Shogun the master sword 作:六位漱石斎正重
しばしの間、沈黙の闇が三人の少年たちを包んだが、その後、糸千代丸は努めて笑顔を浮かべるようにして、虎丸と龍丸に最後の命を下す。その内容とは……。
その後、糸千代丸は虎丸・龍丸から敵方のより詳細な報告を聞き、それらに一々うなずいたあと、スッと音もなく立ち上がった。それを虎丸、龍丸の二人の目が追う。
糸千代丸はその場を立ち去ろうとしたが、何かを思い出したかのように立ち止まると、虎丸、龍丸の方に体を向けて優しく語り掛けた。
「ワシも此度の仕儀に少々動揺して失念しておったわ。虎丸、龍丸、本日まで、よう仕えてくれた。そなたらとワシは主従であったが、それと同時に兄弟同然の間柄であり、ある時はワシにとっての剣や武術の師匠でもあった。改めて礼を申す」
その糸千代丸の言葉にたまりかねた虎丸・龍丸の二人の胸に熱い想いが湧き上がり、二人はそれぞれ叫ぶように答えた。
「もったいなきお言葉。お仕えさせていただいた主が糸千代丸様であって、我ら無上の喜びでありました。我らこそ糸千代丸様に対し感謝の念に堪えませぬ」と虎丸。
それを聞いて龍丸も間髪入れず後に続いた。
「糸千代丸様あっての我ら、本日この身が果てても悔いなど塵ほどにもございませぬ。よき主君にお仕えでき、感無量にございます」
それを聞いた糸千代丸は小さくうなずいた後、話を続けた。
「糸千代は本日この館にて御屋形様とともに果てる。さすればそなたたちは仕える主が無くなることになる。よってこの後は自由にするがよい。そなたたちの話がまことであれば、今ならお主ら二人だけで館から落ちることが叶うはず。必要なものがあればワシの室より何でも持っていくがいい、どうせ炎にまかれて全て灰になるだけじゃ。ワシからの最後の手向けと思うがよい。それがすんだら、すぐに館を立ち去れ。もう会うこともあるまい、さらばじゃ。二人とも達者での」
そう一気に話し終えると、糸千代丸はその場を立ち去ろうと奥の間に向かって歩き出した。
そのとたん、虎丸が糸千代丸に声をかけ、彼を制止した。
「お待ちください! 我ら糸千代丸様を館に残してここから出ることなど最初から思案の外でございます。我が六位家は代々摂津家にお仕えする家柄。糸千代丸様を置いてなんで我らだけで館を落ちることができましょうや。最後までお供仕ります」
糸千代丸はその虎丸の言葉に少しいらだった様子で彼の言葉の後を引き取った。
「そなたたちにはワシの真意がわからぬのか? 糸千代がここで落命しても摂津家まで滅びるわけではないぞ。瀬田の父上(摂津晴門、糸千代丸の父。瀬田に居を構えていたので瀬田殿とも)の元へ行ってお仕え申せ。それならば、六位家の面目も立とう」
だが、虎丸は糸千代丸の言葉に頑として首を縦に振らなかった。
「お叱りを受ける覚悟で申し上げます。糸千代丸様が幼き頃よりお仕えしてきた我ら。我らは摂津家に仕えるつもりではなく、糸千代丸様をお守りする者共です。先ほども糸千代丸様から『この後は好きにせよ』とのありがたき仰せ。我ら最後までお側におりまする」
それを聞いた糸千代丸はわずかに困った表情を顔に浮かべて一つ小さなため息をついた後、再び床の上に座り虎丸に語りかけた。彼は本腰を入れて二人を説得するつもりだった。
「お主らも困った者共だのう。そなたたちがここで果てては漱石斎(六位漱石斎正重。龍丸・虎丸の父)殿があまりにお気の毒ではないか? 漱石斎殿は、そなたたちを若くして死なすために我が側に仕えさせたわけではないぞ! 少しはそなたたちの父上のお気持ちも考えよ」
虎丸はそれにすぐに反論しようとしたが、一足早く龍丸が口をはさんだ。
「瀬田様にもお子は糸千代丸様しかいらっしゃらないと聞き及んでおりまする。お気持ちだけありがたく頂戴いたしますが、我らにそのようなご配慮は無用に願います。それに父は漱石斎の名を号する通り、石に漱(くちすす)ぐような素直でない傾(かぶ)いたる考え方の常なるお方。我らが糸千代丸様を置いて逃げ帰ったと知れば、我ら二人ともその場で即座に首討たれることとなりましょう」
龍丸はそこまで一気に話し終えると、小さなため息を一つついた。そこで唐突に昔のことを思い出したかのように遠い目をして再び口を開いた。
「我が父はそのようなお方なのです。我らにとってはもはや六位家のことなどどうでもよいのです。事ここに至っては、言葉は不要。虎とともに龍丸も館に残ります。我らが剣技を尽くして、糸千代丸様にお恥をかかそうとする下郎共を必ずや滅してご覧にいれましょう。お任せくださいませ」
それを聞いた糸千代丸はしばしの間無言を貫いたが、いつまでもこのような問答に時間を費やしている場合ではないし、義輝と今後のことなどを談合しなければならない。もっともどのような策を弄したところで焼け石に水なのは間違いのなかったことだったが……。
糸千代丸は「うぬっ、……勝手にせよ!」と大声をだし、立ち上がって一つ大きなため息をついたあと踵を返して屋敷の奥へ通じる廊下をスタスタと歩いていった。
虎丸と龍丸は糸千代丸の姿が見えなくなるまでその後姿を見送ったが、廊下の角の奥にその姿が見えなくなると、二人はお互いに顔を見合わせどちからともなく微笑んだ。
そしてすぐに表情を引き締めると、二人は同時にうなずき、草鞋(わらじ)をぬいで板の間の上に上がると急いで糸千代丸の後を追っていった。
誰もいなくなった廊下の下の岩の上には、二足の草鞋がわずかな乱れもなくきれいにそろえられ残っていた。
糸千代丸は義輝の居室へと足早に歩いて行った。糸千代丸は室の明かりが見え始めると、なるべく顔に柔らかな表情が宿るように努めた。不安そうな顔で義輝の前に現れ彼に心配をかけたく無かったからだ。
義輝の居室にたどり着いた糸千代丸は片膝をつき、頭を下げ閉められたふすまごしの室内に声をかけた。左右後方には龍丸と虎丸が控えている。
「糸です。只今戻りました」
すぐにふすまの奥から「お糸か? 入りゃれ」と返事があった。糸千代丸は失礼しますと声をかけるとふすまを開け室内に入って行った。
龍丸と虎丸はすぐにふすまを閉め、出入り口を挟んで室の外の廊下に控えた。虎丸、龍丸は、今日は今までで一番長い一日になりそうだと思った。
室内は二十畳ほどの広さであろうか。入って左奥に掛軸がつるされた床の間にくすんだ茶色の花瓶が置かれ花が活けてある。右奥には様々なものを収納する複雑な掘り込みの飾りがついた床脇があった。
全体に華美ではなく、むしろ将軍の居室にしては質素な印象を受ける。ただ、室内の文物はどれも一級品ばかりで、その筋の鑑定眼がない人でさえ、これらが並の物品ではないとわかる気品を漂わせていた事に気づくだろう。
そこから一メートルほど離れたところに敷物が敷かれその上に黒檀でできた唐木座卓があり、ある一人の男性が顔を上げる気配もなく座卓の上に置かれた和紙に何かを書き込んでいる最中だった。
そのそばで八歳くらいの小姓が居室に入ってきた糸千代丸の顔をじっと見つめていた。