イムサ・マーセウスは、自分の呼吸がいつもより浅いことに気づいていた。
息を吸う。
吐く。
それだけの動作を意識しなければならないほど、身体が強張っている。
宇宙戦そのものが初めてというわけではない。火星圏で起きた小規模な衝突なら、これまでにも何度か経験していた。
敵影を捕捉し、MDを出す。
小型艇同士が射撃を交わす。
軌道施設を挟んで睨み合う。
その程度なら知っている。
だが、今日は違う。
火星軍四隻。
王立宇宙軍七隻。
複数の宇宙戦艦が陣形を組み、互いの進路を真正面から塞ぐ。
中規模とはいえ、これほどの艦艇が一つの意思の下で動き、正面から激突する戦闘は人類史上初めてだった。
イムサだけではない。
艦橋にいる誰も経験したことがない。
そしてそれは今こちらへ向かっている王立宇宙軍の士官たちも、同じだった。
誰も正解を知らない。
千年分の軍事記録を探しても、同じ戦場は存在しない。
過去の戦術書は地上の海戦や、まだ人類が地球にいた時代の航空戦についてなら多くを語ってくれる。
だが、真空の宇宙を互いに秒速何キロもの相対速度で突っ込んでいく艦隊戦については、何も教えてくれなかった。
「敵艦隊との接触予測、三分二十秒」
航法士の声が静かな艦橋を横切った。
イムサは無意識に唾を飲み込んだ。
三分二十秒。
日常なら短い時間だ。
湯を沸かすにも足りない。
だが今は、異様なほど長く感じる。
艦橋正面の大型スクリーンには、黒い宇宙が広がっていた。
無数の星。
そのどれもが静止して見える。
何も起きていないように見えた。
だが、その星々の向こうから七隻の王立宇宙軍艦艇が高速でこちらへ向かっている。
こちらも同じだ。
互いが互いへ落ちていくように、距離だけが猛烈な勢いで消えている。
火星軍四隻は、鋒矢の陣。
先頭艦を頂点に、後方の三隻がその背後へ広がる。
対する王立宇宙軍七隻は雁行の陣。
斜めに艦をずらしながら、こちらの突破口を潰そうとしている。
単純な数なら、圧倒的に不利だった。
七対四。
正面から殴り合えば負ける。
だから殴り合わない。
イムサはもう一度、頭の中で作戦をなぞった。
目的は敵艦隊の撃滅ではない。
突破する。
ただ、それだけだ。
防衛線を抜けた先には、生産コロニーがある。
火星軍にとって、今後も戦争を続けるためにどうしても必要な場所。
この四隻のうち、一隻でも多く向こう側へ抜ければいい。
敵を沈める必要すらない。
一方、王立宇宙軍はそうはいかない。
火星艦隊を通過させれば、追うために速度を殺さなければならない。
宇宙では艦首を後ろへ向けたからといって、すぐに引き返せるわけではない。
向きを変えても、船体はそれまでの慣性のまま進み続ける。
巨大な宇宙戦艦ともなれば、なおさらだった。
その時間差こそが、火星軍に残された唯一の勝機だった。
「全艦、陣形維持」
イムサは言った。
口から出た声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。
「予定通り一点突破する。敵艦撃沈に固執するな。目的は生産拠点の確保だ」
「了解」
通信士が各艦へ命令を送る。
その横顔を見ながら、イムサは自分の掌をそっと握った。
汗ばんでいる。
周囲には気づかれたくなかった。
この作戦を強く推した人間の一人が、自分だった。
ここで怯えた顔を見せるわけにはいかない。
自分の命令一つで、数百人がこれから死ぬかもしれない。
その事実だけは、どうしても頭から消えてくれなかった。
「二分」
艦橋の空気が変わった。
それまで小さく聞こえていた端末操作の音まで、妙に大きく感じられる。
誰も余計なことを喋らない。
「一分三十秒」
火器管制士の指が端末上を滑る。
「主砲、射撃解算出開始」
「敵艦隊、雁行陣形を維持」
「先頭艦、識別完了」
スクリーン上に光点が現れた。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
さらに増える。
七つ。
肉眼なら星と区別できないほど小さい。
だが、コンピュータにとっては星ではない。
質量がある。
熱がある。
加速している。
こちらを殺すために近づいてくる。
「一分」
誰かが浅く息を吐いた。
イムサはそちらを見なかった。
自分だって同じだ。
「全砲門、第一目標へ集中」
「了解。第一目標、敵中央寄り三番艦」
雁行陣形の中央より僅かに左。
そこを崩す。
たった一隻でも陣形から押し出せれば、鋒矢の先端をそこへねじ込める。
「三十秒」
スクリーンの光点が急速に膨らんでいく。
もう星ではない。
輪郭らしきものが現れ始める。
「二十」
「主砲、最終照準」
イムサは舌で乾いた唇を湿らせた。
「十五」
時間だけが規則正しく減っていく。
心臓は逆に速くなる。
「十」
光点が艦影へ変わった。
「九」
七隻。
「八」
王立宇宙軍。
見えた。
その瞬間、イムサは奇妙な感覚を覚えた。
あまりにも近い。
そして、あまりにも速い。
長い時間をかけて待ち構えていたはずなのに、実際に敵艦を視認できる時間はほとんど残されていなかった。
「七」
ここから先は、人間の反応速度では間に合わない。
「六」
火器管制コンピュータが射撃許可を要求する。
端末上で許可表示が点滅した。
イムサはそれを見た。
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
火星に残してきた妻の顔が浮かんだ。
ここで死ねば、もう会えない。
同時に、自分の命令を待つ艦内の兵士たちの存在を思った。
怖いのは自分だけではない。
だからこそ。
自分が言わなければならない。
「撃て」
閃光が走った。
音はない。
主砲から放たれたビームが、漆黒の宇宙を一直線に裂く。
ほぼ同時に、正面からも光が走った。
一本ではない。
何本もの光線が、星空を切り刻むように伸びてくる。
「敵、発砲!」
報告が終わるより先に、艦全体が大きく揺れた。
身体が座席へ押しつけられる。
照明が一瞬暗くなった。
「被弾!」
「左舷装甲損傷!」
「二番艦、直撃!」
スクリーンの一角で、味方艦から白いものが噴き出した。
爆発ではない。
ビームに焼かれた装甲が蒸発し、開いた破孔から艦内の空気が宇宙へ吹き出している。
その白い霧が、一瞬で細長く引き伸ばされた。
「二番艦、戦列維持!」
通信の向こうから叫び声が飛ぶ。
生きている。
まだ戦える。
次の閃光。
「敵三番艦、命中!」
狙っていた王立宇宙軍艦の船体が大きく傾いた。
姿勢制御用の噴射が何度も瞬く。
そこへ。
火星艦隊の先頭艦が突っ込んでいく。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
王立宇宙軍の巨大な船体が、正面スクリーンいっぱいまで膨れ上がった。
艦体表面の装甲板。
砲塔。
センサー群。
それらが見えたと思った次の瞬間には、全てが視界の横へ流れていく。
近い。
近すぎる。
イムサは反射的に身体を硬くした。
衝突する。
そう思った。
だが、敵艦は猛烈な速度で窓の向こうを横切り、そのまま後方へ消えた。
「通過!」
声が響く。
次の敵艦。
その次。
閃光。
装甲を掠めるビーム。
船体を震わせる衝撃。
そして。
静寂。
数秒後には、王立宇宙軍艦隊はすべて後方へ消えていた。
イムサは一瞬、何が起きたのか分からなかった。
あれほど恐れていた艦隊戦が。
もう終わった。
待っていた時間よりも遥かに短い。
ほんの数秒。
その数秒で、人が死に、艦が壊れ、戦況が変わった。
「全艦、状況報告!」
我に返ったように声を上げる。
「一番艦、損傷軽微!」
「二番艦、中破! 推進系生存!」
「三番艦、通信断!」
「四番艦、航行可能!」
三番艦。
イムサの胸の奥が冷えた。
「確認しろ」
「呼びかけています。応答ありません」
返事がない。
それが何を意味するのか。
考える時間すら与えられなかった。
「敵艦隊、回頭開始を確認!」
「いや、違います」
航法士が画面を見ながら即座に訂正する。
「艦首をこちらへ向けていますが、速度ベクトルはまだ反対方向。追撃態勢へ移るまで時間がかかります」
イムサは頷いた。
想定通りだった。
大型艦はすぐには戻れない。
そのために、この作戦を選んだ。
ならば。
次だ。
「MD発進準備!」
イムサの命令が艦橋へ響いた。
後方へすれ違っていった王立宇宙軍艦隊でも、ほぼ同時に同じ判断が下されていた。
大型艦は、すぐには戻れない。
だが、MDなら違う。
全高約四メートル。
宇宙戦艦とは比較にならないほど小さく、軽い。推進剤さえ惜しまなければ、速度を殺し、姿勢を反転させ、短時間で進路そのものを変えられる。
艦内格納区画では、赤い火星軍MDの固定具が次々と解除されていた。
狭いコックピットの中で、搭乗員たちは半ば立ったような姿勢で身体を固定している。
正面モニターには、発進口の向こうに広がる漆黒の宇宙。
その奥には、先ほどすれ違った王立宇宙軍がいる。
「一番機、エントリー!」
発進担当員が拳を振り上げた。
MDが、ゆっくりと背中から倒れる。
飛び出すのではない。
まるで船縁から海へ入る潜水夫のように、その巨体が発進口から宇宙へ滑り落ちていく。
艦体を離れた瞬間、上下という感覚が消えた。
星空が反転する。
『LIMS起動』
パイロットが上半身を捻る。
それに応じてMDの右腕が大きく開き、左脚が引かれた。
四肢の質量が生み出す慣性。
その反作用を利用して、機体が滑らかに回転を始める。
LIMS――四肢慣性機動システム。
最後に背部スラスターが短く瞬き、姿勢が固定された。
「二番機、エントリー!」
続いて三番。
四番。
赤い人型が次々と宇宙へ放たれていく。
カタパルトは必要ない。
むしろ、無駄な初速を与える方が危険だった。
戦術表示を睨んでいたイムサの視界に、後方から新たな光点が増えていく。
王立宇宙軍のMD。
緑色の機体群。
大型艦で追いつけないなら、小型機を出してくる。
それも想定していた。
「MD隊を二分する」
イムサは言った。
「第一、第二隊は反転。敵MDを迎撃して足止めしろ」
「第三、第四隊は?」
「そのままコロニーへ」
通信士が振り返る。
「敵を無視して?」
「ああ」
イムサは正面スクリーンの奥を見た。
まだ肉眼では何も見えない。
だが、その先に生産コロニーがある。
火星がこの先も戦争を続けるために、どうしても必要な場所。
「我々の目的は、この戦闘に勝つことじゃない」
艦橋の視線が集まる。
「今日の戦いを生き延びるための工場を手に入れることだ」
命令が伝達された。
戦術表示上で、火星軍MDの光点が二つに分かれる。
半数はそのまま前へ。
残る半数は、後ろへ向き直った。
「第一、第二隊、反転開始!」
赤いMD群が一斉に四肢を動かす。
右腕を振る。
左脚を引き、腰を捻る。
機体そのものはなおコロニー方向へ飛び続けながら、姿勢だけが百八十度回転していく。
頭部が、後方を向いた。
しかし、まだ前へ進んでいる。
『逆噴射!』
背部と脚部スラスターが一斉に光る。
速度が落ちる。
その脇を、第三、第四隊が通過していった。
彼らは振り返らない。
迎撃隊が何人戻れるかも分からない。
それでも前だけを見る。
彼らを行かせること。
それが残った者たちの役目だった。
『敵MD、十二』
『こちら八』
短い沈黙のあと、第一隊長が通信へ割り込んだ。
『数えるな』
低い声だった。
『仕事だけ考えろ。一機でも攻略隊へ近づけるな』
『了解』
敵との距離が急速に縮まっていく。
肉眼ではまだ小さな点。
だが照準装置には、それぞれが一機の兵器として表示されている。
距離。
速度。
加速度。
予測進路。
『射程まで五秒』
五。
火星軍MDが散開する。
四。
三。
二。
一。
光が走った。
『来る!』
王立宇宙軍が先に撃った。
携行式ビーム砲。
一機の火星軍MDが右腕を大きく振り、同時に左脚を跳ね上げる。
機体が横倒しになる。
次の瞬間、それまで頭部があった空間を光線が貫いた。
スラスターは使っていない。
LIMSだけで射線を外している。
そのまま腰を捻る。
右脚を伸ばす。
連続する四肢の動きに合わせ、機体がさらに回る。
照準器の中央へ、緑の敵機が入った。
「もらった!」
引き金。
光。
王立軍MDの肩が消えた。
装甲が砕けたのではない。
高熱によって一瞬で蒸発し、片腕が機体から離れていく。
王立軍機が激しく回転を始めた。
残った腕と両脚が動く。
LIMSが姿勢を戻そうとしている。
だが、一度崩れた回転を止めきれない。
『一機撃破!』
『撃破確認するな! 次を見ろ!』
第一隊長の怒声。
その直後だった。
別の火星軍機の胸を光が貫いた。
通信が唐突に途切れる。
『六番機!』
返事はない。
胸部に穴を開けたMDは、それまでの速度を保ったまま宇宙を滑っていく。
腕も脚も、もう動かない。
『見るな!』
隊長が怒鳴った。
『次が来るぞ!』
二機の王立軍MDが、一機の火星軍機を左右から挟む。
赤い機体が両脚を大きく開き、両腕を左右へ振った。
機体の軸がずれる。
一発目を回避。
二発目が左脚を掠めた。
警告表示。
『左膝駆動、出力低下』
「まだ動く!」
パイロットが叫ぶ。
右脚を畳み、左腕を伸ばす。
LIMSが残った四肢の質量配分を瞬時に再計算する。
まともに動く四肢は三本。
それでも姿勢は作れる。
人間ならあり得ない動きだった。
だがMDは、人間の姿をしていても人間ではない。
搭乗者の身体動作を読み取り、機体側が最適な運動へ置き換える。
右腕が振り抜かれる。
胴体が回る。
敵機が視界を横切った。
「くそっ!」
発射。
外れた。
緑のMDが即座に銃口を返す。
近い。
今度は避けられない。
そう思った瞬間、横から別の赤い機体が突っ込んだ。
二機が激突する。
王立軍機の照準が逸れた。
『借り一つだ』
「生きて帰ったら返す!」
『帰れたらな』
通信に短い笑いが混じった。
ほんの一瞬だった。
それ以上、誰も笑わなかった。
開戦から数カ月。
MD搭乗員の生還率は四十八パーセント。
二度出撃すれば、一度は帰ってこない。
数字として報告書で読めば、ただの統計だ。
戦場では違う。
ついさっきまで冗談を言っていた声が突然消える。
返事がなくなる。
戦術表示から光点が一つ消える。
それだけだった。
だから兵士たちは、いつしかこの機械を正式名称では呼ばなくなっていた。
MD。
Murder Doll。
人殺しの人形。
敵を殺すからそう呼ばれるのか。
それとも、乗っている人間まで殺すからなのか。
もはや誰も、その違いを気にしてはいなかった。
艦橋でイムサは戦術表示を凝視していた。
迎撃隊の光点が減っていく。
王立軍側も減っている。
数字だけを見れば互角。
だが、互角では意味がない。
「攻略隊との距離は」
「コロニーまで、あと八分」
「敵MDは?」
「迎撃隊が押さえています。ただ……」
通信士が言葉を濁した。
「言え」
「長くは持ちません」
分かっていた。
彼らに勝てとは命じていない。
時間を買えと命じた。
八分。
たった八分。
だが、その八分のために何人死ぬ。
イムサは喉の奥に湧いたものを飲み込んだ。
考えるな。
ここで工場を取れなければ、もっと多くが死ぬ。
火星にはもう余裕がない。
「第一、第二隊へ繋げ」
回線が開く。
イムサは一瞬、言葉を探した。
励ますべきか。
必ず迎えに行くと言うべきか。
全員帰れると約束すべきか。
どれも嘘だった。
「あと八分だ」
それだけを言った。
雑音。
しばらくして返事が来る。
『了解』
そして、少し笑うような声。
『八分なら、安いもんだ』
回線が切れた。
その直後。
戦術表示から火星軍MDを示す光点が一つ、静かに消えた。
イムサはそれを見ていた。
何も言えなかった。
*
コロニーまで、あと三分。
第三、第四隊は減速を始めていた。
星空の中に、巨大な円筒構造物が徐々に輪郭を現していく。
生産コロニー。
兵器、艦艇部品、推進剤、電子機器、MD交換部品。
戦争を続けるために必要なものが、そこにはあった。
王立宇宙軍にとっても重要な施設だ。
だからこそ、外から砲撃することはできない。
火星軍を倒すために工場そのものを吹き飛ばしてしまえば、守る意味がなくなる。
コロニーまで辿り着けば、大規模な砲撃戦にはならない。
それがイムサの読みだった。
「コロニー側からの砲撃は?」
「ありません」
「迎撃機は」
「確認できません」
イムサは細く息を吐いた。
ここまでは読み通り。
「攻略隊へ。施設への射撃は禁止。武装解除を要求しろ。抵抗がなければ、守備兵の生命は保証する」
「了解」
赤いMD群がコロニー外壁へ近づく。
資材輸送船用の大型搬入口。
誘導灯だけが規則正しく明滅している。
「ハッチ閉鎖」
「当然だ」
「どうします?」
「強制開放。爆薬は使うな」
一機のMDが保守用パネルへ取りつく。
作業端子を接続。
数秒後。
警告灯が赤から黄色へ変わった。
巨大な扉が、ゆっくりと開いていく。
『第三隊、侵入開始』
赤いMDが一機ずつ内部へ滑り込む。
資材コンテナ、大型クレーン、固定された作業機械。
広大な搬入区画には、人影がなかった。
『静かすぎますね』
若い声が通信に乗る。
『喋るな』
隊長が即座に返した。
外部ハッチが閉じる。
気密処理。
やがて空気が満たされる。
イムサは戦術表示を見つめていた。
攻略隊、侵入成功。
あと少し。
「待て」
通信士が顔を上げた。
「何だ」
「内部に動体反応」
イムサの眉が僅かに動く。
「人間か?」
「違います」
表示が拡大される。
三つの熱源。
大きさ。
動作パターン。
「MDです」
艦橋の空気が再び張り詰めた。
三機。
守備隊。
可能性は当然考えていた。
「再度、降伏勧告」
「送ります」
数秒後。
男の声が返ってきた。
『当施設は月政府ならびに王立宇宙軍の管理下にある。火星反乱軍に告ぐ。ただちに武装を解除し、投降せよ』
イムサは僅かに目を閉じた。
そう来るか。
自ら回線へ入る。
「こちらは施設を破壊する意思はない。目的は生産設備の確保だ。抵抗しなければ、人員の安全は保証する」
短い沈黙。
『ならば帰れ』
「それはできない」
『こちらも同じだ』
通信は切れた。
イムサはしばらく何も言わなかった。
敵も工場を壊したくない。
だから戦わない。
そこまでは正しかった。
だが、壊したくないことと、譲り渡すことは別だ。
『接敵!』
今度は音がした。
コロニー内部には空気がある。
乾いた衝撃音が通信越しに響く。
『撃つな! 設備に当たる!』
『分かってる!』
火星軍MDが資材コンテナの陰へ滑り込む。
通路の向こうから緑の王立軍MDが現れた。
手にしているのはビーム砲ではない。
短い棒状の武器。
刃が震える。
高周波ブレード。
『来る!』
緑の機体が床を蹴った。
速い。
二機の距離が一瞬で消える。
振り下ろされた刃を、赤い機体が腕で受けた。
金属と金属がぶつかり、火花が散った。
『くっ!』
押される。
機体同士の距離はほとんどゼロ。
火星軍機が相手の肘関節を掴む。
捻る。
王立軍機も腰を落とし、重心をずらす。
殴る。
掴む。
投げる。
四メートルの機械同士が、人間の格闘と同じように絡み合う。
緑の膝が赤い腹部へ入った。
鈍い音。
火星軍機が一歩下がる。
『下がるな! 後ろに旋盤がある!』
『見えてる!』
機体が横へ逃げる。
敵の追撃を受け、そのまま手首を掴んで引く。
相手の姿勢が崩れたところで脚を払った。
緑の巨体が床へ倒れる。
だが、撃たない。
撃てない。
銃弾やビーム一本で、工場の中枢設備を壊す可能性がある。
倒れた敵機が赤い機体の足首を掴む。
『しつこい!』
一度、二度と蹴る。
関節部から嫌な音がした。
緑の右腕が動かなくなる。
火星軍機がその腕を踏みつけた。
『動くな!』
別区画。
緑色の警告灯が明滅する中、二機がコンテナの間を走っていた。
王立軍機が突然、作業用クレーンのアームを掴む。
『おい――』
巨大な鉄骨が横薙ぎに振り回された。
『そんなもん使うのかよ!』
火星軍機が身を沈める。
鉄骨が頭上を通過し、背後のコンテナへ激突した。
内容物が床へ飛び散る。
『設備壊してんの、そっちじゃねえか!』
返事の代わりに二撃目。
今度は火星軍機が両腕で受け止めた。
床材が軋む。
そのままクレーンアームを掴み返す。
『返すぞ!』
一気に引く。
王立軍機が前へよろめいた。
火星軍機は一歩踏み込み、肩から体当たりする。
緑の巨体が壁へ叩きつけられ、装甲が歪んだ。
『二番区画、敵一機行動不能!』
「殺す必要はない」
イムサが通信へ割り込んだ。
「動けなくすればいい。施設の確保を優先しろ」
『了解!』
直後。
別の表示が赤く点滅する。
「第三隊、一機損傷!」
「搭乗員は?」
「生存。機体は行動不能」
イムサは強く拳を握った。
生きている。
まだ。
『こちら第四隊。敵守備隊最後の一機を確認』
映像が切り替わる。
生産ライン中央。
巨大な製造設備を背に、王立軍MDが一機立っている。
対する火星軍MDは三機。
互いに武器を下げない。
『これ以上やれば、本当に工場を壊すぞ』
火星軍の隊長が言った。
『お前たちも、それは望んでないはずだ』
長い沈黙。
やがて緑の機体の腕がゆっくりと下がった。
高周波ブレードが床へ落ちる。
金属音が静かな生産区画へ響いた。
『……投降する』
その瞬間、艦橋のあちこちで、押し殺していた呼吸が漏れた。
イムサも一瞬だけ椅子へ背を預けた。
「施設管制室を確保。発電、生命維持、生産ラインを最優先」
「了解」
「兵士も民間人も、拘束以上のことはするな」
「了解」
「工場技術者には、可能な限りそのまま仕事を続けてもらう」
通信士が少し驚いた顔をした。
「捕虜に働かせるのですか」
「違う」
イムサは答えた。
「ここはもう、我々が使う工場だ」
口にした瞬間。
胸の奥に、小さな引っかかりが生まれた。
我々が使う。
数時間前まで、ここは月政府の施設だった。
そこへ軍隊で押し入り、武力で奪った。
火星を守るため。
独立を生き延びさせるため。
必要だった。
そう思っている。
だが、侵略する側も同じことを言うのではないか。
イムサはその考えを胸の奥へ押し込めた。
今は考える時ではない。
「生産設備の稼働状況を確認」
「はい」
「使えるものは、すべて使う」
そして戦術表示へ目を戻す。
後方。
迎撃隊の光点はさらに減っていた。
工場は取った。
だが、そのために支払った代償はまだ分からない。
「迎撃隊へ撤退命令」
「しかし、敵MDが――」
「目的は達成した」
イムサは即答した。
「もう一人も無駄に死なせるな」
命令が送られる。
数秒後。
『第一隊、了解』
雑音。
『聞いたか、お前ら。帰るぞ』
誰かが、力なく笑う。
『帰るって、どこにです?』
少し間があった。
『今日からは、あのコロニーだ』
通信の向こうで短い笑い声が重なった。
イムサは正面スクリーンを見た。
巨大な人工の大地が、星空の中に浮かんでいる。
作戦は成功した。
火星軍は初めて、自分たちの領域の外に拠点を持った。
そして同時に。
この日、彼らは初めて。
守るためではなく、奪うために戦った。
*
生産コロニー制圧から三時間が過ぎていた。
銃声は、もう聞こえない。
破損した隔壁には応急処置が施され、停止していた生産ラインにも少しずつ電力が戻り始めている。
王立宇宙軍の兵士たちは武装を解除され、一か所へ集められていた。
民間技術者には必要以上の拘束を行わない。
設備復旧に協力する者は、そのまま持ち場へ戻す。
イムサがそう命じた。
この場所を壊すために来たのではない。
使うために来たのだ。
臨時司令室となった管制室で、イムサは一人、戦果報告を待っていた。
勝った。
作戦目的は達成した。
主要設備の大半は無事。
推進剤精製設備。
MD補修ライン。
艦艇部品製造設備。
火星は、これでもう少し戦える。
その事実だけなら。
喜ぶべきだった。
扉が開いた。
「最終報告です」
副官が端末を抱えて入ってくる。
イムサは椅子に座ったまま手を差し出しかけ、途中で止めた。
「読め」
「は?」
「そっちで読んでくれ」
副官は一瞬だけ躊躇し、端末へ目を落とした。
「艦艇損害。一番艦、軽微。二番艦、中破。四番艦、小破」
一拍。
「三番艦は……喪失を確認しました」
イムサは何も言わなかった。
「生存者は?」
「脱出艇二隻を回収。現在確認されている生存者は二十九名です」
「乗員は」
「百四十二名」
指先が僅かに動いた。
それだけだった。
「続けろ」
「はい。MD部隊、出撃二十四機。帰還可能機、十三」
十一機。
「搭乗員死亡九名。重傷二名。軽傷六名。コロニー内部制圧戦、死者一名。負傷者四名」
イムサは副官を見た。
「……合計は」
副官が黙る。
「言え」
「現時点で確認された戦死者、百二十六名」
その数字だけが、管制室に残った。
百二十六。
イムサは頭の中で繰り返す。
作戦成功。
生産拠点確保。
百二十六名死亡。
何をもって勝利というのか。
「王立軍側は」
「推定ですが、艦艇一隻大破、一隻中破。MD損失八機。人的被害は不明です」
「そうか」
イムサはようやく端末を受け取った。
数字が並んでいる。
艦番号。
機体番号。
損傷率。
死亡。
行方不明。
治療中。
だが、その一つ一つに名前がある。
家族がいる。
昨日まで食事をし、笑い、眠っていた人間がいる。
「作戦は成功です」
副官が言った。
イムサは画面から目を離さなかった。
「そうだな」
「火星本国も、この結果なら――」
「成功だ」
先ほどより少しだけ強く言った。
「……勝ったんだ、俺たちは」
口にした。
だが、その言葉は自分自身を納得させるためのものにしか聞こえなかった。
副官が退室する。
一人になる。
大窓の向こうでは兵士たちが忙しく動いている。
右腕を失ったMD。
頭部を失ったMD。
胸部装甲の焼け焦げたMD。
その脇を、白い袋が運ばれていく。
一つ。
少し間を空けて、また一つ。
イムサは目を逸らさなかった。
逸らしてはいけないと思った。
自分が始めた戦争だ。
少なくとも、始める側に立った人間の一人だった。
火星で暮らす者たちを、月の支配から解放する。
そのために必要な戦争だった。
そう信じている。
今も。
だが。
必要な死というものが、本当にあるのだろうか。
百二十六人。
火星の未来のために死んだ。
そう言えば聞こえはいい。
だが、死んだ本人にとって未来とは何だ。
死者には明日がない。
家族のもとへ帰る日もない。
戦争が終わった時に見るはずだった火星の景色もない。
端末が鳴った。
火星本国からの通信。
発信者の名前を確認したイムサの表情が、僅かに緩んだ。
パウロ・エンダース。
イムサは回線を開いた。
『イムサ』
「……パウロか」
『ああ。聞いたぞ。やったな』
形式ばった祝辞ではなかった。
いつものパウロの声だった。
そのことが、今のイムサには少しだけ有り難かった。
「まあな」
『コロニーは?』
「取ったよ」
『設備は生きてるか』
「七割以上。推進剤も、MDの補修ラインも、艦艇部品も使える。思ったより残ってる」
『上出来じゃないか』
「ああ」
短く答えた。
パウロが黙った。
『……どうした』
「何が」
『お前、勝った時の声じゃないぞ』
イムサは窓の外へ目を向けた。
ちょうど白い袋が一つ、視界を横切っていく。
「百二十六」
『ん?』
「死んだ人数だよ」
通信の向こうが静かになった。
「今のところ、百二十六人」
『……そうか』
「ああ」
イムサは椅子へ深く身体を預けた。
「俺が、あと八分だって言ったんだ」
『イムサ』
「八分だけ持たせろって。工場を取れば、もっと多くが助かるって思った。今でも判断は間違ってなかったと思う」
少し息を吐く。
「でもさ」
それ以上が、なかなか続かなかった。
「数字で見ると……なんか違うな」
パウロは急かさなかった。
『後悔してるのか』
「分からん」
イムサは苦く笑った。
「後悔していいのかも分からんよ。俺がそこで後悔したら、死んだ連中に失礼な気もするし」
『そんなことはない』
「そうかな」
『ああ』
少し間があった。
『俺たちは、勝つために始めたんじゃない』
「……分かってる」
『生きるためだ。火星が、この先も自分たちで選んで生きるために始めた』
「分かってるって」
イムサの声が少し強くなる。
だが怒っているわけではない。
自分に言い聞かせるような響きだった。
「だから工場を取った。取らなきゃいけなかった。それは分かってる」
『なら、それでいい』
「簡単に言うなよ」
『簡単じゃないから、俺が言ってる』
イムサは黙った。
パウロらしい。
そう思った。
『こっちはすぐ補給計画を組む。工場を止めるな。MDの補充を最優先にして、その次が艦艇修理部品。推進剤も必要になる』
「……またMDか」
『ああ』
窓の向こうでは、損傷した赤いMDが牽引されていた。
片腕がない。
その奥には、新しいMDを作る生産ラインがある。
壊れたら作る。
死んだら補充する。
それが戦争なのだろう。
「パウロ」
『何だ』
「俺たち、ちゃんと終わらせられるよな」
通信の向こうで、しばらく返事がなかった。
『終わらせる』
パウロは静かに言った。
『そのために始めたんだ』
「……そうだったな」
『今日は休めとは言わん。どうせ休まないだろ』
「よく分かってるじゃないか」
『付き合いが長いからな』
ほんの僅かに。
イムサの口元が緩んだ。
『また連絡する』
「ああ」
『イムサ』
「ん?」
『よくやった』
今度の言葉には、先ほどとは違う重さがあった。
イムサはすぐには答えなかった。
「……ありがとな」
通信が切れた。
静けさが戻る。
大きな一歩。
確かにそうだ。
この工場を手に入れたことで、火星軍は長期戦を続けられる。
月政府も、もう火星を短期間で押し潰すことはできない。
戦争の形が変わった。
ならば。
百二十六人の死には意味があった。
そう思わなければならない。
そうでなければ、自分は何のために彼らをここへ連れてきた。
イムサは端末を閉じた。
椅子から立ち上がる。
「……勝たなきゃな」
今度は、ほんの少しだけ違う響きだった。
もう独立を宣言した。
もう人は死んでいる。
もう後戻りはできない。
この戦争に負ければ。
今日死んだ百二十六人は、ただ死んだだけになる。
だから勝つ。
そして。
終わらせる。
イムサは窓の向こうへ目を向けた。
星々の遥か彼方に、月がある。
そして、そのさらに向こう。
人類が「不浄の地」と呼ぶ、青い星があった。
この時のイムサは、まだ知らなかった。
火星で自分が発見した、あの異質な人工物。
それと酷似したものが、その「不浄の地」にも存在していたことを。