アレクセイがようやく痛みに顔を歪めることなく、穏やかな呼吸で眠りに落ちたのを見届けた後――フリストフォルは、背後から突き刺さる「尋常ならざる気配」に小さく肩を竦めた。
双子の姉アナスタシアが猛烈に不機嫌であることなど、フリストフォルも当然ながら痛いほど気づいていた。
部屋の扉の隙間からジトッと覗く青い瞳。
廊下ですれ違えば「フンッ!」と分かりやすくそっぽを向き、お茶の時間になればティーカップをわざと音を立ててテーブルに置く。
その全身から立ち上る「私は今、世界一怒っています」という無言の抗議の圧力は、日本軍の重砲の弾幕よりも重苦しく肌に突き刺さっていた。
(……これ、テレビで散々見たやつだ……)
寝台の縁に腰掛け、細い手首を擦りながら、フリストフォルは前世の記憶を苦々しく呼び起こしていた。
子供が産まれると、母親は二十四時間体制で赤ん坊の命を守るのにかかりっきりになる。
その結果、それまで自分に向けられていた愛情と時間をすべて奪われた夫が、「どうして俺のことも構ってくれないんだ」と子供のように拗ねて不機嫌になり、家庭内が冷え切ってしまう――いわゆる『産後クライシス』の典型例である。
まさか、あの古典的な家庭の修羅場をこんな形で再現する羽目になるとは夢にも思わなかった。
しかも、前世も今世も男であるはずの自分が、完全に「育児に追われて心身ともに限界寸前の母親」の立場に立たされ、最愛の姉が「構ってもらえなくて拗ねる身勝手な旦那」のポジションに収まっているのだから、皮肉にも程がある。
(世の中のお母さんたち、本当にごめんなさい……そして、心から尊敬します……)
フリストフォルは心の中で、前世を含めた世界中の母親たちに向けて深々と頭を下げた。
男の身でありながら、赤ん坊を育てるという行為の過酷さを、彼は今まさに骨の髄まで実感していたのだ。
いつ内出血を起こすか分からないという極限の緊張感。
数時間おきに訪れる夜泣きと、自分の注射嫌いを押し殺しての採血と輸血。
消化に良いものを口の中でドロドロに咀嚼して与え、体温を保つために柚子風呂へ連れていく――自らの睡眠時間も、食事も、怠惰に過ごすはずだった自由な時間も、そのすべてがアレクセイの小さな命を繋ぐために削り取られていく。
そんな極限状態で、横から「私をもっと構って!」「私のフリスチューシュカなのに!」と駄々をこねられても、
『こっちは今、弟の命を繋ぎ止めるので手一杯なんだよ!』と叫びたくなる母親の気持ちが、痛いほど理解できてしまうのだ。
だが――理解できるからといって、このまま放置していい理由にはならなかった。
前世の知識が、フリストフォルの脳裏に冷酷な警報を鳴らし続ける。
「構ってもらえない夫の拗ね」を放置した家庭が、最終的にどのような破局を迎えるか。
ましてや、相手はあの感情豊かで一度思い込んだら一直線な、重度のブラコンを患う双子の姉アナスタシアなのだ。
このまま無視を決め込めば、彼女の不満のマグマは臨界点を突破し、いずれ宮殿を吹き飛ばすほどの大爆発を引き起こすに違いない。
「……はあ。満州の戦況を動かす方が、よっぽど気が楽だな」
フリストフォルは疲労の滲む小さな手で顔を覆い、深く重いため息を吐き出した。
弟の命はひとまず救った。
だが、次に待ち受けているのは、拗ねに拗ねて手のつけられなくなった「最愛の姉のメンタルケア」という、いかなる軍事シミュレーションゲームにも攻略本が存在しない、超難関のオペレーションであった。
◇◇◇
アレクセイの小さな寝顔を見つめながら、額の汗を拭っていたフリストフォルの肩に、そっと柔らかな手が置かれた。
「……フリスチューシュカ。もう大丈夫よ。あの子の面倒は、私が代わります」
母アレクサンドラであった。
その美しい瞳には、深い慈愛と、そして実の母親としての申し訳なさが滲んでいた。
まだ三歳であるはずの我が子が、まるで自分以上の「母親」のように付きっきりで赤ん坊の命を繋ぎ止め、その一方で、最愛の弟を奪われて不機嫌の臨界点に達している双子の娘アナスタシアの姿を見かねた母が、意を決して救いの手を差し伸べてくれたのだ。
だが――フリストフォルは、弟の傍を離れることを本能的に躊躇った。
(……大丈夫か? 本当に任せていいのか……?)
あの無能な宮廷医師たちを力ずくで叩き出し、クビを宣告したのは他ならぬ自分なのだ。
現在のロシア宮廷において、血友病という呪われた病の正体を知り、出血の恐怖を理解している「アレクセイの世界でただ一人の主治医」は、三歳の自分しかいないという強烈な責任感が、小さな胸を締め付けていた。
しかし、子供部屋の扉の向こうから漂ってくるアナスタシアの怨嗟のオーラは、もはや一刻の猶予も許されないレベルに達していた。これ以上放置すれば、間違いなく家庭内は大破局を迎える。
フリストフォルは小さく息を呑み、母の目を真っ直ぐに見上げて、念入りな「申し送り」を開始した。
「ママ、いい? 絶対に、アレクセイを木製の籠の中に戻しちゃ駄目だよ」
「……ええ、分かっているわ」
「手足を柔らかい布でしっかりお包みにして、動かないように優しく抱っこしていて。寝かせる時は、羽根布団を何重にも敷いた柔らかいベッドの真ん中だけ。……そうすれば、手足をぶつけて内出血を起こす心配はないから」
細心の注意を払った指示に、アレクサンドラは深く頷いた。
「食事は……今日一日くらいなら、ママのお乳だけでも大丈夫だと思う。もし痛がって泣き出したら、すぐに僕を呼んで。絶対に瀉血だのアスピリンだの、変なことをしちゃ駄目だからね!」
「ええ、約束するわ、私の小さなお医者様。……さあ、ナースチャのところへ行ってあげて。あの子、今にも泣き出しそうよ」
優しく背中を押され、腕の中の温もりをアレクサンドラへと引き渡した瞬間――フリストフォルは、全身の力がふっと抜けるような、強烈な安堵感を覚えた。
(……あ、これ、聞いたことあるやつだ……)
ようやく己の自由時間を捻出できたその瞬間、フリストフォルの胸を去来したのは、奇妙な既視感であった。
育児ノイローゼ寸前まで追い詰められていた新米の母親が、見かねた実家の祖母から『赤ん坊は預かってあげるから、旦那さんと少し息抜きにお出かけしてきなさい』と送り出された時の、あの解放感と後ろ髪を引かれる思いが入り混じった気分そのものだったのである。
アレクセイの実の母親は、目の前にいるアレクサンドラ皇后だというのに。
フリストフォルの胸の内に芽生えていたのは、男としての父性などではなく、すっかり肥大化してしまった濃厚な「母性」であった。
弟の命を救うために必死に看護を続けた結果、彼はアレクセイを弟というより、己の腹を痛めて産んだ「我が子」のように慈しみ、案じるようになってしまっていたのだ。
(……男なのに母性で我が子を心配する母親の気分になるなんて、どんなバグだよ……)
内心で激しくセルフツッコミを入れながらも、フリストフォルはパンパンと自らの小さな頬を両手で叩いて気合を入れ直した。
子育ての息抜きを許された以上、次に向き合うべきは、部屋の外で待つ「拗ねに拗ねた旦那(姉)」である。
フリストフォルは大きく深呼吸をし、重厚な扉を開けて、不機嫌の頂点に君臨する双子の姉の待つ居間へと、決死の覚悟で足を踏み出した。
◇◇◇
重厚な扉を開けて居間へ足を踏み入れると、そこにはソファの端で腕を組み、ぷくーっと頬を限界まで膨らませたアナスタシアの姿があった。
全身から「近寄らないでオーラ」を放っているものの、フリストフォルが入ってきた瞬間にピクリと耳が動いたのを、彼の観察眼は見逃さなかった。
フリストフォルは歩み寄ると、ソファの前にちょこんと立ち、少し困ったような、しかし心からの申し訳なさを込めた笑顔を向けた。
「……ナースチャ姉さま。お待たせしてごめんね」
アナスタシアはツンと顔を背けたが、フリストフォルはその小さな手をおずおずと握りしめた。
「ママがね、今日一日はアレクセイを見ててくれるって。だから……今日は一日、僕の時間は全部、姉さまのものだよ。ねえ、どうやって過ごそうか?」
その言葉を聞いた瞬間、アナスタシアの肩の力がふっと抜けた。
背けていた顔がゆっくりとこちらへ向けられ、潤んだ青い瞳がフリストフォルを捉える。
怒りの仮面はたちまち崩れ去り、そこにはずっと寂しさを耐え忍んでいた少女の素顔が広がっていた。
アナスタシアは握られた手をぎゅっと握り返すと、指を一本ずつ折りながら、自らが温めていた「計画」を口にし始めた。
「……まずはね、一緒にお風呂に入るの。あのお茶と柚子のいい匂いのするお風呂に、ゆっくり浸かるのよ」
「うん」
「それから、厨房へ行くわ。フリスチューシュカと一緒に、甘いスポンジケーキと、バターたっぷりのクッキーを焼くの。二人でお腹いっぱい食べるのよ」
「うん、いいね」
「そのあとは……お部屋に戻って、ベッドに潜り込んで、二人でゆっくり横になるの。私がフリスチューシュカを抱っこして、フリスチューシュカは私の胸で好きなだけお昼寝するの。……夕方まで、ずーっとゴロゴロするのよ」
アナスタシアが提示したプラン――それは、かつてのフリストフォルであれば諸手を挙げて大歓迎したはずの、この上なく怠惰で、享楽的な時間の使い方そのものであった。
(……そうだ。僕、本来はそうやって生きたかったはずだったんだ)
フリストフォルは目を見張り、胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えた。
ロマノフ家の破滅を知り、せめて死ぬまでの短い余生を、美味いものを食べて、美しく優しい姉に甘え倒して、惰眠を貪って過ごそうと決めていたはずだった。
それなのに、いつの間にか大戦略ゲームの癖で国家の兵站を握り、新兵器を開発して戦争を指導し、さらには弟の命を救うために己の細い腕に注射針を突き刺して、不眠不休で看病に追われていた。
生き残るため、家族を守るためとはいえ、三歳の幼子の肉体に宿った精神は、とっくに限界まで擦り減っていたのだ。
アナスタシアは立ち上がると、フリストフォルの小さな身体をふわりと抱きしめた。
その腕の温もりは、激しい嫉妬などではなく、慈愛に満ち溢れていた。
「……私ね、怒ってたんじゃないのよ」
耳元で、アナスタシアの震える囁き声が響いた。
「フリスチューシュカが、壊れちゃうんじゃないかって……すごく怖かったの。あの子のために自分の血を抜いて、痛いのに我慢して、いつも難しいお顔で大砲や飛行機の絵を描いて……貴方、ちっとも笑わなくなっちゃったんだもの」
アナスタシアは弟の背中を、小さな手で優しく、何度も何度も撫でた。
「国のことも、戦争のことも、あの子のことも……今日だけは、全部忘れなさい。……私の前では、ただの甘えん坊なフリスチューシュカに戻っていいのよ」
その無垢で、底なしの優しさに触れた瞬間、フリストフォルの胸の奥で張り詰めていた鋼の糸が、音を立てて解けていった。
国家の未来を背負う軍神でもなく、奇跡を起こす小さな名医でもなく、ただ、愛する姉に抱きしめられ、守られるべき「弟」としての自分。
「……うん。ナースチャ姉さま……」
フリストフォルはアナスタシアの首筋に両腕を回し、その胸元に深く、駄々っ子のように顔を擦り付けた。
前世の記憶も、大人のプライドも、すべてが姉の甘やかな香りのなかに溶けて消えていく。
「お風呂、行こっか。……いっぱい、甘えさせてね」
「ええ、もちろんよ! 世界で一番甘やかしてあげるわ!」
アナスタシアは満面の笑みを咲かせ、弟の手を引いて歩き出した。
控えていたチヨノーチェが、銀髪を揺らしながら音もなく浴室の扉を開け、湯気の立つ極上の空間へと二人を招き入れる。
極東の戦雲も、帝国の運命も、この瞬間だけは遥か彼方の出来事であった。
幼き天才が買い取った平穏のなかで、姉弟の甘く怠惰な至福の時間が、静かに幕を開けていた。
◇◇◇
白大理石が敷き詰められた豪奢な浴室の扉を開けると、そこには従来のロシア宮廷では決して嗅ぐことのできない、どこか懐かしく、そして芳ばしい極上の香気が立ち込めていた。
ゆらゆらと揺れる湯面に沈められているのは、目の細かい麻袋。
その中身こそ、フリストフォルが前線の海軍に命じて実行させた通商破壊作戦の、何より贅沢な「戦果」であった。
極東の海において、ロシアの巡洋艦隊が日本の補給線を脅かし、拿捕した無数の輸送艦。
その船倉から接収された物資のうち、米や塩といった普遍的な食料は、前線のロシア兵たちへと配給されて兵站を潤していた。
しかし、極東特有の調味料――味噌や醤油、鰹節や昆布といった出汁の乾物、そして上等な日本茶の茶葉となると、ロシアの無骨な前線兵士たちにはどう扱ってよいのか見当もつかない。
そこでフリストフォルは、それらの「極東の宝の山」を抜け目なくシベリア鉄道の特別便に積み込ませ、帝都サンクトペテルブルクの私邸へと回送させていたのである。
そして今日、湯船に惜しげもなく投入されたのは、その拿捕物資からくすねてきた日本茶の茶葉であった。
さらにフリストフォルは一工夫を加え、ロシア国内で容易に手に入る大麦を厨房のフライパンでじっくりと香ばしく乾煎りさせ、日本茶の茶葉と黄金比でブレンドさせていたのだ。
玄米茶ならぬ、「麦ほうじ茶」。
焙煎された大麦の香ばしい薫煙香と、日本茶特有の爽やかな渋みが熱い湯気にとけ込み、浴室全体を極上の湯治場のような癒しの空気で満たしていた。
本来であれば、白磁の茶器で恭しく点てて喉を潤すべき極東の高級茶葉を、全身を清めるためだけに湯船へ贅沢に浮かべる――これぞ、世界最大の帝国に君臨するロシア皇族だからこそ成し得る、究極のブルジョワジーな権力行使であった。
「あぁ……いい匂い……。香ばしくて、心がすうっと落ち着くわね」
湯の中に肩まで浸かったアナスタシアが、うっとりと息を吐き出した。
その腕の中には、すっぽりとフリストフォルの小さな身体が収まっている。
二人は湯の中でぴったりと寄り添い、アナスタシアは愛おしそうに弟の濡れた金髪を指先で梳いていた。
「これね、日本の船から鹵獲したお茶に、煎った大麦を混ぜたんだよ」
フリストフォルが湯気の向こうで目を細めながら教えてやると、アナスタシアはくすくすと喉を鳴らした。
「ふふ、敵国の物資でお風呂に入るなんて、私のフリスチューシュカは本当に悪党で、賢くて、頼もしいわ」
そう言って、アナスタシアは弟の額にちゅっと口づけを落とした。
湯船の脇では、湯気で濡れぬよう袖をまくった燕尾服姿のチヨノーチェが、適温に保たれた湯加減を確かめながら、静かに控えている。
麦ほうじ茶の成分が皮膚から染み渡るように、身体の芯までじんわりと温まっていく。
アレクセイの夜泣きに付き合い、注射針の恐怖に耐え、前線の地図を睨み続けていた日々の疲労が、まるで熱い湯の中に溶け出して洗い流されていくようだった。
(……ああ、駄目だ。骨までふやけそう……)
フリストフォルはアナスタシアの柔らかな胸元に完全に体重を預け、とろけるように脱力した。
思考を巡らせる必要も、誰かの命を背負う必要もない。
ただ、温かい湯と、芳ばしい茶の香りと、姉の無償の愛に身を委ねる時間。
これこそが、彼が前世の記憶を取り戻したあの朝から、ずっと求めていた至福の余生であった。
「フリスチューシュカ、お顔がぽかぽかして赤いわよ。そろそろ上がりましょうか」
「……んー。もうちょっとだけ、姉さまにくっついてたい……」
フリストフォルが甘えたように身を擦り寄せると、アナスタシアの表情がぱあっと喜色に染まった。
久しぶりに味わう弟からの全力の甘えに、姉の心は完全に満たされていた。
「もう、仕方ないわね。……あと少しだけよ? 上がったら、お約束のケーキとクッキーを焼きに行かなくちゃいけないんだから」
「うん……チョコチップ、たくさん入れようね」
「ええ、もちろんよ! 世界で一番甘いのを作りましょう!」
湯煙に包まれた白大理石の宮殿で、極東の海からもたらされた香ばしい湯気が、二人の幼き皇族を優しく包み込んでいた。
戦火の嵐が吹き荒れる世界の中心で、そこだけは、何者にも侵されない甘美な怠惰の聖域であった。
◇◇◇
麦ほうじ茶の湯に浸かってぽかぽかに温まった後、二人は軽やかな室内着の上に特注の小さなエプロンを締め、アレクサンドロフスキー宮殿の大厨房へと降り立った。
厨房の片隅、白大理石の調理台には、ふわりと甘い小麦粉の匂いが漂っていた。
かつては二歳の皇子の調理を呆然と見守るばかりだった宮廷料理人たちも、今では「小さき料理長」たちのために最高の火加減で薪窯を暖め、一歩引いた位置から敬意を込めて控えている。
調理台の向こうでは、アナスタシアが真剣な面持ちで麺棒を握っていた。
フリストフォルの手ほどきを受け続けた甲斐あって、彼女は今や型抜きクッキーであれば一人前と言っていい腕前を身につけつつあった。
バターの香る生地を丁寧に伸ばし、星型や丸型の抜き型をリズミカルに押し当てていくその横顔は、誇らしげな笑みに満ちている。
そんな姉の上達ぶりを微笑ましく横目に眺めながら、フリストフォル本人は別の「主食」の仕込みに取り掛かっていた。
甘いクッキーやケーキはもちろん楽しみであったが、熱い湯上がりの身体には、純粋に塩気のある炭水化物が欲しくなる。
小腹を満たすための最適解として彼が選んだのは、昨夜から低温でじっくりと発酵させて寝かせておいたピザ生地であった。
打ち粉を撒いた台の上で、小さな手で麺棒を滑らせ、生地を丸く、薄く均等に伸ばしていく。
生地の縁に適度な厚みを残しながら丸く成形すると、香味野菜とオリーブオイルで煮詰めた深紅のトマトソースをスプーンの背で鮮やかに塗り広げた。
その上に、厨房の温室から摘み取ってきたばかりの鮮烈な香りを放つ緑のバジルの葉を散らし、輪切りにした黒オリーブを均等に配置していく。
もちろん、乳牛から搾りたてのミルクで作らせた新鮮なモッツァレッラ・チーズも欠かさない。
ナポリの伝統と極上の素材が織りなす至高の円盤――ピッツァ・マルゲリータ。
木製のピザピールに生地を滑り込ませると、フリストフォルの背後に控えていた燕尾服姿のチヨノーチェが、息を合わせて燃え盛る石窯の奥深くへとそれを差し入れた。
パチパチと薪が爆ぜる音とともに、瞬く間に生地が香ばしい狐色に膨らみ、チーズがグツグツと泡立ち始める。
「……うん、ピザはいい感じだ。次はケーキか」
フリストフォルは息をつく間もなく、デザートの構想を現実の形へと落とし込んでいった。
アナスタシアの焼いているクッキーには、すでにたっぷりの砂糖とバターが使われている。
そこへさらに重厚なデコレーション・ホールケーキを重ねてしまっては、いくら子供の胃袋とはいえ胸焼けを起こしかねない。
そこでフリストフォルが選んだのが、絹のように軽やかな「シフォンケーキ」であった。
卵黄と小麦粉、少量の油と水分を合わせた生地に、限界まで角を立てた純白のメレンゲをふんわりと混ぜ合わせる。
生地本体の砂糖は極力控えめに抑え、小麦の風味と卵の優しいコクが際立つように計算されていた。
これならば、甘いものが苦手な大人であっても、いくらでも食べられる上品な仕上がりになる。
だが――フリストフォルの真の策略は、添え物である「生クリーム」にあった。
(ナースチャ姉さまは、脳天が痺れるくらい甘いのが大好物だからな……)
ボウルに注いだ濃厚な生クリームに対し、フリストフォルは「これでもか」と言わんばかりの砂糖を景気良くぶち込んだ。
そして冷水で冷やしながら一気に泡立て、ツノが立つ極上のホイップクリームへと仕立て上げる。
ケーキ本体は、フリストフォルの好みに合わせた繊細な「甘さ控えめ」。
しかし、別添えの生クリームは、アナスタシアの好みを満たす「超濃厚な甘味爆弾」。
甘さを抑えて楽しみたいフリストフォルはそのまま、あるいはクリームをほんの少しだけ掬って味わえばいい。
そして極上の甘さを求めるアナスタシアは、ふんわりとしたケーキの上にスプーン山盛りの激甘生クリームを雪崩のように乗せて頬張ればいいのだ。
誰一人として妥協することなく、双子の好みを完璧に両立させる魔法の折衷案。
軍事における兵站の緻密さをそのまま製菓工学へと注ぎ込んだ、フリストフォルならではの配慮であった。
「フリスチューシュカ、見て! クッキーがこんなにたくさん型抜きできたわ!」
アナスタシアが小麦粉を小さく鼻の頭につけたまま、焼き網に並べた生地を嬉しそうに見せてくる。
「すごいね、ナースチャ姉さま。すごく綺麗な形だ。……ピザも、もうすぐ焼けるよ」
石窯から引き出された焼きたてのマルゲリータからは、焦げた小麦の香ばしさと、溶けたチーズとトマトの抗いがたい芳香が立ち上っていた。
そして焼き型の中で、シフォンケーキの生地がふっくらと黄金色の山を描いて焼き上がりつつある。
「まあ、美味しそう……! 早く食べましょう、フリスチューシュカ!」
「うん。お部屋に運んでもらおう」
戦時下の暗雲などどこ吹く風。
芳ばしいピザと、焼きたてのクッキー、そして思いやりがたっぷり詰まったシフォンケーキを前に、二人の幼き皇族の顔には、この世で最も幸せな笑みが咲き誇っていた。
◇◇◇
石窯から取り出されたばかりのマルゲリータが放つ、焦げたチーズとフレッシュトマトの暴力的な芳香。
そして、オーブンの前で冷まされ始めているシフォンケーキから漂う、甘美なバニラと焼き菓子の香り。
その二つの香気が厨房の換気口を越えて廊下へと流れ出たちょうどその時――大厨房の重厚な扉が、音もなくスーッと数センチだけ開いた。
隙間からぬっと現れたのは、光を浴びてキラキラと輝く大きな薄青色の瞳であった。
三女マリアである。
「……フリスチューシュカ。あまーい匂いと、すっごく美味しそうな匂いがするわ」
美味しいものの気配を嗅ぎつけることにかけては、宮廷の猟犬すら裸足で逃げ出すほどの異常な索敵能力を誇るマリアであった。
こういう時の彼女は、恐ろしいまでに目聡い。
ふらふらと吸い寄せられるように調理台へと歩み寄ってくるその姿は、完全に獲物をロックオンした小動物そのものであった。
だが、フリストフォルはエプロンの紐を結び直しながら、ピシリと厳しい視線を向けた。
「だめだよ、マリア姉さま。昨日の夜、僕が測った体重計の数字、覚えてるよね? 基準値より二百グラム増えてたよ」
帝室の食生活を豊かにし、民草に高カロリー爆弾を投下したフリストフォルであったが、それと同時に家族の健康とプロポーションを守るための「徹底した体重管理」も怠っていなかった。
特に三女のマリアは、骨格がしっかりしており、油断するとすぐに愛らしく丸みを帯びたぽっちゃり体型になってしまう体質であったのだ。
彼女の将来の健康を案じるフリストフォルは、日頃からマリアに対して専属トレーナーの如く厳しい食事制限を課していたのである。
普通ならばここで引き下がるか、あるいは「お姉ちゃんに向かって生意気よ」と怒り出すところであろう。
しかし、三女マリアの恐るべき真価は、ここから発揮された。
「……うぅ……フリスチューシュカぁ……」
マリアは怒るどころか、すっと両手を胸の前で合わせ、大きな瞳にじわりと涙の膜を浮かべながら、トコトコとフリストフォルの至近距離まで詰め寄ってきた。
そして、年下の弟であるはずのフリストフォルのエプロンの裾をきゅっと小さな手で握り、完璧な角度の上目遣いで見つめてきたのである。
「マリアね、今日、お庭をオリガ姉さまとたーくさんお散歩したの。とっても頑張ったのよ? ……ほんのひとくち、ひとくちだけでいいから……ね? だめ……?」
その姿、その声音、その仕草。
どこからどう見ても、年上の姉が弟に接する態度ではない。
完全に「兄に甘えておねだりをする無力で可憐な妹」のそれであった。
(……くっ、この子は……!)
フリストフォルの眉間がピクリと跳ね上がった。
長女オリガと次女タチアナという絶対的な上の姉たちと、双子のアナスタシアとフリストフォルというませた下の弟妹たち。
その真ん中に挟まれた三女という絶妙なポジションで育ったマリアは、状況に応じて「頼れるお姉さんの顔」と「庇護欲を激しく刺激する無垢な妹の顔」を、恐ろしいまでの精度で使い分ける天性の才覚を身につけていたのだ。
自分の魅力を十全に理解し、相手が一番断りにくいフォームで懐に飛び込んでくるそのあざとさ。
(こんな小さな頃から姉と妹のスイッチを自在に切り替えて男を落としにかかるなんて……将来、男たちを手の平の上で転がしまくる、とんでもない魔性の小悪魔女に育っちゃうんじゃないだろうね……!?)
フリストフォルは前世の大人の視点から、この可憐な姉が将来巻き起こすであろう無数の男たちの阿鼻叫喚を幻視し、身内の男としてわずかながら背筋に冷や汗を覚えた。
そこへ、背後から猛烈な勢いで割り込んできたのはアナスタシアであった。
「だーめーよ、マリア姉さま! これは今日一日頑張ったフリスチューシュカと、私のための特別なご飯とお菓子なんだから! あっちに行ってて!」
アナスタシアが両腕を広げてフリストフォルを背中に隠し、マリアを威嚇する。
しかし、マリアは怯むどころか、ふわりと柔らかく微笑み、アナスタシアの手をそっと握った。
「ナースチャも、クッキー上手に焼けたのね。とってもいい匂い。ナースチャの焼いたクッキー、マリアも食べてみたいなあ……」
「う……っ」
ストレートな称賛と純真無垢な眼差しを向けられ、一転してアナスタシアの言葉が詰まった。
怒り狂っていたはずの双子の姉すら、一瞬で骨抜きにされかけている。
やはりこの三女、只者ではない。
「……はあ、分かったよ、マリア姉さま」
フリストフォルは観念したように息を吐き、焼き上がったばかりのマルゲリータに包丁を入れた。
「ピザは一切れだけ。その代わり、チーズの少ない端っこのところね。シフォンケーキも一口あげるけど、お砂糖をたっぷり入れた生クリームはつけないで、そのまま食べるのが条件。……これ以上は絶対に駄目だからね」
「わあい! ありがとう、フリスチューシュカ! 大好きよ!」
条件を突きつけられたにもかかわらず、マリアは満面の笑みを咲かせ、フリストフォルの首に抱きついてその頬にチュッと音を立てて口づけを落とした。
そのあまりに鮮やかな「戦果の獲得」と去り際の甘やかしに、フリストフォルは呆れ半分、敗北感半分のため息を漏らすしかなかった。
「……まったく、誰に似たんだか」
「もう、フリスチューシュカったら甘いんだから!」
ぷりぷりと文句を言うアナスタシアの頭を撫でて宥めながら、フリストフォルはチヨノーチェに目配せをした。
「チヨ、マリア姉さまの分を取り分けたら、残りを全部僕たちの部屋のベッドへ運んで。……今度こそ、誰にも邪魔されない至福のお昼寝タイムにするよ」
「畏まりました、坊ちゃま」
銀髪の従者が優雅に一礼する中、二人の小さな姉弟は、両手に抱えた極上の戦利品とともに、約束された怠惰な楽園へと足早に向かっていった。
◇◇◇
自室へと戻り、これでようやくアナスタシアとの水入らずの怠惰な時間を満喫できる――そう思っていたフリストフォルの背後で、カチャリと扉が静かに閉まる音がした。
振り返れば、そこには両手にお皿を掲げ、何食わぬ顔で部屋の中央へと歩み寄ってくるマリアの姿があった。
「……あれ? マリア姉さま、自分のお部屋で食べるんじゃなかったの?」
フリストフォルが目を丸くして尋ねると、マリアはふわりと花が咲くように微笑み、当然と言わんばかりに小首を傾げてみせた。
「一人で寂しく食べるより、みんなで一緒に食べた方が絶対に美味しいもの。……ね、ナースチャ?」
「ぜんっぜん、よくないわよ!!」
案の定、アナスタシアが仁王立ちになって抗議の声を上げた。
「今日は私とフリスチューシュカの特別な日なの! あんなに頑張って看病していたフリスチューシュカを、私が世界で一番甘やかしてあげる約束なんだから! マリア姉さまはお部屋に戻って!」
だが、天性の要領の良さを誇る三女が、そんな牽制で怯むはずもなかった。
マリアは怒り狂うアナスタシアの横をすり抜け、銀食器のトレイからアナスタシア特製の星型クッキーをひょいと一つ摘むと、小さな口でサクリと音を立てて齧った。
「んんっ……! ナースチャ、このクッキー、すっごくサクサクしてて美味しい! バターの香りがふわっとして、宮廷のシェフが焼いたのよりずっと好きだわ」
「えっ……そ、そう? ……まあ、フリスチューシュカに教わった通りに焼いたから、美味しいのは当たり前なんだけど……」
真正面からの純粋無垢な大絶賛を浴びせられ、アナスタシアの怒りは一瞬にして蒸発し、照れくさそうにもじもじと指先を弄ぶ羽目になった。
やはり、この三女の懐に滑り込む手腕は魔性の領域に達している。
だが、マリアがこうしてちゃっかりと付いてきたのは、単なる食い意地や物欲しさからではなかった。
マリアにとっても、フリストフォルは何物にも代えがたい最愛の弟であった。
おっとりとした気性でありながら、時折突拍子もないいたずらを仕掛けては周囲を慌てさせるマリアにとって、規律に厳しい次女タチアナのお説教や、母アレクサンドラの小言から、いつも機転を利かせて鮮やかに庇ってくれたのは他ならぬフリストフォルであった。
『タチアナ姉さま、待って。マリア姉さまは悪気があってドレスを汚したんじゃないよ。お庭で綺麗なお花を僕に見せようとして転んじゃったんだ』
そんな風に、大人のような怜悧な弁舌で理路整然と庇い立てし、頭を優しく撫でてくれた弟。
時に年下の赤ん坊のように愛くるしく、時に誰よりも頼もしい兄のように自分を守ってくれるフリストフォルに対し、マリアが抱く情愛の深さは、アナスタシアの激しい独占欲に決して引けを取るものではなかったのである。
「ほら、冷めないうちに食べましょ。フリスチューシュカ」
マリアがベッドの上に敷かれた特製の敷布の上にトレイを置き、手招きする。
結局、フリストフォルも苦笑いを浮かべながら、靴を脱いでふかふかの天蓋付きベッドへと這い上がった。
アナスタシアも「もう、仕方ないわね」と唇を尖らせつつ、弟の右隣をすかさず占拠する。
ベッドの上での、至福の小さな宴が始まった。
熱々のマルゲリータを頬張れば、トマトの酸味と濃厚なチーズが口いっぱいに広がり、空腹の胃袋を幸福感で満たしていく。
マリアはフリストフォルとの約束を健気に守り、チーズの少ない生地の端っこと、生クリームをつけていないプレーンなシフォンケーキを、一口一口噛み締めるように大事そうに味わっていた。
クリームがなくとも、メレンゲの力だけで極限までふんわりと焼き上げられたシフォン生地は、卵とバニラの優しい甘みだけで十分に極上の味わいであった。
一方のアナスタシアは、山盛りの激甘生クリームをこれでもかとシフォンケーキに塗りたくり、口の端を真っ白に染めながら夢中になって頬張っている。
「……ん、美味い。やっぱり、自分で作ったピザとケーキは格別だな」
フリストフォルが紅茶で喉を潤し、満足げに息を吐くと、トレイは綺麗に空になっていた。
満腹になり、程よい糖分と塩分が身体に染み渡った瞬間、耐え難いほどの心地よい睡魔がフリストフォルのまぶたを重く押し下げてきた。
麦ほうじ茶の温浴効果も手伝い、全身の筋肉がとろけるように弛緩していく。
パタリと、フリストフォルがベッドの中央に大の字になって倒れ込んだ。
すると、待ってましたとばかりに、両側から温かい気配が滑り込んできた。
右側からはアナスタシアが弟の腰を抱きしめ、その胸元にすっぽりと頭を滑り込ませてくる。
そして左側からはマリアが弟の腕を両手で抱え込み、柔らかな頬をすり寄せてきた。
「フリスチューシュカ……あったかいわね」
「うん……ナースチャの言う通り、フリスチューシュカの隣、すごく落ち着く……」
二人の姉にぎゅぎゅうと挟まれ、完璧な「川の字」がベッドの上に完成した。
アナスタシアの纏う甘いバニラとクッキーの香り、そしてマリアの纏う穏やかな石鹸の香りに包まれながら、フリストフォルは目を細めた。
(ああ……これだ。これこそが、僕が死ぬ気で守りたかった平穏だ……)
作戦室の張り詰めた空気も、硝煙漂う満州の荒野も、冷たい注射針の痛みも、今はもう遠い夢の彼方であった。
大好きな姉たちの温もりに挟まれ、ただ満腹のまま惰眠を貪る。
「……おやすみ、姉さまたち」
「ええ、おやすみなさい、私のフリスチューシュカ……」
「いい夢を見てね、フリスチューシュカ……」
二人の姉から額に優しい口づけを落とされながら、幼き大戦略家は、何物にも侵されることのない深く甘美な微睡みの中へと、静かに落ちていった。