1904年夏。
極東の満州平原でロシア陸軍の新兵器が猛威を振るい始めたまさにその頃、ロシア帝国に新たな慶事がもたらされた。
末っ子として生まれ、四人の姉たちから一身に愛情と甘やかしを注ぎ込まれてきたフリストフォルに――弟が誕生したのである。
アレクセイ・ニコラエヴィチと名付けられることになるその男児の誕生を知らされた時、フリストフォルの脳裏に浮かんだのは、感動や歓喜よりも先に、前世の大人の精神から来る身も蓋もないツッコミであった。
(……国家の命運を賭けた日露戦争の真っ最中だっていうのに、うちのパパとママ、ちゃんとやることはやってたんだな……)
思わず苦笑いを禁じ得なかったが、冷静に振り返ってみれば、それは極めて必然的な生理現象の結果でもあった。
そもそも、すべての元凶――いや、最大の功労者はフリストフォル自身であったのだ。
彼が二歳にして宮廷厨房に乗り込み、素材の味を活かした滋養豊かな和食や中華、あっさりとした洋食へと帝室の食生活を塗り替えた。
さらに、朝夕の入浴を義務化し、柚子や柑橘、緑茶を浮かべた清潔な湯に浸からせることで、かつて病弱で神経衰弱気味だった母アレクサンドラの体質は劇的に改善されていた。
持病の坐骨神経痛や胸の痛みは消え去り、顔色は見違えるほど血色を取り戻していたのである。
そこへ加えて、元から頑健であった父ニコライ二世である。
前線の戦況がフリストフォルの遅滞ドクトリンによって平穏を保ち、胃を痛めるような心労から解放された父帝は、フリストフォルが開発した高カロリーかつ栄養満点の料理を毎日モリモリと平らげていた。
体力が有り余り、気力も漲り、最愛の妻が健康そのものの美しさを取り戻している――となれば、夜の営みが盛んになり、新たな生命が宿るのは、生物としてあまりにも自然の摂理であった。
「……フリスチューシュカ、ほら、あなたの弟よ。お名前はアレクセイ」
純白のレースに包まれた揺り籠の傍らで、すっかり健康的な艶を取り戻した母アレクサンドラが、愛おしそうにフリストフォルを手招きした。
覗き込めば、そこには赤ん坊特有の淡い産毛に包まれた、小さな小さな男の子がスースーと規則正しい寝息を立てていた。
帝室に二人目の男子が誕生したことで、ロシア帝国の皇位継承は盤石の極みとなり、宮廷中が祝賀の鐘の音に包まれている。
(アレクセイ……)
フリストフォルは、その小さな寝顔を見つめながら、静かに息を呑んだ。
「小さくて、柔らかいね」
フリストフォルが小さな人差し指を伸ばすと、眠っている赤ん坊の小さな手が、ぎゅっとその指を握り返してきた。
その無垢な温もりに、フリストフォルの胸の奥がじんわりと温かくなる。
(よしよし、いい子だ。僕が兄貴として、戦争も革命も全部片付けてやるからな。お前は苦しむこともなく、美味しいものをたくさん食べて、平和な世界でのんびり育つんだ)
前世のゲーマー精神を脇に置き、純粋な兄としての情愛が芽生えた瞬間であった。
――もっとも、その感動的な空気をぶち壊す人物が、すぐ隣に一人いたのだが。
「フリスチューシュカー! もう、あんまりあの子ばかり見ちゃ駄目よ!」
ぎゅっと背後からフリストフォルの首に腕を巻きつけてきたのは、もちろん双子の姉アナスタシアであった。
彼女は揺り籠の中の新しい弟をチラリと一瞥したものの、すぐにフリストフォルの頬へ自らの頬をすりすりと擦り付けてきた。
「あの子も可愛いけれど、私の世界で一番の弟は、フリスチューシュカだけなんだからね! お兄ちゃんになったからって、私に甘えなくなったら絶対に許さないんだから!」
「わ、分かってるよ、ナースチャ姉さま……苦しい、苦しいってば」
苦笑いするフリストフォルの頭を、隣にいた長女オリガや次女タチアナ、三女マリアがクスクスと笑いながら撫でてくる。
背後では、燕尾服姿のチヨノーチェが、涼やかな眼差しでその光景を温かく見守っていた。
末っ子という無敵のポジションから、ついに「兄」へと昇格してしまったフリストフォル。
しかし、両親の健康を取り戻し、家族の絆をより強固なものにした彼の改革は、悲劇の引き金となるはずだった皇室の血脈をも、温かな光で満たし始めていた。
◇◇◇
アレクセイ・ニコラエヴィチの誕生は、ロマノフ家にこの上ない歓喜をもたらしたはずであった。
しかし、その喜びはわずか数週間にして、底知れぬ不安と混乱の暗雲へと塗り替えられていくこととなる。
アレクセイは、異常なほどに夜泣きの激しい赤子であった。
赤子の頃から一度として夜泣きをせず、大人しく天井を見つめていたフリストフォルとは正反対であり、母アレクサンドラや乳母たちは、久しぶりに訪れた「赤ん坊らしい育児の過酷さ」に睡眠を削られることとなった。
だが、それは単なる赤子のぐずりではなかった。
乳を与えても、おむつを替えても、優しく子守唄を歌いながら揺すっても、アレクセイは火がついたように泣き叫び続ける。
痛みに悶えるように小さな手足を硬直させ、最終的には喉を枯らし、力尽きて気絶するように眠るのを待つしか手がなかった。
さらに異変は加速した。
柔らかいお包みから木製の揺り籠へと移されたアレクセイは、以前にも増して激しく泣き叫ぶようになり、やがてその小さな手足や関節に、痛々しい黒紫色の「痣」が無数に浮き出ているのが発見されたのである。
「悪魔の呪いではないか」
「誰かが皇子を虐待しているのではないか」
「毒を盛られたのか」――。
宮殿中が疑心暗鬼と恐怖に包まれ、母アレクサンドラが半狂乱になって祈りを捧げる中、三歳のフリストフォルだけは、感情を排して冷徹に弟の様子を観察し続けていた。
(……虐待でも、呪いでもない)
フリストフォルの鋭い観察眼が、決定的な真実を捉えた。
アレクセイが手足をわずかに揺り籠の木枠にコツンとぶつけた瞬間、その皮膚の下にじわりと赤黒い色が広がるのが見えたのだ。
手足をぶつけただけで痣になる。
痣とは、皮膚の下で毛細血管が破れ、内出血を起こしているということだ。
健康な人間であれば何ともないような微細な衝撃で血管が破れ、しかも出血が止まらずに血腫となって神経を圧迫している。
アレクセイが泣き叫んでいたのは、関節や筋肉の中で広がる内出血の激痛に耐えかねていたからなのだ。
あいにく、フリストフォルは医者ではない。
持っている知識といえば、前世の家庭の医学や健康番組、保健体育で聞きかじった程度のものだ。
血液凝固因子を人工的に補充する技術など、この時代には存在しない。
どうすべきかと思案を巡らせていた矢先、宮廷医師団が動き出した。
彼らが誇らしげに掲げてきたのは、当時の欧州で「奇跡の万能新薬」ともてはやされていたドイツ・バイエル社製のアスピリンであった。
熱を下げ、痛みを和らげる薬としてアスピリンの存在はフリストフォルも知っていた。
しかし、医師たちがそれをアレクセイに投与した直後――容態は劇的に悪化した。手足の痣はみるみるうちに広がり、皮膚が破れんばかりに腫れ上がったのだ。
「今すぐその薬を捨てろ! 二度と弟に近づけるな!」
とフリストフォルが怒鳴りつけ、即座に投与を中止させた。
だが、藪医者たちの狂気はそれだけに留まらなかった。
薬が効かないと見るや、宮廷医師長は厳かにこう宣ったのだ。
「……殿下、悪い血が体内に滞留しております。ここは『瀉血』を行い、体内の毒血を抜くしかございません」
「――は?」
フリストフォルの頭の中で、ブツンと何かが切れる音がした。
血が止まらずに出血死しかけている赤ん坊から、さらに人為的に血を抜き取るというのか。
輸血の技術すら確立されていないこの時代に、そんな中世の拷問に等しい処置を施して、耐えられるはずがない。
血液型を判別できれば自分の血を分けてやりたいが、カール・ラントシュタイナーがABO式血液型を発見して間もないこの時代、交差適合試験の技術など普及していない。
兄弟であっても血液型が不適合であれば、溶血反応を起こして即死する危険な博打であった。
そこへ追い討ちをかけるように、別の老医師がしたり顔で進言した。
「ならば、患部に水銀の軟膏を塗り、邪気を払いましょう」
その瞬間、フリストフォルの堪忍袋の緒は完全に爆発した。
「衛兵ッ!! この人殺しどもを全員つまみ出せッ!!」
幼きツァレーヴィチの怒声が、宮殿の廊下に雷鳴の如く轟いた。
「新薬を飲ませて悪化させ、次は血を抜けだと!? 水銀を塗れだと!? 大人だって死ぬような毒を赤ん坊に施すのがお前たちの医術か!? 我が弟を殺す気か! 全員クビだ! 二度とこの敷地に足を踏み入れるな!!」
皇帝の息子であり、空軍大臣として軍を動かす怪童の剣幕に、近衛兵たちは躊躇うことなく医師たちを取り押さえ、引きずり出していった。
人の命を救うための知識も持たず、ただ過去の迷信と毒物を誇らしげに振りかざす者たちなど、医者ではない。
ただの白衣を着た殺人鬼に過ぎなかった。
ヤブ医者どもを叩き出した後、残されたのは、腫れ上がった手足を押さえて泣き腫らすアレクセイと、途方に暮れる家族だけであった。
(くそっ……どうすればいい。僕に何ができる……!?)
前世のフリストフォルは、八百万の神仏や龍神、祟り神やお稲荷様といった土着の信仰には親しみを持っていたが、キリスト教に対しては熱心な信仰心など持っていなかった。
だが、この時ばかりは違った。
毎朝の礼拝で十字を切り、主と神に魂を込めて祈りを捧げ、ついでに窓から差し込むお天道様にも「どうか弟を助けてくれ」と深々と頭を下げた。
そして、彼は決断した。
「チヨ、器具を持ってきて」
自らの健康な血が、どうかアレクセイの血と喧嘩せず、生命を繋ぐ奇跡の薬となってくれることを祈りながら、フリストフォルは己の細い腕に針を刺させ、弟への直接輸血という危険極まりない賭けを断行した。
神仏のご加護か、拒絶反応の熱は出ず、奇跡的に輸血は成功し、アレクセイの顔に微かに血の気が戻った。
さらにフリストフォルは、家庭の医学と前世の知識を総動員し、アレクセイの生命力を根本から底上げする手探りの看護を開始した。
まずは保温と血行改善。
手足に強い刺激を与えぬよう、ぬるめの湯に柚子を浮かべ、自らの腕で優しくアレクセイを抱き抱えながら湯船に浸からせた。
柑橘の爽やかな香りと適度な温もりが、張り詰めていた赤子の筋肉を解きほぐしていく。
そして、内臓を温め、基礎代謝を高めるための特製スープを作った。
生姜を煮出した湯に、乳鉢で微粉末になるまで丹念に磨り潰した唐辛子とニンニクを耳かき一杯分だけ加え、じっくりと冷ます。
刺激が強すぎないか自らの舌で何度も確かめた後、フリストフォルはそれを自らの口に含み、アレクセイの小さな唇へと「口移し」で少しずつ流し込んだ。
食事も、母乳だけに頼らなかった。
新鮮なバナナやリンゴを自らの口の中でドロドロのペースト状になるまで丁寧に咀嚼し、消化酵素を纏わせた即席の離乳食として、これもまた口移しで弟へと与えた。
ビタミンとミネラル、そして糖分を、胃腸に負担をかけずに直接吸収させるための、母鳥のような必死の給餌であった。
「……ん……う……」
1ヵ月後。
激痛に泣き叫び続けていたアレクセイが、ふと泣き止むことが増えて来た。
フリストフォルの小さな胸元に顔を埋め、温まった手足を丸めて、静かに、穏やかな寝息を立て始めたのだ。
手足の腫れは引き始め、痛々しい黒紫色の痣は、薄い黄色へと色を変えていた。
「フリスチューシュカ……見て、あの子が……眠っているわ……」
寝台の傍らで、やつれ果てていた母アレクサンドラが涙を流し、フリストフォルの肩を抱きしめた。
隣では、父ニコライ二世が信じられない面持ちで息子の頭を撫で、チヨノーチェが静かに安堵の息を漏らしていた。
医学の未熟な暗黒の時代において、怪僧の手を借りることなく、ただひたすらに弟の命を繋ぎ止めたのは、兄の泥臭く、そして命がけの献身であった。
(……乗り切った、のか……?)
自らの胸の上でスースーと規則正しい寝息を立てる小さな命の重みを感じながら、フリストフォルは脱力するようにベッドのヘッドボードに身を預けた。
歴史の呪いすらも、手探りの愛によってねじ伏せてみせた少年大公。
その幼い腕の中で、ロシア帝国の未来を担うもう一つの命が、力強く脈打ち始めていた。
◇◇◇
最初の輸血において拒絶反応の兆候が一切出なかったことに対し、フリストフォルは朝の礼拝堂で神とキリスト、そして東の空に昇るお天道様に向けて、魂の底から感謝の祈りを捧げた。
血液型が奇跡的に適合したと確信を得たフリストフォルは、アレクセイの体内で不足している凝固成分を補うため、定期的に己の血液を弟へと分け与える処置をルーティン化した。
現代のような血液製剤も保存設備もない以上、生きている人間から直接、新鮮な血を少量ずつ移す以外に、この赤ん坊の内出血を抑え込む手立てはなかったのだ。
だが――その処置は、フリストフォル自身にとっても壮絶な試練であった。
(……痛い! やっぱり痛いよチヨ!! 僕、前世から健康診断の注射ですら泣きそうになってたくらい針が嫌いだったのに……!)
煮沸消毒された鋭利なガラス注射器と鋼鉄の針。
チヨノーチェがゴム管でフリストフォルの小さな腕を縛り、静脈を探り当てて針を刺すたび、フリストフォルは唇をぎゅっと噛み締め、涙目で天井を仰いだ。
前世の成人男性としてのプライドをかなぐり捨てて悲鳴を上げそうになるのを、弟の命のためという一心だけで耐え抜いていたのだ。
そして、それは受ける側のアレクセイにとっても過酷な苦痛であった。
まだ言葉の通じない赤子に「針を刺す間、腕を動かさずじっとしていなさい」と言い聞かせたところで通じるはずもない。
針が刺さるたびにアレクセイはギャアギャアと火がついたように泣き叫び、フリストフォルはその細い手首を優しく、しかし絶対に動かさぬよう固定しながら、胸を痛めて耐えるしかなかった。
「ごめんな、アレクセイ……痛いよなぁ。でも、これで血が止まるからな……」
輸血が終われば、フリストフォルはまるで雛鳥に餌を運ぶ親鳥のように、甲斐甲斐しく弟の世話へと奔走した。
自らの口の中で果物をドロドロに咀嚼して口移しで与え、極微量の滋養薬湯を唇へ含ませ、抱き上げてぬるめの柚子風呂へ一緒に入り、泣き疲れて震える赤ん坊を自らの胸の上に乗せてトントンと背中を叩きながら子守唄を歌う。
その姿は、三歳の兄というよりは、もはや献身的な新米の親そのものであった。
フリストフォルの生活のすべては、アレクセイの容態を安定させるためだけに費やされ、彼は文字通り弟にかかりっきりの身となっていたのである。
――そして、その甲斐甲斐しい献身が、宮殿内にとある「巨大な火種」を生み出すこととなった。
「……フリスチューシュカの、ばか」
子供部屋の天蓋付きベッドの隅で、巨大な羽根枕を両腕で力任せに抱きしめながら、アナスタシアは唇を尖らせて猛烈にへそを曲げていた。
頭では分かっているのだ。
アレクセイは大切な弟であり、その弟が死にかけていて、フリストフォルが命がけで看病しているのだということは、利発な彼女にも十分に理解できていた。
だが――理解できることと、感情が納得することは完全に別問題であった。
これまでなら、朝起きれば「ナースチャ姉さま、もう少し寝てたい」と胸元に顔を擦り付けて甘えてくれた。
お昼になれば「姉さま、お腹すいた」と手を繋いでお菓子を食べ、夜になれば同じベッドで抱き合って眠っていたのだ。
それが今やどうだ。
朝から晩まで「アレクセイの体温は?」「アレクセイの離乳食を作らなきゃ」「アレクセイに輸血をする時間だ」と、フリストフォルの口から出る言葉は新しい弟の名前ばかり。
自分に向けられていたはずの熱烈な甘えと温もりが、丸ごと掠め取られてしまったのである。
「もう……あんなに私の膝の上で寝てたのに。私がお菓子をあーんしてあげても『ありがとう、でもアレクセイの様子を見てくるね』って、一口でどっか行っちゃうし……!」
アナスタシアの背中からは、ドス黒いオーラがゆらゆらと立ち上っていた。
離宮の廊下ですれ違っても、フリストフォルはアレクセイを抱っこしてあやすのに必死で、アナスタシアの頭を撫でる余裕すらない。
完全に放置されたブラコンの姉は、部屋の扉の隙間から、弟と新しい赤ん坊の睦まじい姿をジト目で睨みつける日々を送っていた。
「……ナースチャったら、すっかりお顔が膨れて風船のようね」
長女オリガが紅茶のカップを傾けながら、妹のふてくされた横顔を見てクスクスと笑う。 隣で本を読んでいた次女タチアナも、呆れたように苦笑いを浮かべた。
「仕方がないでしょう。フリスチューシュカは今、あの子の命を繋ぎ止めるために必死なのだから。……でも、少し構ってあげないと、あの爆弾はいつか爆発するわね」
「そうねえ。フリスチューシュカ、前線の日本軍より、ナースチャを宥める方が大変なんじゃないかしら」
三女マリアの無邪気な一言に、部屋中の空気が生温かい同情で満たされた。
過酷な戦争を遠隔で操り、医学の限界を力ずくで突破しつつある幼き天才ツァレーヴィチ。
だが彼にとって、瀕死の弟の看病の先に待っていたのは――激しく嫉妬に狂う「最愛の双子姉のご機嫌取り」という、軍事戦略よりも遥かに難解で命がけの戦いであった。