三日後。
月政府特使は、予定より二時間早く火星へ到着した。
到着予定時刻の変更を告げる連絡が入ったのは、専用艇が火星周回軌道を離れたあとだった。
随行員は十二名。
軍人。
技術者。
研究者。
そして、所属を示す徽章を一切つけていない黒い制服の男たち。
火星中央宇宙港の特別区画へ、銀灰色の専用艇がゆっくりと接近する。
誘導灯が白く点滅し、接続アームが機体を捉えた。
低い衝撃。
気密固定。
金属同士が噛み合う重い音が、人気のない特別区画に響いた。
イムサ・マーセウスは、ロウ・ガルディア大尉とともに到着ゲート前に立っていた。
一般旅客の姿はない。
警備兵だけが、普段より多く配置されている。
しかも、その半数は火星方面軍ではなかった。
「随分と大所帯だな」
イムサが低く呟いた。
「ただの調査団には見えませんね」
ロウも声を落とす。
イムサは返事をしなかった。
専用艇が接続されるより先に、月側の警備兵が宇宙港内部へ配置されていた。
まるで、自分たちが到着する場所を最初から自分たちの領域として扱っている。
やがてハッチ上部の表示灯が赤から緑へ変わった。
気密が解除される。
扉が左右へ開いた。
最初に姿を現したのは、痩せた初老の男だった。
白い髪を短く整え、背筋は年齢を感じさせないほど真っ直ぐ伸びている。
月政府高官用の濃紺の礼装。
胸元には、王政府特使であることを示す銀章。
だが、華美な装飾はそれだけだった。
男の後ろから軍人、技術者、研究者が続く。
最後に黒い制服の男たち。
彼らだけは周囲を見回していた。
出口。
監視装置。
警備兵。
そしてイムサたち。
観察というより、確認だった。
初老の男がイムサの前で止まる。
「イムサ・マーセウス卿ですね」
「そうだ」
形式通りに一礼する。
「月政府特別調査局、特使アーヴィン・セレスです」
「長旅ご苦労」
「お気遣いなく」
差し出された手を握った。
冷たい。
気温のせいではない。
掌からほとんど力を感じなかった。
握手という儀礼だけを遂行している手だった。
セレスはすぐに手を離した。
「早速ですが、発見現場へ案内していただきたい」
イムサは眉を上げた。
「到着したばかりだろう」
「時間を無駄にしたくありません」
「予定より二時間も早く着いておいて、か」
セレスの口元が僅かに動いた。
「早いに越したことはないでしょう」
「ずいぶん急ぐな」
「あなたも、あれを見れば理解されたはずです」
イムサの視線が止まった。
「どういう意味だ」
「現場で話しましょう」
セレスはそれ以上答えなかった。
そのまま歩き始める。
まだ案内すらしていない。
ロウがイムサを見る。
イムサは小さく顎を引いた。
「行くぞ」
胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。
*
第十一採掘区。
地下六百メートル。
三日前と同じ場所に、それはあった。
岩盤から覗く黒い構造物。
作業灯の白い光を受けても、表面には艶が浮かばない。
まるで光だけがそこで消えていく。
だが。
周囲は、三日前とはまるで違っていた。
狭かった坑道が、機材によってさらに圧迫されている。
大型測定装置。
隔離用の透明壁。
独立電源。
通信遮断装置。
複数の解析端末。
そして武装した兵士。
黒い制服の男たちが坑道の出入口を押さえ、火星側の作業員を遠ざけている。
つい三日前まで、ここで汗を流していた人間たちの姿はない。
月から来た技術班が、まるで以前からこの場所を知っていたかのような手際で機材を設置していく。
「ずいぶん準備がいい」
イムサが言った。
セレスは黒い構造物から目を離さない。
「想定できる事態には備えてきました」
イムサの眉が僅かに動く。
「想定?」
「言葉の綾です」
「そうは聞こえなかったが」
返事はなかった。
技術者の一人が構造物の前に膝をつき、細長い測定端末を表面へ向ける。
「表面走査開始」
「波長変更」
「第三層まで反応なし」
「位相をずらせ」
「了解」
短い指示が飛び交う。
イムサは黙って聞いていた。
やがて。
「共鳴値は?」
別の技術者が尋ねる。
「微弱です。基準値以下」
イムサの目が細くなった。
共鳴。
聞き慣れない言葉だった。
「何の共鳴だ」
その場の空気が、一瞬だけ止まった。
端末を操作していた技術者の指も止まる。
セレスがゆっくり振り返った。
「専門用語です」
「それは聞けば分かる」
イムサは黒い構造物を指した。
「何と何が共鳴している」
技術者がセレスを見る。
答えていいのか判断を求める目だった。
それだけで十分だった。
「マーセウス卿」
セレスの声から、先ほどまでの儀礼的な柔らかさが消えていた。
「ここから先は、我々が担当します」
「我々?」
「月政府特別調査局です」
「これは火星で発見された」
「承知しています」
「発見者も火星の人間だ」
「それも承知しています」
「なら火星側の調査班も残す」
「必要ありません」
間髪を入れない返答だった。
ロウが僅かに身体を動かす。
イムサはセレスから目を離さない。
「何?」
「この件は本日をもって、月政府直轄案件となりました」
坑道の奥で、機械の低い駆動音が続いている。
数秒。
イムサは何も言わなかった。
「誰の命令だ」
「中央政府です」
「文書を見せろ」
セレスは待っていたかのように端末を差し出した。
最高機密指定。
調査権限の全面移管。
現場封鎖。
火星方面軍による指揮権の一時停止。
発見に関与した全人員への守秘義務。
違反した場合の拘束権限。
どれも正式な認証が付いている。
しかも。
いくつかの文書は、特使が火星へ到着するより前に発効していた。
イムサの指が止まる。
「私の権限まで停止するのか」
「この案件に関してのみです」
「発見したのは私の管轄下だ」
セレスは淡々と答えた。
「今は違う」
短い言葉だった。
それだけに、妙に冷たかった。
イムサは端末を返した。
「理由を聞こう」
「機密です」
「私は発見責任者だ」
「それも、もう違います」
その瞬間。
ロウが一歩前へ出た。
「特使」
「何でしょう」
「現場の作業員はどうする」
「全員、聴取後に配置転換します」
「なぜだ」
「守秘のためです」
「二十四人全員を?」
「はい」
「家族もいる」
「必要であれば、家族も移動対象になります」
ロウの顔から色が消えた。
次いで、怒りが浮かぶ。
「そこまでやるのか」
セレスはそこで初めて、正面からロウを見た。
「これは命令です」
声に感情はない。
ロウが何か言おうとする。
その前に、イムサが割って入った。
「作業員に罪はない」
「罪の話はしていません」
「なら、なぜ人生ごと変えさせる」
「情報漏洩を防ぐためです」
「情報?」
イムサは黒い構造物へ腕を伸ばした。
「つまり、お前たちはあれが何なのか知っているということか」
一瞬だった。
本当に、一瞬。
セレスの顔から表情が消えた。
目だけが、僅かに硬くなる。
すぐに元へ戻った。
だが。
イムサは見逃さなかった。
「やはり知っているんだな」
「推測は自由です」
「答えろ」
「お答えできません」
「なぜ」
「あなたに知る権限がないからです」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の中で何かが切れた。
怒鳴りたくなった。
胸ぐらを掴みたいとも思った。
だが、不思議と声は出なかった。
代わりに。
身体の奥が急速に冷えていった。
「私が発見し」
一歩。
靴底が坑道の金属床を踏む。
「私が報告し」
もう一歩。
「私の部下が、危険を承知で掘り出した」
セレスは動かない。
「それで月から来たお前たちが、全部持っていくのか」
「持っていくとは言っていません」
「同じことだ」
「マーセウス卿」
セレスの声も低くなる。
「あなたは誤解している」
「何を」
「これは火星の所有物ではありません」
「では月のものか」
「そういう話ではありません」
「なら何だ」
沈黙。
機材の電子音だけが鳴る。
セレスはゆっくりと黒い構造物へ視線を戻した。
その横顔に、初めて僅かな疲労のようなものが見えた。
「あなたは知らない方がいい」
イムサは鼻で笑った。
「随分便利な言葉だな」
「事実です」
「誰にとって」
セレスは答えるまで、ほんの少し間を置いた。
「人類にとってです」
イムサの笑みが消えた。
「人類?」
「これ以上は」
「言えない?」
「はい」
また沈黙。
技術班は作業を続けている。
誰一人こちらを見ない。
見てはいけないと命じられているのかもしれない。
セレスが身体を反転させた。
「ここから先は我々だけで行います」
そして。
「ここで見たことは、口外無用です」
イムサは何も答えなかった。
「火星方面軍の人員は全員退去してください」
「私もか?」
「もちろんです」
ロウが思わずイムサを見る。
「マーセウス卿」
「……分かった」
「しかし」
「行くぞ」
「でも」
「命令だ」
自分でその言葉を口にした瞬間。
ひどく嫌な味がした。
*
昇降機の扉が閉まる。
黒い人工物。
月の技術者。
セレス。
黒服の男たち。
すべてが細い隙間の向こうへ消えた。
上昇が始まる。
低い駆動音。
狭い箱の中。
ロウはしばらく黙っていた。
表示が変わる。
三百メートル。
二百。
やがて。
「よかったんですか」
ロウが口を開いた。
「何が」
「引き下がって」
「正式命令だ」
「でも」
「ここで騒いでも何も変わらない」
ロウは唇を噛んだ。
納得していない。
イムサにも分かっている。
自分だって納得していない。
「ただ」
イムサは壁へ視線を向けたまま言った。
「一つ分かった」
「何がです」
「あいつらは知っている」
ロウの顔が上がる。
「やっぱり」
「あれが何なのか。少なくとも、初めて見た人間の反応じゃない」
「じゃあ……月政府は、最初から?」
「分からん」
イムサは狭い天井を見上げた。
「火星の地下に何があるか知っていたのか」
そこで一度言葉を切る。
「あるいは」
「あるいは?」
「似たものを、以前から知っていた」
ロウの表情が硬くなる。
昇降機が減速した。
扉が開く。
地上へ出た瞬間、外の光が目に刺さった。
空は濁った橙色。
遠くの地平線が、茶色い壁のように霞んでいる。
砂嵐が近づいていた。
風が採掘施設の外壁を叩き、細かな砂粒が乾いた音を立てている。
「ロウ」
「はい」
「この件は誰にも話すな」
ロウが苦い顔をした。
「特使と同じこと言うんですね」
「違う」
イムサは車のドアを開いた。
「俺がもう少し調べる」
ロウが運転席へ回る。
「何を?」
「月政府が何を知っているのか」
「どうやって」
イムサは一瞬黙った。
「まだ考えてない」
ロウが思わず笑った。
「珍しいですね」
「何が」
「マーセウス卿が、考えなしで動くの」
「俺だって腹が立つことくらいある」
助手席へ身体を沈める。
車が動き出した。
後方で、第十一採掘区の施設が砂煙の中へゆっくり沈んでいく。
イムサは振り返らなかった。
*
数日後。
第十一採掘区にいた作業員二十四名は、全員別区画へ配置転換された。
家族ごと移された者もいた。
理由は告げられなかった。
技術員三名は月へ移送。
そのうち一名は。
移送途中で事故死。
そう報告された。
事故の詳細は記載されていなかった。
調査記録。
封鎖。
発見地点。
封鎖。
関係者名簿。
閲覧制限。
そして。
黒い人工物。
記録上――消失。
イムサは端末画面を見つめた。
「……消失?」
思わず声が漏れた。
そんなはずはない。
あれは三メートル程度の物体ではない。
見えていた部分だけでそれだけあった。
岩盤の奥へ続いていた。
掘り出しただけでも相当な作業になる。
運搬するならなおさらだ。
だが。
政府記録には。
第十一採掘区。
異常なし。
そう記されている。
最初から何もなかったことになっていた。
イムサは画面を閉じた。
暗くなった端末に、自分の顔が薄く映る。
疲れていた。
だが。
それ以上に。
自分の中で何かが変わってしまったことを感じていた。
火星へ来て一年。
それまで彼は思っていた。
月政府には問題がある。
制度には欠陥がある。
中央は現場を知らない。
腐った役人もいる。
だから。
直せばいい。
知らせればいい。
正しい数字を見せればいい。
人間の顔を見せればいい。
そう思っていた。
しかし。
もし。
違うのだとしたら。
彼らは間違っているのではない。
知らないのでもない。
現場の声が届いていないのでもない。
すべて知った上で。
それでも。
そうしているのだとしたら。
火星から資源を吸い上げることも。
住民の声を無視することも。
死者を数字の中へ埋めることも。
そして。
あの黒い人工物を隠すことも。
すべて。
意図的に。
その考えが浮かんだ瞬間。
イムサは、自分の背後にあった世界が音もなく崩れ始めるような感覚を覚えた。
千年間続いた月の秩序。
自分がその中で生まれ。
教育を受け。
信じてきたもの。
それらの足元に。
自分の知らない何かが埋まっている。
あの黒い人工物と同じように。
深く。
見えない場所に。
一度生まれた疑念は。
もう。
消えることはなかった