三日後。
火星中央宇宙港。
到着ロビーの壁面には、月と火星を結ぶ定期便の情報が淡い文字で流れていた。天井は高く、白い照明が磨かれた床へ冷たく反射している。
イムサ・マーセウスは、その一角に立っていた。
軍服姿で腕を組み、いかにも落ち着いているように見える。
少なくとも本人は、そう思っていた。
「さっきから時計ばっかり見てますよ」
隣に立つロウ・ガルディア大尉が言った。
「見てない」
「今ので七回目です」
「数えるな」
「暇なんで」
「帰っていいぞ」
「ここまで来たのに?」
ロウは面白そうに笑う。
「奥様が来るんでしょう」
イムサが横目で睨んだ。
「余計なこと言うな」
「緊張してるんですね」
「黙れ」
その時。
到着ゲート上部の表示が切り替わった。
――月発・火星中央便。
――接続完了。
胸の奥が、僅かに跳ねた。
イムサは気づかないふりをして腕を組み直す。
やがてゲートが開き、人が流れ始めた。
商人。
技術者。
月政府の職員。
休暇帰りらしい軍人。
その中に。
「イムサ」
声を聞いた瞬間。
探す必要はなかった。
人波の向こう。
妻が立っていた。
片手で小さく手を振っている。
髪型も。
笑い方も。
月にいた頃と変わらない。
その姿を見た途端、三年間離れていた時間が急に現実味を帯びた。
イムサは歩み寄り。
最初に出た言葉は。
「それだけか」
妻が足元の二つの荷物を見る。
「第一声がそれ?」
「いや」
「久しぶり、とかないの?」
「……久しぶり」
「遅い」
妻が笑った。
つられて。
イムサも少しだけ笑う。
久しぶりに。
何かを警戒せずに笑った気がした。
「こちら、ロウ・ガルディア大尉」
「初めまして。マリア・マーセウスです」
マリアが頭を下げる。
「こちらこそ。いつも旦那さんには振り回されてます」
「ロウ」
「事実です」
「やっぱり?」
マリアが楽しそうに笑う。
「何がだ」
「月にいた時と変わってないんだなって」
三人は宇宙港を出た。
外部連絡通路の透明隔壁の向こうに。
火星の大地が広がっている。
赤。
赤褐色。
その上を、低い砂煙がゆっくりと流れていく。
遠くには採掘塔。
配管群。
居住区を覆う気密構造。
月の都市のような、整えられた光景ではない。
マリアの足が止まった。
「……これが火星」
「ああ」
「もっと、街みたいなの想像してた」
「月の宣伝映像なら、そう見える」
マリアが振り返る。
「違うの?」
「だいぶな」
車へ乗り込み、居住区へ向かう。
マリアは窓の外から目を離さなかった。
古びた配管。
補修材の色が違う外壁。
砂に晒された輸送路。
作業服姿の人間たち。
ところどころ。
設備の古さを隠すように、新しい月政府の標章だけが妙に目立っていた。
「思ってたより……」
「何だ」
「古い」
イムサは答えなかった。
運転席のロウも。
何も言わない。
「月だと、火星はもっと開発が進んでるって聞いてた」
「俺も来る前はそう思ってた」
「違った?」
イムサは窓の外を見る。
昨日までなら。
どう説明しただろう。
「違った」
短く。
それだけ言った。
マリアはそれ以上聞かなかった。
だが。
窓の外を見る彼女の表情から。
最初にあった観光地へ来たような好奇心だけが。
少しずつ消えていった。
*
宿舎は、軍用居住区の一角にあった。
外観は無骨だったが、室内は思っていたより普通だった。
簡易キッチン。
小さな食卓。
端末。
二人掛けのソファ。
寝室には、広くはないが二人で使えるベッドがある。
「ここ?」
「ああ」
マリアは荷物を床へ置き、室内を見回した。
「思ったより普通」
「何を想像してた」
「もっと軍人っぽい部屋」
「どういう部屋だ」
「壁に剣が飾ってあるとか」
「いつの時代だ」
「あなた士族でしょ」
「下級な」
「そこ気にするんだ」
マリアが笑いながら机へ近づく。
その手が一枚の紙へ伸びた。
「これ何?」
イムサの身体が反応した。
「触るな」
思った以上に強い声が出た。
マリアの指が止まる。
室内の空気まで一瞬止まったように感じた。
「……ごめん」
「いや」
イムサはすぐに紙を取った。
月政府特別調査局。
第十一採掘区への無許可立入を確認した。
たったそれだけの通知。
「俺が悪い」
マリアは何も言わなかった。
だから余計に自分の声の強さが胸に残る。
「仕事のものだ」
「そう」
「大したものじゃない」
「嘘」
即答だった。
イムサが黙る。
「何?」
「何でもない」
「またそれ?」
マリアの顔から笑みが消えた。
「火星に来てって言われて」
「ああ」
「仕事辞めて」
「悪かった」
「責めてない」
「じゃあ」
「でも」
マリアは椅子へ座った。
長い移動で疲れているはずなのに。
その目だけは真っ直ぐイムサを見ていた。
「何も話さないなら、私を呼んだ意味ないでしょ」
言葉が出なかった。
マリアは少し間を置く。
「ねえ」
「何だ」
「あなた、何かしようとしてる?」
「……」
「月にいた時より、顔が怖い」
「そんなにか」
「うん」
「老けた?」
「そういうことじゃない」
イムサも向かいに座る。
机を挟んでしばらく二人とも黙っていた。
「火星に」
ようやく。
イムサが口を開いた。
「おかしなものがある」
「おかしなもの?」
「ああ」
「何?」
「それ以上は言えない」
「言えないの?」
「ああ」
「私にも?」
「……今は」
マリアが息を吐く。
「じゃあ、別の質問」
「何だ」
「あなたは月に戻る?」
その問いは予想していなかった。
イムサは答えられない。
マリアの顔が少しだけ寂しそうになる。
「戻らないんだ」
「まだ決めてない」
「でも、そう思ってる」
「……」
「だから私を呼んだのね」
イムサは目を逸らした。
「親父たちは月にいる」
「お兄さんも」
「ああ」
「妹さんも」
「ああ」
「みんな置いて?」
「だからこそ」
「どういうこと?」
「全員を動かせば目立つ」
口に出した瞬間しまったと思った。
マリアの表情も変わる。
「……目立つ?」
「違う」
「違わないでしょ」
「言葉の綾だ」
「イムサ」
マリアの声が低くなる。
「あなた、私を逃がしたの?」
返事ができない。
「月から」
沈黙。
それだけで十分だった。
マリアが立ち上がる。
怒っている。
怖がっている。
その両方かもしれなかった。
「何が起きるの」
「まだ何も起きない」
「また“まだ”?」
イムサは目を閉じた。
「本当に、何も決めてない」
「でも」
「ただ」
マリアを見る。
「もし何かあった時」
「……」
「お前が月にいるのは嫌だった」
マリアは何も言わない。
「それだけだ」
長い沈黙。
やがてマリアが小さく息を吐いた。
「ずるい」
「何が」
「そう言われたら怒れない」
「怒っていい」
「もう怒ってる」
「そうか」
「かなり」
「悪かった」
「それで済ませないで」
「努力する」
「何を」
「怒られ方を考える」
「馬鹿」
マリアがほんの少し笑った。
イムサも少しだけ。
その夜、久しぶりに何も考えず眠った。
オーパーツ。
月政府。
第十一採掘区。
パウロ・エンダース。
火星。
全部。
ほんの数時間だけ頭から消えた。
翌朝。
端末に一件の通知が入っていた。
月政府中央人事局。
イムサ・マーセウス。
火星方面軍司令部。
出頭命令。
送信元。
月。
期日。
十日後。
イムサは画面を見つめたまましばらく動かなかった。
「……早いな」
背後からマリアの声。
「何が?」
イムサは端末を閉じる。
画面が消える。
「いや」
振り返る。
「仕事だ」
それだけ答えた。