MOTOR DRIVER   作:宗詩

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第二話

 三年前。

 火星は、赤くなかった。

 少なくとも、イムサ・マーセウスが幼い頃から映像で見てきたような、鮮烈な赤い星ではなかった。

 灰色。

 茶色。

 そこへ、ところどころ濁った赤が混じっている。

 輸送船の観測窓いっぱいに広がる大地は乾ききり、色を失った巨大な傷痕のようにも見えた。

 遠くには砂塵が薄い膜となって漂い、その向こうで山脈の輪郭がぼやけている。

「……これが火星か」

 思わず口から漏れた。

 火星への赴任命令を受けて以来、資料なら嫌というほど読んだ。

 テラフォーミング進行率、大気組成、平均気温、居住可能区域、資源埋蔵量、人口、生産量、死亡率。

 数字としてなら知っている。

 だが、数字と実物は違った。

 地表の大部分は、いまだ人間が生身で歩ける場所ではない。

 荒野の中に点在する巨大なドーム群。

 地面を縫うように伸びる輸送路。

 無骨な資源採掘施設。

 そして、その周囲を黒い虫のように動く作業車両。

 それだけが、この死んだような大地に人間がいることを証明していた。

『着陸シークエンスに入ります。乗客の皆様は――』

 船内放送が流れる。

 イムサは座席の背もたれへ深く身体を預けた。

 月を出てから長かった。

 その間ずっと、考えていた。

 なぜ自分なのか。

 イムサ・マーセウス。

 マーセウス家は貴族ではある。

 だが、名門と呼ばれるほどではない。

 女王家との血縁も遠い。

 議会に席はある。

 意見を述べることもできる。

 ただし、その言葉が誰かの耳まで届くかは別の話だった。

 月では家名が人間の価値を決める。

 少なくとも、政治の世界ではそうだった。

 女王との血が近い。

 古い家柄である。

 王立宇宙軍へ何人もの将官を送り出している。

 それだけで、同じ内容の言葉であっても重さが変わる。

 若い頃は馬鹿げていると思った。

 歳を重ねるほど、それが単なる慣習ではなく、社会そのものを支える骨格なのだと思い知らされた。

 だからこそ。

 火星赴任。

 どう考えても、栄転には思えなかった。

「左遷、だよな」

 小さく呟く。

 隣の席の男が一瞬こちらを見る。

 イムサは気づかないふりをして、再び窓へ目を向けた。

 火星が迫っていた。

 第三次世界大戦終結から、およそ千年。

 人類は地球を捨てた。

 公式の歴史では、そう教えられている。

 戦争によって地球環境は致命的な損傷を受け、人類は月と宇宙空間へ生活圏を移した。

 月を政治の中心とし、その周囲、地球と月の重力が均衡する五つのラグランジュ宙域に無数のコロニーが築かれた。

 人工の大地。

 人工の空。

 人工の海。

 人々はそこで生まれ、育ち、死んでいく。

 地球を窓越しに眺めることはあっても、降りることはない。

 あそこは『不浄の地』だ。

 それが常識だった。

 イムサ自身、それを疑ったことなど一度もない。

 月政府。

 五つのセクター。

 王立宇宙軍。

 それこそが、人類社会だった。

 そして今。

 その人類は、さらに外へ広がろうとしている。

 火星。

 次なる生活圏。

 次なる大地。

 月ではそう宣伝されていた。

 だが。

 眼下に広がる景色を見る限り、大地と呼ぶには、まだあまりにも早い。

 機体が震えた。

 着陸脚が地表施設へ接触した短い衝撃が座席を通して腰に伝わり、やがてエンジン音が低く沈んでいく。

『火星中央宇宙港へ到着しました』

 イムサは立ち上がった。

 気圧調整区画を抜ける。

 エアロック。

 その先。

 初めて踏み出した火星の床は、金属だった。

 当然だ。

 ここはまだ外ではない。

 巨大なドーム都市の内部。

 低く絶え間なく続く空調音。

 影の少ない人工照明。

 管理された温度。

 月の都市と大して変わらない。

 だが。

 匂いが違った。

 金属。

 油。

 土。

 それに、わずかに湿ったような臭い。

 月ではあまり嗅ぐことのない、生々しい生活の匂いだった。

「マーセウス卿でしょうか」

 声を掛けられ、振り返る。

 制服姿の男が立っていた。

 三十代後半。

 日に焼けたような肌。

 王立宇宙軍、火星方面軍所属。

 階級章は大尉。

「そうだ」

「お迎えに上がりました。火星方面軍、第六管理部所属、ロウ・ガルディア大尉です」

「よろしく頼む」

「こちらこそ」

 差し出された手を握る。

 硬い。

 掌には皮膚の厚くなった部分がいくつもあった。

 机の前に座って報告書だけを読んでいる人間の手ではない。

「車を用意しています」

「基地までは遠いのか?」

「二十分ほどです」

「近いな」

 ロウが少しだけ笑った。

「道路が空いていれば、です」

 宇宙港を出る。

 透明な強化ガラスの向こうに、火星の外界が広がった。

 砂塵が地面を這っている。

 遠くでは採掘施設の塔が空へ突き出し、巨大な配管が地表を横切っていた。

 荒涼としている。

 なのに、そこかしこに機械が動いている。

「思っていたより……」

 言葉が止まった。

「酷いですか?」

 ロウが先に言った。

「いや」

「皆、最初はそう言います」

 二人は車へ乗り込んだ。

 自動運転ではない。

 ロウ自身がハンドルを握る。

「自動運転じゃないのか?」

「砂嵐の時は、こっちの方が信用できます」

「なるほど」

 車が走り出した。

 窓の外には、防護服を着た作業員たちが見える。

 荷物を抱え。

 重機を誘導し。

 赤茶けた砂の上を忙しなく歩いている。

「火星のテラフォーミングは、計画ではかなり進んでいるはずだが」

「計画上は、ですね」

 ロウは前を見たまま答えた。

「実際には?」

「人間が普通に暮らせるようになるまで、まだ相当かかります」

「報告書では――」

「報告書は月向けですから」

 イムサが横を向いた。

 ロウは何でもないことのように言った。

 その口調が、かえって引っかかった。

「どういう意味だ」

「そのうち分かります」

 それ以上、ロウは言わなかった。

 道路の横を、巨大な貨物列車が並走している。

 長い。

 車両が何十両あるのか、最後尾が見えない。

「何を運んでいる?」

「精製鉱物です」

「月へ?」

「大部分は」

「種類は」

「鉄、チタン、マグネシウム、シリコン。水資源もあります。推進剤用の原料も」

「かなりの量だな」

「火星が止まると、宇宙側も困ります」

 ロウが笑った。

 だが、その笑みは薄かった。

 自慢している人間の笑い方ではない。

「そんなに重要なら、もっと開発予算を回してもいいだろう」

「皆、そう思っています」

「議会には要望を?」

「毎年」

「なら――」

「毎年、却下されています」

 イムサは口を閉じた。

 車窓の向こうを貨物列車が走り続けている。

 資源を満載して。

 火星から。

 月へ。

「理由は?」

「優先順位だそうです」

「何の」

「火星より重要なものが、月にはたくさんあるのでしょう」

 少し刺のある言葉だった。

 火星は重要な開拓地。

 次なる人類の生活圏。

 月政府はそう宣伝している。

 にもかかわらず。

 予算は来ない。

 資源だけは出ていく。

 車が居住区へ入った。

 建物は低い。

 どれも同じような灰色。

 月の都市にあるような意匠も装飾もなく、気密と強度だけを優先して組み上げたような外観だった。

 だが、その間を子供たちが走っている。

 作業服姿の男が買い物袋を提げている。

 若い母親が幼児の手を引いて歩いている。

 生活があった。

「ここに何人いる?」

「この居住区だけで約三万人」

「そんなに?」

「火星全体なら、もっとです」

 数字なら知っていた。

 赴任資料にも書いてあった。

 だが。

 人間として見るのは初めてだった。

 顔がある。

 声がある。

 家族がいる。

 それぞれが今日を生きている。

 その時。

 道路脇にいた老人が、こちらを見た。

 車体には月政府の紋章。

 老人の目がその紋章へ落ちる。

 次の瞬間。

 老人は地面へ唾を吐いた。

 イムサの眉が動く。

「今のは」

「気にしないでください」

「月政府に対してか?」

「でしょうね」

「なぜ」

 ロウはしばらく答えなかった。

 窓の外の景色だけが流れていく。

「マーセウス卿」

「何だ」

「月では、火星のことを何と教わりました?」

「人類の次なる大地」

「そうですか」

「違うのか」

 信号で車が止まる。

 ロウが初めて正面からイムサを見た。

「ここで暮らしている連中は、そうは思っていません」

「では、何だと?」

 信号が変わる。

 ロウは前を向き、アクセルを踏んだ。

「鉱山ですよ」

 短い言葉だった。

 だが、妙に重かった。

「月の連中が見ているのは、俺たちじゃない」

 ロウは続けた。

「この地面の下だけです」

 イムサは何も言わなかった。

 反論しようと思えばできた。

 月にも事情がある。

 膨大な人口を維持するには資源が必要だ。

 開拓地が資源を供給するのは当然だ。

 だが。

 先ほど見た老人の目が残っていた。

 しばらく走ったところで、車は低い建物が密集する区画へ入った。

 壁面の一部に、赤い塗料で大きな文字が書かれている。

 上から塗り潰した跡があった。

 半分は消されている。

 それでも読めた。

 ――火星を火星人の手に。

 その下に、円を二つ重ねたような奇妙な印。

 イムサは目を細めた。

「落書きか?」

 ロウは答えない。

「大尉」

「火星解放戦線です」

 イムサは横を向いた。

「何だ、それは」

「月では聞きませんか」

「名前くらいは」

 嘘だった。

 正確には、報告書の隅に何度か名前を見た程度だった。

 反政府活動。

 施設破壊。

 扇動。

 違法集会。

 その程度の認識しかない。

「テロ組織だろう」

 ロウが一瞬黙った。

「月政府は、そう呼んでいます」

「違うのか?」

「私に聞かれても困ります」

「火星では何と呼ばれている」

「人によります」

 イムサは流れていく壁の文字を振り返った。

「指導者は」

「パウロ・エンダース」

 即答だった。

「有名なのか」

「少なくとも、この星では」

「なぜ捕まらない」

 ロウが小さく笑う。

「捕まえられるなら、とっくに捕まえています」

「軍は何をしている」

「捕まえる努力はしています」

「結果が出ていない」

「火星は広いですから」

 イムサは眉を寄せる。

「それだけか?」

 ロウは答えなかった。

 車内に沈黙が落ちる。

 火星解放戦線。

 パウロ・エンダース。

 この時のイムサにとって、それはさほど重要な名前ではなかった。

 月政府へ不満を持つ人間など、どこにでもいる。

 セクターにもいる。

 生活環境の厳しい火星なら、多少過激になるのだろう。

 その程度にしか考えていなかった。

 基地へ到着すると、すぐに着任手続きが始まった。

 書類。

 認証。

 権限移譲。

 担当区域。

 資源管理。

 テラフォーミング設備。

 採掘区画。

 次から次へと端末へ情報が流れ込む。

 数時間後。

 イムサは自分の執務室にいた。

 狭い。

 月で使っていた部屋の半分もない。

 窓もない。

 壁には端末。

 机。

 椅子。

 それだけだった。

「本当に左遷じゃないか」

 思わず笑った。

 誰もいない部屋で自分の声だけが妙に響いた。

 端末を起動する。

 最初に表示されたのは、火星方面軍から月政府へ提出された年間報告だった。

 資源採掘量。

 前年比一〇三・八パーセント。

 輸出量。

 前年比一〇五・二パーセント。

 労働人口。

 増加。

 事故件数。

 増加。

 死亡者。

 増加。

 イムサの指が止まった。

 死亡者。

 数字を開く。

 採掘事故。

 気密事故。

 設備故障。

 放射線障害。

 居住区疾病。

 前年比、一一八パーセント。

「……これで、採掘量を増やしたのか」

 独り言が、さっきより低くなった。

 別の資料を開く。

 月政府からの指示。

 次年度資源供給目標。

 さらに増産。

 イムサは椅子へ深く腰を落とした。

 ロウの言葉が蘇る。

 ――月の連中が見ているのは、俺たちじゃない。

 ――この地面の下だけです。

「大げさだ」

 誰に言うでもなく呟く。

 政府には政府の事情がある。

 五つのセクター。

 月。

 王立宇宙軍。

 膨大な人口を支えるには資源がいる。

 火星だけを特別扱いするわけにはいかない。

 数字には、数字の理由がある。

 そう思った。

 そう思おうとした。

 だが。

 画面の隅に表示された項目が目に入る。

 次年度テラフォーミング予算。

 削減。

 採掘設備投資。

 増額。

 指先が動かなくなった。

 二つの数字を見比べる。

 一度。

 もう一度。

 火星を人間の住める星にするための金は減る。

 火星から資源を掘り出すための金は増える。

 ロウの言葉を否定する材料が、見つからなかった。

    

 *

 

 翌朝。

 基地正門前に人だかりができていた。

「何だ」

 イムサが尋ねる。

「抗議活動です」

 警備兵が答えた。

「何に対して」

「採掘区画の拡張計画に」

「許可は」

「ありません」

 監視映像を開く。

 数十人。

 作業服の男。

 老人。

 女性。

 子供までいる。

 手作りの板を掲げている。

 ――これ以上、死人を出すな。

 ――水を火星へ。

 ――月へ送る前に、ここで生きさせろ。

 そして。

 群衆の後方。

 一枚だけ。

 昨日見たものと同じ印があった。

 火星解放戦線。

「排除しますか」

 警備兵が聞いた。

 イムサは映像を見つめる。

 昨日までなら。

 迷わなかったかもしれない。

 無許可の集会。

 軍施設前。

 解散命令。

 従わなければ排除。

 それで終わる。

 だが、映像に映る老人の手は震えていた。

 掲げた板を持つ腕に力がない。

 隣には小さな子供がいる。

 武装した反乱者には見えなかった。

「……まだいい」

「ですが」

「まず代表者を呼べ」

「代表者?」

「話を聞く」

 警備兵の顔に驚きが浮かぶ。

「何か?」

「いえ」

「呼んでくれ」

「了解しました」

 回線が切れる。

 イムサは椅子へ戻った。

 自分でも、なぜそんな命令を出したのか分からなかった。

 火星へ来て、まだ一日。

 何も知らない。

 だからこそ。

 少しくらい知ってから判断してもいい。

 その程度の気持ちだった。

 この時のイムサは。

 火星解放戦線の指導者、パウロ・エンダースと。

 やがて同じ旗の下へ立つことになるとは。

 もちろん。

 知るはずもなかった。

    

 *

 

 応接室へ通された男は、四十代半ばに見えた。

 痩せている。

 だが、弱々しさはない。

 作業服の袖を肘までまくり、日に焼けた腕には細かな傷がいくつも走っていた。

 爪の間には、洗っても落ちなかった黒い汚れが残っている。

 採掘現場の人間だ。

「名前は」

「ダリオ・フェルン」

「職業は」

「第三採掘区、保守班」

「抗議活動の代表者だな」

「そうです」

 男は椅子へ座らなかった。

「座っていい」

「立ったままで結構です」

「好きにしろ」

 イムサは机の上へ端末を置いた。

「要求を聞こう」

 ダリオの眉が僅かに動いた。

「聞くんですか」

「そのために呼んだ」

「いつもは追い返されます」

「俺は昨日来たばかりだ」

「だからですか」

「何が言いたい」

「まだ火星に慣れてない」

 挑発するような言い方ではなかった。

 ただ事実を述べている。

 それが余計に癇に障った。

「慣れたら話を聞かなくなる、と?」

「たいていは」

 イムサは顎の奥へ力を入れた。

「要求を言え」

「第三採掘区の拡張中止」

「理由は」

「安全基準を満たしていない」

「報告書では基準内だ」

「月へ出した報告書なら、そうでしょう」

 昨日と同じ言葉だった。

 イムサの表情が僅かに硬くなる。

「実際は違うのか」

「先月だけで七人死んでいます」

「事故報告は三件だ」

「死者三名、と書いてあるはずです」

「そうだ」

「残り四人は事故の三日後に死んだ」

 室内の空調音が急に大きくなったように感じた。

「気密破損で肺をやられた。放射線障害が二人。設備故障で潰されたのが一人」

「なぜ報告されていない」

「事故による直接死ではない、という扱いです」

「誰が決めた」

「管理局です」

 イムサは端末を開いた。

 第三採掘区。

 事故記録。

 死亡者。

 三名。

 その下に小さく。

 関連疾病。

 四名。

「……分類を分けたのか」

「数字を綺麗にするためです」

「証拠はあるのか」

 ダリオが笑った。

 初めてだった。

「証拠ですか」

「何がおかしい」

「ここじゃ、死体が証拠にならない」

 イムサは顔を上げた。

 ダリオの口元は笑っている。

 だが、目には何もなかった。

「月へ送る数字が優先される」

「そこまで言うなら、監査を入れる」

「何度も入りました」

「結果は」

「問題なし」

「なら――」

「監査する側も月の人間です」

 沈黙。

 イムサは反射的に言い返そうとした。

 だが、言葉が見つからなかった。

「次の要求は」

「水の供給量」

「不足しているのか」

「生活用水を削って、採掘設備へ回している」

「それも報告では」

「足りていることになってる」

 また同じだった。

 数字の上では問題がない。

 現実には問題がある。

 そして問題が数字になる前に、どこかで形を変えられている。

 イムサは端末を閉じた。

「火星解放戦線と関係があるのか」

 ダリオの目が僅かに細くなる。

「なぜ聞くんです」

「正門に印があった」

「勝手に持ってきた奴がいたんでしょう」

「お前は構成員か」

「違います」

「信用しろと?」

「しなくていいです」

「なら、なぜここへ来た」

「話を聞くと言ったから」

「それだけか」

「それだけです」

 イムサは椅子へ背を預けた。

「パウロ・エンダースという男を知っているか」

 ダリオはすぐには答えなかった。

「名前は」

「会ったことは」

「ありません」

「本当か」

「あなたは会ったことがあるんですか」

「質問しているのは俺だ」

「なら答えます。ありません」

 嘘かどうかは分からない。

 だが、少なくとも怯えてはいなかった。

「火星解放戦線をどう思う」

「必要だから生まれたんでしょう」

「テロも必要だと?」

「あなたたちは、何をテロと呼ぶんです」

「施設破壊。違法武装。政府職員への襲撃」

「じゃあ、月政府が俺たちの生活を壊すのは何て呼ぶんです」

 イムサの目つきが変わった。

「言葉を選べ」

「選んでます」

「ここが軍施設だということを忘れるな」

「忘れてません」

 ダリオは一歩も引かない。

 声を荒らげもしない。

 それがかえって重かった。

「だから来たんです」

「何」

「軍が月の命令を守るだけなのか、それともここに住んでいる人間を見るのか」

 イムサは何も言わなかった。

「マーセウス卿」

「何だ」

「あなたも火星に長くいるつもりはないでしょう」

 胸の奥を、小さく突かれた。

「何が言いたい」

「皆そうです」

「誰が」

「月から来る人間」

 ダリオの声は静かだった。

「二年、三年いれば帰る。だからこの星を良くする必要がない」

「決めつけるな」

「違いますか」

「俺は赴任したばかりだ」

「だから聞いてるんです」

 答えられなかった。

 火星へ来たのは命令だ。

 できることなら、早く月へ戻りたい。

 昨日までは。

 確かにそう思っていた。

「要求書を置いていけ」

 やがてイムサは言った。

 ダリオが初めて少し驚いた顔をする。

「読むんですか」

「読まないなら呼んでいない」

「……分かりました」

 端末へデータが送られる。

 採掘区画。

 事故記録。

 水供給。

 医療物資。

 居住区拡張。

 教育施設。

 指で画面を送っても、まだ続く。

「全部か」

「全部です」

「予算は限られている」

「知っています」

「なら、優先順位をつけろ」

 ダリオはイムサを見た。

「俺たちはもう、優先順位の一番下に千年いる」

 言葉が止まった。

 ダリオは一礼する。

「失礼します」

「待て」

 男が振り返った。

「火星解放戦線の連中に伝えろ」

「構成員じゃありません」

「なら、誰かから聞かれたら答えろ」

「何を」

「軍施設への攻撃は許さない」

「分かりました」

「だが」

 イムサは一度言葉を切った。

 自分がこれから何を口にするのか、確かめるように。

「話をする気があるなら、門前で爆弾を置く前に来い」

 ダリオがじっとイムサを見る。

「それ、本気で言ってます?」

「二度は言わない」

 男の口元が、ごく僅かに緩んだ。

「なら、そのうち誰か来るかもしれません」

 扉が閉じた。

 一人になった室内で、イムサはしばらく動かなかった。

 机の上には送られてきた要求書が残っている。

 一つずつ画面を下へ送る。

 どれも些細な話ではない。

 だが。

 全部を満たす金はない。

 火星方面軍の予算も限られている。

 月へ要求したところで。

 昨日見た資料を思い出せば、結果は分かっている。

 それでも。

 イムサは新しい申請書を開いた。

 第三採掘区、安全設備更新。

 医療予算増額。

 生活用水供給率の見直し。

 項目を入力する。

 送信。

 完了。

 画面に表示されたのは、それだけだった。

 これで何かが変わるとは、本人も思っていなかった。

 だが。

 何もしないよりはいい。

   

 *

 

 三週間後。

 返答が届いた。

 すべて却下。

 理由。

 予算不足。

 現行設備で対応可能。

 緊急性なし。

「緊急性なし……」

 声に出すと、その言葉の空虚さがいっそう際立った。

 先週。

 第三採掘区で、また一人死んでいた。

 十九歳。

 採掘機械の整備員。

 事故原因。

 老朽化した圧力弁。

 交換申請。

 半年前。

 却下。

 理由。

 継続使用可能。

 イムサは端末を閉じた。

 窓はない。

 目の前にあるのは灰色の壁だけだった。

 火星へ来て、まだ一年も経っていない。

 なのに。

 昨日まで遠くにあった月が。

 妙に近く。

 そして。

 妙に腹立たしく思えた。

     

 *

 

 それから数か月。

 イムサは火星の各地を回った。

 採掘場。

 水処理施設。

 テラフォーミング設備。

 居住区。

 病院。

 学校。

 資料だけを見るのをやめた。

 自分の足で歩き、自分の目で見るようにした。

 そこで知った。

 火星の人間は、月を嫌っている。

 全員ではない。

 だが、少なくない。

 理由も一つではない。

 父親を事故で失った者。

 水不足で子供を病気にした者。

 採掘量を増やすために居住区予算を削られた者。

 月へ行ったことなど一度もないのに、月政府へ税を納め続ける者。

 それでも。

 イムサはまだ、月政府を敵だとは思っていなかった。

 腐った役人がいる。

 制度に問題がある。

 現場が中央へ伝わっていない。

 ならば。

 直せばいい。

 自分には家名がある。

 小さいとはいえ、政治へ働きかける道はある。

 議会にも伝手がある。

 火星の現実を知らせればいい。

 まだ。

 そう信じていた。

 ある日。

 執務室へロウ・ガルディア大尉が入ってきた。

「何だ」

「少し厄介な話があります」

「火星解放戦線か」

「違います」

 ロウは端末を机へ置いた。

「採掘現場から報告です」

「事故か」

「いえ」

「では」

 ロウが、一拍置いた。

「出たそうです」

「何が」

「人工物です」

 イムサは眉を寄せた。

「地下から?」

「はい」

「旧採掘設備か何かだろう」

「違うらしいです」

「何が違う」

 ロウが画面を開く。

 一枚の画像。

 暗い坑道。

 削られた岩盤。

 その奥に。

 黒いものが埋まっていた。

 金属にも見える。

 石にも見える。

 だが。

 一目で分かる。

 自然物ではない。

 完全な直線。

 滑らかな曲面。

 人間の意図を思わせる形。

「何だ、これは」

「分かりません」

「年代測定は」

「不能」

「材質」

「不明」

「そんなことがあるか」

「あるから、こうして来ました」

 イムサは画像を拡大した。

 表面に何かが刻まれている。

 文字ではない。

 装飾とも思えない。

 幾何学的な線。

「誰が発見した」

「第十一採掘区」

「現場を封鎖しろ」

「すでに」

「人員は」

「最低限に絞っています」

 イムサは立ち上がった。

「車を用意しろ」

「今から?」

「今すぐだ」

「月への報告は」

 一瞬だけ迷った。

 普通なら即座に報告する。

 だが。

 画面の中の黒い物体から、どうしても目を離せなかった。

「現物を見てからにする」

 ロウが頷く。

「了解」

 この時。

 イムサ・マーセウスはまだ知らなかった。

 その発見が。

 自分を。

 火星を。

 そして月政府そのものを。

 二年後。

 戦争へ導くことになるとは。

     

 *

 

 第十一採掘区までは、車で二時間近くかかった。

 居住区を離れると、景色は急速に単調になった。

 赤茶けた大地。

 岩。

 砂。

 遠くに霞む山。

 その中を、採掘設備へ向かう輸送路だけが、地平線へ向かって真っ直ぐ伸びている。

 空は薄暗い橙色だった。

 砂塵が低く流れ、時折車体へ細かな砂粒が当たる。

 イムサは助手席から外を見ていた。

 車内にはロウ・ガルディア大尉と運転手。

 三人だけ。

「情報はどこまで漏れている」

「採掘班二十三名。それと現場監督」

「二十四人か」

「現在、全員を現場施設内に留めています」

「理由は何と?」

「新種の鉱物が見つかった可能性がある、と」

「信じているか?」

「半分くらいは」

「残りは」

「何か面倒なものを掘り当てたと思っているでしょう」

 イムサは鼻から息を吐いた。

「間違ってはいないな」

 画像が頭から離れない。

 あれは岩ではない。

 自然に生まれたものでもない。

「過去にあの区域で建造物があった記録は?」

「ありません」

「第三次世界大戦以前は」

「火星有人開発そのものが、まだ限定的だった時代です」

「無人探査機の残骸という可能性は」

「大きすぎます」

「そうだな」

 画像だけでも数メートルある。

 しかも、露出しているのは一部分にすぎない。

 地下にどこまで続いているのか。

「月へは」

 ロウが言う。

「まだ報告していないな?」

「マーセウス卿の指示通りです」

「現物を確認したら報告する」

「もし本物だったら?」

「本物とは?」

 ロウは少し考えた。

「人間が作ったものじゃなかったら」

 イムサが横を見る。

「随分飛躍したな」

「そうでしょうか」

「人工物なら人間が作った。それ以外に誰がいる」

「だからですよ」

「何が」

「誰が作ったのか分からないから、皆騒いでるんです」

 答えなかった。

 やがて荒野の中に人工物が見えてくる。

 第十一採掘区。

 低い施設棟。

 大型掘削設備。

 資材倉庫。

 そして岩盤へ潜り込むように開いた坑道。

 車が停止する。

 エアロックを抜け、防護服へ着替える。

 ヘルメットを被ると、自分の呼吸音が耳の近くで響いた。

「ここから先は加圧されていません」

 現場監督が説明した。

「発見地点まで?」

「地下六百メートルほどです」

「深いな」

「新しい鉱脈を追っていました」

 三人は昇降機へ乗り込んだ。

 扉が閉まる。

 下降が始まる。

 鈍い機械音。

 僅かな振動。

 高度表示の数字だけが減っていく。

 五百。

 四百。

 三百。

 イムサは、妙な感覚を覚えていた。

 火星へ来て一年。

 この星にも慣れたと思っていた。

 街を歩き。

 人と話し。

 現場を回った。

 だが今、自分はその火星の内部へ潜っている。

 六百メートル。

 人間がここへ来る遥か以前から、一度も太陽の光が届かなかった場所。

 扉が開いた。

 坑道。

 等間隔に並ぶ作業灯。

 岩肌が白い光に照らされ、先へ行くほど闇へ溶けている。

 足音が反響する。

 一歩ごとに、防護服の呼吸装置の音が重なる。

 やがて人の声が聞こえた。

 十数名の作業員。

 誰も作業をしていない。

 全員が、同じ方向を見ていた。

「道を開けろ」

 監督の声。

 人々が左右へ分かれる。

 そして。

 イムサはそれを見た。

 足が止まった。

「……何だ、これは」

 岩盤の中から。

 黒い物体が露出している。

 写真とは違った。

 大きい。

 高さだけで三メートル以上。

 横方向には岩の奥へさらに続いている。

 表面は黒。

 だが、金属特有の反射がない。

 むしろ作業灯の光そのものを吸い込んでいるように見えた。

 周囲の岩との境界が、不自然なほど鮮明だった。

 直線。

 曲面。

 規則的な溝。

 自然物ではない。

 それだけは、一目で分かった。

 空気のない坑道の中で。

 そこだけが、別の時代から切り取られて埋め込まれたように見えた。

「掘削機が当たったのか」

「はい」

 作業員の一人が答える。

「刃は?」

「欠けました」

「物体側は」

「傷一つありません」

 イムサは近づいた。

 一歩。

 もう一歩。

 目の前まで来ると、その黒はさらに奇妙だった。

 距離感が掴みにくい。

 表面があるはずなのに、視線が奥へ吸い込まれるような錯覚を覚える。

 手を伸ばしかける。

「触らない方が」

 ロウの声。

「分かっている」

 指先を止めた。

 理由もなく。

 触れてはいけない。

 そんな感覚が一瞬だけ胸をよぎった。

「放射線」

「異常なし」

「熱」

「周囲と同じです」

「電磁反応」

「微弱。ただ……」

「ただ?」

 技術員が端末を差し出す。

「一定じゃありません」

 波形が上下していた。

 雑音とも違う。

 完全な周期でもない。

「周期性は」

「まだ分かりません」

「内部構造は」

「透過できません」

「超音波」

「駄目です」

「X線」

「駄目です」

「切削」

 技術員が首を横へ振る。

「刃が持ちません」

「材質分析は」

「表面試料が取れません」

「削れないからか」

「はい」

「年代は」

「測定不能です」

 ロウが小さく息を吐いた。

「さっきから、そればっかりだな」

 技術員は苦笑もしない。

「我々も困っています」

 イムサは黒い物体の表面を見た。

 画像で見た幾何学的な線。

 近くで見るほど奇妙だった。

 装飾ではない。

 文字にも見えない。

 回路。

 そんな言葉が頭に浮かぶ。

 だが。

 回路だとすれば。

 なぜこれほど長い間、地下で形を保っている。

「この地層の年代は」

「推定で数億年以上です」

 イムサはゆっくり振り返った。

「……数億?」

「はい」

「掘削で混ざった可能性は」

「ありません」

「本当に?」

「少なくとも、この物体の周囲に人為的な掘削痕跡は確認できません」

 誰も言葉を発しなくなった。

 数億年前。

 人類どころか。

 人間という種そのものが存在しない時代。

 イムサは再び黒い物体を見た。

 理解できない。

 だからこそ。

 自分たちだけで抱えていてはいけない。

「月へ報告する」

 ロウがイムサを見る。

「いいんですか」

「いいも悪いもない」

「でも」

「これは俺たちだけで扱える案件じゃない」

「……そうですね」

「中央研究院と王立大学。それから軍技術局にも同時に送れ」

「内容は」

 イムサは黒い物体を見ながら言葉を選んだ。

「第十一採掘区地下六百メートルにおいて、人工物と思われる未知の構造物を発見」

「人工物、と断定しますか」

 完全な直線。

 滑らかな曲面。

 規則的な模様。

 どう考えても、偶然ではない。

「断定する」

 そして。

「明らかに異質な人工物だ、と」

「了解」

 報告は、その日のうちに月へ送られた。

 通常なら。

 返答が来るまで数日。

 重要案件であっても、調査団の派遣には数週間。

 イムサはそう考えていた。

 翌朝。

 月政府から返信が届いた。

 最優先機密指定。

 第十一採掘区封鎖。

 発見物への一切の接触禁止。

 関係者全員の移動制限。

 そして。

 月政府特使を即時派遣する。

 イムサは文面を一度読んだ。

 もう一度読む。

「早いな」

 隣にいたロウが言う。

「ああ」

 早すぎる。

 まだ詳細な分析結果すら送っていない。

 画像。

 位置。

 簡単な測定データ。

 それだけだ。

 なのに。

 月政府は迷っていない。

 驚きもしていない。

 何を確認すべきか。

 何を封鎖すべきか。

 誰を拘束すべきか。

 最初から手順が決まっていたかのようだった。

「マーセウス卿」

「何だ」

「一つ、気になりませんか」

 イムサは画面を見たまま答えた。

「何が」

「月の連中」

 ロウが声を潜める。

「あれが何なのか、知ってるんじゃないですか」

 イムサは返事をしなかった。

 そんなはずはない。

 火星の地下六百メートル。

 数億年前の地層。

 昨日初めて発見された人工物。

 月政府が知っているはずがない。

 そう思った。

 そう思うのが当然だった。

 だが。

 画面にはすでに、封鎖命令が表示されている。

 あまりにも早い。

 あまりにも具体的だ。

 胸の奥へ、小さな冷たいものが落ちた。

 三日後。

 月から特使が到着した。

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