極東から凱旋したフリストフォルを帝都サンクトペテルブルクで迎えたのは、熱狂的な歓迎と、彼がもたらした戦果に対するロシア軍首脳部の激しい震撼であった。
新潟港湾の麻痺、そして朝鮮半島北部における日本陸軍陣地の壊滅的打撃。
空からの爆撃という前代未聞の暴力が実証されたことで、ロシア軍内における「空」への認識は、実験的な余技から「戦争の勝敗を決定づける最優先戦域」へと一変した。
新設された第三の軍種――ロシア帝国空軍。
その最高責任者である「初代空軍大臣」の椅子に座ることとなったのは、他ならぬ満三歳を迎えたばかりのツァレーヴィチ、フリストフォルであった。
三歳の幼児が入閣し、軍の最高ポストに就くなど、近代国家の体裁としては狂気の沙汰としか言いようがない。
だが、陸海軍の首脳陣にとっても、父ニコライ二世にとっても、それはあまりにも合理的でやむを得ない人事であった。
第一に、陸軍と海軍という二大巨頭による激しい主導権争いを抑え込み、新軍種を中立に保てる唯一の存在が皇太子たるフリストフォルであったこと。
そして何より――空という未知の領域を戦場としてどう活かせばよいのか、旧態依然とした陸海の老将たちには「分からないことが多すぎる」からであった。
高空における気流の性質、戦略爆撃と戦術支援の線引き、そして航空戦力の整備方針。
そのすべてにおいて、神がかり的な先見の明を持つこの三歳の皇子に教えを乞う以外、誰も空軍を指揮することなどできなかったのだ。
「……信じられんな。これが、真に空を飛ぶというのか?」
空軍省の壮麗な大臣執務室。
分厚い座布団を重ねてようやく机に顔を出している小さな空軍大臣の前で、ロシアの優秀な航空技師や工兵将校たちが、広げられた設計図を囲んで息を呑んでいた。
フリストフォルが指示した航空機開発の青写真は、世界の航空力学の常識を十数年も先取りした、極めて革命的なものであった。
当時、ライト兄弟をはじめとする欧米の先駆者たちが作っていた飛行機は、薄い布を木枠に張り巡らせ、無数の支柱とワイヤーで上下の翼を繋ぎ止めた「複葉機」であった。
当時の技術者たちは、黎明期の低出力エンジンでは揚力が足りないという恐れと、機体強度への不安から、翼を二段、三段と重ねる多翼化こそが正義であると信じ込んでいたのだ。
だが、空力学の未来を知るフリストフォルにとって、それは空気抵抗の塊に過ぎなかった。
「支柱や張り線だらけの複葉機なんて、風の抵抗を受けすぎてスピードが出ないよ。空を高速で飛ぶための最適解は、一枚の翼――『単葉機』だ」
フリストフォルは小さな指で、流線型の滑らかな機体図面をトンと叩いた。
「骨組みに布を張るのもやめだ。ロシアの豊かな森林資源を活かして、白樺の薄い板を何層も接着剤で貼り合わせ、継ぎ目のない一体成型――『木製モノコック構造』で機体を作るんだよ」
木製モノコック。
内部の骨組みに頼るのではなく、卵の殻のように外皮そのもので機体の強度を保つ応力外皮構造。
それは金属資源を節約しつつ、驚くほど軽量で高剛性、かつ空気抵抗を極限まで削ぎ落とした、美しい涙滴型の胴体を生み出す魔法の工法であった。
これに、ドイツから導入を進める最新のダイムラー・液冷エンジンを積み、機首に牽引式のプロペラを配置する。
布張りの複葉機が時速数十キロで頼りなく浮上している時代に、時速百数十キロで空を切り裂く「近代的な高速単葉戦闘機」の基礎理論が、三歳児の口から淀みなく語られたのである。
「飛行船の建造も急いで。ドイツのツェッペリン級の特許と技術を買い取り、我が国の造船所で国産の大型硬式飛行船を量産するんだ。……飛行船は大重量の爆弾を遠くへ運ぶ『空の戦艦』。そして、今開発を命じた木製単葉機は、空を飛び回って飛行船を護衛し、敵の偵察を叩き落とす『空の猟兵』になる」
重航空機と軽航空機、それぞれの長所を組み合わせた立体防空網の構築。
技師たちは熱病に浮かされたように幼き大臣への畏敬に胸を震わせながら執務室を辞していった。
「……ふう。チヨ、肩が凝っちゃった」
大人たちが部屋を出て行った瞬間、フリストフォルは机の上にペタリと突っ伏した。
大臣としての威厳に満ちた表情は一瞬で消え去り、ただの疲れた子供の顔になる。
控えていたチヨノーチェが静かに歩み寄ると、手慣れた指先でフリストフォルの小さな肩を優しく揉みほぐした。
「お見事な指導力でございました、大臣閣下。これでロシアの空は、向こう二十年は安泰でございますね」
「大臣なんて呼び方、やめてよ……。僕、ただ昼寝がしたいだけなのに、どうしてこんなに書類にハンコを押さなきゃいけないのさ」
フリストフォルが唇を尖らせてぼやいていると、執務室の重厚な扉がノックもなしに勢いよく開け放たれた。
「フリスチューシュカー! 入るわよ!」
飛び込んできたのは、レースのあしらわれた白いドレスを着たアナスタシアであった。
両手には、宮廷厨房からくすねてきたばかりの、まだ湯気を立てている焼き立てのチョコチップクッキーの皿が握られている。
「ナースチャ姉さま、ここは軍の省庁だよ……」
「いいのよ、私のフリスチューシュカがいる場所なら、どこだって私のお部屋なんだから! ほら、お口を開けて? お仕事なんてやめて、甘いもの食べましょ!」
アナスタシアは大臣用の執務机の向こう側に回り込み、弟の隣に強引に腰掛けると、クッキーをフリストフォルの口へ押し込んだ。
サクサクとした香ばしい生地と、とろりと溶けたチョコレートの甘みが口いっぱいに広がる。
「ん……美味しい」
「ふふ、でしょ? 偉い大臣さんになっても、私の可愛い弟なんだからね」
満足そうにフリストフォルの頭を抱きしめる姉の温もりに身を任せながら、フリストフォルはチヨノーチェと目を合わせ、苦笑いを浮かべた。
世界を震撼させる新時代の空軍は、この愛らしくも破天荒な姉弟の甘やかな日常の裏で、着々とその強靭な翼を研ぎ澄ましつつあった。
◇◇◇
未来を先取りした木製モノコック単葉機の開発は、当時のロシアの工業力と木工技術を総動員しても、実用化までにある程度の歳月を要する。
その開発期間を埋める「中継ぎ」として、フリストフォルは既存の複葉機にも妥協なき近代化改修を命じていた。
航空黎明期における最大の敵は、敵軍ではなく「自らの機の未熟さによる墜落死」である。
それを誰よりも知る前世の知識が、複葉機の構造に次々と革新的なメスを入れていった。
第一の改良は、「着陸脚」であった。
当時の飛行機の脚といえば、ただの頑丈な鉄パイプや木材を車軸に固定しただけの代物であり、不整地に着陸すれば地面の凹凸に耐えかねて脚が折れ、機体が転覆してパイロットが圧死する事故が日常茶飯事であった。
そこでフリストフォルは、可動式のシリンダーポール内部に強力なスプリングを仕込んだ、現代の航空機に通じる「ショックアブソーバー」の雛形を開発させたのである。
接地した瞬間に脚部が適度にしなり、激しい衝撃を内部のバネが吸収する。
この衝撃吸収機構の導入によって、未舗装の草原や荒地がそのまま滑走路として機能するようになり、機体の破損率と訓練生の着陸事故は極限にまで抑え込まれた。
そして第二の、そして空戦の歴史を十年も前倒しする最大の革命兵器――それが「プロペラ同調装置」であった。
飛行機に機関銃を据え、パイロットの視線の先へ弾を撃ち出す。
しかし前方には高速回転する木製プロペラが存在する。
下手に銃を撃てば、自らの弾丸でプロペラを粉砕して墜落してしまう。
フリストフォルが工兵技師たちに作らせたのは、エンジンの回転軸と機関銃の引き金をカムとリンケージで物理的に連結させた絡繰りであった。
プロペラの羽根が銃口の前を通過する一瞬だけ撃針を止め、羽根が通り過ぎた隙間にのみ銃弾を撃ち出す同調機構。
これによって、マキシム軽機関銃を操縦席の脇に固定し、自機が向いた方向へそのまま機関銃の連射を叩き込める、世界最初の「本物の戦闘機」が1904年のロシアにおいて誕生したのである。
さらにフリストフォルは、航空機を単独で飛ばすのではなく、システムとして戦わせる「チーム戦闘」の概念を現場に叩き込んだ。
操縦席の直後にもう一つの座席を設け、専任の「旋回銃手」を配置した複座型を採用。
パイロットが操縦と前方射撃に専念する間、後部銃手は周囲三百六十度の空を常時見張り、死角から忍び寄る敵を早期に発見する。
背後から食らいつこうとする敵には、旋回式の機関銃が即座に火を噴いて迎撃するのだ。
そして、まだ小型の無線音声通信機が黎明期のこの時代において、フリストフォルは現場が即座に実践できる「情報通信網」を構築してみせた。
フリストフォルはパイロットたちに、体系化された「ハンドサイン」を徹底的に叩き込ませた。
旋回、上昇、突撃、退避、敵発見――指の形と腕の振り方一つで、編隊を組む僚機同士が瞬時に意思疎通を図る。
距離が離れた友軍機や地上の基地に対しては、シャッター式の小型発光器を用いたモールス信号による光通信を行わせ、重要な偵察情報は、基地の大型電信網へと即座に中継される。
三機を一小隊とし、長機と僚機が互いの死角をカバーしながら連携する編隊空戦ドクトリン。
単なる「空飛ぶ鉄砲」ではない。
衝撃に耐える脚を持ち、プロペラ越しに弾丸を乱射し、前後で死角を無くし、ハンドサインと光通信でひとつの生き物のように連携する――黎明期の複葉機をベースにしながらも、フリストフォルの手によって組み上げられたのは、間違いなく未来の「システム戦闘」そのものであった。
「……素晴らしい。なんという安定性だ」
帝都近郊のガッチナ演習場。
冷たい秋風が吹き抜ける飛行場で、革の飛行服に身を包んだパイロットたちが、次々と滑走路へ滑らかに着陸してくる改良型複葉機を見上げて感嘆の声を漏らしていた。
着陸のたびに車輪を折る機体は一機もなく、機関銃を構えたその威容は、空の狩人そのものであった。
滑走路の傍らに設えられた天蓋付きの見張り台で、フリストフォルは毛皮のコートに包まれながら、チヨノーチェが注いでくれた湯気の立つホットココアをフーフーと冷ましていた。
その隣にはアナスタシアが弟の腰を抱きしめて並んでいる。
「ふふ、鳥さんたち、上手に降りてきたわね。フリスチューシュカの言う通りにしたら、誰も怪我をしなくなったわ」
「うん。……兵隊さんも飛行機も、タダじゃないからね。無駄遣いは絶対にさせないよ」
フリストフォルはココアを一口すすり、甘美な温もりに喉を潤した。
技術の暴走でも、空想の産物でもない。
現存する技術の隙間を的確に突き、最小のコストで最大の戦闘効率を引き出す――ゲーム画面の向こう側で幾千の空戦を見届けてきたゲーマーの冷徹な最適解が、ロシアの空を着実に「絶対の制空権」へと塗り替えていた。
極東の島国が、日露戦争という名の暗夜の中で必死にもがいている間、ロシア帝国は空の王者としての牙を、何年分もの速度で研ぎ澄まし続けていたのである。
◇◇◇
フリストフォルの肩書はあくまで「初代空軍大臣」であったが、彼が張り巡らせた軍制改革の触手は、すでに陸軍の兵器廠や工兵隊の奥深くにまで達していた。
航空戦力によって極東の敵を叩き潰した実績がある以上、陸軍大臣クロパトキンをはじめとする陸軍の重鎮たちも、幼きツァレーヴィチが口にする兵器の構想を「荒唐無稽な戯れ言」と切り捨てる者は誰一人としていなかった。
むしろ、彼らは今や競うようにフリストフォルのもとへ日参し、陸戦の新たな処方箋を乞い願っていたのである。
そしてフリストフォルが陸軍に叩き込んだのは、20世紀の陸戦を決定づける「機械化」と「面制圧」の劇薬であった。
第一の矢は、トラックを基盤とした「装甲車」ならびに「装甲兵員輸送車」の開発であった。
民生用の大型トラックの車体に防弾鋼板をボルト止めし、上部や側面にマキシム機関銃の銃眼を設ける。
ただそれだけの急ごしらえの改造でありながら、この兵器は戦場における歩兵運用の常識を根底から覆した。
これにより、ロシア軍の伝統であった「騎馬隊」は段階的にその数を減らしていくこととなった。
どれほど勇敢であっても、馬は生き物である。
銃声や爆風に怯えてパニックを起こし、隊列を乱すこともあれば、病や疲労で突然倒れることもある。
何より、馬が消費する大量の飼料は、兵站にとって巨大な足枷であった。
だが、鋼鉄の皮膚を持つトラックは、恐怖を感じることもなければ疲れることもない。
十数名の完全武装した歩兵を敵の小銃弾から守りながら最前線へと迅速に運び、後部フックに連結した野砲をそのまま牽引して陣地へと急行。
到着するや否や車体の機銃で制圧射撃を行いつつ、大砲を素早く展開させる――近代的な「機械化歩兵」のドクトリンが、1904年のロシアにおいて急速に確立されていった。
さらにフリストフォルは、悪路と塹壕を突破するための「機甲兵器」にも着手した。
畑を耕し、大木を牽引するために使われていた無限軌道付きの蒸気・石油トラクター。
これに注目したフリストフォルは、その頑丈な足回りと車体に厚い装甲板を張り巡らせ、旋回式の銃塔に単装や連装の機関銃を据え付けた「トラクター戦車」を開発させたのである。
最高速度は人が小走りで進む程度と鈍重であったが、小銃弾や破片をことごとく弾き返し、敵が張り巡らせた幾重もの鉄条網をバリバリと押し潰しながら、塹壕の溝をやすやすと乗り越えていく。
歩兵たちの前を進む「動く鉄の盾」にして、敵の防衛線を力ずくでこじ開ける突撃兵器。
後世において「タンク」と呼ばれることになる怪物の雛形が、農耕器具の皮を脱ぎ捨てて戦場に姿を現したのだ。
そして――フリストフォルが甦らせた兵器の中で、最も敵を恐怖の底へと叩き落とすことになる切り札が、忘れ去られていた「ロケット弾技術」の復活であった。
19世紀前半には欧州の戦場で使われていたロケット兵器であったが、弾道が安定し長射程を誇る近代的なライフル野砲の登場によって、命中精度の低さを理由に戦場の表舞台から姿を消していた。
だが、兵器の運用思想を熟知していたフリストフォルは、その欠点を補って余りあるロケットの真価を見抜いていた。
「大砲の弾を作るには、分厚い鉄を削り出して、精密な信管を取り付けなきゃいけないからお金も時間もかかる。でもね、ロケット弾なら薄い鉄パイプの中に火薬をぎっちり詰めるだけで、安く大量に作れるんだよ」
フリストフォルはトラックの荷台に、単純な鉄製のレール発射架を何本も並列させた。
狙い澄ました一点射撃など必要ない。 敵の頭上へ、面として無数の炸薬の塊を一度に叩き込む。
薄い外殻の中に限界まで詰め込まれた炸薬は、着弾と同時に凄まじい爆風と衝撃波を生み出し、強固なトーチカすらその構造ごと粉砕する。
そして何より――その「音」であった。
シュルルルルッ、ギョオオオオオオッ!!
帝都近郊のルガ演習場において、試作された多連装ロケット砲が一斉に火を噴いた。
白煙の尾を引いた無数のロケット弾が、けたたましい金切り声を夜空に響かせながら弧を描き、数キロ先の標的エリアへと次々と着弾する。
ズドォォン! ドガガガガァンッ!!
一瞬にして目標の一帯が、昼間のような閃光と紅蓮の爆風に呑み込まれた。
大地が波打ち、森の木々が根こそぎ吹き飛び、見渡す限りの地獄絵図が広がる。
耳をつんざく悪魔の叫びのような発射音、そして視界を埋め尽くす圧倒的な破壊の絨毯。
第二次世界大戦においてナチス・ドイツ軍を震撼させ、『スターリンのオルガン』と恐れられたソ連の至宝――多連装ロケット砲『カチューシャ』が、40年もの時を先取りしてこの地上に降臨した瞬間であった。
「……ひ、光と……炎の嵐だ……」
演習を見守っていたクロパトキン将軍が、顔面を蒼白に染め、震える手で十字を切った。
もしも自分があの着弾地点に立っていたなら、戦うどころか恐怖のあまり発狂していただろう。
鉄条網も、塹壕も、兵士の士気すらも、この音と炎の前には一切の無意味と化す。
「どう、クロパトキン将軍? これなら、要塞に立て籠もる敵だって一網打尽にできるでしょ?」
毛皮の帽子をすっぽり被った三歳のフリストフォルが、マフラーに顔を埋めながら無邪気に問いかける。
「は、ハッ……! 殿下、これぞ神の鉄槌にございます! 直ちに前線へ……極東の要塞陣地へ配備させまする!」
将軍は畏怖のあまり、雪の積もった地面に膝をつかんばかりの勢いで深々と頭を垂れた。
◇◇◇
大空を制する飛行船や、大地を駆ける装甲車、そして夜空を焦がすロケット砲――それらの華々しい新兵器がどれほど戦場を塗り替えようとも、フリストフォルは戦争というものの冷酷な真理を決して忘れていなかった。
領土を占領し、陣地を確保し、最終的に泥と血にまみれて戦況を固定するのは、いつの時代もただの生身の人間――「歩兵」である。
前世の歴史において、日露戦争から第一次世界大戦にかけての戦場がなぜ地獄と化したのか。
それは機関銃と鉄条網という防御火力の進化に対し、突撃する歩兵が無防備な肉体ひとつで挑まされたからであった。
兵士の命をただの消耗品として使い捨てるような前時代的な教条主義に、フリストフォルの合理的な精神は耐えられなかった。
そうして開発されたのが、最前線で命を懸ける歩兵一人ひとりに配備された「近代防弾シールド」であった。
これまでもロシア軍や欧州各国で防弾盾の試みは存在した。
しかし、それらは単なる分厚い鉄板に車輪や取っ手を付けただけの代物であり、あまりの重さに兵士の体力を奪い、戦場での機動力を著しく削ぐ失敗作ばかりであったのだ。
フリストフォルが投入したのは、装甲車やトラクター戦車の装甲にも採用された「トラス構造」の概念であった。
二枚の薄い高張力鋼板の間に、軽量な三角リブの骨組みをサンドイッチ状に挟み込んで成型する。
中空部分を設けることで劇的な軽量化を果たしながら、衝撃を受けた際には内部の立体トラスが歪んでエネルギーを分散・吸収する。
従来の単なる鉄板に比べ、半分近い重量でありながら、遥かに高い耐弾性能を叩き出す魔法の盾が生み出されたのである。
前線に配備されたシールドは、戦術目的に応じて二つの規格に分けられた。
第一の盾が、最前衛の突撃部隊が構える「タワーシールド」であった。
兵士の全身をすっぽりと覆い隠す巨大な盾には、細長い覗き窓と、銃身を突き出すためのスライド式銃眼が設けられている。
前線を進むロシア歩兵たちは、まるで古代ギリシャのファランクスや、ローマ軍の亀甲陣と見紛うばかりの緻密な盾の壁を組み、シールドの陰からモシン・ナガン歩兵銃やナガン・リボルバーの正確な射撃を浴びせかけた。
正面から撃ち返される敵の小銃弾など、トラス装甲の表面でカンカンと小気味よい音を立てて容易く跳ね返される。
さらに、このタワーシールドには戦術的な工夫が凝らされていた。
盾の底部には頑丈な鋼鉄製のスパイクが溶接されており、これを力任せに地面へとガッチリ突き立てる。
そして盾をあえて斜めに傾けて設置させる――「避弾経始」の徹底である。
垂直に立てれば装甲を貫通しかねない重機関銃の猛烈な弾幕も、斜めに傾いた盾に当たれば、運動エネルギーを殺されて上空へと滑るように弾き飛ばされる。
突撃の足を止め、地面にスパイクを突き立てるだけで、そこが即座に「機関銃の連射すら耐え抜く即席トーチカ」へと早変わりするのだ。
それだけではない。
敵陣に張り巡らされた塹壕に到達した際、このタワーシールドを前方へパタリと倒せば、幅一メートル余りの塹壕を飛び越えるための「頑丈な即席の橋」として機能した。
兵士たちは泥沼の溝に落ちることなく、盾の橋の上を一気に駆け抜けて敵の頭上へと雪崩れ込むことができる。
そして第二の盾が、市街地戦や塹壕内での近接戦闘を想定した「ラージシールド」であった。
現代の暴徒鎮圧部隊ライオットポリスが構える盾を一回り頑丈にしたようなサイズ感で、取り回しの良さと機動性を最優先した設計である。
最前衛のタワーシールド部隊がこじ開けた突破口から、このラージシールドを構えた兵士たちが塹壕内へ突入する。
曲がり角から飛び出してくる敵の奇襲射撃を盾で受け止め、怯んだ隙に盾の分厚い縁や突起を力任せに叩きつける。
軽量化されているとはいえ、強固な鋼鉄の塊だ。
振り回せば人間の骨など容易く粉砕する恐るべき「鈍器」として、白兵戦において絶大な威力を発揮した。
「……信じられん。歩兵が、機関銃の正面から歩いて前進している……」
ルガ演習場で実演された公開演習。
擬似的な敵陣地から機関銃の実弾が浴びせられる中、金属音を響かせながら一糸乱れぬ隊列で前進し、瞬く間に塹壕を飛び越えて陣地を制圧してみせたシールド歩兵部隊の威容に、陸軍の視察団は言葉を失っていた。
「盾を持たせるだけで、兵隊の生存率は何倍にも跳ね上がる」
観覧席の特等席で、温かい焼きリンゴをスプーンで掬いながら、フリストフォルは事も無げに言った。
「死んだ兵隊は、二度と引き金を引けない。でも、盾で傷ひとつ負わずに生き残った兵隊は、次の戦場でも経験を活かして戦える。……人を使い捨てにする軍隊は、絶対に勝てないんだよ」
その言葉に、同席していた古参の将軍たちは胸を衝かれたように沈黙した。
ロシア軍の伝統であった「兵の命など水より安い」という傲慢な思想を、三歳の皇子が真っ向から粉砕してみせたのだ。
命を守り、弾を弾き、道を切り拓く鋼鉄の盾。
愛する家族と怠惰な日々を守るためにフリストフォルが授けた慈悲の防具は、ロシアの兵士たちにとって、いかなる軍神の加護よりも心強い「奇跡の鎧」として前線へ行き渡り始めていた。
◇◇◇
陸軍が装甲車やトラクター戦車、そして地獄のロケット砲に防弾シールドといった新兵器の山に歓喜しているのを、海軍省の提督たちが指をくわえて見逃すはずがなかった。
そもそも、日露戦争の開戦直後、極東の海にしか目を向けていなかった大人たちの前で、スエズや大西洋、ロンドンの保険市場にまで及ぶ全地球規模の大戦略を授けてくれたのは誰であったか。
潜水艦による心理戦と徹底した通商破壊というドクトリンのおかげで、ロシア海軍は極東において無駄な主力決戦を回避し、自軍の損害を最小限に抑えながら日本の海上交通路をじわじわと締め上げることに成功していたのだ。
「フリストフォル殿下が、我が海軍の救世主であることは疑いようもない」
「空軍に飛行船を与え、陸軍に鉄の甲冑を授けた殿下だ。海軍にも何か、世界を震撼させる新兵器を齎してくださるに違いない!」
海相アヴェラーン提督をはじめとする海軍の首脳陣は、連日のように菓子折りや極上の紅茶を抱えてフリストフォルのもとへ日参し、熱烈な要請を繰り返していた。
空軍大臣という他軍種の長でありながら、もはや彼の頭脳はロシア帝国三軍にとっての最高諮問機関と化していたのである。
「……もう、アヴェラーン提督ったら。フリスチューシュカはお昼寝の時間なのよ!」
執務室の前で仁王立ちするアナスタシアに睨まれ、歴戦の海軍大将が冷や汗を流して恐縮する――そんな珍妙な光景の奥で、ソファーから起き上がったフリストフォルは、小さくあくびを漏らしながら執務机へと向かった。
「分かったよ、アヴェラーン提督。……海の上でも、やることは同じだよ」
フリストフォルが広げた羊皮紙の図面を見た瞬間、居並ぶ提督や造船技官たちは目を丸くして言葉を失った。
そこに描かれていたのは、当時の軍艦の象徴である巨大な主砲塔がひとつも見当たらない、極めて異様な船の姿であった。
「殿下……これは? 大砲が一切載っておりませんが……」
「大砲の撃ち合いなんて、もう時代遅れだよ」
フリストフォルは当然と言わんばかりに言い放った。
「これはね、飛行機を海の上から飛ばすための船――『装甲護衛空母』だよ」
フリストフォルの指先が、船体の上部を覆い尽くす平らな屋根をなぞる。
第一の特徴は、艦首から艦尾まで遮るもののない「全通甲板」であった。
当時の欧米で細々と実験されていた水上機母艦のような、クレーンで海面に機体を降ろして発進させる悠長なものではない。
滑走路そのものを海の上に浮かべるという発想である。
しかもフリストフォルは、第二次世界大戦を経てようやく実用化された「装甲飛行甲板」を、初手から要求していた。
木造の甲板ではなく、飛行甲板そのものに強固な圧延鋼板を張り巡らせることで、万が一の被弾や甲板上での事故から艦の中枢を完全に防護するのだ。
そして――造船技官たちの目を最も釘付けにしたのが、滑走路が艦の中心線から左舷へわずかに斜めに傾いて配置された、奇妙な幾何学的構造であった。
「……殿下、この飛行甲板のラインは、なぜ斜めに曲がっているのですか? 中心線に沿って真っ直ぐ引いた方が、造船工学的には容易かと存じますが」
技官の問いに、フリストフォルは不敵な笑みを浮かべた。
「それがこの船の最大の肝――『アングルド・デッキ』だよ」
半世紀以上も未来のジェット空母において発明される究極の航空艤装を、フリストフォルは1904年のロシア人たちへ惜しげもなく解き明かした。
「真っ直ぐな甲板だとね、着艦に失敗した飛行機が、前で待機している他の飛行機や乗組員に突っ込んで大惨事になるでしょ? でも、着艦ゾーンを斜めにズラしておけば、もし着艦に失敗しても、そのままスロットルを開けて海の上へ飛び出してやり直せる。それに、前の甲板で飛行機を準備しながら、後ろで別の飛行機を着艦させることだって同時にできるんだ」
「な……なんという合理性だ……!」
技官たちが雷に打たれたように震え上がった。
複雑な電子機器など何一つ使っていない。
甲板に数度の傾斜をつけるという、純粋な「幾何学的設計の工夫」だけで、艦上における航空運用の安全性と同時発着艦能力を何倍にも跳ね上げているのだ。
「着艦の衝撃は、機体の後ろにつけた鉤爪を、甲板に張った鋼鉄のワイヤーに引っ掛けて止める。今の飛行機は軽くて着陸速度も遅いから、バネと油圧のブレーキを仕込んだワイヤーが数本あれば、短い甲板でも安全に止まれるよ」
「……しかし殿下、この船から飛行機を飛ばして、敵の戦艦に何をするおつもりで?」
提督の一人が呆然と尋ねると、フリストフォルは呆れたように首を傾げてみせた。
「陸の歩兵と同じだよ。……海の上に浮かぶ軍艦だって、空の上を撃つ砲なんて一門も持っていないじゃないか」
その一言に、部屋中の海軍将官たちの心臓が跳ね上がった。
「敵の戦艦が自慢の巨砲を撃ち合おうと必死に水平線を探している間にね、この船から飛び立った飛行機が、敵の射程の遥か外――数十キロも離れた安全な海から飛んでいくんだよ。そして、装甲が一番薄い敵戦艦の頭上から、急降下して爆弾をど真ん中に叩き落とす」
巨砲の射程は、せいぜい十数キロ。
だが、空母から放たれる航空機の行動半径は、百キロを優に超える。
相手を一方的に殴打し、相手からの反撃は物理的に絶対に届かない。
何万トンもの鋼鉄を鎧い、巨砲を並べた無敵の戦艦たちが、手の届かない空から降ってくる爆弾によって、ただの鉄の棺桶へと成り果てる未来――。
フリストフォルの語る冷徹なビジョンは、大艦巨砲主義の揺籃期にあった提督たちの固定観念を、木っ端微塵に粉砕していた。
「……建造だ。直ちに建造せよ!」
海相アヴェラーンが、興奮で上気した顔で叫んだ。
「大型高速商船、あるいはバルト造船所で建造中の貨客船の船体を直ちに転用せよ! 上部構造物をすべて撤去し、殿下の仰る通りの装甲全通甲板と斜めデッキを載せるのだ! 我がロシア海軍が……世界の海の覇権を握るぞ!!」
「ハッ!!」
熱狂に包まれる海軍の大人たちをよそに、フリストフォルは小さく息を吐き、机に突っ伏した。
「……ふあ。もういいでしょ、アヴェラーン提督。約束のお菓子、置いていってね」
「も、もちろんにございます殿下! ペテルブルクで最高の菓子職人に作らせた、極上のマカロンとエクレアを厨房に届けさせております!」
「やったあ。ナースチャ姉さま、半分こしよ」
「ええ、フリスチューシュカ! お茶を淹れさせましょうね!」
先ほどまで海戦の歴史を終わらせる悪魔の兵器を設計していた幼子は、姉に手を引かれ、嬉しそうに執務室を小走りで出ていった。
陸を固め、空を制し、そして今や海までも――。
怠惰を愛する少年大公の手によって、ロシア帝国は、誰も抗うことのできない「超近代戦の怪物」へと変貌を遂げつつあった。