Shogun the master sword 作:六位漱石斎正重
その多くの足軽たちの中に、複雑な面持ちで目の前の平城を見つめるある一人の中年の足軽がいた。この中年の足軽の正体とは……。
彼は思った。こんなことが許されていいのか? こんなことを許していいのか? だが、たかが数人程度の者共を率いる無名の小物頭(こものがしら)たる自分には何もできぬ。彼は周りの者共に気づかれないくらいかすかに歯ぎしりした。
時刻は申の刻を半分過ぎた(午後四時頃)ところで、あたりはだいぶ薄暗くなっており、そろそろ松明を用意する必要があると彼は思った。そして、それを命じるために、配下の足軽共に顔を向けた。
足軽たちは自分たちを振り返った彼の顔に一瞥すらせず、ギラついた視線を前方の平城に向けていた。彼には足軽たちの気持ちがよくわかった。これから間違いなく発生するであろう『乱取り』に心を弾ませているに違いない。
乱取りとは敵地で乱暴龍藉の限りを尽くし、食料を強奪し、女を姦し、子供をさらう事を指す。女、子供はまともな労働力にはならないが、人買いに売れば侮れぬ銭が手に入る。
反抗を抑え込む強大な軍事力と政治力で無理やり戦場に徴兵された彼らはすべて無名の農民達である。何も持たなければ一間槍(約1.8メートルの長さの素槍)程度の武器くらいは貸し出されるが、武器・武具は持ち込みが基本だ。戦の間の兵糧は配布される他は、雀の涙のような給金しか支払われない。
また、戦場で怪我をしたり、負け戦にでもなろうものならまっさきに置き去りにされる。身分の高い者は騎馬で退くので、足の遅い徒士(かち)の者共から討たれていき、そのために追撃の勢いが鈍るからだ。ひどい将だと、追撃の手を弱めさせるためにわざと味方の兵を傷つける者さえいる。
ところが今回のこの戦、味方の兵数は約一万一千余。敵の数は定かではないが、千に遥かに及ばないと耳にした。楽な戦だ、負ける道理がない。めったに無い『美味しい』戦場だ。自分が傷つけられず、自分のほしいままに好き勝手できるとわかった瞬間……人は獣になる。
全軍を率いる大将はもちろんだが、配下の武将、侍大将も兵どもの乱取りを一々制止したりなどしない。そもそも彼らは、自分の兵どもを同じ人間とはみなしていない。極端な話、彼らを家畜とさえ思っている。
なぜなら、彼奴(きゃつ)らには【誠】が無い。彼奴らには【誉れ】が無い。その日その日のみを生きながらえる生き物ならば、家畜や獣同然ではないか。ある程度の身分のある者たちは皆そう考えていた。
だが、それと同時にこうも思った。獣と同様、彼らも生きてゆかねばならない。みな飢えているのだ。文字通りの飢えだけでなく、この戦でいかに実利を貪るか、常に腐心しているのだ。命をかけるのだ、余祿に与(あずか)って当然ではないか!
かの小物頭の家系は先祖代々貧農の血筋だが、三代前の彼の先祖の『武功』によって少ないながらも六人程度の足軽小物供を率いる地位を授かり、『部将』となった。
その彼の先祖は、落ち延びていく武将を討ち、その首をこの地を支配する大名の軍勢のもとに持ち込んだ。彼は、何度も切り結んで苦労の末、首をとったと主張したが、実際の彼の『武功』とは、茂みの中から竹槍でついたときに落馬して大怪我をし、無抵抗になった武者の首を掻いただけだった。
無論、彼はその事を口にしなかった。だが、それがやんごとなき身分の者であったことが、彼の家系にツキを呼び込んだ。彼の先祖は小物頭に取り立てられ、現在は彼の子孫がその地位を継いでいる。
小物頭は考えていた。このまま無名の小物頭で終わるつもりはないし、もとの貧農に戻るなど考えただけで怖気立つ。そもそも彼は次男で農民には戻れない。だから彼は常に志高い者であろうとした。
彼の父親はこの時代に似つかわしくなく、珍しく子供には教育が必要だと考える人物だった。わずかな銭をかき集め、触れれば剥がれるような使い古された書物を与え、寺に頼み込んで学問を積ませ、なるべく身分高き者達と関わらそうとした。だが、彼の父親の願いも虚しく彼は身分高き者達からは、はなから相手にされなかった。
この世界では生まれと血筋が全てだ。だが、天皇家を除いて先祖代々高貴な人間など存在するだろうか。源平時代の源氏の血筋の者でさえ、生まれながらの高貴な身分だったわけではないはずだ。
要は生き残った、その結果に過ぎない。ならば、なんらかの努力によって身分の階梯を上がっていくことは決して不可能なことではない。彼は真剣にそう思っていた……というかそう信じたかった。
この時代ではごくごく普通の事だが、大将や一部の側近などほんの一握りの高位の者以外に、戦の直前あるいは、戦の最中でさえしばしば誰と戦っているか知らなかったし、誰と戦わされるかを知らされなかった。
兵どもは、はなっから知ろうともせず、生き残りと乱取りしか念頭になかったし、ある程度の身分のある侍大将でさえ麾下の部隊の掌握に必死で、敵のことなど考える暇がなかった。
どうせ敵の正体など知ったところで戦が始まればやることは同じだ、敵が見つかったら侍大将の指示に従って討ちかかるか、身を守るために戦うかのいずれかだ。そう考える者は多かった。
数日前の夜、『身分の高き者』どうしが話すことをたまたま小物頭は耳にした。実に恐ろしい話だった。見つかれば必ず首を刎ねられるに違いない話だ。小物頭は緊張に身を固くした。無論、盗み聞きで彼らの視界の外の地べたに彼はたまたま寝転んでいたのだった。
彼は『草』(間者)ではなかったし、身分高きものたちから見れば取るに足らない存在であったが、知らなくていい情報を小物が持つことに、身分の高き者達は極めて不寛容だった。
そんなことが自分の口から漏れたというようなことが、彼らより更に上の身分の者らに知られれば、彼ら自身が厳しい咎めを受けることになるからだ。
それでもその身分高き者は、興奮のあまり声量を抑えようとして失敗し、そこそこ大きな声で自分の部下の将に語った。
これから我が軍勢は、ある城に押し出すのだ。その城はなんと、よりにもよって足利将軍がおわす二条御所であるという。小物頭は大変な事を知ってしまったと心底恐れおののいた。
小物頭は足をわずかに震わせながらこっそりとその場を後にし、自分の部隊のもとへ足を運んだ。その帰路をたどる間、強烈な違和感が彼を襲った。
将軍家を攻める? 正気か! 高貴すぎて直接見れば目が潰れるとのもっぱらの噂の、あの足利将軍を?彼の頭は混乱し、それはこの戦が終わるまで続いたままだった。