ファミコン皇室のреволюция   作:星乃 望夢

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第五話 発進、巨鯨艦隊

開戦から半年が過ぎた、1904年の夏。

 

極東の戦線は、フリストフォルが描いた青写真の通り、極めて不気味な「膠着」を保ち続けていた。

 

日本陸軍は朝鮮半島を北上したものの、鴨緑江の峻険な要塞地帯に阻まれて手痛い出血を強いられ、海では旅順要塞の重砲に睨まれた連合艦隊が、決め手を欠いたまま燃料と神経をすり減らしていた。

 

そして、その半年という貴重な時間的猶予は、帝都サンクトペテルブルクにおいて、世界戦乱の歴史を永久に変えてしまう「異形の軍種」を誕生させるに十分な長さであった。

 

ロシア帝国が総力を挙げ、そして皇帝ニコライ二世が従兄であるドイツ皇帝ヴィルヘルム二世へ掛け合った結果、ツェッペリン伯爵の手による最新鋭の硬式飛行船が数隻、緊急供与されたのである。

 

世界初となる航空兵力のみで編成された部隊――陸海軍いずれにも属さない、第三の軍種たる「ロシア帝国空中機動艦隊」が産声を上げた。

 

そして、その初代最高指揮官の座に就いたのは、他ならぬこのドクトリンの発案者、わずか三歳のツァレーヴィチ・フリストフォルであった。

 

空から敵を討つという前人未到の戦術において、フリストフォルの頭脳に勝る人間がこの地上に一人として存在しないことは、軍首脳部にとって公然の事実であった。

 

帝都の巨大な係留施設に、その巨躯を横たえていたのは、空中艦隊の旗艦であった。

 

全長百数十メートルに達する銀色の偉容。

 

硬質軽合金の骨格に水素気嚢を収め、下部に堅牢な操縦ゴンドラと爆撃指揮所を吊り下げたその姿は、雲海を泳ぐ巨大な白鯨そのものであった。

 

艦名は皇帝のマッコウクジラ『ツァーリカシャロート』。

 

名実ともに空の巨獣の名を冠したその巨艦の乗降ブリッジの前で、幼き指揮官は、双子の姉から猛烈な抱擁を受けていた。

 

「嫌、嫌よ! どうしてフリスチューシュカが行かなきゃいけないの!? あんな遠いところ、行かせたくないわ!」

 

アナスタシアは涙で顔を濡らし、弟の小さな身体を押し潰さんばかりに抱きしめていた。

 

普段は弟の英知を誇らしげに讃えていた姉も、いざ戦火の待つ極東の果てへ弟が旅立つとなれば、ただの三歳の少女として激しく取り乱していた。

 

「泣かないで、ナースチャ姉さま」

 

フリストフォルは小さな両手で姉の涙を拭い、優しく微笑みかけた。

 

「約束したでしょ。姉さまが勝ちたいなら、僕が勝ってあげるって。……日本海を越えて、悪い奴らを空からやっつけて、すぐに美味しいお菓子をたくさん抱えて戻ってくるよ」

 

「……絶対よ? 絶対に戻ってきて、また私を抱きしめて寝てくれなきゃ、許さないんだから……!」

 

しゃくり上げるアナスタシアの額に、フリストフォルは自ら背伸びをして誓いの口づけを落とした。

 

その背後には、長女オリガ、次女タチアナ、三女マリア、そして両親が、祈るような眼差しで見守っている。

 

「殿下、出航の時刻にございます」

 

促したのは、フリストフォルの影のように付き従うチヨノーチェであった。

 

防寒仕様の仕立ての良い燕尾服に身を包み、銀髪を風になびかせた凛々しい従者は、幼き主人の手をしっかりと握り、歩調を合わせる。

 

彼女もまた、この前代未聞の空の旅路へ同乗する数少ない専属従者であった。

 

タラップを上がり、ツァーリカシャロートの指令ゴンドラへと足を踏み入れる。

 

「抜錨! 全エンジン始動!」

 

艦長の号令と共に、ドイツ製のダイムラー・エンジンが重低音の唸りを上げた。

 

地上係留索が解かれ、浮力を得た銀色の巨鯨が、重力から解き放たれてふわりと浮上を開始する。

 

見下ろせば、手を振り続ける家族の姿が、そしてサンクトペテルブルクの壮麗な街並みが、みるみるうちに小さくなっていった。

 

目指すは、遥か八千キロ彼方の極東――ウラジオストク。

 

シベリア鉄道の線路を眼下に眺めながら、雲海を切り裂いて進む空中機動艦隊。

 

バイカル湖の青き水面を越え、鬱蒼たるタイガの海を渡り、巨大な飛行船の群れは悠然と東へと針路をとる。

 

ゴンドラの窓辺に立ち、小さく風を浴びながら、フリストフォルは東方の空を鋭く見据えた。

 

その瞳に宿るのは、怠惰を愛する幼児の影ではない。

 

歴史の車輪をその手で力ずくでねじ曲げ、極東の敵国に「20世紀の恐怖」を直接叩き込みにいく、冷徹なる絶対君主の光であった。

 

 

◇◇◇

 

 

極東の軍港ウラジオストクの冷たい海風が吹き抜ける中、巨大な係留施設に固定された『ツァーリカシャロート』の船腹では、歴史上類を見ない、極めて奇妙で泥臭い兵器の積み込み作業が行われていた。

 

人類史上初となる「本格的な空爆」。

その記念すべき出撃を前にして、飛行船の爆弾倉区画――急遽改造されたキャビンの床下スペースに所狭しと並べられていたのは、あまりにも雑多で、手作り感に溢れた多種多様な爆装の数々であった。

 

まだ世界に「航空爆弾」という工業規格そのものが存在しない1904年という時代において、空から落とす破壊の手段をどう調達するか。フリストフォルが工兵将校たちと頭を捻り、現地の資材を掻き集めて形にしたのが、この急ごしらえの爆弾群であった。

 

「落とした時に確実に地面へ突き刺さるよう、後部に麻布の安定リボンを括り付けた野砲の榴弾」

重力加速度を味方につけた巨大な鉄塊は、信管を敏感な着発式へと改造されており、数百メートルの上空から落下すれば、建物を屋根ごと貫通して粉砕する純粋な「爆弾」となる。

 

その隣には、十数本のダイナマイトを縄で固め、異常なほど長く伸ばした導火線を巻き付けた「特製爆薬塊」が積まれていた。

高度と落下速度から逆算し、空中で投下してから着弾の瞬間にちょうど火が火薬に達するよう、工兵たちがストップウォッチ片手に長さをミリ単位で調整した代物である。

 

そして、最も異様な光景を作り出していたのが、木箱にぎっしりと詰められたガラス瓶の山であった。

 

「……ああ、神よ。これを敵の頭に落とすなど、なんと罪深いことか……」

 

「……まったく、よりによってウォッカを火炎瓶に使うなんざ、罰当たりもいいところだ」

 

「文句を言うな。殿下の仰る通り、アルコールが油の引火を早めるんだ。それに、敵の頭上で燃え盛るなら本望だろうが」

 

布を詰める作業に当たっていた屈強な工兵たちが、作業に当たっていた屈強なロシア陸軍の工兵が、布切れを詰め込んだガラス瓶を愛おしそうに撫でながら、心底から手元の酒瓶に名残惜しそうな視線を送りつつ、軽口を叩き合っていた。

 

命中すればガラスが砕け散り、周囲一面に消火困難な油の火の海を作り出す――現代で言うところの「焼夷弾」の原型である。

 

木と紙で作られた建造物が多い日本軍の兵站基地や宿営地に対し、これほど凶悪な効果を発揮する兵器はない。

 

しかし瓶の中身はロシア人にとっては魂の聖水である。

 

「坊ちゃま、工兵たちが『貴重なウォッカを武器にするくらいなら、自分の胃袋に収めたい』と泣き言を漏らしております」

 

背後に控えるチヨノーチェが、燕尾服の胸ポケットから懐中時計を取り出しながら、平然とした口調で報告する。

視察に訪れていたフリストフォルは、苦笑交じりに小さな肩をすくめた。

 

「……工兵のおじさんたち、準備はいい?」

 

フリストフォルが幼い声を響かせると、作業に当たっていた巨漢の工兵たちが一斉に背筋を正し、直立不動の姿勢をとった。

 

「ハッ! 全弾装填完了にございます、殿下! いつでも極東の猿どもに、天の裁きを落としてやれます!」

 

「うん。……あ、お酒を無駄にしてごめんね。作戦が成功したら、サンクトペテルブルクから一番いいウォッカ樽をたくさん運ばせてあげるから」

 

神童の思わぬ気遣いに、無骨な工兵たちの顔がたちまち破顔した。

 

「ウラー! ツァレーヴィチ万歳!」

 

歓声が響くなか、フリストフォルはゴンドラのハッチ越しに、夜の帳が下り始めたウラジオストクの海を見つめた。

 

冷たい日本海を渡ったその先には、朝鮮半島の要衝――日本軍が血眼になって物資と兵員を陸揚げしている港湾都市が広がっている。

 

ただの榴弾と、長い導火線のダイナマイトと、酒瓶の火炎弾。

 

それら粗末な暴力の種を詰め込んだ『ツァーリカシャロート』は、世界の戦争史を塗り替える最初の雷撃を放つべく、闇の空へと静かに浮上を開始した。

 

 

◇◇◇

 

 

ウラジオストクの軍港を抜錨した帝国空中機動艦隊は、鉛色の日本海の上空を一路、南へとひた走っていた。

 

海面を舐めるように吹き荒れる冷たい海風をものともせず、高度千メートルの気流に乗った銀色の巨鯨たち――旗艦『ツァーリカシャロート』を筆頭とする飛行船群は、時速六十キロ余りの巡航速度を保ちながら、日本列島へとその航跡を伸ばしていく。

 

やがて、朝靄に煙る水平線の彼方に、特徴的な双コブの島影が姿を現した。

 

佐渡島である。

 

「佐渡島上空を通過。変針、南南東へ。目標、新潟港!」

 

指令ゴンドラ内に航海長の鋭い声が響く。

 

フリストフォルは操縦席の踏み台の上に立ち、双眼鏡を構えながら、日本海の荒波の向こうに広がる越後の海岸線を捉えていた。

 

本州日本海側の最大の物流拠点にして、鉄道の結節点、そして石油精製施設を抱える港湾都市――新潟。

 

そこが、人類史上初となる戦略空爆の標的であった。

 

「全艦に通達。投下目標は港湾の桟橋、物資集積倉庫、鉄道操車場、ならびに石油貯蔵施設に限定する。民家への着弾は厳格に避けよ」

 

幼いフリストフォルの口から出たのは、冷徹なまでの「限定戦略爆撃」の指示であった。

 

「民間人を無駄に殺せば、敵の復讐心に火をつけ、国際社会の反発を買うだけだ。叩くのは、前線へ送るはずの武器と燃料、そして港の機能だけでいい。……これより、敵本土の急所を抉る」

 

「ハッ! 全艦、爆撃配置に着け!」

 

ツァーリカシャロートの船腹において、前代未聞の爆撃シークエンスが幕を開けた。

 

当然ながら、後世の大型爆撃機のような電動式の爆弾倉扉も、照準器と連動した投下ラックも存在しない。

 

この時代における空爆とは、技術の最先端と、現場の泥臭い人力作業が入り混じった「アナログの極致」であった。

 

ガタガタと軋む音を立てて、下部キャビンの大型昇降ハッチが手動のウインチで開け放たれた。

 

一瞬にして吹き込んでくる猛烈な突風と、ダイムラー・エンジンの重低音。

 

足元には、遥か千メートル下に広がる新潟の街並みと青い海が、目も眩むような高度感で剥き出しになる。

 

「命綱をしっかり張れ! 落ちたら神の国行きだぞ!」

 

工兵隊長が怒鳴り声を上げる。

 

太い麻縄のハーネスを腰に巻き、冷風に顔を強張らせたロシア陸軍の工兵たちが、床に固定された木箱から次々と「爆弾」を引っ張り出した。

 

「一番、砲弾投下用意!」

 

信管を改造し、尾部に麻布のリボンをなびかせた野砲の重い榴弾。

 

それを二人の大男が両腕で抱え上げ、開口部の縁へと運ぶ。

 

「目標、第一埠頭の大型倉庫群――落とせッ!!」

 

合図とともに、工兵たちが渾身の力で鉄塊を虚空へと放り出した。

 

重力に引かれた砲弾は、風を切り裂く甲高い風切り音を残して、一直線に地上へと吸い込まれていく。

 

続いて運ばれてきたのは、長い導火線が巻かれた結束ダイナマイトの束であった。

 

工兵の一人がランタンの火を導火線の端へと押し当てる。

 

ジュッと白煙が噴き上がった瞬間、躊躇うことなくハッチの外へと投げ落とした。

 

「次、焼夷瓶だ! 急げ、火を点けて放り込め!」

 

「おお、神よ。罪深き我らを許したまえ」

 

「ツァレーヴィチ殿下が奢ってくれると仰るのだ。とっとと投げろ!」

 

ウォッカと重油を詰めたガラス瓶の口から突き出た布に、次々と火が灯される。

 

揺らめく橙色の炎を纏った無数のボトルが、工兵たちの手から手へとリレーされ、新潟の空へとばら撒かれていった。

 

人力による、泥臭く、しかし途切れることのない死の連鎖。

 

その頃、新潟の港湾部では、誰もが自らの頭上に迫る破滅の影に気づいていなかった。

 

当時の日本軍および警察の見張り番が警戒していたのは、あくまで水平線の彼方――ウラジオストクから神出鬼没に現れるロシアの巡洋艦隊だけであった。

 

大砲を積んだ軍艦が海からやってくることだけを想定していた彼らにとって、「空を見上げる」という発想そのものが存在しなかったのだ。

 

突如として、天から甲高い引き裂くような音が降ってきた。

 

「……ん? 何の音だ?」

 

埠頭で米俵を運んでいた人夫が、怪訝そうに空を仰いだ。

 

それが、彼らの日常の終わりであった。

 

凄まじい地響きとともに、第一埠頭の煉瓦造りの巨大倉庫が、内部から爆発四散した。

 

屋根が吹き飛び、周囲に無数の破片が降り注ぐ。

 

悲鳴が上がる間もなく、今度は時限信管のダイナマイトが操車場のレールの上で轟然と炸裂した。

 

線路が飴細工のようにへし曲がり、停泊していた貨車が横倒しになって炎を噴く。

 

そして極め付けに降り注いだのは、空からの「火の雨」であった。

 

ガシャン、ガシャァンと地上で割れたガラス瓶から、粘着性のある油と高濃度アルコールが飛散し、港の木造桟橋や石炭の集積所へと一瞬にして燃え広がった。

 

消火しようと水をかけた警備兵たちは、水面を滑るように燃え盛る重油の炎に巻かれ、阿鼻叫喚の声を上げて逃げ惑うしかなかった。

 

防空砲など一門もない。 迎撃する航空機など影も形もない。

 

ただ、見上げる空の遥か高み、雲の切れ間に、巨大な銀色の白鯨が三隻、悠然と旋回しているのが見えるだけであった。

 

「な、なんだあれは……化け物か……!?」

 

「空から……空から露助が攻めてきたぞッ!!」

 

港の機能は、わずか三十分足らずの手動爆撃によって完全に麻痺した。

 

立ち上る黒煙は天を焦がし、日本海側の重要な補給拠点であった新潟港は、火の海と化した埠頭を残して沈黙を余儀なくされたのである。

 

ゴンドラの窓辺から、眼下で黒煙を上げる港を見下ろしながら、フリストフォルは静かに告げた。

 

「ハッチを閉めろ。反転、ウラジオストクへ帰投する」

 

「……よろしいのですか、坊ちゃま? まだ予備の弾薬はございますが」

 

背後でチヨノーチェが問うと、フリストフォルは冷徹な眼差しのまま首を横に振った。

 

「十分だよ。大事なのは被害の大きさじゃない。『ロシアはいつでも、日本の本土を空から焼き払える』という事実を、奴らの骨の髄まで叩き込むことだったんだから」

 

神州不滅を信じていた島国にとって、本土の頭上から降ってきた爆弾の嵐は、前線のいかなる敗戦よりも深く、絶望的な心理的トラウマとなって東京の大本営を震撼させることになる。

 

手運びで落とした粗末な爆弾。

 

しかしそれは、まぎれもなく世界を新しい戦争の時代へと叩き落とした、歴史上最初の「戦略空爆」の産声であった。

 

 

◇◇◇

 

 

ウラジオストクの軍港へ帰投した飛行船艦隊は、束の間の休息すら惜しむように、迅速な再補給作業を完了させた。

 

次なる目的地は、日本海を隔てた島国ではない。

 

大陸の喉首――朝鮮半島北部、鴨緑江を挟んで日露両軍の数十万の将兵が対峙する、泥と硝煙の最前線であった。

 

当時の朝鮮北部は、峻険な山岳地帯に無数の塹壕が掘り巡らされ、息苦しいほどの膠着状態に陥っていた。

 

フリストフォルの教えを忠実に守るロシア陸軍は、山上の天然の要害に強固なトーチカと鉄条網を張り巡らせ、一歩も動かずに待ち構えている。

 

対する日本陸軍は、攻めあぐねて補給の限界に怯えながらも、突破口を見出そうと血眼になって前線を窺っていた。

 

だが、その均衡は、天から降ろされた巨大な影によって一瞬にして粉砕されることとなる。

 

低く垂れ込めた鉛色の雲海を押し分け、巨躯を現したのは、銀色に鈍く光る三隻の白鯨――旗艦『ツァーリカシャロート』を先頭とする空中艦隊であった。

 

「……な、なんだ、あれは……!?」

 

塹壕の泥水に浸かりながら、日本の歩兵たちが信じられない面持ちで空を見上げた。

 

山並みを越えて悠然と前線上空へと進出してくるその偉容は、まさに天空の海を回遊するモビーディックそのものであった。

 

止める術など、この地上のどこにも存在しなかった。

 

大砲はある。野砲も、山砲も、攻城用の重砲すら前線には配備されていた。

 

しかし、それらはすべて「地平線の敵」を撃つための兵器であった。空を狙う高射砲や対空砲など、この時代の地球上には影も形もない。

 

砲架の構造上、天頂に向けて砲身を持ち上げることすら不可能であり、仮に無理やり上空へ撃ち出したとしても、空中で炸裂させるための時限信管がなかった。

 

見張り台の兵士たちが狂ったように小銃を乱射したところで、高度千メートルを巡航する飛行船に届くはずもなく、鉛玉は虚しく重力に引かれて地表へと落ちていくだけだ。

 

航空機による迎撃――そんな概念すら、この時代には存在しない。

 

アメリカのライト兄弟が人類初の動力飛行に成功したのは、ほんの半年前の1903年末のこと。

 

空を飛ぶものといえば、ようやく現れ始めたばかりの脆弱な実験用複葉機に過ぎず、機関銃を積んで空中戦を演じるドッグファイトの時代が訪れるには、さらに十年以上の歳月を待たねばならないのだ。

 

空の上は、完全なる絶対不可侵の聖域であった。

 

「敵の偽装砲兵陣地、ならびに弾薬集積所を視認。座標、確認しました」

 

ツァーリカシャロートの指令ゴンドラで、双眼鏡を下ろしたチヨノーチェが淡々と告げる。

 

その横で、踏み台の上に立つ三歳のフリストフォルは、冷徹に眼下の山肌を見下ろしていた。

 

地上からは決して見えない木立の影、岩陰に隠された日本の砲兵陣地が、上空からはまるで箱庭の模型のように丸見えであった。

 

「爆撃開始。……同時に、地上の友軍砲兵陣地へ発煙筒で着弾修正の信号を送れ」

 

フリストフォルの静かな命令が下された。

 

ふたたび開かれたゴンドラのハッチから、命綱をつけたロシア工兵たちによって、野砲の重砲弾と結束ダイナマイトが次々と虚空へと投げ落とされる。

 

頭上から降り注ぐ、防ぎようのない破壊の鉄塊。

 

ズガァァァンッ!!と轟音を立てて山腹が吹き飛び、日本の偽装砲兵陣地が、大砲もろとも空高く吹き飛ばされた。

 

さらに、飛行船から投下された色付きの発煙筒が敵陣の正確な位置を煙で指し示すと、遥か後方に控えていたロシア陸軍の重砲隊が一斉に火を噴いた。

 

空からの直撃爆撃と観測による地上砲撃の連携。

 

日本軍の陣地は、反撃の手立てを完全に奪われたまま、ただ一方的に叩き潰されていった。

 

兵士たちが命がけで掘り抜いた塹壕も、空からの爆発に対しては何の防壁にもならない。頭上からダイナマイトの爆風が吹き荒れ、ウォッカの火炎瓶によって補給物資の集積所が瞬く間に紅蓮の炎に包まれていく。

 

「退け! 退却だッ!!」

 

「撃つ手がない! 山影へ逃げろッ!!」

 

阿鼻叫喚の叫び声とともに、精強を誇った日本陸軍の前線部隊は、恐慌状態に陥って総崩れとなった。

 

人間が最も本能的な恐怖を覚えるのは、圧倒的な火力の差ではない。

 

『相手を攻撃する手段が絶対に存在せず、自分たちだけが一方的に殺される』という、次元の隔絶であった。

 

「……敵軍の後退を確認。前線の防衛線は完全に保たれました」

 

報告するチヨノーチェの声に、フリストフォルは小さく息を吐いた。

 

「よし。深追いはするな。地上軍にも追撃を禁じろと電信を打って。……敵は勝手に飢えて、勝手に干上がるんだ。僕たちがこれ以上、血を流す必要はない」

 

天空を支配する銀色の巨鯨は、燃え盛る戦場を眼下に見下ろしながら、悠然と機首を巡らせた。

 

空という新たな戦場を切り拓いた幼き天才の前に、近代軍事学の常識は、音を立てて崩れ去っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

極東における初動の戦乱に自ら終止符を打ち、新時代の兵器がいかに運用されるべきかの生きた手本を刻みつけたフリストフォルは、潮時を心得ていた。

 

これ以上の長期滞在は不要であり、無益である。

 

役目を終えた幼きツァレーヴィチは、悠然とシベリア鉄道の特別客車に乗り込み、帝都サンクトペテルブルクへの帰途についた。

 

飛行船による新潟の港湾爆撃、そして朝鮮半島北部における近接航空支援と地上砲兵の連携。

 

世界がまだ見たこともない戦術を、発案者自らが現場で完璧に実演してみせたのだ。

 

一度成功の方程式を目の当たりにし、その絶大な威力を骨の髄まで理解したならば、あとは現場の優秀なロシア軍指揮官たちが自律的に模倣し、さらに洗練させていくだろう。

 

マカロフ提督やクロパトキン将軍をはじめとする軍人たちは、決して無能ではない。

 

彼らを破滅へ追いやっていたのは、前時代的な教条主義と中央からの無理難題であったのだ。

 

進むべき明確な指針と勝てるドクトリンさえ与えてやれば、大帝国ロシアの軍事機構は極めて強靭に機能する。

 

ガタゴトと規則正しい重低音を響かせながら、白銀のシベリア平原を西へとひた走る帝室特別列車。

 

暖炉の火が爆ぜる豪奢なサロンカーの革張りソファに深く身体を沈めながら、フリストフォルは自らの資質について、冷徹な客観性をもって自己分析を試みていた。

 

(……僕は、前線で軍配を振るうような現場の英雄じゃない)

 

フリストフォルの本質は、どこまでいっても「兵站戦略家」であった。

 

前世において貪るようにプレイした無数の歴史シミュレーションゲーム、あるいは小隊規模の銃撃戦を繰り広げたFPS、リアルタイムストラテジーの経験から、彼には戦術の機微も確かに理解できた。

 

敵の射線をどう切るか、どの高地を制圧し、どのタイミングで側面から回り込むか――局地戦の駆け引きを嗅ぎ取る直感は備わっている。

 

だが、軍事の世界において「アマチュアは戦術を語り、プロは兵站を語る」と言われる通り、一握りの戦闘に勝利することと、戦争そのものに勝利することは全くの別物だ。

 

フリストフォルの真の強みは、戦場のはるか後方、全地球規模の盤面を見据える巨視的な視座にあった。

 

補給線が途切れぬようシベリア鉄道の輸送力をいかに配分するか。

 

敵国の海上通商路を締め上げ、英国炭と米国の借款の流入をいかに遮断するか。

 

労働者の生活を守って国内の生産性を最大化し、革命の火種をいかに事前に消火するか――。

 

国家の経済、外交、世論、そして兵站という名の巨大な血流をコントロールし、戦う前から敵を窒息死させるグランドデザイン。

 

それこそが、何万時間もの戦略ゲームをやり込み、近代総力戦の構造を知識として知るフリストフォルが最も得意とし、専門的に軍配の上がる領域であった。

 

「戦術は現場のプロに任せる。戦略と兵站のレールを敷くのが僕の仕事……それでいいんだ」

 

「坊ちゃま、温かいカモミールティーをお持ちいたしました」

 

トレイを手にしたチヨノーチェが、燕尾服の裾をわずかに揺らしながら歩み寄ってきた。

 

湯気とともに漂うリンゴに似た優しいハーブの香りが、戦場帰りの神経を解きほぐしていく。

 

「ありがとう、チヨ。……ああ、やっぱりベッドと温かいお茶がある生活は最高だなあ」

 

カップを受け取り、ふうと息を吹きかけながら一口すする。

 

先ほどまでの冷徹な大戦略家の相貌はどこへやら、フリストフォルは再び、安楽を愛する怠惰な幼児の表情へと戻っていた。

 

「ペテルブルクまで、まだ数日の鉄路でございます。アナスタシア殿下をはじめ、皇女の皆様方が首を長くしてお待ちかねですよ」

 

チヨノーチェが銀髪の隙間から、どこか悪戯っぽい笑みを覗かせる。

 

「ナースチャ姉さま、絶対泣きながら飛びついてくるだろうな……。骨が軋むくらいぎゅーってされる覚悟をしておかないと」

 

呆れたように言いながらも、その口元には自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。

 

敵の息の根を止める罠は、すでにすべて仕掛け終えた。

 

日本という蟻が、ロシアという象の張り巡らせた見えない糸に絡め取られ、飢えと疲弊の果てに屈服する日は、そう遠くない。

 

歴史の暗雲をひとまず払った少年大公は、愛する家族の待つ帝都へと、ガタゴトと揺れる列車の中で心地よい微睡みに身を委ねていった。

 

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