Shogun the master sword 作:六位漱石斎正重
糸千代丸が居室に入ってきても顔を上げず、座卓の上に置かれた和紙に懸命に何かを書き込んでいるこの男こそ、室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝その人だった。歳は三十になるかならぬかといった頃で、この当時では油の乗り切った一番快活な年頃ともいえる。
奥の院にこもった公家の人々と異なり、やや浅黒い肌に小袖の上からでもそれとなく分かる発達した上腕筋が見て取れる。明らかに鍛錬を積んだ身体だ。
義輝の体の左側には『大氷柱(おおつらら)』と号された刃長八十センチメートルの大太刀が、飾りのない質素な漆塗りの杉でできた刀掛けに置かれている。
この太刀は無銘でこそあるものの塚原新右衛門高幹が若いころから佩刀していたもので、水が地面に落ちる前に凍って氷柱ができるかのように、この刀で切った傷からは血しぶきがでにくいという逸話のある業物だった。
一般的には、太刀で人を斬ると刀身は血や脂にまみれ『刃』が維持できなくなると知られているが、この太刀は不思議と刀身が血まみれになることはほとんどなく、高幹は若いころこの太刀のおかげで何度も命を拾ったことがあったのだった。
これは義輝が高幹から一之太刀を伝授された際に高幹から献上されたものだった。
『太刀とは人を斬るものであって、飾り立てて悦に浸るものにあらず』、という高幹師範の教えを義輝は律儀に守り、この太刀をいつもそばに置いていた。
義輝の居室に入った糸千代丸は座卓から少し離れたところに座り一礼した後、義輝の声かけを待った。
義輝はしばらく書状の一つ一つに目を通し丁寧に花押を書き込む作業を続けたが、そのうち手を止めて顔を上げると笑顔で糸千代丸に声をかけた。
花押(かおう)とは人を識別するサインのことで、後の時代の印鑑に発展していく。この時代、コピー機は当然ないので、手間や時間を浪費する文章は右筆(ゆうひつ)が主の代わりに作成し、最後に主がサインを印すのが一般的だった。
「おぅ、戻ったか、お糸」
「はい」と糸千代丸は短く答えたが、館の外の様子をすぐには伝えず義輝が花押を書き込んでいた書状を遠くから何気なく眺めて、義輝に尋ねた。
「また、全国各地からの調停の嘆願書でございますか?」
それを聞いた義輝はあきれたような表情を浮かべ、その後に続いた。
「うむ。まあしかしようこうも毎日いざこざがあるものよ。皆飽きるという事を知らぬようじゃな」
「はい、今日ノ本は乱世の渦中。天下は麻のごとく乱れ、皆救いを求めておるのでございまする」
その糸千代丸の言葉を聞いた義輝はわずかに顔をしかめ、「どの者共も人を当てにしすぎる。ワシとて誰かに救ってもらえるなら救うてもらいたいわっ! 全くもって面倒極まりないことじゃっ」
それを聞いて糸千代丸は微笑しながら彼の言葉の後をつなげた。
「まさしく上様の仰せのとおりでございます。さりながらその書状を送りつけてきた方々も皆、結局のところ面倒なことが嫌いなのでございます。ですから将軍家のお力にすがろうとするのです」
それを聞いた義輝は、「ふんっ、将軍家の力など今更あてになるかっ。すでに父上(足利義晴)の御代より権威などないも同然じゃ」と吐き捨てるように言った。
あきれはてているというよりも、自分の力でどうにもならない現状に怒りを抱いている様子だった。
そんな彼の様子を見て糸千代丸はかすかに困った表情をした。それを見た義輝はニヤリとし、さらに次のように言葉を添えた。
「お糸よ、仮にこれらの書状に嘆願を送り付けてきた者達に合力するような神仏の如き力、あったとする」
「はい。上様の書状なれば、私はあると信じます」と短く糸千代丸。
「おことの考えはそれでよい。だがな、訴えを起こした者共の言い分があるなら、訴えられた者共の言い分もあるはずじゃ」
「はい、左様でございますね」と、至極当然の返事を返す糸千代丸。
「……とすれば訴えられた者共が訴えた者共のようにワシに嘆願書をよこしてきたとして、双方がこの『霊験あらたかな神通力を持った書状』を手にしたとしたらなんとなる?」と彼は意地の悪い笑顔を浮かべながら言った。
その矛盾に気づいた糸千代丸は、あっ! と小さく叫んでしばらく黙り込んだ後、「いや、それは私にはなんとも……」と歯切れの悪い返事をしてうつむいた。
義輝はさすがに意地が悪すぎると気づいたのか、何もかもすっかりあきらめた様子でため息交じりに糸千代丸に語り掛けた。
「最近ワシはこうも思うのじゃ。もしかするとワシはこれら数多の書状に花押を記すためだけに生まれてきたのではないか、とな」そう言って、わずかに歪んだ笑みを浮かべた。
糸千代丸は「上様は室町幕府第十三代征夷大将軍にあらしゃります。これも天下を差配される上様のお仕事。何人にも替えられぬことにございますれば……」と苦笑した。
しばらく沈黙の時が過ぎていき、再び義輝が口を開いた。
「よし、もう今日の分は終わりじゃ。幸か不幸か明日からはこのような些事から解放される」と義輝はすっぱり言い切った。なにかこう吹っ切れたすがすがしい笑顔だった。
それを聞いた糸千代丸はかすかに悲しげな表情を浮かべた。義輝が明日からこのような雑事から解放されるのが事実だからだった……それも永遠に。
そのあと、義輝は居室のはじに控えていた右筆に書状を全て片づけさせ退室させた。そしてすぐそばに控えていた八歳ほどの小姓に顔を向けて話しかけた。
「藤丸、もう下がって休め。朝早くからご苦労であった」
小姓は糸千代丸が室に入ってきてから糸千代丸と義輝の二人を交互に食い入るように見つめ、彼らのやり取りの一言一句に耳をそばだてて聞いていたが、話の内容は半分も理解できなかった。
「はい。でも、上様は今しばらく起きておいでなのですか」と小姓は彼に尋ねた。
「うむ、しばらくお糸と二人だけで話がある」
そう義輝が答えると、その小姓は『二人だけで』という言葉に反応したのか、幼い顔に般若のような表情を浮かべて糸千代丸を睨んだ。
糸千代丸は自身のほほに小姓の鋭い視線が突き刺さるのを感じたが、小姓には顔を向けず義輝の面長の顔を見つめたまま黙っていた。
片手の指を折って数える程度の時間が過ぎた後、小姓はしぶしぶ「それが上様の仰せならばお言葉に従います」と言って一礼した後立ち上がった。
糸千代丸は、義輝の居室のふすまが閉まるまで、自分の背に突き刺さるような小姓の視線をずっと感じていた。
糸千代丸は小姓が立ち去ってその気配がなくなると、義輝に話しかけた。
「春舎(はるいえ。義輝の家臣団の一人、進士春舎)殿のご嫡男藤丸が来てからひと月ほどになりますか……」
「うむ、ワシの身の回りの事はあれがするので大いに助かっておる。素直でよい子じゃ」
「はい、私もそうは思いますが……」と、糸千代丸は少し困った表情を浮かべて言った。
「いかがした? なんぞ気がかりでもあるのか」とわずかに心配げに尋ねる義輝。
「私を見るあの刺すような視線……わたくしは藤丸に嫌われておるのやもしれませぬ」と糸千代丸が言うと、義輝は相好を崩して言った。
「ああ、そういう事か。なーに、妬いておるのよそなたに」
「妬いて? なぜでございますか上様」
「そなたの手配が微に入り細にわたる手際の良さ故よ」
それを聞いた糸千代丸は、「はて? これはしたり。なんでわたくしの手際が良くて他の者に睨まれる道理がありましょうや」と不服気に答えたが、義輝は察しの悪い者に辛抱強く諭すかのように糸千代丸に語りかけた。
「いや、だからな、藤丸はおことのように手際ようできぬのだ。だから手際の悪い自分に腹を立てているのじゃ。そしておことが手際ようできることに妬いておるのよ」
義輝のその言葉に、糸千代丸は増々不可解な表情で義輝の後に続いた。
「これはいよいよ不可思議極まりなき事。私は上様に仕えてはや七年。仕えてわずかひと月程の童とひとくくりにされる事、この糸はいささか合点がいきかねまする」
それを聞いた義輝は、物わかりの悪いのは藤丸に限ったことではないなと小さくため息をついた後、すっかり表情を引き締め糸千代丸に本題について話すように促した。
義輝の表情の変化を敏感に察知し、糸千代丸も表情を厳しく引き締め屋敷の外の様子を報告し始めた。二人にとって今日が一番厳しい日になるだろうことを彼らはひしひしと感じていた。