二十年前。
その日、月は祝祭に包まれていた。
月施政千年。
第三次世界大戦によって地球文明が崩壊し、人類がその生活圏を宇宙へ移してから千年。月を新たな政治の中心として築かれた社会にとって、その日は長い歴史の節目となる記念日だった。
月中央都市の大広場には、朝から絶え間なく人が流れ込んでいた。
政府の紋章を掲げた白い旗が人工大気の緩やかな風に揺れ、その頭上では王立宇宙軍の儀礼艇が整然と編隊を組んでいる。五機の艇が翼端灯を規則正しく明滅させながら低速で広場上空を通過するたび、数万の観衆から大きな歓声が上がった。
子供を肩車した父親が空を指さし、正装した士族たちが談笑する。遠方のセクターから、この日のためだけに月を訪れた者も少なくない。
誰もが千年という時間の重さより、自分が歴史的な祝典に立ち会っているという高揚に酔っていた。
広場中央には巨大な式典壇が設けられていた。
その最上段、白銀の天蓋の下に女王が座している。
まだ若い。
だが、背筋は真っ直ぐに伸び、数万人の視線を受けても表情を崩さない。
胸元には、歴代の女王が代々受け継いできた首飾りがあった。
祝典用の照明がその石の表面を撫でるたび、奥深くで何かが微かに瞬いたようにも見えた。
やがて楽団の演奏が止んだ。
余韻だけが広場の上を漂い、それも静かに消えていく。
数万人のざわめきまでが、波が引くように収まった。
「月施政千年という記念すべきこの日に、人類の新たなる可能性を、皆様にお披露目いたします」
司会官の声が広場全体へ響いた。
壇上後方にそびえる巨大な隔壁。その中央へ縦に一本の光が走り、次の瞬間、腹の底まで震わせるような低い駆動音とともに左右へ開き始める。
その向こうには暗闇しか見えなかった。
観客たちが身を乗り出す。
やがて暗闇の中から、硬質な金属音が聞こえた。
一度。
また一度。
何かが、こちらへ歩いてくる。
最初に姿を現したのは、白い人型機械だった。
その後ろから青、赤、緑、黄色。
五体。
全高、およそ四メートル。
広場の空気が一瞬だけ止まり、次の瞬間には爆発するような歓声に包まれた。
「なんだ、あれ!」
「人が乗ってるのか?」
「新型の作業機だろ?」
「いや、軍用じゃないのか?」
五機が式典壇へ歩み出る。
一歩踏み出すたび、床材を通して低い振動が観客席まで伝わってきた。
だが、その動きは奇妙なほど滑らかだった。
四メートルの巨体。
厚い装甲。
金属製の関節。
それなのに、肩は歩調に合わせて揺れ、腰が自然に回り、膝は着地の衝撃を柔らかく受け止めている。片脚を出せば反対側の腕が振られ、その一連の動きに重機特有のぎこちなさがない。
まるで、巨大な人間が歩いている。
観客のあちこちから感嘆の声が漏れた。
式典壇から少し離れた観覧区画に、一人の若い男が立っていた。
二十五歳。
王立中央大学大学院で博士号を取得し、その後わずかな期間で複数の革新的技術を王立宇宙軍と月政府にもたらした天才技術者。
そして、今そこに並ぶ五体の試作機を設計した中心人物でもあった。
周囲の人間が一斉に拍手する中、彼だけは手を叩かなかった。
ただ、五機の動きを目で追っている。
MD-001。
白。
MD-002。
青。
MD-003。
赤。
MD-004。
緑。
そして、MD-005。
黄色。
五機が予定された停止位置へ寸分違わず並んだ。
その瞬間、若い技術者の口角がほんの僅かに上がった。
成功を喜ぶ笑みというより、長い時間をかけて確かめたかった何かを、ようやく自分の目で確認した者の表情だった。
だが、その小さな変化に気づく者はいなかった。
五機は同時に右腕を上げた。
歓声が上がる。
腕を下ろし、続けて一歩前へ。
司会官が説明を続ける。
次世代汎用人型機。
宇宙開発。
危険環境下での作業。
災害救助。
そして将来的には、人類の活動領域そのものを拡張する存在になるという。
観衆は再び湧いた。
その頃、制御室では一人の技術者が端末へ顔を近づけていた。
「……ん?」
表示された波形が、予定された範囲を越えて上昇している。
「MD-002、同期値上昇」
隣の技術者が振り向いた。
「予定値は?」
「超えています」
「操縦者へ確認」
通信回線が開かれる。
「MD-002、応答せよ」
返ってきたのは僅かなノイズだけだった。
「MD-002、聞こえるか」
その時だった。
広場に立つ青い機体――MD-002の頭部が、ゆっくりと動いた。
左右を見たのではない。
その視線は、真っ直ぐ女王席へ向けられていた。
制御室の空気が変わる。
直後、別の端末から警告音が鳴った。
「MD-005にも異常値!」
黄色いMD-005の右手が、小刻みに震えていた。
まるで寒さに震える人間の指先のように。
「二機とも停止させろ!」
「停止命令、送信!」
「反応ありません!」
「強制遮断!」
「受け付けません!」
制御室に声が飛び交う。
その間にもMD-002が一歩前へ出た。
ゴン、と重い足音が式典壇へ響く。
観客席から笑い声が起きた。
新しい演出だと思った者もいた。
青い機体がさらに一歩進む。
その瞬間。
黄色いMD-005が顔を上げた。
そして、走った。
誰も反応できなかった。
四メートルの巨体が床を蹴り、黄色い残像となって観客席へ飛び込む。
ドン――――。
腹の底まで震わせる衝撃音とともに、最前列の座席がまとめて宙へ舞った。
人が飛んだ。
男も。
女も。
つい先ほどまで父親の肩の上で旗を振っていた子供も。
何が起きたのか理解するより先に鉄骨が折れ、椅子が砕け、悲鳴が広場を切り裂いた。
「逃げろ!」
「何だ!」
「子供が――!」
「誰か! 誰か来て!」
数万人が一斉に動いた。
出口へ。
通路へ。
ただ、この場所から逃れるために。
一人が転んだ。
その後ろの人間が躓き、さらに後ろから押し寄せた群衆が折り重なる。
「押すな!」
「立て! 早く!」
「待って! まだ子供が!」
声は届かない。
倒れた者へ手を伸ばした男自身が人波に呑まれた。
脱げた靴が床を転がり、祝典の記念旗が無数の足に踏み潰される。
泣き叫ぶ子供の腕を母親が強く引き、そのすぐ横を額から血を流した男がよろめきながら走っていった。
MD-005が観客席へもう一歩踏み込む。
巨大な足が座席の列へ落ち、金属も樹脂も床材もまとめて押し潰した。
その下に何があったのか、もう誰にも見えなかった。
「五号機、完全に制御不能!」
「操縦者は!」
「応答なし!」
「緊急停止!」
「無理です!」
制御室では赤い警告灯が明滅し、画面を異常値が埋め尽くしていた。
通信。
制御。
強制遮断。
何を試しても反応しない。
一人の技術者が何度も同じ操作を繰り返す。
「切れろ……切れろ!」
表示は変わらなかった。
その時、別の警報が鳴る。
「二号機!」
青いMD-002が走り出していた。
黄色とは違う方向。
一直線に女王席へ。
「二号機、女王席へ向かっています!」
王立宇宙軍の警護兵が前へ出る。
銃口が一斉に揃った。
「止まれ!」
当然、止まらない。
「撃て!」
乾いた銃声が連続する。
弾丸が青い胸部、肩、頭部装甲を叩き、火花がいくつも散った。
一発の跳弾が式典壇の柱へ食い込み、装飾材を弾け飛ばす。
警護兵が反射的に顔を庇った。
それでもMD-002は速度を落とさない。
二十メートル。
十五。
女王の側近たちが一斉に立ち上がった。
「陛下!」
「こちらへ!」
女王は座ったままだった。
逃げようともしない。
ただ、迫ってくる青い機体を見つめている。
その胸元で、首飾りが小さく揺れた。
石の奥から、ほんの一瞬だけ光が滲んだように見えた。
MD-002の頭部が僅かに傾く。
まるで、その光を見たかのように。
十二メートル。
十。
八。
「間に合わない!」
その時、赤い機体が横から飛び込んだ。
MD-003。
赤と青の巨体が激突し、絡み合ったまま式典壇の床を砕きながら転がった。
床材の破片が弾丸のように飛び、一人の側近が反射的に女王の前へ身を投げ出す。
「三号機!?」
「誰が動かした!」
制御室では誰も答えられなかった。
「命令は出していません!」
MD-002が起き上がろうとする。
MD-003が身体を押しつけて止める。
青い腕が振られ、赤い機体の肩装甲が砕けた。
それでもMD-003は離れない。
「一号機も動きます!」
白いMD-001が走った。
青の背後へ回り込み、その片腕を掴んで捻り上げる。
MD-003も反対側の腕を拘束する。
三機の脚が床を削り、金属が軋んだ。
それでも青い機体は女王へ向かおうとしていた。
片腕を伸ばす。
指が開く。
あと数メートル。
一方、観客席ではMD-005が再び腕を振り上げていた。
その真下には、逃げ遅れた人々がいる。
足を負傷し、立ち上がれない男。
その男を必死に引き起こそうとしている女。
二人へしがみつき、泣き続ける子供。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
だが、もう間に合わない。
黄色い腕が振り下ろされる。
その寸前、緑の巨体が横から飛びついた。
MD-004。
二機がもつれたまま床へ倒れる。
黄色い拳は狙いを外し、三人のすぐ横の床材を粉砕した。
衝撃に煽られて三人の身体が転がる。
だが、生きていた。
「四号機!?」
「四号機も命令を受けていません!」
「じゃあ誰が動かしている!」
誰も答えられない。
MD-005は緑の機体を振りほどこうとした。
黄色い拳がMD-004の胸部へ叩き込まれる。
鈍い金属音とともに装甲が大きくへこんだ。
さらにもう一撃。
金属が悲鳴のような音を上げる。
それでもMD-004は離れなかった。
背後から腕を回して黄色い両腕を封じ、脚を掛けて重心を崩す。
次の瞬間、MD-005の巨体が地面へ叩きつけられた。
そこにはもう、祝典の歓声など残っていなかった。
救護員が走る。
「担架!」
「こっちだ!」
「まだ息がある!」
「止血しろ!」
「この子を先に!」
誰かが誰かの名前を叫び続けている。
返事はない。
別の場所では、白い服を血で染めた女性が座り込み、動かなくなった男の肩を何度も揺すっていた。
「ねえ……起きて」
「もう大丈夫だから」
「終わったから……」
男は動かなかった。
悲鳴。
泣き声。
救護員の怒鳴り声。
警報。
銃声。
金属同士がぶつかる音。
そのすべてが広場の中で混ざり合っていた。
五体の機械。
二体が人間を襲い、三体がそれを止めている。
命令など、誰も出していない。
それなのに五機それぞれが、自分で何をすべきか決めているように見えた。
やがてMD-005の動きが止まった。
MD-004がその背中を押さえ込んでいる。
MD-002もMD-001とMD-003に両腕を封じられた。
それでも青い右手だけは、なお女王へ向かって伸びていた。
その指先の向こうで、女王はまだ座っていた。
広場を覆っていた白い床は、もう白くなかった。
血の跡。
砕けた座席。
片方だけの靴。
折れた杖。
潰れた記念旗。
子供用の小さな帽子。
持ち主を失った荷物。
祝典のために用意されたものと、そこへ来た人々が残したものが、区別もつかないまま惨劇の中へ散らばっている。
担架が行き交い、まだ動ける者が動けない者を運ぶ。
泣きながら家族を探す者。
負傷者の前で膝をつく者。
立ったまま、ただ呆然と周囲を見ている者。
その頭上では、月施政千年を祝う巨大な表示だけが、何も知らないように光り続けていた。
観覧区画。
若い技術者は五機を見ていた。
先ほどまで浮かんでいた僅かな笑みは、もう消えている。
だが、彼は叫ばなかった。
駆け寄ろうともしない。
顔を青ざめさせることさえなかった。
ただ、五機を見ていた。
MD-002。
MD-005。
そして、それを止めたMD-001、MD-003、MD-004。
その瞳に浮かんでいたものが驚愕だったのか、恐怖だったのか。
あるいは、まったく別の何かだったのか。
誰にも分からなかった。
その日のうちに、式典の全映像は月政府によって封鎖された。
翌日、政府声明が発表された。
次世代汎用人型機試作機二機に重大な制御系障害が発生。
多数の死傷者。
残る三機によって暴走機を停止。
開発計画は即時凍結。
原因究明後、五体すべての試作機を廃棄。
研究関係者についても処分を行う。
発表されたのは、それだけだった。
昨日まで名前を持っていた死者も。
家族を失った者も。
負傷して病院へ運ばれた者も。
政府の声明では、ただ――多数の死傷者、その一言にまとめられた。
なぜMD-002は女王へ向かったのか。
なぜMD-005は観客を襲ったのか。
なぜMD-001、MD-003、MD-004は、命令もないまま二機を止めたのか。
誰が、何を五体へ命じていたのか。
それとも。
そもそも誰も命じてなどいなかったのか。
答えが公表されることはなかった。
人々はやがて、その惨劇をこう呼ぶようになった。
――血の日曜日。
関係者は処分された。
五体の試作機も廃棄された。
そう報じられた。
それから二十年。
五体を設計した若き天才技術者の姿を見た者はいない。
生きているのか。
死んだのか。
それすら、誰も知らなかった。