夕焼けに染まった遊歩道を飛び出し、圭一は人の流れとは逆方向へ駆けていた。
先ほどまで穏やかだった興宮の街は、わずか数分の間に空気を変えている。商店街の向こうから逃げてくる人々の顔には明らかな怯えが浮かび、何人かは振り返ることすらせずに走り続けていた。遠くでは何か硬いもの同士がぶつかるような轟音が断続的に響き、そのたびに道路脇の窓ガラスが微かに震えている。
圭一は人混みを抜けながら鞄の中へ手を突っ込み、赤いランプを点滅させている無線機を掴んだ。
この大きさでは走りながら堂々と使うわけにもいかない。通りから一本外れた細い路地へ飛び込み、周囲に人がいないことを確認してから通信を入れた。
「詩音!」
雑音が一瞬走り、すぐに聞き慣れた声が返ってくる。
『圭ちゃん!? 聞こえますか!』
「聞こえる! 何が起きてる!?」
『私にもまだよく分かりません! 川沿いの再開発地区です。工事現場の近くで、何か……でっかい人が暴れてます!』
「でっかい人?」
『人だと思います。多分』
「多分って何だよ!」
『見れば分かりますって!』
その直後、無線越しにも轟音が響いた。詩音の声が途切れ、代わりに遠くで人の悲鳴が聞こえる。圭一の表情が変わった。
「詩音、お前どこにいる?」
『現場の近くです』
「近くってどれくらいだよ」
『……百メートルくらい?』
「近すぎるだろ!」
圭一は思わず怒鳴った。
『だって状況分からないと連絡出来ないじゃないですか!』
「情報収集で死にかけてどうすんだよ!」
返事を待たず、圭一は路地の壁へ手を掛けた。一気に登る。
今では壁を這うこと自体にはかなり慣れていた。手足が吸いつく感覚も、体重を支えるためにどこへ力を入れればいいのかも、数週間前ほど意識する必要はない。二階建ての建物の屋根へ上がると、そこから先の景色が開けた。
すぐ分かった。
人が集まっているのではない。
逃げている。
新しく整備された道路の一角を中心に、人々が蜘蛛の子を散らすように離れていく。その向こうでは一台の乗用車が横向きになり、道路脇の柵は途中から大きく曲がっていた。工事用の仮囲いも一部が倒れ、粉塵が夕方の光の中へ薄く舞い上がっている。
そして、その中央に。
大きな人影がいた。
「……何だ、あれ」
圭一は思わず呟いた。
身長そのものが二メートルあるわけではない。
だが、肩幅が異様に広い。
腕も、脚も、普通の人間の太さではなかった。
灰色がかった何かが身体の表面を覆い、その下では筋肉のような隆起が不自然に膨らんでいる。金属鎧のように硬質な見た目ではなく、むしろ分厚い皮膚と防護素材を重ね合わせたような印象だった。
肩から背中にかけては特に大きく盛り上がり、腕を動かすたび、その灰色の外装の下で何かが収縮する。
人工筋肉。圭一はデパートの展示を思い出した。鹿骨総合生体科学研究所。人工筋肉。補助装具。未来の技術。
その言葉が頭の中で一瞬だけ繋がった。
さらに頭部。額から前方へ突き出した、鈍く太い突起。
まるで――。
「……サイかよ」
圭一の口から、素直な感想が漏れた。
しかし次の瞬間、別の問題に気づく。
「……仮面」
ない。今日の自分は魅音と遊びに来ていただけだ。夜の見回り用の簡易マスクも持っていない。そのまま顔を出して飛び込めば、今度こそ大勢の人間に正体を見られる。
「最悪だ……!」
圭一は屋根の上を走りながら周囲を見回した。何かないか。布でもいい。帽子でもいい。
最悪、袋でも被るしかない。
屋根から隣の建物へ飛び移り、そのまま商店街の裏手へ降りる。営業途中の店も、騒ぎを聞いて店員が外へ出ているところが多かった。
そこで圭一の目に、一つのものが飛び込んだ。
玩具や祭り用品を扱っている小さな店。
軒先に吊るされているお面。狐。ひょっとこ。おかめ。
そして。
赤鬼。
「…………」
圭一は数秒固まった。
他に選択肢がない。
「くそっ!」
店先へ走り、赤鬼のお面を一つ掴む。
「おっちゃん! これ後で金払う!」
店の奥から、
「はぁ!?」
という声が聞こえたが、説明している暇はなかった。
お面を顔へ付ける。視界が狭い。鼻が当たる。頬も痛い。しかもものすごく格好悪い。
だが今はそれどころではない。
圭一は再び壁へ手を掛けた。
「詩音!」
無線を入れる。
『はい!』
「今から行く! 絶対そいつに近づくな!」
『それがですね』
詩音の声が妙に引きつった。
「……何だよ」
『向こうから近づいてきてます』
圭一の背筋を、嫌な感覚が走った。蜘蛛感覚。まだ弱い。
だが確かにある。
「詩音、走れ!」
詩音が振り返った時には、すでに遅かった。道路の向こう。灰色の巨体が、こちらへ身体を向けている。
目が合った。
「……嫌な予感って、こういう時は当たるんですよねぇ」
自分で呟きながら、一歩後ろへ下がる。男は荒い呼吸をしながら首を傾けた。
顔の全部が覆われているわけではない。
口元も、目も、人間のものだった。
ただし、血走った目にはまともな理性と呼べるものがどれほど残っているのか分からなかった。灰色の外装に覆われ、肩も腕も記憶にある姿より一回りどころか二回りは膨れ上がっている。それでも、露出した口元と頬の輪郭、そして何より、喉の奥から絞り出すような声には聞き覚えがあった。
「そこ、退けや」
その一言を聞いた瞬間、詩音の表情が僅かに変わった。園崎家に生まれていれば、望む望まないに関係なく、興宮周辺で誰が何をしているのかという話は耳へ入ってくる。まして、金の貸し借りや酒、女、暴力沙汰といった厄介事の周囲をうろつく人間となれば、なおさらだった。
詩音自身、まともに話したことがあるわけではない。それでも顔と名前くらいは知っている。
北条鉄平。
沙都子と悟史の叔父にあたり、園崎家の人間から見ても「関わらない方がいい」と評される類の男だった。
「……北条、鉄平?」
思わず名前が漏れる。
目の前の男は、それに答えるような素振りを見せなかった。あるいは、聞こえていてもどうでもいいのかもしれない。ただ苛立ったように鼻を鳴らすと、分厚い肩を僅かに前へ出した。詩音は素早く道路の反対側へ視線を送った。
状況は最悪だった。
背後には建物の壁があり、横には先ほど鉄平の突進に押し出された車が斜めに止まっている。その向こうへ抜ける隙間はあるものの、今から走り出して間に合うかどうかは怪しい。
「退けと言われましても」
それでも、詩音は出来るだけ平静な声を作った。
「こんなところで暴れられたら、こっちも退きようがないんですけどね」
「邪魔じゃ」
鉄平の声には、苛立ちしかなかった。詩音はその身体を改めて見る。
北条鉄平という男が元々大柄なのは知っている。しかし、今のこれは明らかに人間の体格ではない。肩から上腕、胸から背中にかけて灰色の素材が筋肉のように盛り上がり、その下で何かが脈打つように収縮している。皮膚の上へ防具を着込んでいるというより、人間の身体そのものへ別の筋肉を被せたような、不気味な見た目だった。
しかも、その身体のどこにも「偶然こうなった」と思える要素がない。
誰かが作った。詩音の頭に、そんな考えが過ぎる。
「……それ」
問いかけようとしたところで、男の顔が歪んだ。
「ごちゃごちゃうるさいんじゃ!」
怒声と同時に、太い脚が地面を踏み込む。その瞬間、詩音には分かった。
来る。
身体の大きさから想像するような、重たく鈍い動きではなかった。人工筋肉らしきものが一斉に縮み、灰色の巨体が前へ傾いたかと思った次の瞬間には、鉄平の身体そのものが弾き出されるようにこちらへ向かっていた。
「っ――!」
詩音は咄嗟に横へ逃れようとする。
だが、狭い。
右には車、左には壁。身体一つを滑り込ませる場所はあっても、あの速度で迫ってくる巨体から逃げ切れるほどの距離ではなかった。視界の中で鉄平が急速に大きくなる。額から前へ伸びた灰色の突起。その奥にある、血走った目。
詩音は歯を食いしばった。間に合わない。
――そう思った、その瞬間。
頭上から何かが降ってきた。
「詩音!」
聞き慣れた声。
「圭ちゃん!?」
振り向く暇もなかった。腰へ強い腕が回り、身体が横から攫われるように浮き上がる。それとほぼ同時に、頭上のどこかで縄が強く張る音がし、次の瞬間には詩音の足が完全に地面から離れていた。
「ちょ、ちょっと――!」
二人の身体が大きく横へ振られる。ほんの一瞬前まで詩音が立っていた場所を、灰色の巨体が轟音と共に突き抜けていった。圭一は片手で詩音を抱え、もう片方の手で十三号の縄を握っていた。
縄の先は、道路上の照明設備の支柱へ掛かっている。二人の身体が大きく横へ振られる。
「うおおおおおっ!」
「ちょ、ちょっと圭ちゃん!?」
振り子のように道路を横切った。
直後。
その下を灰色の巨体が突っ切る。
ドンッ――!
背後の車へ激突。車体が横へ押し出され、タイヤが悲鳴のような音を立てる。圭一は縄を離し、建物脇の空いた場所へ着地した。勢いを殺し切れず、二、三歩よろめく。
それでも詩音を落とさず立ち止まった。
「っ……!」
「圭ちゃん、大丈夫ですか!?」
「俺より自分の心配しろ! あと、どうしてお前はいつもこういう面倒事のど真ん中にいるんだよ!」
「別に好きでいるわけじゃありませんよ!」
圭一は詩音を地面へ下ろすと、握っていた十三号の縄を素早く手繰り寄せた。振り子の要領で飛び込んだまではよかったが、着地の際に右足を少し捻ったらしい。足首に鈍い痛みが残っているものの、幸い動かすのに支障はなさそうだった。
だが、安心するにはまだ早い。背後を振り返れば、先ほどまで詩音の立っていた場所に、灰色の巨体が悠然と佇んでいた。
男が突っ込んだ乗用車は車体の側面を大きく歪ませ、道路脇まで押し出されていた。幸い車内に人影は見当たらないものの、あんなものを人間が体当たりで動かしたという事実が、どうにも信じられない。圭一は改めて男の全身を観察した。
身体が大きいだけではない。腕や脚は異様なほど太く、その表面を覆っている灰色の物体が、呼吸に合わせるように僅かに伸縮している。胸板から肩にかけての隆起も不自然で、よくある防具とは明らかに構造が違った。
鎧を着込んでいるようにも見えるが、金属らしい光沢はなく、動くたびに柔らかく形を変えている。かと思えば、先ほどの衝突では車体の方が先に潰れた。何がどうなっているのか、圭一にはまるで見当がつかなかった。
「……お前」
男の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「蜘蛛男か?」
圭一は僅かに眉を動かした。
「へえ。そんな呼び方、もう広まってんのか?」
「最近この辺でちょろちょろしとる、妙なガキがおるって聞いとったが……お前かい」
「さあね。こっちは今日、ただの休日を楽しんでた善良な学生なんだけどな」
「何やと?」
「だからさ、こんな真っ昼間から車ぶっ壊して大暴れしてる奴に、あんまり偉そうな顔されたくねぇんだよ」
圭一は軽口を叩きながらも、男の足元から目を離さなかった。先ほどの突進は明らかに異常だった。巨体に似合わない加速もそうだが、あれだけの勢いで車へぶつかっておきながら、男自身には大した影響がないように見える。それに、もう一つ気になることがあった。こちらが現れてから、男の関心が明らかに自分へ移っている。
先ほどまで周囲のものを見境なく壊していたらしい男が、今は圭一の動きを追い、まるで別の獲物を見つけたような笑みを浮かべているのだ。
「圭ちゃん……」
傍らの詩音が、緊張した声で呼びかける。
「何だ?」
「あの人、私、知ってます」
「知り合いか?」
「ええ。まあ、知り合いと言うほど親しくはありませんけど……」
詩音は言いかけて、口を閉ざした。男の肩が低く沈んだのである。
「――詩音!」
圭一は咄嗟に詩音の腕を引き寄せると、二人まとめて横へ跳んだ。
直後、灰色の巨体が猛烈な勢いで突進し、つい先ほどまで二人が立っていた位置を通過した。そのまま後方の建物へ肩から衝突し、コンクリートの壁面に大きな亀裂を走らせる。腹の底へ響くような衝撃音がした。
「うおっ……!?」
跳躍の途中で振り返った圭一は、思わず声を上げた。壁の表面が砕け、細かな破片が道路へ散らばっている。男は壁から肩を引き抜くと、何事もなかったように首を回していた。
人間の身体で、あんな真似が出来るものだろうか。
いや、そもそも自分だって大概なのだ。今さら他人の非常識をどうこう言える立場ではないが、それにしても限度というものがある。
「……おいおい、冗談だろ」
「圭ちゃん、あの人に常識を期待しても無駄ですよ」
「見りゃ分かる! っていうか、お前、知ってる奴なら何とか言って止められねぇのか!?」
「そんな聞き分けのいい人なら、最初から苦労しません!」
まったくもってその通りだった。圭一が舌打ちした、その時である。
通りの向こうから甲高いタイヤの音が聞こえ、一台の黒い乗用車が道路脇へ急停車した。運転席から降りてきたのは、見覚えのある大柄な男だった。
「詩音さん!」
「葛西!」
「呼んでたのか!?」
「万が一の時の保険ですよ!」
「保険が必要な場所まで近づくなって言ってんだろ!」
圭一は呆れながらも、内心では安堵していた。葛西が来てくれたのなら、少なくとも詩音の避難については心配しなくて済む。
「葛西さん! 詩音を頼みます!」
葛西は状況を一瞥すると、すぐに頷いた。
「分かりました。圭一さんは?」
「俺はこいつを何とかします。人が多いところへ行かないようにだけ気をつけてください!」
「承知しました」
葛西が後部座席の扉を開くと、詩音は一度だけ圭一を振り返った。
「圭ちゃん、本当に一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫かどうかは、正直まだ分かんねぇけどな」
圭一は肩を竦めた。
「少なくとも、お前を抱えて走り回るよりはずっと楽だ」
「もう、こういう時まで憎まれ口ですか」
「どっちが言う!」
それでも詩音は、すぐには車へ乗ろうとしなかった。先ほどまでの軽薄な笑みが消え、珍しく真剣な顔で圭一を見つめている。
「……無茶はしないでくださいよ」
その声を聞いて、圭一も少しだけ表情を和らげた。
「ああ。何かあったら無線で呼ぶ」
「絶対ですよ?」
「分かったって!」
詩音はようやく葛西の車へ乗り込んだ。黒い車が道路へ戻り、避難する人々の流れに沿って遠ざかっていくのを見届けると、圭一は一度深く息を吐いた。これで、余計なことを考えずに済む。
もちろん、詩音が余計な存在だというわけではない。
ただ、あんな巨体を相手にしながら、彼女の安全まで同時に考えるのはあまりにも難しかった。
圭一は傍らに置いていた鞄を拾い、無線機の本体を腰のベルトへ固定し直した。現場へ来る途中で片耳へ押し込んだイヤホンは幸い外れていない。襟元の簡易マイクも、多少邪魔ではあるものの使える状態だった。
もっとも、この大きさといい、飛び跳ねるたびに暴れるコードといい、実戦向きとは到底言えない。
「……帰ったらこいつもどうにかしねぇとな」
そう呟いた直後、無線から雑音混じりの声が届いた。
『圭ちゃん、聞こえますか?』
「聞こえてる。そっちは?」
『葛西と一緒に現場から離れてます。もう建物の向こうへ出ちゃったので、こっちからは何も見えませんけど……』
「そりゃよかった。無理して戻ってくるなよ」
『分かってます。だから圭ちゃん、今どんな状況か、出来るだけ教えてくださいね』
「ああ。俺が何か言わない限り、そっちには分からねぇもんな」
『そういうことです。今の無線じゃ声しか聞こえませんから』
「了解!」
圭一は通信を切らずに、灰色の男へ向き直った。男は先ほどの車を目で追っていたが、圭一の姿を見ると再び唇を歪めた。
「……逃がしたんか」
「ああ。女の子を怖がらせる趣味はないんでね」
「ほぉ。なら、お前が代わりに相手してくれるっちゅうことかい」
「まあ、そうなるな」
圭一は両手を軽く広げる。
「ただし、一つ条件がある」
「何じゃ」
「これ以上、周りのもの壊すなよ。あと、人に手ぇ出すのも禁止だ」
男は数秒ほど圭一を見つめ、それから腹の底で笑い始めた。
「はっ、はははは! 何を偉そうに言うとるんじゃ、クソガキが!」
「いやぁ、それほどでも」
「褒めとらんわ!」
「知ってるよ!」
怒声と同時に、男が地面を蹴った。その瞬間、圭一は笑みを消した。
速い。
巨体が沈み込んだかと思うと、次には数メートルの距離を一息に詰めていた。身体が前へ出るより僅かに早く、頭の奥へ嫌な感覚が走る。
蜘蛛感覚。
圭一は右足を軸に身体を捻り、襲いかかる灰色の肩を紙一重で躱した。すれ違いざま、相手の横腹へ拳を叩き込む。
ゴッ、と重たい音がした。
「っ……!」
まるで分厚いタイヤを殴ったような感触だった。確かに衝撃は伝わったはずなのに、男の身体はほとんど揺れなかった。拳を受けた部分が奇妙に沈み込み、すぐ元の形へ戻ったように見える。
圭一はそのまま身体を回転させて距離を取り、思わず右手を開閉した。
「……硬ぇな、おい」
男はゆっくりと振り返った。
「何や、それが精一杯か?」
「まさか。今のは挨拶だよ、挨拶」
「ほんなら、もっと本気で来いや!」
男が再び突っ込んでくる。圭一は今度、道路脇の建物へ向かって走った。壁へ足を掛け、そのまま垂直に駆け上がる。男の拳が自分のいた場所を通過するのを頭上から確認し、身体をひねって背後へ着地すると、すぐさま踏み込んだ。狙うのは背中ではない。まず右膝の裏。圭一は横から鋭い蹴りを放った。男の脚が僅かに曲がる。続けて腰へもう一撃。さらに肩口へ跳び上がり、回転の勢いを乗せた踵を叩き込んだ。
「ぐっ……!」
今度は少しばかり反応があった。男の上半身が横へ傾き、片足が道路を擦る。圭一は着地してすぐ追撃に移ろうとしたが、そこで男が勢いよく腕を振り回した。
「ちょこまかと……!」
灰色の腕が、横殴りに迫る。圭一は咄嗟に頭を下げた。猛烈な風が頭上を通り過ぎ、そのまま背後の金属看板へ激突する。
ガァンッ!
金属のひしゃげる音。看板が支柱から外れ、道路へ落下した。
「うわっ、危ねぇ!」
圭一が叫んだのは、自分に対してではなかった。看板のすぐ近くには、避難し遅れたらしい中年の男性がいたのだ。男は落下した看板に驚いて尻餅をつき、その場から動けなくなっている。
「おっちゃん! 早く逃げろ!」
圭一は駆け寄って男性を立ち上がらせ、店の奥へ続く通路へ押しやった。
「裏から出られるか!?」
「え、あ、ああ……!」
「じゃあそっちから! 表に出てくんなよ!」
男性が慌てて駆け出すのを確認した、その直後。背後から地面を踏み鳴らす音が響いた。
圭一の背筋を、再び蜘蛛感覚が駆け抜ける。
「っ――!」
振り向くより先に身体を投げ出した。男の巨体がすぐ横を通過し、そのまま商店のシャッターへ突っ込んだ。鉄板が大きく歪み、耳障りな音を立てながら店内側へ押し込まれる。圭一は道路を転がってから立ち上がり、壊れたシャッターと男を交互に見た。
「……おいおい」
この時、圭一はようやく一つのことを理解した。
自分が避けるだけでは駄目なのだ。
今までの喧嘩なら、攻撃を躱して相手の隙を突けばよかった。怪力を手に入れてからは、なおさらである。相手の攻撃を見切り、適当なところで一撃を入れれば、それで大抵のことは済んでいた。
しかし、今は違う。目の前の男は、自分に攻撃を当てられなかったからといって止まるわけではない。圭一を狙って振り抜いた拳はそのまま看板を壊し、圭一へ向かって放たれた突進は背後の店を破壊する。避ければ済む。それは自分一人の話だった。
「……くそっ」
圭一は小さく舌打ちした。自分が安全な場所へ逃げれば逃げるほど、こいつの攻撃が街へ向かってしまう。
だったら、戦う場所そのものを変えるしかない。
『圭ちゃん? 今、すごい音がしましたけど……』
無線から詩音の声が聞こえた。
「ああ。店のシャッターぶっ壊しやがった」
『圭ちゃんが?』
「俺じゃねぇよ!」
『いや、念のために確認しただけです』
「どんな確認だよ!」
圭一は男から目を離さないまま、建物の向こうへ視線を走らせた。
川沿いの再開発地区は、整備された道路と古い建物がまだ入り混じっている。現在いる場所から北へ進めば商店が続いているが、反対側には工事中の広い区画があった。仮囲いに覆われたその一帯は、休日のためか作業員の姿も見当たらない。あそこなら。