MOTOR DRIVER   作:宗詩

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第五話

 パウロ・エンダースと会った翌日。

 イムサ・マーセウスは、いつもと同じ時刻に執務室へ入った。

 壁面照明は昼夜のない地下都市に擬似的な朝を作り、換気口からは乾いた空気が一定の音を立てて吐き出されている。窓のない部屋。机。端末。積み上げられた報告書。

 何ひとつ昨日までと変わっていない。

 それなのに。

 机の上に並ぶ数字だけが、まるで別の言葉で書かれているように見えた。

「採掘設備更新費、前年比一三二パーセント」

 向かいに立ったロウ・ガルディア大尉が端末を読み上げる。

「居住区維持費、八十七パーセント」

「医療は」

「九十一」

「水循環設備」

「八十二」

 イムサは腕を組んだ。

 空調の低い唸りだけが、しばらく部屋を満たす。

「テラフォーミング関連は」

「七十四パーセントです」

「……四年連続減少か」

「はい」

「資源輸出量は」

 ロウは答える前に、一瞬だけイムサを見た。

「過去最高です」

 イムサは椅子の背へ体重を預けた。

 革が小さく軋む。

「分かりやすいな」

「ええ」

「分かりやすすぎる」

 昨日までなら、理由を探しただろう。

 戦時予算。

 中央の財政事情。

 設備更新の周期。

 輸送効率。

 数字には数字なりの事情がある。統治とはそういうものだと思っていた。

 だが今は違う。

 採掘だけが増えている。

 人間が生きるための予算だけが削られている。

 パウロの声が耳の奥に残っていた。

 ――月から見れば、火星は資源庫だ。

 イムサは端末を引き寄せた。

「中央政府へ正式提言を出す」

「またですか」

「また、だ」

「通ると思います?」

「通す」

 ロウがわずかに眉を上げる。

「どうやって」

「今回は火星方面軍司令部名義では出さない」

「では?」

「士族院へ直接提出する」

 ロウの顔から、僅かに冗談めいた気配が消えた。

「……本気ですか」

「俺はまだ士族だ」

「下級ですが」

「余計だ」

「事実です」

 イムサは鼻で笑った。

 久しぶりに、自分でも自然な笑いだった。

「家柄が役に立つなら、今使う」

 三日かけて提言書をまとめた。

 火星で採掘された資源から得られる収益の一部を、火星へ還元すること。

 テラフォーミング予算削減を停止すること。

 医療、水循環、救助設備へ緊急支出を行うこと。

 火星居住者による諮問機関を設置すること。

 そして、現地行政へ一定の裁量権を与えること。

 イムサは何度も文章を読み返した。

 独立。

 自治。

 その二文字だけは、一度も使わなかった。

 月政府の統治下で。

 月政府の制度を使って。

 月政府を正す。

 まだ、それが可能だと信じたかった。

 提出から十一日後。

 回答は、驚くほど短かった。

 ――資源配分については現行制度を維持する。

 ――テラフォーミング計画は予定通り進行している。

 ――医療・インフラ予算の追加措置は現時点で必要性を認めない。

 ――火星行政への追加裁量権付与については、統治秩序維持の観点から不適切と判断する。

 そして最後に。

 ――イムサ・マーセウス卿には、現地軍務に専念することを求める。

 画面を読み終えても、イムサは指を動かさなかった。

「十一日」

 ロウが言った。

「早かったですね」

「……読んだと思うか」

「さあ」

「俺は、読んでないと思う」

「俺もです」

 イムサは端末を伏せるように机へ置いた。

「もう一度出す」

 ロウが顔を上げた。

「内容を変えて?」

「いや」

「じゃあ意味ないでしょう」

「今度は元老院にも送る」

「マーセウス卿」

「何だ」

「本当にまだ信じてるんですか」

 その問いだけは、すぐに返せなかった。

 イムサは積み上げた資料へ目を落とす。

 数字。

 比率。

 予算。

 その向こうに、採掘坑で死んだ人間の顔が見える気がした。

「……信じたい」

 ようやく、それだけ言った。

 ロウは何も答えなかった。

 

 *

 

 二度目の提言を出した。

 今度は士族院だけではない。

 元老院。

 中央行政局。

 資源管理局。

 医療局。

 火星に関係する部署へ、同じ資料を添えて送った。

 返ってきた文章は、少しだけ長くなった。

 だが中身は変わらない。

 現状維持。

 時期尚早。

 安全保障上の懸念。

 予算上の制約。

 統治秩序。

 三度目も同じだった。

 文面だけが丁寧になり、拒絶だけが鮮明になっていく。

 そこには。

 第十一採掘区で死んだ人間の名前も。

 救助車両を待ちながら息を引き取った者の名前も。

 薬が届けば助かったはずの患者の名前も。

 一人として書かれていなかった。

 ある日。

 採掘区からの帰路で、イムサは輸送車を止めさせた。

「どうしました」

「降りる」

 ロウが怪訝そうな顔をしたが、何も言わず後に続いた。

 居住区外縁に、古い展望デッキがある。

 かつて火星移住初期、入植者たちに「ここが新しい故郷だ」と見せるために造られた場所だった。

 今では訪れる者も少ない。

 透明材の向こう。

 赤褐色の大地が、どこまでも広がっている。

 風が砂を引きずり、遠くの採掘塔が霞んで見えた。

 人工照明に照らされた居住区の外壁だけが、不自然なほど白い。

 そのさらに向こうには。

 何もない。

「ロウ」

「はい」

「月に戻りたいと思うか」

 ロウは少し考えた。

「休暇なら」

「そうじゃない」

「ずっと、ですか」

「ああ」

「昔は思ってました」

「今は」

「分かりません」

「なぜ」

 ロウは透明材の向こうを見た。

「こっちに知り合いが増えました」

 イムサは笑う。

「それだけか」

「十分でしょう」

 その言葉が妙に胸に残った。

 故郷というものは。

 生まれた場所ではなく。

 知っている顔が増えた場所なのかもしれない。

「マーセウス卿は?」

「俺か」

「戻りたいです?」

 イムサは空を見上げた。

 薄い大気の向こう。

 夜になれば。

 小さな光として地球が見えることもある。

 月も。

 あそこが自分の帰る場所だと思っていた。

 疑ったことすらなかった。

「帰る場所は月だと思ってた」

「今は?」

「……分からん」

 その夜。

 私室へ戻っても眠気は来なかった。

 卓上端末の明かりだけが、暗い部屋に浮かんでいる。

 イムサは何度も通信履歴を開き。

 閉じ。

 また開いた。

 やがて。

 一つの宛先を選ぶ。

 月。

 自宅。

 呼び出し音。

 一回。

 二回。

 三回。

 画面が明るくなる。

「イムサ?」

 妻の顔が映った。

 寝起きらしい。

 髪が少し乱れている。

「起きてたか」

「今、何時だと思ってるの」

「すまん」

「何かあった?」

「いや」

「その顔で?」

 イムサは思わず笑った。

「相変わらずだな」

「あなたが分かりやすいの」

「そうか」

「何?」

 言葉が出てこない。

 妻は急かさなかった。

 ただ。

 画面の向こうで待っている。

 イムサは一度だけ視線を落とした。

 机の端に。

 三通の回答書が並んでいる。

「火星に来ないか」

 画面の向こうで。

 妻の表情が止まった。

「……何て?」

「火星だ」

「聞こえた」

「こっちで、一緒に暮らさないか」

「急ね」

「ああ」

「いつまで?」

 答えられなかった。

 その沈黙だけで。

 妻には十分だった。

「イムサ」

「何だ」

「何をしようとしてるの」

「まだ何も」

「まだ?」

 しまったと思った。

「言い方が悪かった」

「あなた、昔から嘘が下手よ」

「嘘じゃない」

「じゃあ何」

 イムサは画面から目を逸らした。

 火星へ赴任した時。

 これは仕事だと思っていた。

 いずれ月へ戻る。

 妻も。

 自分も。

 家も。

 全部そこにあると思っていた。

 なのに。

「こっちを見てほしい」

「火星を?」

「ああ」

「あなたが今、見てるものを?」

 イムサは妻を見る。

「そうだ」

 長い沈黙のあと。

 妻は小さく息を吐いた。

「分かった」

「いいのか」

「あなたがそんな顔で頼むこと、滅多にないもの」

「仕事は」

「辞める」

「簡単に言うな」

「あなたが火星に来いって言ったんでしょう」

「そうだが」

「じゃあ責任取りなさい」

 イムサの口元が、ほんの少し緩んだ。

「分かった」

「いつ行けばいい?」

「できるだけ早く」

「そんなに?」

「ああ」

 妻の表情から笑みが消えた。

「イムサ」

「何だ」

「怖いことする?」

 すぐには答えられなかった。

 自分でも分からない。

 何をするのか。

 どこまで行くのか。

 ただ。

 元には戻れない。

 それだけは、もう分かっていた。

「分からない」

 正直に言った。

「でも」

 一度。

 息を吸う。

「たぶん、今まで通りではいられない」

 妻は目を閉じた。

 そして。

「分かった」

 それだけ言った。

 通信が切れる。

 暗くなった画面に、自分の顔が映った。

 疲れていた。

 それ以上に。

 怯えているようにも見えた。

 その顔を見ながら。

 イムサは初めて思った。

 自分は妻を火星へ呼んだのではない。

 月から。

 逃がそうとしているのかもしれない。

 数日後。

 一通の非公式通信が届いた。

 発信者。

 パウロ・エンダース。

 本文は一行。

 ――まだ、月の返事を待つか?

 イムサは。

 その文章を、長い間消すことができなかった。

 

 *

 

 火星へ向かう補給艦は、定期的にやって来る。

 食料。

 医薬品。

 機械部品。

 採掘設備。

 軍需物資。

 月から送られてくる生命線。

 そして。

 パウロ・エンダースたちにとっては。

 奪わなければ生きられない物資でもあった。

「三番倉庫、開いた」

 耳元の通信機から声が響く。

「医薬品を先に運べ」

『了解』

 パウロは薄暗い整備通路を進む。

 足元で金属床が微かに鳴る。

 遠くから機関部の振動。

 換気装置。

 貨物搬送機。

 この船型への侵入は初めてではない。

 警備の巡回。

 監視装置の死角。

 貨物区画への経路。

 だいたい頭に入っている。

 だからこそ。

 その隔壁に違和感を覚えた。

「……こんな区画、あったか?」

 船尾側。

 本来なら補助機材が詰め込まれているはずの場所。

 そこだけ。

 新しい隔壁が増設されていた。

 表面に傷が少ない。

 貨物区画にしては、ロックも厳重だ。

『パウロ、どうした』

「変な扉がある」

『放っとけ。時間ないぞ』

「分かってる」

 そう答えながら。

 すでに端末を接続していた。

『おい』

「見るだけだ」

『お前の“見るだけ”は信用できない』

 パウロが笑う。

 電子錠が一つ。

 二つ。

 解除。

 最後のロックが外れた。

 重い扉が。

 ゆっくり横へ滑った。

 暗い。

 パウロは携帯灯を向ける。

 光が。

 灰色の防護シートを照らした。

「……MD?」

 一機。

 大型の輸送固定具に収められている。

 大きさは。

 火星軍で使われている量産型と、ほとんど変わらない。

 四メートルほど。

 人型。

 だが。

 何かが違う。

 パウロは一歩近づいた。

 肩。

 腰。

 脚。

 量産型より細い。

 装甲の線も滑らかだ。

 新しい。

 そう思った。

 なのに。

 同時に。

 ひどく古いものを見ているような感覚があった。

「なんだ……?」

 防護シートの端を掴む。

『パウロ』

「ちょっと待て」

 少しだけめくる。

 赤。

 光を鈍く返す装甲。

「赤……」

 さらに。

 頭部。

 胸部。

 その輪郭が現れていく。

 知らない。

 見たことなどない。

 そう思うのに。

 胸の奥に、妙な引っ掛かりがあった。

 どこかで。

 見た。

 子供の頃の報道映像か。

 古い記録か。

 それとも。

 夢でも見たのか。

「……変な機体だな」

『何が?』

「MDが一機ある」

『それだけ?』

「いや」

 パウロは赤い機体を見上げる。

「火星のやつとは、ちょっと違う」

『新型じゃないのか』

「……そう見えなくもない」

 だが。

 違う。

 新型という言葉が、なぜかしっくりこない。

 もっと。

 ずっと前から。

 ここに存在していたような。

『なら放っとけ。足音が増えた』

 遠く。

 金属床を叩く音。

 一人。

 二人。

 いや。

 もっと。

「分かった」

 パウロは最後に一度。

 機体の胸部へ目を向けた。

 赤い装甲の隅。

 塗装に半ば埋もれた。

 小さな刻印。

 だが暗い。

 読めない。

『パウロ!』

「今行く」

 シートを戻す。

 扉を閉める。

 走り出す。

 すぐ後ろで。

 警備兵の声が響いた。

『右の通路!』

「分かってる!」

 角を曲がる。

 肺が熱い。

 足音が追ってくる。

 いつもの補給物資。

 いつもの侵入。

 いつもの逃走。

 ただ、今日だけは一つ違った。

 船の奥に、見たことのない赤いMDがあった。

 それだけ、たったそれだけなのに。

 パウロは走りながら。

 なぜか、あの機体の姿を頭から消すことができなかった。

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