――まだ、月の返事を待つか?
パウロ・エンダースから届いた一文を、イムサはその日のうちに削除した。
私用端末の表示から消え、通信履歴からも消えた。
それでも。
短い言葉だけは、頭の中から消えてくれなかった。
三度出した提言。
三度の拒絶。
第十一採掘区で発見された黒い人工物。
異様なほど早かった月政府の介入。
封鎖。
移送された作業員。
消された記録。
そして、月が言った我々の知らない言葉。
――共鳴値。
イムサは執務机の上に広がる報告書から顔を上げた。
「ロウ」
「はい」
向かいの机で端末を操作していたロウ・ガルディア大尉が、嫌そうな顔をする。
まだ何も言っていない。
それなのに。
「今夜、付き合え」
ロウの指が止まった。
「嫌な予感しかしませんね」
「そうか」
「どこへ?」
「第十一採掘区」
今度こそ。
ロウは完全に動きを止めた。
数秒。
空調の低い音だけが執務室を流れる。
「……もっと嫌な予感になりました」
「行くぞ」
「命令ですか」
「ああ」
「そう言われると思いました」
深夜。
二人を乗せた小型車両は、火星居住区の灯りを背後へ置き、人気のない作業道路を走っていた。
ヘッドライトの先だけが赤茶けた地面を切り取る。
その外側には、何もない。
薄い大気。
冷え切った岩盤。
そして闇。
正面に見え始めた採掘施設は、巨大な死骸のようだった。
第十一採掘区。
公的記録では、すでに閉鎖されている。
「正面から入る気じゃないでしょうね」
運転席のロウが言った。
「お前は俺を何だと思ってる」
「最近、かなり危ないことを考える上官」
「正解だ」
「当てたくなかったですよ」
車は施設正面を避け、岩壁沿いの旧資材搬送路へ入った。
かつて採掘作業員が使っていた裏口。
今では使われていない。
少なくとも。
記録上は。
ロウが車を止め、携帯端末を確認した。
その表情が変わる。
「……電源、生きてます」
イムサは前方を見る。
岩壁に埋め込まれた搬入口。
照明は消えている。
だが端末には。
確かに電力消費が表示されている。
「閉鎖した区画のはずだ」
「ですね」
「中にいるな」
「誰かが」
二人は顔を見合わせた。
「行くぞ」
「ここで帰るという選択肢は」
「ない」
「聞くだけ無駄でした」
非常用ハッチの前。
ロウが工具を差し込み、古いロック機構を慎重に外していく。
「こういうの、軍務に入ります?」
「入ることにしておけ」
「了解」
乾いた音。
ロックが外れた。
ハッチの向こうは暗かった。
しかし。
完全な闇ではない。
坑道の奥に、青白い光が点々と続いている。
ロウが目を細めた。
「人感照明じゃない」
「常時稼働か」
「たぶん」
二人は中へ入った。
前回来た時とは違う。
古い採掘設備の脇を、真新しい黒いケーブルが這っている。
壁面には通信中継器。
計測端末。
どれも火星側では使われていない規格。
「月政府製ですね」
「ああ」
「撤収したんじゃなかったんですか」
「記録上はな」
イムサは指先で新しいケーブルに触れた。
薄く温かい。
「……嘘ばかりだ」
さらに奥へ進む。
新設された隔壁。
認証装置。
その先。
イムサは足を止めた。
「……何だ、これは」
前回来た時。
岩盤から露出していた黒い物体は、せいぜい三メートルほどだった。
今は違う。
周囲の岩が大きく削り取られている。
十数メートル。
いや。
それでも全体ではない。
黒い構造物は地中へ向かってさらに続いていた。
光をほとんど反射しない表面。
継ぎ目も。
固定部も。
加工痕すらない。
巨大な何かが、火星の岩盤そのものへ沈み込んでいる。
「……でかい」
ロウの声から、いつもの軽さが消えていた。
構造物の周囲には、月から持ち込まれたらしい測定装置が並んでいる。
リング状の機器。
複数の端末。
数え切れないケーブル。
まるで。
黒い物体から、何かを聞き出そうとしているようだった。
「記録を見ろ」
「アクセスできるかな」
「やれ」
ロウが端末へ接続する。
イムサはその横を離れ。
黒い構造物へ近づいた。
そこで。
足が止まる。
「ロウ」
「はい」
「……前に、あんなものあったか」
「何がです?」
黒い表面に。
細い線が走っていた。
幾何学的な溝。
その一本が。
微かに。
青白く光っている。
「……なかったと思います」
「俺もだ」
イムサが一歩近づいた。
光が。
強くなった。
ロウが振り返る。
「イムサ卿」
もう一歩。
一本だった光が枝分かれする。
黒い表面を這い。
眠っていた神経に血が通うように、奥へ奥へと広がっていく。
「動かないで」
ロウの声が低くなった。
「なぜ」
「測定値が跳ねてます」
「何の値だ」
「それが分かりません」
イムサが一歩下がる。
光が弱まった。
二人とも。
何も言わない。
やがてロウが、端末とイムサを交互に見た。
「……もう一回、前へ」
「俺が?」
「はい」
「お前、少し楽しんでないか」
「全然」
イムサは前へ出た。
波形が跳ねた。
黒い線が、再び光った。
一本。
二本。
三本。
光は黒い表面の奥へ走り、さらに見えない部分へ続いていく。
「……偶然か?」
イムサが言った。
「三回やれば分かります」
「やるぞ」
下がる。
数値が落ちる。
進む。
上がる。
もう一度。
同じ。
ロウがゆっくり息を吐いた。
「偶然じゃないですね」
「俺に反応してる?」
「そう見えます」
「そんな馬鹿な」
「俺もそう思います」
その時。
別の端末が、勝手に起動した。
二人が同時に振り向く。
暗かった画面に、白い文字が浮かぶ。
月政府の暗号化フォーマット。
誰も触れていない。
「ロウ」
「俺じゃないです」
表示が切り替わる。
――生体反応確認。
――同調率測定開始。
「同調……?」
イムサが画面へ近づく。
数字が上がる。
七。
十二。
二十一。
二十九。
「何の数字だ」
「分かりません」
三十四。
三十八。
四十一。
四十一・六。
その瞬間。
全ての画面が落ちた。
「ロウ?」
「俺じゃない」
照明まで消える。
暗闇。
さっきまで黒い構造物を走っていた光も消えた。
音がなくなる。
換気音すら。
イムサは、自分の呼吸だけが異様に大きく聞こえるのを感じた。
「まずい」
ロウが武器を抜く。
数秒後。
非常灯が点いた。
赤。
坑道全体が血の中へ沈んだように見える。
遠くで重い扉が閉まる音。
「誰か来る」
「戻るぞ」
「記録は」
「捨てろ」
二人は走った。
赤い照明。
岩壁。
足音。
背後から、何かが動く気配。
「侵入、バレてますよね」
「今さらだ」
「怒られますよ」
「誰に」
「月政府に」
「ちょうどいい」
「よくないです」
旧搬入口。
ロウがハッチへ飛びつく。
「急いで」
ロック解除。
二人は外へ出る。
冷たい空気。
車両へ。
「出せ」
「言われなくても!」
小型車両が砂を巻き上げ、採掘区を離れていく。
イムサは後方を見る。
追跡車両。
なし。
警告灯。
なし。
通信。
なし。
何もない。
「……おかしい」
ロウが言った。
「ああ」
「追ってこない」
「見逃された?」
「そんなわけ」
二人とも。
その先を口にしなかった。
だが同じことを考えていた。
最初から、こちらが何をするか見られていたのではないか。
*
第十一採掘区。
地下監視室。
複数の画面が薄暗い室内を照らしている。
その一つに。
採掘区から遠ざかるイムサの車両。
「侵入者、退去しました」
黒い制服の男が報告する。
通信画面に顔は映らない。
声だけが返る。
『結果は』
「反応あり」
『数値』
「最大四十一・六」
短い沈黙。
『誤差は』
「考えにくいかと」
『本人は』
「気付いていません」
『それでいい』
「拘束しますか」
再び。
沈黙。
『いや』
「しかし、再侵入の可能性があります」
『止めるな』
男が僅かに眉を動かす。
「よろしいのですか」
『観察を継続しろ』
「承知しました」
通信が切れた。
監視画面。
黒い人工物。
その表面を。
青白い光が、脈のように走っている。
表示。
――適合候補。
――IMUSA MARCEUS.
翌朝。
イムサはいつも通り執務室へ入った。
机の上に一通の封書が置かれていた。
月政府。
特別調査局。
宛名。
イムサ・マーセウス。
開封する。
中にはたった一枚。
――第十一採掘区への無許可立入を確認した。
それだけ。
処分。
なし。
事情聴取。
なし。
召還命令。
なし。
イムサは何度も読み返した。
「ロウ」
「はい」
「気味が悪いな」
「同感です」
「普通なら逮捕される」
「最低でも更迭ですね」
「なのに、何もない」
「見られてたんでしょうか」
「最初からな」
イムサは封書を机へ置いた。
紙が、やけに大きな音を立てた。
「月政府は……」
小さく呟く。
「俺に何をさせたいんだ」
答えはない。
その時。
端末が鳴った。
私用回線。
月から。
妻の到着予定通知。
三日後。
イムサは画面を見つめた。
「……間に合ったか」
「何がです」
「いや」
立ち上がり窓の外を見る。
窓の向こうに赤い火星。
その地下に眠る理解できない何か。
そして、自分が近づいた時だけ目を覚ました何か。
イムサは初めて月政府だけではなく、自分自身を少しだけ疑い始めていた。