Shogun the master sword 作:六位漱石斎正重
無論その目的ははっきりしている。この機会にこちらの意に沿わぬ義輝に政治中枢から退場してほしいのだ。ついでにあとくされの無いようその命ごと。
一方、義輝は糸千代丸とこれからの対応について話をまとめようとするのだが……。
既に御所は、敵勢に囲まれつつある。今ならかなりの無理をすれば攻囲を抜けることは、全くの不可能ごとというわけでもなかった。
だが、義輝は豪族や地方大名ではない。征夷代将軍なのだ。頭上に仰ぐは帝のみ。いかなる脅威があっても背を見せるわけにはいかない。例え朝廷であってもいかなる権威にも服従しない、という『征夷』の名を帯びているのだ。この時代メンツは命よりもはるかに優先された。
今さら三好軍に降伏はできない。ならば戦うしかない。だが勝算は? 軍勢を率いる将については判明した。あとはこちらの手勢の数についてだが……。
義輝がまず口火を切った。
「お糸よ」
「はい、上様」
「三好勢はおよそ一万一千ほど、と先ほど申したな?」
「はい」
「で……我が手勢はいかほどじゃ?」
「……」
糸千代丸はその問いにはすぐには答えず、黙り込んだ。義輝も問いに対する回答をせっつかず、ただ黙って待った。
その内、糸千代丸がためらいがちに口を開き、義輝の問いに答えた。
「およそ三十名ばかりかと。しかしみな上様のために命を捨てる覚悟を持った剛の者たちです……あとは幼子や奥方様、ご母堂様、その他身の回りのお世話をするおなご達ばかりでございます」
そう言って、糸千代丸は悲痛な表情を浮かべた。それを聞いた義輝は特に驚いたり落胆した表情は見せず、何かを考えこむように黙り込んだ。
再び義輝が口を開いたとき、彼は晴れやかな表情で糸千代丸に問いかけた。
「お糸よ」
「はい、上様」
「こなた……一人で三百あまりの兵どもを討ち取る手立てを存じておらぬか?」義輝はそう尋ねてニヤッと笑った。
糸千代丸はその問いかけのあまりの難題さに、しばしあっけにとられ何の言葉も発することができなかったが、その内何もかも吹っ切れた様子で控えめに笑い声を出した。
「ほほ……上様、お戯れを。そのような鬼神の如き手立てを存じておれば、とうの昔に糸は天下を平定し、上様に献上つかまつっておりますでしょうに」
そう言って実にさわやかな表情を浮かべる糸千代丸だった。その様子を見て義輝は素直に糸千代丸の姿を美しいと感じた。小さな指先でかすかに口元を抑え、小さく笑い声をあげる彼を真にいとおしいと思った。
その瞬間、義輝は糸千代丸のほっそりした手首をつかみ自分の方へ引き寄せた。糸千代丸はがっしりとした筋肉質の腕が自分の身体を抱き留めている状況に困惑し、義輝が真剣な表情で自分を見つめているのに気づき、頬を赤らめた。
この時代、いわゆる衆道(男色)は、LGBT(セクシャルマイノリティ)が人権を得ている現代よりももっとあからさまで、不自然でもなんでもなくましてや人から表立って非難される行為でもなかった。
大昔から、古今東西戦場で軍勢を率いる将の頭を最も頭を悩ませている事柄の一つに、性処理の問題がある。兵どもは当然のことながら一隊を率いる将ですら、野に生きる獣よりはましという程度に、男性の性欲に対する節度の無さは目に余るものがある。
それぞれの時代の軍勢は、単に兵たちや、輜重(武器、食料)を担う人々の集団ではなかった。それらの軍勢の後には、人買い・武器買いを行う行商人や、春をひさぐ女郎などが必ず付いて回った。
無論大勢の兵たちの性処理をするほど女郎の数は存在せず、必然別の対象が必要となる。そんな中、表立って推奨とはされないものの男色はごく自然に行われる行為であった。当然、将だけが例外であるはずもない。
ある時代には戦場に女性を引き連れることがなかったわけではない。平安時代、木曽義仲の一隊として小部隊を率いた巴御前、武田晴信の側室でありながら赤備えの一隊を率いた禰津御寮人(ねづごりょうにん)、成田氏長の娘で女武者と呼ばれた甲斐姫など、信ぴょう性に疑問符が多少あるものの、いくつかの事例があるのは確かだ。
上述したように、敵兵味方兵を問わず兵たちは女に目がない。将の女に手を出せば死罪を免れぬ味方の兵はともかく、敵方の兵たちには遠慮などあろうはずもない。そんな中、女が戦場に現れた、というだけで戦場には戦況を動かす明らかな力学が働く。女武者は戦場におけるある意味有効な戦力として、戦術にしっかりと組み込まれていたのだった。
だが、それらの女性の役目として性処理もあったかといえば、それは考えにくい。そもそも女性は妊娠すれば身重になるので、士気を上げるどころかむしろ足手まといになるからだ。
もっと厄介なことは女性には生理があることだ。医学の発達した現代では、何を当然のことをと考えるかもしれないが、問題は『血』だ。
この時代、血は穢れの対象で触れれば呪われると考えられており、忌み嫌われるものだった。現代とは異なり迷信が生活習慣に深く組み込まれていたこの時代では、血を流す者、血に触れる職業を生業とする者は総じて粗雑な扱いを受けていた。
兵や将たちは、普段戦場でいやというほど血を見させられているので、可能な限り穢れの元凶である血は誰もが目にしたくなかった。その点、男なら血も流さないし、身重にもならず、性処理ができる。さらにいざとなったら太刀をもって戦うこともできる。男色は全てが好都合なのだった。
この時代の女性においても、夫に別の女ができれば、夜叉の面をつけるがごとく嫉妬の炎を燃え滾らせることもあるだろう。さらに万一、夫と他の女の間に子ができるようなことがあれば、当然耐え難い苦痛を感じるはずだ。
その点、性欲を向ける相手が男であれば、夫との間に子をなすことはなく、自分のライバルになる関係にはなりえず苦笑して済ますほかはない。つまり、女の立場に立ってみても、男色をはっきりとは推奨はしないものの、黙認せざるを得ない事情があるということになる。
さて、話を義輝と糸千代丸の件に戻そう。
義輝に抱き留められた糸千代丸はドギマギしながら、慌てて口を開いた。
「う、上様、このようなことをしている暇はございますまい。もはや生き延びること叶いませぬが、少なくとも三好勢に一泡吹かせる手立てを思案しなければ……」
義輝は自身の腕の中で小さく震えながら自分を見つめる糸千代丸の幼い顔立ちを見つめると、小さくため息をついた。
「そうじゃな……一人三百殺は無理でも一人十殺くらいまでには持ち込みたいところじゃ」
「はい」
義輝は糸千代丸の体から離れて立ち上がると、糸千代丸に背を向けて話しかけた。
「糸、武器蔵より武具を持ちだし、ここに持ってまいれ」
「はい……何を持ち込みましょうや?」
「全てじゃ」
「全て? 宗近(三日月宗近)や光世(大典太光世)もですか?」
「そうじゃ、全てじゃ。早ういたせ。戦が終わってしまうではないか」
そう言って義輝は笑いながら軽口をたたいた。糸千代丸はそれを聞いてすぐさま立ち上がると、虎丸と龍丸、その他小者たちを引き連れ、足早に武器蔵へ向かった。