パウロ・エンダースと会った翌日。
イムサ・マーセウスは、いつもと同じ時刻に執務室へ入った。
壁面照明は昼夜のない地下都市に擬似的な朝を作り、換気口からは乾いた空気が一定の音を立てて吐き出されている。窓のない部屋。机。端末。積み上げられた報告書。
何ひとつ昨日までと変わっていない。
それなのに。
机の上に並ぶ数字だけが、まるで別の言葉で書かれているように見えた。
「採掘設備更新費、前年比一三二パーセント」
向かいに立ったロウ・ガルディア大尉が端末を読み上げる。
「居住区維持費、八十七パーセント」
「医療は」
「九十一」
「水循環設備」
「八十二」
イムサは腕を組んだ。
空調の低い唸りだけが、しばらく部屋を満たす。
「テラフォーミング関連は」
「七十四パーセントです」
「……四年連続減少か」
「はい」
「資源輸出量は」
ロウは答える前に、一瞬だけイムサを見た。
「過去最高です」
イムサは椅子の背へ体重を預けた。
革が小さく軋む。
「分かりやすいな」
「ええ」
「分かりやすすぎる」
昨日までなら、理由を探しただろう。
戦時予算。
中央の財政事情。
設備更新の周期。
輸送効率。
数字には数字なりの事情がある。統治とはそういうものだと思っていた。
だが今は違う。
採掘だけが増えている。
人間が生きるための予算だけが削られている。
パウロの声が耳の奥に残っていた。
――月から見れば、火星は資源庫だ。
イムサは端末を引き寄せた。
「中央政府へ正式提言を出す」
「またですか」
「また、だ」
「通ると思います?」
「通す」
ロウがわずかに眉を上げる。
「どうやって」
「今回は火星方面軍司令部名義では出さない」
「では?」
「士族院へ直接提出する」
ロウの顔から、僅かに冗談めいた気配が消えた。
「……本気ですか」
「俺はまだ士族だ」
「下級ですが」
「余計だ」
「事実です」
イムサは鼻で笑った。
久しぶりに、自分でも自然な笑いだった。
「家柄が役に立つなら、今使う」
三日かけて提言書をまとめた。
火星で採掘された資源から得られる収益の一部を、火星へ還元すること。
テラフォーミング予算削減を停止すること。
医療、水循環、救助設備へ緊急支出を行うこと。
火星居住者による諮問機関を設置すること。
そして、現地行政へ一定の裁量権を与えること。
イムサは何度も文章を読み返した。
独立。
自治。
その二文字だけは、一度も使わなかった。
月政府の統治下で。
月政府の制度を使って。
月政府を正す。
まだ、それが可能だと信じたかった。
提出から十一日後。
回答は、驚くほど短かった。
――資源配分については現行制度を維持する。
――テラフォーミング計画は予定通り進行している。
――医療・インフラ予算の追加措置は現時点で必要性を認めない。
――火星行政への追加裁量権付与については、統治秩序維持の観点から不適切と判断する。
そして最後に。
――イムサ・マーセウス卿には、現地軍務に専念することを求める。
画面を読み終えても、イムサは指を動かさなかった。
「十一日」
ロウが言った。
「早かったですね」
「……読んだと思うか」
「さあ」
「俺は、読んでないと思う」
「俺もです」
イムサは端末を伏せるように机へ置いた。
「もう一度出す」
ロウが顔を上げた。
「内容を変えて?」
「いや」
「じゃあ意味ないでしょう」
「今度は元老院にも送る」
「マーセウス卿」
「何だ」
「本当にまだ信じてるんですか」
その問いだけは、すぐに返せなかった。
イムサは積み上げた資料へ目を落とす。
数字。
比率。
予算。
その向こうに、採掘坑で死んだ人間の顔が見える気がした。
「……信じたい」
ようやく、それだけ言った。
ロウは何も答えなかった。
*
二度目の提言を出した。
今度は士族院だけではない。
元老院。
中央行政局。
資源管理局。
医療局。
火星に関係する部署へ、同じ資料を添えて送った。
返ってきた文章は、少しだけ長くなった。
だが中身は変わらない。
現状維持。
時期尚早。
安全保障上の懸念。
予算上の制約。
統治秩序。
三度目も同じだった。
文面だけが丁寧になり、拒絶だけが鮮明になっていく。
そこには。
第十一採掘区で死んだ人間の名前も。
救助車両を待ちながら息を引き取った者の名前も。
薬が届けば助かったはずの患者の名前も。
一人として書かれていなかった。
ある日。
採掘区からの帰路で、イムサは輸送車を止めさせた。
「どうしました」
「降りる」
ロウが怪訝そうな顔をしたが、何も言わず後に続いた。
居住区外縁に、古い展望デッキがある。
かつて火星移住初期、入植者たちに「ここが新しい故郷だ」と見せるために造られた場所だった。
今では訪れる者も少ない。
透明材の向こう。
赤褐色の大地が、どこまでも広がっている。
風が砂を引きずり、遠くの採掘塔が霞んで見えた。
人工照明に照らされた居住区の外壁だけが、不自然なほど白い。
そのさらに向こうには。
何もない。
「ロウ」
「はい」
「月に戻りたいと思うか」
ロウは少し考えた。
「休暇なら」
「そうじゃない」
「ずっと、ですか」
「ああ」
「昔は思ってました」
「今は」
「分かりません」
「なぜ」
ロウは透明材の向こうを見た。
「こっちに知り合いが増えました」
イムサは笑う。
「それだけか」
「十分でしょう」
その言葉が妙に胸に残った。
故郷というものは。
生まれた場所ではなく。
知っている顔が増えた場所なのかもしれない。
「マーセウス卿は?」
「俺か」
「戻りたいです?」
イムサは空を見上げた。
薄い大気の向こう。
夜になれば。
小さな光として地球が見えることもある。
月も。
あそこが自分の帰る場所だと思っていた。
疑ったことすらなかった。
「帰る場所は月だと思ってた」
「今は?」
「……分からん」
その夜。
私室へ戻っても眠気は来なかった。
卓上端末の明かりだけが、暗い部屋に浮かんでいる。
イムサは何度も通信履歴を開き。
閉じ。
また開いた。
やがて。
一つの宛先を選ぶ。
月。
自宅。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
画面が明るくなる。
「イムサ?」
妻の顔が映った。
寝起きらしい。
髪が少し乱れている。
「起きてたか」
「今、何時だと思ってるの」
「すまん」
「何かあった?」
「いや」
「その顔で?」
イムサは思わず笑った。
「相変わらずだな」
「あなたが分かりやすいの」
「そうか」
「何?」
言葉が出てこない。
妻は急かさなかった。
ただ。
画面の向こうで待っている。
イムサは一度だけ視線を落とした。
机の端に。
三通の回答書が並んでいる。
「火星に来ないか」
画面の向こうで。
妻の表情が止まった。
「……何て?」
「火星だ」
「聞こえた」
「こっちで、一緒に暮らさないか」
「急ね」
「ああ」
「いつまで?」
答えられなかった。
その沈黙だけで。
妻には十分だった。
「イムサ」
「何だ」
「何をしようとしてるの」
「まだ何も」
「まだ?」
しまったと思った。
「言い方が悪かった」
「あなた、昔から嘘が下手よ」
「嘘じゃない」
「じゃあ何」
イムサは画面から目を逸らした。
火星へ赴任した時。
これは仕事だと思っていた。
いずれ月へ戻る。
妻も。
自分も。
家も。
全部そこにあると思っていた。
なのに。
「こっちを見てほしい」
「火星を?」
「ああ」
「あなたが今、見てるものを?」
イムサは妻を見る。
「そうだ」
長い沈黙のあと。
妻は小さく息を吐いた。
「分かった」
「いいのか」
「あなたがそんな顔で頼むこと、滅多にないもの」
「仕事は」
「辞める」
「簡単に言うな」
「あなたが火星に来いって言ったんでしょう」
「そうだが」
「じゃあ責任取りなさい」
イムサの口元が、ほんの少し緩んだ。
「分かった」
「いつ行けばいい?」
「できるだけ早く」
「そんなに?」
「ああ」
妻の表情から笑みが消えた。
「イムサ」
「何だ」
「怖いことする?」
すぐには答えられなかった。
自分でも分からない。
何をするのか。
どこまで行くのか。
ただ。
元には戻れない。
それだけは、もう分かっていた。
「分からない」
正直に言った。
「でも」
一度。
息を吸う。
「たぶん、今まで通りではいられない」
妻は目を閉じた。
そして。
「分かった」
それだけ言った。
通信が切れる。
暗くなった画面に、自分の顔が映った。
疲れていた。
それ以上に。
怯えているようにも見えた。
その顔を見ながら。
イムサは初めて思った。
自分は妻を火星へ呼んだのではない。
月から。
逃がそうとしているのかもしれない。
数日後。
一通の非公式通信が届いた。
発信者。
パウロ・エンダース。
本文は一行。
――まだ、月の返事を待つか?
イムサは。
その文章を、長い間消すことができなかった。
*
火星へ向かう補給艦は、定期的にやって来る。
食料。
医薬品。
機械部品。
採掘設備。
軍需物資。
月から送られてくる生命線。
そして。
パウロ・エンダースたちにとっては。
奪わなければ生きられない物資でもあった。
「三番倉庫、開いた」
耳元の通信機から声が響く。
「医薬品を先に運べ」
『了解』
パウロは薄暗い整備通路を進む。
足元で金属床が微かに鳴る。
遠くから機関部の振動。
換気装置。
貨物搬送機。
この船型への侵入は初めてではない。
警備の巡回。
監視装置の死角。
貨物区画への経路。
だいたい頭に入っている。
だからこそ。
その隔壁に違和感を覚えた。
「……こんな区画、あったか?」
船尾側。
本来なら補助機材が詰め込まれているはずの場所。
そこだけ。
新しい隔壁が増設されていた。
表面に傷が少ない。
貨物区画にしては、ロックも厳重だ。
『パウロ、どうした』
「変な扉がある」
『放っとけ。時間ないぞ』
「分かってる」
そう答えながら。
すでに端末を接続していた。
『おい』
「見るだけだ」
『お前の“見るだけ”は信用できない』
パウロが笑う。
電子錠が一つ。
二つ。
解除。
最後のロックが外れた。
重い扉が。
ゆっくり横へ滑った。
暗い。
パウロは携帯灯を向ける。
光が。
灰色の防護シートを照らした。
「……MD?」
一機。
大型の輸送固定具に収められている。
大きさは。
火星軍で使われている量産型と、ほとんど変わらない。
四メートルほど。
人型。
だが。
何かが違う。
パウロは一歩近づいた。
肩。
腰。
脚。
量産型より細い。
装甲の線も滑らかだ。
新しい。
そう思った。
なのに。
同時に。
ひどく古いものを見ているような感覚があった。
「なんだ……?」
防護シートの端を掴む。
『パウロ』
「ちょっと待て」
少しだけめくる。
赤。
光を鈍く返す装甲。
「赤……」
さらに。
頭部。
胸部。
その輪郭が現れていく。
知らない。
見たことなどない。
そう思うのに。
胸の奥に、妙な引っ掛かりがあった。
どこかで。
見た。
子供の頃の報道映像か。
古い記録か。
それとも。
夢でも見たのか。
「……変な機体だな」
『何が?』
「MDが一機ある」
『それだけ?』
「いや」
パウロは赤い機体を見上げる。
「火星のやつとは、ちょっと違う」
『新型じゃないのか』
「……そう見えなくもない」
だが。
違う。
新型という言葉が、なぜかしっくりこない。
もっと。
ずっと前から。
ここに存在していたような。
『なら放っとけ。足音が増えた』
遠く。
金属床を叩く音。
一人。
二人。
いや。
もっと。
「分かった」
パウロは最後に一度。
機体の胸部へ目を向けた。
赤い装甲の隅。
塗装に半ば埋もれた。
小さな刻印。
だが暗い。
読めない。
『パウロ!』
「今行く」
シートを戻す。
扉を閉める。
走り出す。
すぐ後ろで。
警備兵の声が響いた。
『右の通路!』
「分かってる!」
角を曲がる。
肺が熱い。
足音が追ってくる。
いつもの補給物資。
いつもの侵入。
いつもの逃走。
ただ、今日だけは一つ違った。
船の奥に、見たことのない赤いMDがあった。
それだけ、たったそれだけなのに。
パウロは走りながら。
なぜか、あの機体の姿を頭から消すことができなかった。