痛くて、気持ち悪くなって吐きそう』

 

――その瞬間、ロマノフ宮廷に走った衝撃は、ニコライ二世ロマノフ家始まって以来の特大のものであった。

 

男であっても立ち直れないほど痛烈な一撃を、最愛の、世界でただ一人の病弱で愛くるしい末っ子から、濁りのない純粋な瞳で告げられたのだ。

 

母アレクサンドラはその場で顔を覆って卒倒しかけ、父ニコライ二世は雷に打たれたように凍りつき、姉たちは顔を真っ赤にして自らのドレスの匂いを嗅ぎ合って大恐慌に陥った。

 

以後、ロマノフ皇室において「毎日の入浴」は最優先事項として徹底されることとなった。

 

大理石造りの豪奢な浴室には朝夕絶え間なく薪が焚かれ、皇帝一家はこぞって湯船へと飛び込んだ。結果として、一家の皮膚疾患は劇的に減少し、特に偏頭痛や神経衰弱に悩まされていた母アレクサンドラの体調が目に見えて改善するという、思わぬ医学的功績まで生み出すこととなったのである。

 

「ふぅ……極楽、極楽……」

 

ツァールスコエ・セローの私室に備え付けられた巨大な白大理石の浴槽で、フリストフォルは湯の中に肩まで浸かり、至福のため息を漏らしていた。

 

ゆらゆらと揺れる湯面には、爽やかな香りを放つ黄色い果実が浮かんでいる。

 

フリストフォルは、貴族たちが好む濃厚で頭が重くなるような薔薇の香油を嫌った。代わりに彼がチヨノーチェに命じて手配させたのは、控えめで清潔感のある柑橘や茶葉の香りであった。

 

取り寄せるのに骨を折ったオレンジや、極東から持ち込ませた柚子。

 

時には贅沢に紅茶の茶葉を麻袋に入れて湯に沈め、あるいは飲むために仕入れさせた緑茶の葉を浮かべた「緑茶風呂」などを日替わりで楽しんでいた。

 

立ち上る湯気の中に満ちる、清々しい柑橘とほろ苦い茶の香り。

 

これぞ前世の日本人が愛してやまない湯治の空間であった。

 

「坊ちゃま、そろそろお上がりください。長湯は湯あたりいたします」

 

浴槽の脇で、袖を捲り上げた燕尾服姿のチヨノーチェが、清潔な白いバスタオルを広げて静かに呼びかけた。

 

銀髪を濡らさないように高く結い上げた彼女の凛々しい立ち姿は、湯煙のなかでも絵画のように美しい。

 

「んー……あと十数えたら上がるよ。一、二……」

 

駄々をこねるように数を数えるフリストフォルの頭を、チヨノーチェは微笑を湛えながら見つめていた。

 

「しかし、香水を一掃して果実やお茶を浮かべるとは、相変わらず坊ちゃまの発想には驚かされます。おかげで宮殿の中が、重苦しい花畑から清々しい果樹園のようになりました」

 

「当たり前だよ。あんな臭い匂いに包まれてたら香水酔いで僕の頭が割れちゃうもん」

 

十を数え終え、フリストフォルが浴槽から小さな身体を引き上げると、チヨノーチェが素早く柔らかなタオルで包み込み、手際よく水分を拭い取っていく。

 

ほのかに柚子と緑茶の香りを纏った肌は、赤子のように瑞々しく清潔であった。

 

身支度を整えられ、浴室の重い扉を開けると――そこには、すでに入浴を済ませて湯上がりの白いワンピースに身を包んだアナスタシアが、待ち構えたように両腕を広げて立っていた。

 

「フリスチューシュカ! 私、ちゃんとお風呂に入ったわよ! いい匂いでしょう?」

 

フリストフォルの教え通り、石鹸でしっかりと洗い、香水を一切つけずにやってきた姉は、まるで誇らしげな小鳥のようだった。

 

アナスタシアはフリストフォルを抱きしめると、弟の首筋に顔を埋め、すうっと息を吸い込んだ。

 

「あぁ……フリスチューシュカ、とってもいい匂いがする……。柑橘とお茶の匂いね。私、この匂い大好きよ」

 

すりすりと頬を擦り寄せてくる姉に、フリストフォルは「ナースチャ姉さま、くすぐったいよ」と笑い声を漏らした。

 

清潔な身体、清潔な空気、そして甘やかな姉の温もり。

 

この小さな湯上がりの楽園だけは、少年にとって何者にも侵されたくない平穏の砦であった。

 

 

 

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