MOTOR DRIVER   作:宗詩

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第四話

 月政府特使が火星を去ってから、三か月が過ぎた。

 イムサ・マーセウスは、その間ずっと第十一採掘区について調べ続けていた。

 正規の記録だけではない。

 採掘管理局の保守履歴。

 方面軍の通信ログ。

 宇宙港の入出港記録。

 月から派遣された技術者たちの宿泊記録。

 アーヴィン・セレス特使の行動予定。

 思いつく限りの記録へ手を伸ばした。

 だが。

 何も出てこない。

 いや。

 正確には、途中まではある。

 第十一採掘区で通常の採掘作業が行われていた記録。

 月政府特使が火星へ到着した記録。

 作業員が一時的に配置転換された記録。

 そこまでは残っている。

 その先だけが、ない。

 黒い人工物を発見したという報告。

 現場で採取された測定データ。

 月から来た技術班の所属。

 地下六百メートルへ搬入された機材。

 そして、特使アーヴィン・セレスが火星で何をしていたのか。

 綺麗に消えている。

 乱暴に削除された形跡すらなかった。

 まるで。

 最初から存在しなかった情報を、自分だけが必死に探しているようだった。

「徹底してるな……」

 イムサは低く呟き、端末を閉じた。

 暗くなった画面に、自分の顔がぼんやりと映る。

 以前より疲れて見えた。

 火星へ赴任した頃には、もっと顔に余裕があった気がする。

 月の政治に不満はあっても、自分が属している世界そのものを疑ったことはなかった。

 今は違う。

 端末を閉じても、黒い人工物の表面が脳裏から消えない。

 光を吸い込むような黒。

 数億年前の地層。

 そして。

 あまりにも早く到着した月政府特使。

 執務室の扉が開いた。

 イムサが顔を上げる。

 ロウ・ガルディア大尉だった。

「来客です」

「予定はない」

「だから来ました」

 イムサは椅子へ背を預けた。

「誰だ」

 ロウが一瞬だけ間を置いた。

「ダリオ・フェルン」

 その名前には聞き覚えがあった。

 赴任直後。

 基地正門前で行われた抗議活動。

 その代表として自分の前に立った採掘労働者。

 火星の現実を、最初に正面から叩きつけてきた男だった。

「通せ」

 数分後。

 ダリオが執務室へ入ってきた。

 以前と変わらない作業服。

 袖口には黒い油染み。

 指の節には新しい傷が増えている。

 だが今日は、一人ではなかった。

 二十代後半ほどに見える若い女が、その後ろに立っている。

 疲れた顔だった。

 目の下には薄い隈。

 白衣ではないが、胸元には医療区画の認証章が付いていた。

「こちらは?」

「ミラ・セイン。医療区画で働いてます」

 女が軽く頭を下げる。

「ミラ・セインです」

「何の用だ」

 ダリオは椅子へ座らなかった。

 以前と同じだった。

 立ったまま、携帯端末を机へ置く。

「採掘事故です」

 その一言で。

 イムサの胸の奥に、嫌な予感が落ちた。

「またか」

「第八採掘区」

「死者は」

「十二人」

 イムサの手が止まった。

「……十二?」

 端末を開く。

 方面軍へ上がっている公式報告。

 事故発生。

 気密設備破損。

 死者。

 四名。

 負傷者。

 十一名。

 イムサは顔を上げた。

「公式報告では四人だ」

「そうでしょうね」

 ダリオの声には、もう驚きすらなかった。

「残り八人は病院で死にました」

 イムサはミラを見る。

「事実か」

「はい」

 彼女は即答した。

 ただ。

 その声が少し掠れていた。

「原因は」

「気密破損です。肺損傷が六人。減圧症と内部出血が二人」

「救助後に?」

「救助が遅れました」

「なぜ」

 ミラの唇が少しだけ強く結ばれる。

「救助用車両が足りなかったんです」

「補充申請は」

「半年前から出しています」

 イムサは目を閉じた。

 まただ。

 交換申請。

 補充申請。

 医療設備。

 安全設備。

 必要だと現場が訴える。

 月へ送られる。

 保留。

 却下。

 そして人が死ぬ。

「月へは」

「報告済みです」

 ロウが答えた。

「返答は?」

「保留」

 机を指で叩いた。

 一度。

 二度。

 三度目は止めた。

 自分でも気づかないうちに、呼吸が少し浅くなっていた。

「これを俺に見せて、どうしろと」

 ダリオがイムサを見る。

「何かしてください」

「それは分かっている」

「分かってるだけじゃ、また死ぬ」

 イムサの目が鋭くなる。

「言い方に気をつけろ」

「気をつけてる場合じゃない」

 空気が張った。

 ロウが僅かに体重を移す。

 だが、その前にミラが口を開いた。

「マーセウス卿」

「何だ」

「病院は限界です」

 怒りではない。

 疲労だった。

 それだけに、言葉が重かった。

「人員か」

「全部です」

 ミラは両手を握り合わせた。

「薬も、設備も、人も。病床も足りません。医師は三交代を止めて、ほとんど寝ていない。看護スタッフも同じです。昨日、一人倒れました」

「月へ追加要請を出す」

 ダリオが乾いた笑いを漏らした。

「また?」

 イムサが睨む。

「他に何がある」

「火星解放戦線があります」

 室内の空気が止まった。

 ロウの顔が変わる。

「お前」

「名前を出しただけです」

「構成員か」

「違う」

「前もそう言ったな」

「今も違う」

「なら、なぜその名前を出す」

 ダリオはイムサを見た。

「連中は薬を持ってきた」

「何?」

「非合法ルートで」

 イムサの背中が椅子から離れた。

「どこから」

「知らない」

「軍需品の横流しか」

「違うと思います」

「思います?」

 ダリオの顔に、苛立ちが浮かんだ。

「俺は薬の出所なんかどうでもいい」

「どうでもいい?」

「人が死ぬんだ」

 拳が握られる。

「目の前で死ぬんだよ。月の承認番号が付いてるかどうかを確認してから薬を使えっていうのか」

 イムサは黙った。

 ミラが静かに続ける。

「火星解放戦線が持ち込んだ薬で、助かった患者もいます」

「何人」

「十七人」

「出所不明の薬を使ったのか」

「使いました」

 ミラは視線を逸らさなかった。

「使わなければ死んでいました」

 その言葉に。

 イムサは何も返せなかった。

 法的には問題がある。

 軍の管理下にない医薬品。

 出所不明。

 品質保証なし。

 本来なら使用を禁ずるべきだ。

 だが。

 十七人。

 生きている。

 月からの返事を待っていたなら。

 死んでいた。

「マーセウス卿」

 ロウが低い声で言った。

「何だ」

「火星では、こういうことが増えてます」

「いつから」

「前からです」

 イムサはロウを見る。

「報告されていない」

「報告しても消えます」

 その言葉に。

 胸の奥が冷えた。

 消える。

 事故。

 死者。

 不足。

 薬。

 第十一採掘区。

 黒い人工物。

 都合の悪いものは。

 何もかも。

「パウロ・エンダースは」

 イムサが言った。

 ダリオの目が僅かに動いた。

「何です」

「本当に会ったことがないのか」

「ない」

「連絡は取れるか」

 今度はロウがイムサを見る。

「マーセウス卿」

「聞いているだけだ」

 ダリオはすぐには答えなかった。

 その沈黙が。

 答えそのものにも見えた。

「会いたいと言ったら?」

「何のために」

「話をする」

「逮捕するためじゃなく?」

「逮捕したいなら、お前を先に締め上げている」

 ダリオが一瞬ぽかんとした。

 そして。

 小さく苦笑する。

「貴族らしくない言い方ですね」

「火星に来てから評判が悪くてな」

 ほんの少しだけ。

 部屋の空気が緩んだ。

 だが。

 ダリオの目はまだ警戒している。

「分かりました」

 やがて言った。

「伝えるだけ伝えます」

「場所はこちらで指定する」

「それは無理です」

「何」

「向こうが決める」

「俺は軍人だぞ」

「だからです」

 イムサは鼻から息を吐いた。

「いいだろう」

 ロウが口を開いた。

「本気ですか」

「話すだけだ」

「相手は反政府組織ですよ」

「月政府は、俺に何を話した」

 ロウが黙る。

 第十一採掘区。

 特使セレス。

 最高機密。

 知る権限がない。

「火星解放戦線の方が」

 イムサは自嘲気味に笑った。

「まだ質問には答えるかもしれない」

     

 *

 

 数日後。

 連絡は来た。

 場所は、居住区外縁。

 旧水処理施設。

 時間は深夜。

 護衛は一人まで。

 イムサはロウを連れて向かった。

 居住区を離れるにつれて、道路の照明が減っていく。

 窓の外には、使われなくなった配水塔や、朽ちたパイプラインが黒い影となって並んでいた。

 空には薄い砂塵。

 月は見えない。

 そのことに。

 イムサは少しだけ安堵している自分に気づいた。

「罠だったらどうします」

 運転しながらロウが尋ねる。

「その時は、お前が何とかしろ」

「無茶言いますね」

「大尉だろ」

「大尉は不死身じゃありません」

「知ってる」

「なら、もう少し労ってください」

「給料は出てる」

「そういう問題じゃないんですけどね」

 イムサが小さく笑った。

 緊張している。

 だからこそ、くだらない会話がありがたかった。

 旧水処理施設が見えてくる。

 半分以上の照明が死んでいた。

 錆びた巨大配管が地面から伸び、建物の壁を這っている。

 かつては何千人分もの生活用水を処理していた施設。

 今は別の区画へ機能が移され、放棄されて久しい。

 風が壊れた外壁を抜けるたび、金属板が低く震えた。

 内部へ入る。

 湿った臭い。

 錆。

 古い薬品。

 止まったポンプの間を二人の足音が反響する。

 照明の切れた通路の先。

 人影。

 三人。

 全員、武装していた。

「止まれ」

 男の声。

 ロウの右手が腰へ伸びる。

「触るな」

 イムサが低く言った。

「分かってます」

 ロウの声は不満そうだった。

 武装した男が近づく。

「武器を置け」

 ロウが眉を寄せる。

「そっちも置け」

「ロウ」

「……分かりましたよ」

 拳銃を抜く。

 床へ置く。

 金属音が響く。

 イムサも続いた。

「こっちだ」

 男について、さらに奥へ進む。

 巨大な濾過槽。

 動かない圧力計。

 剥がれ落ちた塗装。

 奥にある扉を抜ける。

 その先。

 一人の男が立っていた。

 五十歳前後。

 背は特別高くない。

 身体つきも普通。

 軍人のような威圧感もなければ、革命家らしい派手さもない。

 拍子抜けするほど。

 普通の男だった。

 ただ。

 目だけが違った。

 静かだった。

 こちらを試すような目ではない。

 怒りを見せつける目でもない。

 長い時間をかけて。

 もう何度も同じ結論へ辿り着いてしまった人間の目。

「イムサ・マーセウス」

 男が言った。

「そうだ」

「会うのは初めてだな」

「そっちは俺を知っているのか」

「火星で知らない奴の方が少ない」

「なら名乗れ」

 男の口元が僅かに緩む。

「パウロ・エンダース」

 横で。

 ロウの身体が僅かに硬くなった。

 火星解放戦線。

 その指導者。

 月政府の資料では。

 扇動者。

 破壊活動指導者。

 危険人物。

 イムサは目の前の男を見た。

「思っていたより普通だな」

 パウロが笑う。

「よく言われる」

「俺を呼んだ理由は」

「呼んだのはあんただ」

「そうだったな」

 短い沈黙。

 遠くで水滴が落ちた。

 誰もいない濾過槽の中に、その音だけが何度も反響する。

「一つ聞きたい」

 イムサが言った。

「何だ」

「月政府は、火星をどう見ていると思う」

 パウロは即答しなかった。

 イムサの顔を見る。

 質問の裏を探るというより。

 本当にそんなことを聞きに来たのかと確かめているようだった。

「資源庫」

 やがて答えた。

「それだけか」

「それ以上必要か?」

「人が住んでいる」

「月の連中に言え」

「俺も月の人間だ」

「知ってる」

「なら俺も敵か」

「今のところは」

 ロウが僅かに動く。

 イムサは手で制した。

「率直だな」

「時間がないからな」

「何の」

「火星に」

 パウロの声が低くなる。

「このまま続けば、ここは人が住む場所じゃなくなる」

「大げさだ」

「そう思うなら帰れ」

 声音は変わらない。

 怒鳴りもしない。

 それが余計に腹へ響いた。

「話をしに来た」

「なら聞け」

 パウロが一歩前へ出る。

「月は火星を開発してない」

「している」

「採掘設備を増やすことを、開発と呼ぶのか」

「テラフォーミングも進めている」

「遅らせながらな」

「証拠は」

「予算を見れば分かる」

 イムサの口が止まった。

 見ている。

 自分の端末で。

 何度も。

 テラフォーミング予算。

 削減。

 採掘設備投資。

 増額。

 パウロはその沈黙を見ていた。

「火星に自治権が必要だ」

「月から独立しろと?」

「まだそこまでは言ってない」

 イムサの眉が動く。

「まだ?」

「俺たちは最初から独立を叫んでいたわけじゃない」

 声に。

 初めて微かな苛立ちが滲んだ。

「自治を求めた」

「却下された」

「議会参加枠を増やせと求めた」

「却下された」

「資源収益の一部を火星へ戻せと要求した」

「却下された」

「テラフォーミング予算を増やせと」

「却下」

 パウロは笑わなかった。

「で」

 イムサを見る。

「次は何を頼めばいい」

 返事ができなかった。

 火星へ来たばかりの自分なら。

 正規の手続きを踏め。

 議会へ訴えろ。

 法を守れ。

 そう言っただろう。

 だが。

 彼らは全部やっている。

 少なくとも。

 やろうとしてきた。

「マーセウス卿」

「何だ」

「あんたはまだ、月を変えられると思ってる」

「そうだ」

「なぜ」

「制度だからだ」

「制度?」

「人が作ったものなら、人が直せる」

 パウロはしばらくイムサを見ていた。

 嘲笑はしなかった。

 むしろ。

 少し悲しそうに見えた。

「それは」

 小さく息を吐く。

「まだ月を信じてる人間の言葉だ」

「信じるのが悪いか」

「悪くない」

「なら」

「いつまで信じられるか、だ」

 その言葉が。

 静かな施設の中に残った。

 イムサは反論しようとした。

 だが。

 第十一採掘区が頭をよぎる。

 セレス。

 知る権限がない。

 消えた記録。

 死んだ技術員。

 十二人の死者を四人と記した報告。

 自分の中にある「信じる」という言葉が。

 以前より少しだけ重くなっている。

「一年前なら」

 パウロが続けた。

「俺も、あんたと似たようなことを言ってた」

「一年前?」

「ああ」

「何があった」

 パウロは答えなかった。

 視線だけが僅かに変わる。

 そして。

「第十一採掘区」

 その言葉を口にした。

 イムサの顔から表情が消えた。

「何だ」

「何を見つけた」

 ロウが一歩前へ出る。

「どこでそれを」

「火星を甘く見るな」

 パウロはイムサだけを見ている。

「月から特使が来た」

「……」

「採掘区は封鎖された」

「……」

「作業員は移動」

「……」

「記録は消えた」

 イムサの声が低くなった。

「誰から聞いた」

「大事なのはそこじゃない」

「俺には大事だ」

「じゃあ答える」

 パウロの目が細くなる。

「火星には、月政府より火星解放戦線を信用する人間がいる」

 イムサは何も言わなかった。

 胸の奥に。

 鈍い痛みのようなものが生まれた。

 軍人としては。

 その言葉を侮辱だと思うべきなのかもしれない。

 だが。

 今日。

 薬を届けたのは誰だった。

「月は何を隠してる」

「俺が聞きたい」

「知らない?」

「知らない」

「本当に?」

「俺は現場から追い出された」

 初めて。

 パウロの顔に小さな驚きが浮かんだ。

「発見者なのに?」

「だから腹が立っている」

 しばらく。

 パウロはイムサを見ていた。

 そして。

 小さく笑った。

「なるほど」

「何がおかしい」

「いや」

 首を横へ振る。

「思ってたより、あんたは使えるかもしれない」

 ロウの表情が変わる。

「言葉に気をつけろ」

「ロウ」

 イムサが止めた。

 パウロは視線を逸らさない。

「マーセウス卿」

「何だ」

「次に月へ何か要求する時は、返事を待たない方がいい」

「どういう意味だ」

「そのうち分かる」

 イムサは眉を寄せた。

「最近、そればかり聞く」

 パウロの口元が少し緩んだ。

「火星に長くいれば慣れる」

「慣れたくないな」

「俺もそう思ってたよ」

 今度の笑みは。

 ほんの少しだけ。

 人間らしかった。

     

 *

 

 その夜。

 イムサは火星解放戦線と手を組まなかった。

 独立を決意したわけでもない。

 月政府への忠誠を捨てたわけでもなかった。

 帰りの車の中。

 ロウが運転する横で。

 イムサは流れていく暗い荒野を見ていた。

 火星の夜。

 遠くの居住区だけが、小さな光の塊として浮かんでいる。

 そこに。

 人がいる。

 生きている。

 働いている。

 死んでいる。

 そして。

 月から届かない薬を。

 反政府組織が届けている。

 何が正しいのか。

 まだ分からない。

 パウロの言葉をすべて信じたわけでもない。

 火星解放戦線が何をしてきたのか。

 何をしようとしているのか。

 それも分からない。

 ただ。

 ひとつだけ。

 以前とは違うことがあった。

 パウロ・エンダースという男を。

 単なるテロリストとは。

 もう。

 思えなくなっていた。

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