翌朝。
イムサ・マーセウスは、ほとんど眠っていなかった。
眠ったと思えば、暗い画面の向こうから兄の声が聞こえた。
――月へ戻るな。
目を開けても、その言葉だけが耳の奥に残っている。
マリアが目を覚ました時には、イムサはすでに軍服を着ていた。窓のない宿舎では朝も夜も照明でしか分からない。それでも生活用照明の淡い光の中で見る夫の顔が、ひどく疲れていることくらいは分かった。
「早いね」
「ああ」
「寝た?」
「少し」
「嘘」
イムサは襟元を整えながら苦笑する。
「最近そればかりだな」
「あなたが嘘ばっかりつくから」
マリアはベッドの端へ座ったまま、しばらく夫を見る。
「何かあった?」
イムサの手が止まった。
「兄上から連絡があった」
「お兄さん?」
「ああ」
「珍しいね」
「……月へ戻るな、と言われた」
マリアの表情が変わった。
「それだけ?」
「それだけだ」
「理由は?」
「言わなかった」
「もう一度連絡した?」
「繋がらない」
「ご両親は?」
「これから確認する」
イムサは卓上端末を開いた。
月。
マーセウス家。
父。
呼び出し音が数回続く。
接続不能。
母。
同じ。
「通信障害?」
「月全体ならニュースになる」
「じゃあ……」
「分からん」
次に開いたのは、兄の勤務先だった。
月中央行政院。
職員照会。
氏名を入力する。
検索。
数秒。
表示された文字を見て。
イムサの指が止まった。
――該当者なし。
「……何だ?」
「どうしたの」
もう一度。
今度は姓名を一文字ずつ確認しながら入力する。
結果は同じ。
――該当者なし。
「兄上の職員記録が消えてる」
「そんなことあるの?」
「退職しても記録は残る」
「じゃあ……」
「分からない」
今日だけで何度この言葉を口にしただろう。
分からない。
知らない。
説明できない。
月政府の軍人として、最も嫌ってきた言葉ばかりが増えていく。
イムサは端末を閉じた。
「行ってくる」
「どこへ?」
「司令部」
「月へは?」
扉へ向かった足が止まる。
背中越しに答えた。
「まだ行かない」
*
火星方面軍司令部。
「延期?」
ロウ・ガルディア大尉が聞き返した。
「ああ」
「理由は」
「火星方面軍管区内の治安状況が不安定」
「嘘ではないですね」
「嘘ではない」
「でも、本当の理由でもない」
イムサが横目で睨む。
「お前まで妻みたいなことを言うな」
「奥様が正しいんじゃないですか」
「余計だ」
端末に文面を打ち込む。
――現地情勢を鑑み、出頭期日を三十日延期されたし。
送信。
「これで反応を見る」
「拒否されたら?」
「その時考える」
返答が来たのは。
四分後だった。
着信音に二人とも画面を見る。
「……早いですね」
「ああ」
――延期を認めない。
――指定期日までに必ず出頭すること。
それだけ。
ロウが椅子の背へ身体を預けた。
「読んでませんね」
「読んでる」
「四分ですよ」
「読んだ上で却下したんだ」
「どっちにしても嫌ですね」
イムサは回答を見つめた。
異様に短い。
再検討した形跡も現地情勢を確認した気配もない。
「ロウ」
「はい」
「俺が月へ戻った場合、ここの指揮は誰に移る」
「副司令官です」
「その後は」
「中央から新しい司令官が来るでしょう」
「どれくらいで」
「早ければ二週間」
「準備が良ければ?」
ロウの表情が変わった。
「……もっと早い」
イムサは端末を閉じた。
「調べろ」
「何を」
「後任人事」
「まだ更迭されてませんよ」
「だから調べる」
ロウは僅かに笑った。
「了解」
昼過ぎ答えは出た。
「いました」
ロウが端末を机へ置く。
表示。
王立宇宙軍。
アルバート・レイン准将。
現在、月本国勤務。
異動予定――火星方面軍。
着任予定日――十二日後。
イムサは無言で数字を見る。
「俺の出頭期限は」
「十日後です」
「……二日後に着任か」
「偶然ですかね」
「偶然なら出来すぎてる」
ロウがゆっくり息を吐いた。
「つまり」
一拍。
「……もう後任は決まってる」
ロウの言葉が、妙に静かに響いた。
イムサは椅子へ腰を下ろした。
怒りは不思議なほど湧いてこなかった。
むしろ胸の奥にあった霧が、少しずつ晴れていく。
第十一採掘区。
オーパーツ。
無許可侵入。
自分へだけ反応した黒い構造物。
四十一・六。
処分なし。
兄からの警告。
消えた職員記録。
そして自分がまだ火星方面軍司令部にいるうちから決められていた後任。
「最初から……」
イムサが呟く。
「俺を戻すつもりだったんだ」
ロウは答えない。
「出頭させてから決めるんじゃない」
イムサは画面の中の着任日を見つめた。
「もう決めたあとで、俺を呼んでる」
「そう見えますね」
「……何のために」
自分でも分かっている。
更迭。
拘束。
査問。
それとももっと別の何か。
オーパーツが自分へ示した反応。
あれを月政府は知っている。
知らないはずがない。
「ロウ」
「はい」
「このことは、まだ誰にも言うな」
「副司令官にも?」
「ああ」
「了解」
ロウは一度端末を閉じる。
そして。
「で」
「何だ」
「行くんですか」
またその質問だった。
イムサは答えなかった。
*
夕方。
私用端末に短い通信が入った。
発信者。
パウロ・エンダース。
――会えるか。
三度目の旧水処理施設。
日が落ちた火星の空の下、施設は巨大な鉄骨の影となって沈んでいた。
内部には、もう水の流れる音すらない。
配管。
錆びた制御盤。
止まったポンプ。
ところどころに残る非常灯だけが、古い床を淡く照らしている。
パウロは以前と同じ場所にいた。
「ここ好きだな、お前」
「人が来ない」
「俺たちが来てる」
「例外だ」
「家賃も安いしな」
「覚えてたか」
「くだらんことは覚えてる」
パウロが少し笑う。
だが今日は一人だった。
「月へ行くのか」
「その話か」
「ああ」
「行くと言っただろ」
「昨日まではな」
イムサが眉を寄せる。
「何を知ってる」
「何も」
「またそれか」
「ただ」
パウロは懐から端末を取り出した。
投げるイムサが受け取る。
「見ろ」
貨物輸送記録。
月発。
火星行き。
「軍輸送?」
「珍しくないだろ」
「珍しくない」
指で項目を送る。
兵員。
治安維持部隊。
二個中隊。
装甲車両。
弾薬。
拘束用装備。
そこで指が止まった。
「……拘束具」
「気になるか」
「治安維持なら持っていても不自然じゃない」
「そうだな」
「到着は」
「そこ」
日付を見る。
九日後。
イムサの出頭期限。
その前日。
しばらく何も言えなかった。
「誰から手に入れた」
「企業秘密」
「犯罪組織が言う言葉か」
「革命家だ」
「まだ革命してないだろ」
「細かいな」
パウロは肩をすくめた。
イムサは端末を返す。
「治安維持部隊が来るだけだ」
「そうだな」
「火星解放戦線対策かもしれない」
「そうかもな」
「何が言いたい」
「何も」
「お前な」
パウロは端末を受け取りながら、イムサを見る。
「俺が言わなくても、もう分かってるだろ」
沈黙。
「後任も決まってるんじゃないか」
イムサの目が鋭くなる。
「それも知ってるのか」
「火星は狭いって言っただろ」
「情報漏洩がひどすぎる」
「違う」
パウロの声から軽さが消えた。
「月が火星を雑に扱いすぎてるんだよ」
一歩。
近づく。
「隠したつもりで隠せてない」
「……」
「火星の人間を、どうせ何も知らないと思ってる」
イムサは黙ったままパウロを見る。
「お前が月へ行ったあと」
パウロが言う。
「俺たちは潰される」
「そう決まったわけじゃない」
「じゃあ、あの兵隊は何だ」
「治安維持だ」
「誰の治安だ」
言葉が止まった。
「火星で働いてる人間を守るためか?」
「……」
「それとも」
パウロの声が低くなる。
「火星で声を上げ始めた人間を黙らせるためか」
「煽るな」
「煽ってない」
「同じだ」
「じゃあ現実を見ろ」
声が初めて少しだけ強くなった。
「月はもう動いてる」
イムサは反論できなかった。
それが一番腹立たしかった。
「イムサ」
「何だ」
「お前はまだ選べる」
「何を」
「帰るか」
一拍。
「残るか」
それだけ。
パウロはそれ以上何も言わなかった。
*
宿舎へ戻ると。
料理の匂いがした。
マリアが小さな調理器の前に立っている。
「今日は早いね」
「ああ」
イムサは上着を脱ぐ。
「何か分かった?」
背中を向けたまま。
一瞬迷う。
「兄上は、まだ連絡がつかない」
「そう……」
「それと」
言葉を選ぶ。
「俺の後任が決まってた」
マリアが振り返る。
「後任?」
「ああ」
「でも、あなたまだ――」
「辞めてもいないし、更迭もされてない」
マリアの顔が変わる。
「いつ来るの」
「十二日後」
「あなたが月へ行くのは」
「十日後」
火を止める。
小さな加熱音が消えた。
部屋が急に静かになる。
「じゃあ」
マリアが言う。
「戻ったら、もう火星には帰れない?」
「たぶんな」
「……また、たぶん」
「今度はかなり確率の高い“たぶん”だ」
「笑えない」
「ああ」
マリアは椅子へ座った。
「どうするの」
答えられない。
「私のことは考えなくていいよ」
「無理だ」
「じゃあ考えて」
「どっちだ」
「でも」
マリアの声が少し強くなる。
「私を理由にしないで」
イムサが顔を上げる。
「あなたが月へ戻りたいなら戻ればいい」
「……」
「火星に残りたいなら残ればいい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
マリアの目に僅かに怒りが滲む。
「仕事も辞めた」
イムサは黙る。
「家も置いてきた」
「……」
「親にも、友達にも、しばらく会えない」
「分かってる」
「分かってない」
その言葉が胸へ刺さる。
「それでも来たの」
マリアは続ける。
「あなたが火星に来てほしいって言ったから」
「……」
「何があるのかも、ほとんど教えてくれないのに」
「悪かった」
「謝ってほしいんじゃない」
マリアは少しだけ息を整える。
「私も自分で決めたの」
イムサを見る。
「だから」
ゆっくり。
「あなたも、自分で決めて」
それ以上何も言えなかった。
*
その夜。
イムサは一人。
居住区外縁の展望区画にいた。
透明隔壁の向こう。
赤い大地が広がっている。
夜の火星。
遠くに採掘施設の灯り。
地平線近くで、作業車両の光がゆっくり移動していく。
三年前。
ここへ来たばかりの頃。
こんな場所には何もないと思っていた。
不便で。
古く。
月から遠い。
早く任期を終えて帰りたい。
それだけだった。
一年後地下で黒いものを見つけた。
そこから何かがずれ始めた。
月政府。
消された記録。
足りない薬。
壊れたままの救助車両。
削られ続ける生活予算。
増え続ける採掘設備。
死んだ人間。
名前。
顔。
声。
気がつけば覚えていた。
火星で暮らす人間たちを。
「帰る場所は……」
イムサは呟く。
月なのか。
火星なのか。
そもそも帰るとは何なのか。
端末が震えた。
中央政府。
再度の出頭命令。
開く。
文面は前より短い。
――命令拒否の場合、軍法に基づき処分する。
イムサは長い間。
その文字を見ていた。
以前なら即座に返信しただろう。
理由を尋ね。
異議を申し立て。
正規の手続きを求めた。
だが今は指が別の場所へ動いた。
削除。
確認表示。
一瞬止まる。
そして押した。
通知が消える。
返信はしなかった。
透明隔壁の向こう赤い大地は何も変わらず暗闇の中に広がっていた。