月政府中央人事局。
出頭命令。
期日、十日後。
イムサ・マーセウスは、執務机の上に浮かぶその文字を、もう何度目か分からないほど読み返していた。
理由はない。
事情聴取とも、任務変更とも、査問とも書かれていない。
ただ。
――王都中央庁舎へ出頭せよ。
それだけだった。
火星の朝は、相変わらず無機質だった。
窓の向こうには赤褐色の地表と採掘塔。遠くでは砂塵が薄く流れ、居住区の外壁を叩いている。
室内では空調が低く唸っていた。
「で?」
ロウ・ガルディア大尉が言った。
端末から顔を上げ、椅子の背へ身体を預ける。
「行くんですか」
「命令だ」
「質問に答えてません」
イムサは端末を閉じた。
「行かない理由がない」
「ありますよ」
「何だ」
「第十一採掘区」
短い沈黙。
ロウは指を一本立てる。
「無断侵入」
二本目。
「オーパーツに接近」
「触ってはいない」
「近づいたら光った」
「それは事実だ」
「それで処分なし」
ロウはそこで手を止めた。
「普通なら、どれか一つでも問題でしょう」
「だからといって今回の出頭命令と結びつける理由にはならん」
「本当にそう思ってます?」
イムサは答えなかった。
ロウは続ける。
「採掘区から戻って三日後、マリアさんが火星到着」
「それは関係ない」
「その翌朝に月から呼び出し」
「偶然だ」
「タイミング良すぎません?」
イムサは椅子から立ち上がり、窓のそばまで歩いた。
赤い大地。
三年間、毎日のように見てきた景色。
赴任したばかりの頃は、ここは一時的な勤務地だと思っていた。
任期が終われば月へ帰る。
それだけだった。
今は月へ戻るという言葉に、以前とは違う重さがある。
「俺は月政府の軍人だ」
背を向けたまま言う。
「今のところは」
「ロウ」
「冗談です」
「笑えない」
「だから言ってるんですよ」
イムサは振り返った。
「出頭する」
ロウの表情から軽さが消える。
「本気で?」
「ああ」
「そのまま更迭されたら?」
「あり得る」
「拘束されたら」
「それもな」
「なら――」
「だからといって命令を無視した瞬間」
イムサはロウの言葉を遮った。
「俺は反逆者になる」
その言葉だけが、室内へ重く落ちた。
ロウは何も言わなかった。
イムサ自身も口にして初めて、その境界線の薄さを意識した。
「俺はまだ」
ゆっくり言う。
「反逆者じゃない」
その日の夕方。
私用端末に、短い通信が入った。
発信者、パウロ・エンダース。
本文は一行。
――話がある。
場所も以前と同じだった。
*
旧水処理施設。
日が落ちたあとの建物は、以前にも増して寒々しく見えた。
役目を終えた配管が暗闇の中を這い、足元には薄い砂埃が積もっている。遠くで水滴の落ちる音だけが、やけに大きく響いていた。
「またここか」
イムサが言う。
薄暗い制御室の壁にもたれていたパウロ・エンダースが、肩をすくめた。
「家賃が安い」
「住んでるのか」
「住めると思うか?」
「お前なら住みそうだ」
「ひどいな」
軽口。
いつもなら、そこで少し空気が緩む。
だが今日は違った。
パウロの顔は笑っていない。
「月から呼ばれたそうだな」
イムサの目が細くなる。
「情報が早いな」
「火星は狭い」
「それで?」
「行くのか」
「ああ」
即答だった。
パウロは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「戻ってこれないぞ」
「ロウにも同じことを言われた」
「なら部下の話くらい聞け」
「根拠は」
「ない」
「なら話にならない」
「根拠がなきゃ危険を感じちゃいけないのか」
「軍人はそれでは困る」
「だから軍人は面倒なんだ」
パウロは壁から身体を離した。
「イムサ」
初めて卿を付けなかった。
「何だ」
「お前は、自分が思ってるより今の火星で目立ってる」
「知ってる」
「知らない」
パウロは一本ずつ指を折った。
「火星に三年いる」
「住民側に寄る」
「中央政府に何度も予算を要求する」
「機密区画へ侵入する」
そして最後の一本。
「反政府組織の指導者と会ってる」
「それだけ聞くと最低だな」
「だろ?」
「お前が言うな」
パウロが少し笑った。
だがすぐ目だけは真剣なまま戻る。
「月から見れば、それで十分なんだよ」
イムサは黙った。
「行くなら止めない」
「そうか」
「ただ」
「何だ」
「帰って来られると思うな」
イムサは返事をしなかった。
*
宿舎へ戻った頃には、夜も深くなっていた。
扉を開けると温め直した料理の匂いがした。
マリアは荷解きの途中だった。
「遅かったね」
「ああ」
「夕飯、冷めた」
「悪い」
「温める」
「そのままでいい」
「まずいよ」
「腹に入れば同じだ」
マリアが呆れたように笑う。
「そういうところ、本当に変わらない」
食卓に向かい合わせに座る。
久しぶりに夫婦で食事をしている。
それだけのことなのに。
イムサには妙に遠い日常のように感じられた。
「月に行くの?」
箸が止まった。
「聞いたのか」
「端末の予定表に出てた」
「見るなと言っただろ」
「予定表くらい見える」
「……そうか」
「一人で?」
「ああ」
「十日で帰ってくる?」
「たぶん」
「たぶん?」
マリアが手を止める。
「ねえ」
「何だ」
「戻ってくる?」
また同じ質問。
ロウ。
パウロ。
そしてマリア。
三人目だった。
「戻る」
今度は自分に言い聞かせるように答えた。
その夜。
マリアが眠ったあと枕元の端末が、小さく震えた。
私用回線。
発信元、月。
表示された名前を見て、イムサは眉を寄せた。
兄だった。
こんな時間に連絡してくることなど、ほとんどない。
寝室を出る。
扉を閉め照明を落としたまま通話を開く。
「兄上?」
画面に兄の顔が映った。
『イムサ』
「どうした」
『今、一人か』
声が低い。
「マリアは寝ている」
『そうか』
「何かあったのか」
返事がない。
背後は暗い。
見慣れた自宅ではない。
「どこにいる」
『それはいい』
「よくない」
『聞け』
その一言でイムサは黙った。
兄がこんな話し方をするのを初めて聞いた。
『中央から出頭命令が来ただろう』
「ああ」
『何日だ』
「十日後」
兄の表情が僅かに歪んだ。
『……やはりか』
イムサの背筋を、冷たいものが走る。
「何を知ってる」
『何も』
「嘘をつけ」
『イムサ』
「何だ」
兄は一度画面の外を見る。
誰かの気配を気にしているように。
そして声を落とした。
『月へ戻るな』
イムサは動かなかった。
「……何?」
『戻るな』
「理由を言え」
『言えない』
「兄上」
『俺から連絡があったことも忘れろ』
「待て」
『いいか』
声がさらに小さくなる。
『絶対に――』
通信が切れた。
「兄上?」
応答なし。
再接続、失敗。
別回線、失敗。
もう一度、繋がらない。
イムサは端末を握ったまま。
暗い部屋に立ち尽くした。
寝室からはマリアの静かな寝息が聞こえる。
火星の夜。
遠くに響く居住区の機械音。
月へ戻れば、何が待っている。
戻らなければ、自分は何になる。
答えはどちらも分かっていた。
そしてどちらも、選びたくなかった。