Shogun the master sword 作:六位漱石斎正重
朝早くから起床して義輝の傍にいた彼をいたわってのことだったが、それと同時に幼い子供にこれから起こるであろう凄惨な光景を見せたくないためでもあった。
どうせ命を落とすなら、眠っている間の方がマシだと思ったためだ。そんな中、糸千代丸が御所の周りを取り囲む様子について報告するのだが……。
藤丸が義輝の居室を去った後、改めて糸千代丸の方を振り返った義輝は、真剣な目つきで彼を見つめた。糸千代丸はその真剣なまなざしに一瞬たじろいだものの、すぐに表情を引き締めて現状を報告し始めた。
「で、館の周りはどのような様子じゃ?」と義輝。
「はい、館を取り巻く兵は約一万一千。先手は三階菱の軍勢です」糸千代丸はそう答えた。
義輝は顎に手を当ててかすかに考えこみ、記憶の泉を探り、家紋からどの豪族のことかを思い出していた。
その内、思い至ったものが見つかった様子だったが、意外そうな表情を浮かべて糸千代丸を見つめつぶやいた。
「安宅(あたぎ)の軍勢か……冬康(ふゆやす)が? これは思案の外であったな」
それを聞いた糸千代は、慌てて言い添えた。
「いえ、冬康様はすでに亡くなっております。名前を失念してしまいましたが、確か今はそのご子息が家門をお継ぎになっておられるはずです」
「冬康は黄泉へと渡ったか。確かワシより十ほど目上の者だったかと思うが、初見より偉ぶったそぶりも見せず、何事も足利家を立てておったな」
糸千代丸はしばらく黙った後、残念そうな表情を浮かべて口を開いた。
「そもそも冬康様がご存命なればこのような騒動に加担なされますまい。詳しゅうは存じ上げませんが、長慶(ながよし)様が実の弟君である冬康様を、謀(はかりごと)をもって殺めたなどという噂もあります」
「ほう、長慶がの……兄弟同士で争うことほど醜いものはこの世にないの」
「はい、ほんに左様で……」
そこまで言うと、糸千代丸はハッとなって何かを思い出したかのように黙り込んだ。その様子に気づいた義輝は、糸千代丸に尋ねた。
「いかがした。なんぞ気になることでもあるのか?」
「いえ、その……出どころのはっきりせぬ噂話です」
「なんじゃ、言うてみよ」と義輝は先を促した。
糸千代丸は言うべきかどうか、かすかに迷ったが、思い切って口を開いた。
「その……実はその謀の首謀者は、長慶様ではなく……弾正少弼(だんじょうしょうひつ。松永久秀の官位)様であるとか、そうでないとか……」
「チッ、古狸めが! あの者、長慶やワシの前では忠臣を装っているが、面従腹背を旨とする下人よ」
「まあ、あくまで噂です、上様」と糸千代丸。
義輝は苦々しい表情を浮かべてさらに吐き捨てるように語をつなげた。
「どこから出た噂かは知らぬが、ありそうなことじゃな。そもそもあの者、普段雅な風流を気取っているが、どこぞの素性か知れぬ右筆上がりの公家かぶれよ。どんなに装ったところで、卑しい心が姿かたちとなって表れておるわっ」
それを聞いた糸千代丸は苦笑しながら話題の人物を擁護した。
「とはいえ、数年前に上様が義興(よしおき。三好義興。三好長慶の嫡男)様の邸宅にご招待された折に、弾正少弼様は上様に太刀を献上したり、配膳など御供衆のやるような些事をかいがいしくやっておりましたでしょうに」
義輝はそれを聞くと、かすかに糸千代丸を睨んでそのあとに続いた。
「おことはあの公家かぶれに仕えたいのか?」
「まさか! とんでもございません。わたくしのお仕えする主は上様ただ一人でございます」
糸千代丸の返事に義輝は少しばかり気分を良くしたが、すぐにあることに気づいて糸千代丸に尋ねた。
「お糸よ、此度の騒動に松永の軍勢は合力しておるのか?」
糸千代丸は虎丸と龍丸の報告の内容を思い起こし、義輝の問いに答えた。
「物見の知らせによれば、蔦文(つたもん。松永家の家紋)の旗は確認したようですが、弾正少弼様自身はご出馬いたしておらず、嫡男の久道様が軍勢を率いておる様子です」
「さもありなん。将軍殺しの悪名を貼られるのはさすがの古狸も気後れすると見える。だが自分の手を汚さず、子に押し付けるとはな……」
糸千代丸はそれには答えなかった。沈黙の間が広い室内を覆った。
再び義輝が口を開いた。
「安芸の毛利、甲斐の武田、越後の上杉、越前の朝倉、近江の六角、尾張の織田、石山本願寺など、度々地方の諸大名たちに書状を送ってみたが、いずれも色よい返事はよこしてこなんだ。むしろ、将軍家に合力することは難しいなどと、あからさまに様子見の大名さえいる」
それを聞いて糸千代丸が義輝に尋ねた。
「実際に上洛した尾張の信長様(織田信長)、越後の景虎様(上杉景虎)などはいかがでしたか?」
「信長は禁裏(朝廷や皇室)や将軍家に多額の献金や太刀、馬、武具など多くの品々を送ってよこしたりしたが、目の奥に隠し切れぬ野心があるやに思える」
糸千代丸は、信長が二条館で義輝に謁見した際に、かの者が平伏しつつも鋭い視線で相手を値踏みしている様子を思い浮かべながら口を開いた。
「……少なくとも、信長様は吝嗇ではありませんでした。禁裏の修理費や建て替え費用を一括して献上するなど、昨今の大名家でもなかなかできぬことでありましょう」
「確かにな。織田家はそれほど裕福な豪族とも思えぬが、かの者の父……なんといったかな、その者も幾度か禁裏や足利家に献金を怠らなかったな」
義輝が静かにそうつぶやくと二人は黙り込んだが、しばらくして義輝が再び口を開いた。
「一方、景虎も多くの献上品を携えて上京した。確かにあの者の忠義は純粋なものではあるが、なにぶん越後は京より遠すぎる。それに信長、景虎のいずれも国内に問題を抱えていて、事あった時にすぐに駆け付けることはできぬ。」
糸千代丸は、景虎が上京した際に御所で起こした騒動を思い出して、カラカラと小さく笑った。
「しかし、景虎様も情の深いお方でしたね。越後より引き連れた兵とともに、これからずっと御所を守護するのだと言って、ガンとして動きませなんだ」
義輝も、それを思い出したのか多少辟易した様子でそれに答えた。
「帰れ、いや帰りませぬ、と何度無意味なやり取りをしたことか、あの者にも困ったものじゃ。領国を遠く離れて御所を守護するなど、山内上杉家の家門を継いだ者であるにもかかわらず、越後守護や関東管領という職を軽んじておるのではないか」
「でも景虎様の上様に対する忠義はまことに固きものです。むしろ、神仏に近い崇拝の念のようなものを感じさせました」
義輝は糸千代丸のその言葉を聞いて、真剣な表情で自分を見つめる景虎の龍眉の下からのぞく薄茶色の瞳を思い出して糸千代の後をつないだ。
「おことのいうように、あの者の忠義はまさしく金剛石のように固きものじゃ。だが、それと同時にあれほど融通の利かぬ者はおらぬ。あの様子では国内を平穏に治めることは難しいに違いない。そうなれば、こちらから兵を送るよう申し伝えても難しいであろう」
「……さようですね」
糸千代丸はそう言ったきり黙ってしまった。
京の周囲を取り巻く状況も将軍家とってかなり厳しいものだった。古来から籠城戦は援軍が来ることを想定して行われるものだ。外部からの援軍を頼めない以上、自分達だけで何とかしなければならない。それでも義輝は努めて明るい表情を浮かべて糸千代丸を見つめるのだった。