あそこなら、少なくとも、普通の店や住宅を巻き込まずに済む。圭一は男の方へ向き直った。
「なあ、そこのサイ男!」
「……誰がサイじゃ!」
「お前以外に誰がいるんだよ! その頭のツノ、どう見たってサイだろ!」
男の表情が険しくなる。
「舐めとんのか!」
「いやぁ? なかなか立派なツノだと思ってさ!」
圭一はわざと大きな声で笑った。
「もっとも、肝心の中身は随分と鈍そうだけどな!」
それはあからさまな挑発だった。しかし、男には十分だったらしい。
「……ぶっ潰したる!」
「おっ、やる気になったな!」
圭一は踵を返し、工事区画の方へ走り出した。
「だったらこっちまで来いよ! そんな図体で俺に追いつけるならな!」
背後から怒声が響く。男が追ってきた。地面を踏み込む重たい音が、急速に近づいてくる。圭一は思わず振り返り、目を見張った。
「うおっ、速ぇ!?」
普通に走っているだけでは、距離が縮まってしまう。圭一は近くの建物の壁へ跳びつくと、数歩だけ駆け上がり、そこから一気に道路の向こうへ跳躍した。空中で身体を翻し、工事区画を囲む仮囲いの内側へ着地する。男はその様子を見て一瞬だけ立ち止まったが、すぐに低く唸った。
「逃げんなぁ!」
「逃げてねぇっての! こっちに来い」
男が仮囲いへ向かって突進した。鈍い轟音と共に板が押し倒され、灰色の巨体が工事区画へ躍り込んでくる。圭一はその光景を眺めながら、内心で冷や汗をかいた。なるほど。普通の障害物では止まらないらしい。
「……とんでもねぇ奴だな」
『どうなりました?』
「とりあえず工事現場まで連れてきた。もう人はいないと思う」
『本当に大丈夫なんですか?』
「分かんねぇ。けど、さっきよりはずっとマシだ」
圭一はそう答えながら、十三号を握り直した。この男とまともに力比べをしたら、恐らく分が悪い。少なくとも、殴り合いで簡単に決着がつく相手ではないだろう。ならば、別の方法を使う。圭一の視線が縄へ落ちた。強靱な繊維を芯材にして、特殊な蜘蛛の糸から得られた成分を組み合わせた試作品。幾度も失敗を重ね、ようやく満足のいく強度へ近づいた十三番目の実験品。まだウェブとは呼べない。それでも、今の圭一にとっては最も信頼できる道具だった。
「……頼むぞ、十三号」
男がこちらへ身体を向ける。両足を大きく開き、灰色の肩を沈めた。来る。圭一はその動きに合わせて横へ走り、十三号を近くの鉄骨へ回した。自分の身体を支点から遠ざけるように移動しながら、男の進路へ縄を渡す。次の瞬間、男が突進した。縄が張る。腕に、凄まじい力が伝わってきた。
「ぬおっ……!」
圭一は歯を食いしばって踏ん張った。十三号が軋む。相手の勢いを正面から受け止めるにはあまりにも負担が大きいが、完全に止める必要はない。ほんの僅かにでも進路を変えることが出来ればいい。圭一は身体を捻り、引く方向を変えた。男の巨体が横へ流れる。
「なっ……!?」
足元が乱れ、灰色の身体が大きく傾いた。男は数歩ほどよろめいた末、土砂の積まれた場所へ肩から突っ込んだ。乾いた土が舞い上がり、周囲へ砂埃が広がる。
「っしゃあ!」
圭一は思わず拳を握った。効いた。怪力で押し返すことは出来なくても、勢いの方向を変えることは出来る。これなら勝負になる。男はすぐに起き上がり、肩に付着した土を荒々しく払った。
「小賢しい真似しおって……!」
「いやぁ、何しろこっちは蜘蛛なんでね。真正面から角を突き合わせるより、こういうのが得意なんだよ」
『……蜘蛛?』
無線から詩音の声が聞こえた。
「何だよ」
『圭ちゃん、さっきから相手のことをサイって呼んでますよね』
「ああ。どう見てもそうだろ」
『じゃあ、ライノですね』
「……ライノ?」
『サイの英語ですよ。結構格好よくありません?』
圭一は思わず吹き出した。
「お前なぁ、人が必死で戦ってる時に何を考えてんだよ!」
『だって、いつまでもサイ男じゃ格好悪いでしょう?』
「俺が命名することになってんのかよ!」
『名前がないと困りますからねぇ』
「何に困るんだよ!」
そこまで言ったところで、男が再び身体を低くした。圭一は咄嗟に口を閉ざし、十三号を握り直した。また来る。しかし、今度は先ほどと少し違った。男は真っ直ぐ突進するかに見せかけて、途中で急に身体の向きを変えたのである。
「なっ――!」
圭一は慌てて後退した。十三号を渡す位置がずれる。その僅かな隙を見逃さず、男は大きな腕を振るって縄を掴んだ。
「同じ手を何度も食らうと思うとんのか!」
「げっ!」
次の瞬間、圭一の身体が前へ引き寄せられた。予想を遥かに上回る力だった。腕に力を込めて抵抗するものの、男は強引に縄を手繰り寄せ、圭一との距離を一気に縮めてくる。
「おいおいおい、ちょっと待てって」
「待つかい!」
巨大な拳が迫った。圭一の頭の奥で警鐘が鳴る。蜘蛛感覚。身体が勝手に動いた。引き寄せられる勢いに逆らわず、圭一は宙で身体を反転させた。男の拳がすぐ脇を通り過ぎ、巻き起こされた風が頬を打つ。その直後。パキンッ、と軽い音がした。
「……あ」
赤鬼のお面の片方の角が、宙を舞っていた。圭一は着地と同時に反射的に顔へ手を当てた。
「俺の仮面!」
「何じゃ、お前!」
男が呆れたように叫ぶ。
「そんなもん被って、ふざけとるんか!」
「うるせぇ! こっちだって好きでこんなの被ってるわけじゃねぇんだよ!」
『圭ちゃん、今、仮面がどうとか聞こえましたけど……』
「片方の角が折れた!」
『……あらら』
「その反応は何だよ!?」
『いえ、まあ……ちょっと想像したら面白くて』
「こっちは全然面白くねぇ!」
圭一は言い返しながら、再び跳躍した。今度は相手の頭上を越え、背後へ回り込む。男の身体は大きいが、方向転換は得意ではないらしい。こちらが急激に動くと、その巨体を向き直らせるまでに僅かな遅れが生じる。ならば。圭一は着地と同時に十三号を引いた。男も負けじと引き返す。両者の間で縄が強く張り詰めた。
「ぐっ……!」
圭一は歯を食いしばった。まさか、これほどの力とは。身体能力だけなら自分も相当なものになったはずだが、目の前の男はさらに重い。しかも単に体重があるだけでなく、全身から異様な力が湧き出しているようだった。相手の腕が僅かに動くたび、十三号を握る圭一の身体まで引き摺られそうになる。その時だった。ピシッ。耳元で、小さな音がした。
「……ん?」
圭一は視線を下ろした。十三号の表面に、細い裂け目が出来ていた。
「……おい」
もう一度、男が強く引く。裂け目が広がる。縄の芯材を覆っていた繊維が、一筋、また一筋と浮き上がっていく。圭一の表情が変わった。まずい。これまで十三号は、自分の体重を支える程度ではびくともしなかった。勢いをつけて建物から飛び降りた時も、人を引き上げた時も、一度として破断の兆候を見せなかった。その十三号が、今。
「待て待て待て……!」
圭一は慌てて力を緩めようとした。しかし、それより早く男が腕を振り上げた。
「こんなもんで俺を止められる思うなぁ!」
ブチッ――!嫌な音がした。張り詰めていた縄が、突然その抵抗を失う。圭一は後方へ大きくよろめき、慌てて片手を地面へついて身体を支えた。相手もまた反動で僅かによろめいたが、すぐに姿勢を立て直している。
「……嘘だろ」
圭一は手元に残った縄を見下ろした。断面はひどく乱れていた。力を込めて引き千切られた繊維が、無惨にほつれている。十三号。今まで、多少無茶な使い方をしても耐えてくれた相棒。それが、たった今。
「……切れちまった」
『圭ちゃん? 何かありました?』
詩音の声が聞こえる。圭一は僅かな沈黙の後、答えた。
「十三号が切れた」
『……え?』
「さっきのライノに、力任せに引き千切られたんだよ」
無線の向こうが静かになった。詩音も、十三号がどんな縄なのかは知っている。その圭一が、信じられないという声で
「切れた」
と言った意味も、理解しているはずだった。
『……圭ちゃん』
「何だ」
『無理だと思ったら逃げてくださいね』
普段のからかうような調子ではない。圭一は一瞬だけ目を伏せ、それから男へ向き直った。
「ああ。そこは分かってる」
短く答える。しかし、目の前の男はまだ戦う気満々だった。
「はははは! 何じゃ、もう終わりか!」
「……生憎と、まだ終わっちゃいねぇよ」
「ほぉ?」
男は低く笑った。
「なら次はどうするん? もう縄もないんじゃろうが!」
その問いに、圭一はすぐ答えなかった。代わりに、少し離れた場所へ放り出していた鞄へ視線を向ける。中にあるのは、今朝まで机の上で弄っていた試作品。ウェブシューター一号。腕へ装着するための固定具と、試料を収めた容器を組み合わせた、まだ未完成の装置だった。まともな蜘蛛の糸を撃ち出すことなど出来ない。試作した材料は途中で固まったり、逆にうまくまとまらず塊になって飛び出したりと、失敗ばかりだった。最近になって、ようやく比較的扱いやすい試料を前方へ射出出来るようにはなったものの、勢いも射程もまるで足りない。とても実戦で使える代物ではなかった。少なくとも、今日の朝まではそう思っていた。
「……仕方ねぇ」
圭一は小さく呟いた。
『圭ちゃん?』
「一号、使ってみる」
『……は?』
詩音の声が裏返った。
『一号って、あのウェブシューターですか!?』
「それ以外に何があるんだよ」
『ちょっと待ってください! あれ、まだ完成してないんでしょう!?』
「知ってる!」
『前に聞いた時、射程が全然足りないって言ってませんでした!?』
「それも知ってる!」
『なのに使うんですか!?』
「今さら縄買いに行けるかよ!」
我ながら無茶苦茶な言い分だった。しかし、ほかに手段が思いつかない。圭一はライノが近づいてくるより先に鞄へ走り、そこから試作一号を取り出した。急いで腕へ固定し、ずれかけた無線機のコードを避けるように位置を調整する。装着そのものには何度も練習していた。ただし、その練習は安全な自室での話である。目の前に巨大な怪物が迫ってくる状況で、落ち着いて装備を整えるというのがこれほど難しいとは思わなかった。
「くそっ、こういう時に限って……!」
固定具がうまく留まらない。圭一は焦りながら何とか装置を腕へ収めた。その直後、足元が震える。顔を上げた時には、ライノがもう目前へ迫っていた。
「うおっ!」
圭一は咄嗟に横へ跳び、相手の突進を躱した。着地してすぐ腕を伸ばす。狙いは胸。圭一は指先へ力を込めた。プシュッ。間の抜けた音がした。白っぽい粘り気のあるものが、装置の先端から飛び出す。しかし、それは勢いよく伸びる蜘蛛の糸などではなかった。短い筋を描いたかと思うと、途中で不格好に千切れ、残った塊だけがライノの胸元へ貼りついたのである。
「…………」
圭一は思わず固まった。男もまた、自分の胸元へ付着した白い物体を不思議そうに見下ろしている。やがて、それを指先で摘まみ上げた。
「……何じゃ、こりゃ」
軽く引っ張る。簡単にちぎれた。
「…………弱っ!」
圭一は思わず叫んでいた。
『ど、どうなりました!?』
「駄目だ! なんか白い塊が飛んだだけ!」
『だから言ったじゃないですか!』
男が喉の奥で笑った。
「何や、蜘蛛男っちゅう割には随分しょぼい糸じゃのぉ!」
「……うるせぇ! こいつはまだ試作品なんだよ!」
「ほぉ? そんな玩具で俺に勝てる思うとるんか?」
「誰が玩具だ!」
言い返してから、圭一は一瞬だけ腕の装置へ目を落とした。実際、現状では玩具と大差ない。まともな射程もなければ、相手を拘束できる強度もない。これを使ってライノの巨体を止めようなど、最初から無理な相談だった。だが。圭一はふと、胸元に付着した白い試料を鬱陶しそうに払い落とす男の仕草を見た。
「……ん?」
何かが引っかかった。試料自体は弱い。だが、貼りつくことは貼りついた。ならば。
「……そうか」
圭一は小さく呟いた。もう一度、腕を伸ばす。今度は胸ではない。顔。
「おい、サイ野郎!」
「何じゃ!」
男が顔を上げる。その瞬間。プシュッ!白い試料が飛び出した。今度は男の額から目元へ向かって伸び、不格好な塊となって貼りついた。
「うおっ!?」
男が反射的に顔を背ける。大きな手で視界を遮る白いものを払い落とそうとするが、その僅かな間に圭一は横へ回り込み、懐へ入り込んでいた。
「そこだっ!」
脇腹へ拳を打ち込む。続けて膝裏へ蹴り。男が思わずよろめく。圭一はその反応を見て、口元を緩めた。
「……なるほどな」
『圭ちゃん、今度はどうなったんです?』
「一発顔に当てた。そしたら目ぇ塞げたんだよ」
『……それだけ?』
「それだけ。でも、十分だった」
圭一は再び距離を取りながら、自分の腕を見た。白い試料。弱い。短い。まだ蜘蛛の糸とは到底呼べない。しかし、だからといって何の役にも立たないわけではない。相手を縛り上げる必要など、必ずしもないのだ。視界を一瞬奪う。注意を逸らす。攻撃のタイミングをずらす。ほんの僅かでも相手の動きを乱せれば、それだけこちらが有利になる。
「……そういうことか」
圭一は笑った。自分でも不思議なくらい、頭の中が冴えていた。今まで圭一は、ウェブシューターを十三号の代わりとして考えていた。もっと長く、もっと強い縄を、腕から自在に撃ち出せるようにする。それが完成形だと思っていた。だが、この未完成の一号でさえ、使い方によっては戦いを変えられる。もっと遠くへ、もっと正確に、もっと素早く撃てるようになれば。
「……おもしれぇ」
思わず笑みが漏れた。ライノが怒声を上げる。
「何を笑っとるんじゃ!」
「いや、ちょっとな!」
圭一は大きく身を屈めた。灰色の拳が頭上を通過する。その瞬間、圭一は相手の足元へ試料を撃ちつけた。白いものが地面と靴の間へ広がる。もちろん、それで巨体が止まるわけではない。男は強引に足を持ち上げる。しかし、足裏に貼りついたものを振り払おうとした僅かな動作が、踏み出しのタイミングを狂わせた。圭一はその隙を逃さない。踏み込む。相手の横へ回り込み、腰の側面へ蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……!」
今度は効いた。男の身体が僅かに傾き、そのまま片膝を地面へつく。
「っしゃ!」
圭一は距離を取った。ただし、深追いはしない。ここまでの戦いで、相手の防御力が尋常ではないことは十分に分かっている。まともに殴り合うのは得策ではなかった。
『圭ちゃん?』
「ん?」
『何だか、さっきより楽しそうですね』
「……そうか?」
『声がそんな感じです』
圭一は苦笑した。詩音にはこちらの様子が見えていない。それでも、声の調子くらいは分かるらしい。
「まあな。ちょっと使い道が分かってきたんだよ」
『一号の?』
「ああ。あとで説明する」
『……あとで、ですよ?』
「分かってる!」
圭一は短く答え、再びライノへ向き直った。男は片膝をついた姿勢から立ち上がるところだった。その表情は怒りに満ちている。
「……クソガキが」
低い声。
「この俺を、散々コケにしおって……!」
「いやぁ、悪い悪い。けど、そっちが先に襲ってきたんだから、お互い様ってことで」
「誰が許すかい!」
ライノが再び突進する。圭一は即座に横へ跳んだ。しかし、今度は単に避けただけではない。着地と同時に相手の側面へ回り込み、次の突進を誘うように大きく手を振る。
「ほらほら! こっちだ!」
男が向きを変える。再び突進。圭一は壁へ跳びつき、その勢いを利用して頭上へ躍り出た。大きな身体がすぐ下を通過する。圭一は空中で身体を丸め、背後へ着地した。そして、振り返ろうとする男へ向かって手を伸ばす。プシュッ!白い試料が肩口へ貼りつく。男が反射的に手を上げる。その隙に圭一は距離を詰め、頭部へ蹴りを入れた。
「ぐおっ……!」
頭が横へ揺れる。圭一はさらに追撃しようとしたが、男の腕が大きく振り回されたため、すぐに後退した。
「ちっ、惜しい!」
先ほどから何度も攻撃を当てているのに、決定打にならない。やはり頑丈すぎる。しかも、一号の試料は残り少なかった。射程も短いため、相手へある程度近づかなければ使えない。失敗すれば逆に拳の届く距離へ入ってしまうし、何より連続で撃てるほど装置の出来がよくなかった。
「……これじゃ長くは持たねぇな」
圭一は無意識に呟いた。
『何か問題でも?』
「一号の残りが少ない。それに撃つたびに調子が悪くなってる」
『じゃあ、やっぱり逃げた方が……』
「いや、もう少しだけ試してみる」
圭一はそう答えながら、相手の動きを注意深く観察した。そして、ある違和感に気づく。
「……ん?」
男の様子が、先ほどと少し変わっていた。最初に突進してきた時は、まるで砲弾のような勢いだった。大きな身体に似合わず加速が鋭く、途中で止めることなど出来そうになかった。しかし、今はどうだろう。依然として強力ではあるものの、突進を終えてから次の動作へ移るまでに、僅かな間が生じている。肩も激しく上下していた。呼吸が荒い。額には汗が浮かび、露出した口元が苦しげに歪んでいる。
「……お前」
圭一は思わず声を掛けた。
「もしかして、結構しんどいんじゃねぇのか?」
男の表情が険しくなった。
「……何じゃと?」
「いや、だってさ。最初と比べたら随分息上がってるぜ?」
「うるさい、ぼけぇ!」
男が怒鳴る。圭一はその反応を見ながら、もう一度灰色の外装へ目を向けた。肩や腕の表面には筋肉のような隆起が走り、身体を動かすたびに伸び縮みしている。よく見れば、その動きは男自身の呼吸や動作と完全には一致していない。何らかの仕組みで身体の動きを助けているのかもしれない。だが、それが具体的にどういうものなのかは分からなかった。今、確かなのは一つだけだ。この男も無限に動けるわけではない。
「……そういうことか」
圭一の口元が緩む。ライノはその笑みを見て、ますます苛立ったようだった。
「何をニヤニヤしとるんじゃ!」
「いやぁ、悪いな。お前の弱点がちょっと分かった気がしてさ」
「ほぉ?」
男が低く唸る。
「言うてみぃや」
「簡単だよ」
圭一は軽く肩を回した。
「お前、持久力がねぇんだろ?」
ライノの目が見開かれた。直後、怒声が響く。
「黙れぇ!」
男が駆け出す。圭一はその様子を見て、確信を深めた。さっきより明らかに遅い。いや、単純な速度そのものはまだ十分速かった。だが、加速するまでに僅かな時間が必要になっている。方向転換も荒く、足を踏み込むたびに身体が揺れている。外装が重いのか。身体への負担が大きいのか。それとも、あの灰色のもの自体に何らかの限界があるのか。そこまでは分からない。しかし、今の圭一にはそれで十分だった。
「……よし」
圭一は身を翻し、工事区画の奥へ走り出した。
「おい、逃げんなや!ガキ!」
「逃げてねぇって言ってんだろ! ほら、こっちだ!」
圭一はわざと速度を落とし、相手が追いつけそうな距離を保ちながら走った。ライノが背後から迫る。圭一は直前で方向を変える。男は止まり切れず、地面を踏み鳴らしながら大きく回り込んだ。その間に圭一はまた別の場所へ移動する。追いつきそうで追いつけない。その繰り返しだった。男はますます苛立ち、攻撃も大振りになっていく。
「ちょこまかしおって……!」
「そっちこそ、もっと頭使えよ!」
「ぶっ潰すぞ!」
「はいはい、出来るもんならな!」
圭一は軽口を返しながらも、決して油断していなかった。相手の動きが鈍ったとはいえ、まともに一撃を食らえば危険である。先ほどの蹴りを受けた腕はまだ痺れているし、右足首にも少し痛みが残っていた。こちらだって、いつまでも戦えるわけではないのだ。しかも、圭一はもう一つ重要なことを理解していた。このまま何度も逃げ回っていれば、男はやがて動けなくなるかもしれない。だが、その前に周囲の設備が壊されてしまう。工事現場とはいえ、何でも壊していいわけではない。倒れた資材が道路へ転がり出れば、避難した人々にまで危険が及ぶ。
「……こりゃ、さっさと終わらせた方がよさそうだな」
圭一は視線を巡らせた。工事区画の奥には、まだ舗装されていない広い場所があった。そこには大量の土砂が積まれ、仮設の防護設備が並べられている。幸い、周囲に人の姿はない。建物からも離れている。男をあそこまで誘導出来れば。
「……いけるか?」
圭一は小さく呟いた。
『圭ちゃん?』
「詩音、今からちょっと大きな音がするかもしれない」
『……え?』
「だから、びっくりするなよ」
『そんなこと言われたら、余計に不安になるんですけど!』
「安心しろ。俺だって不安だ」
『全然安心出来ません!』
圭一は苦笑した。しかし、その声にはもう先ほどまでの焦りはなかった。狙う場所は決めた。問題は、どうやってあそこへ誘い込むかだ。圭一は周囲を一度確認し、ライノへ向き直った。
「おい、ライノ!」
男の眉が吊り上がる。
「……ライノ?」
「ああ。お前の名前だよ。さっき決めた」
「誰がそんな名前で呼べ言うた!」
「うるせぇな! せっかく格好いい名前付けてやったんだから、ありがたく思えっての!」
無線から小さな笑い声が聞こえた。
『ふふっ、気に入ったんですね』
「今は黙ってろ!」
男の顔が怒りで歪む。
「人を馬鹿にするんも大概にせぇよ……!」
「だったら追いついてみろよ!」
圭一は両手を大きく広げた。
「どうしたライノ! その立派なツノは飾りか!?」
男の表情が変わる。これまで以上に深く身体を沈め、両足へ力を込めた。圭一はその様子を見て、僅かに息を呑んだ。来る。今度は間違いなく、全力だ。
「……よし」
圭一はゆっくりと後退し、土砂の積まれた場所へ向かった。相手との距離を測る。正面から衝突するわけにはいかない。直前で避ける必要がある。だが、普通に避けただけでは相手の突進がどこへ向かうか分からない。ほんの僅かでも動きを狂わせ、狙った方向へ誘導しなければならなかった。圭一は腕へ視線を落とす。一号。残量はほとんどない。あと一発まともに出ればいい方だろう。
「……頼むぞ」
祈るように呟いた。向こうではライノがこちらを睨んでいる。
「もう逃がさんぞ、ボケナス……!」
「そいつはどうかな」
「今度こそ、ぶっ潰したる!」
男が地面を蹴った。灰色の巨体が猛烈な勢いで迫る。圭一はその場から動かなかった。相手の姿が急速に大きくなる。十数メートル。そして、さらに近づく。圭一の頭の奥に、嫌な感覚が湧き上がってきた。蜘蛛感覚。これまで何度も助けられてきた、不思議な危険察知能力。しかし、今ほど強烈に警鐘を鳴らされたことはなかった。身体が勝手に逃げようとする。理屈ではない。本能だった。目の前の男と正面衝突すれば危ない。それは圭一自身が、誰よりも理解している。それでも、まだ動かない。
「……もうちょい」
ライノが迫る。男の荒い呼吸が聞こえる。地面を踏み込む音が響く。灰色の肩が大きく膨れ上がり、その奥で何かが強く収縮している。圭一は唇を引き結んだ。
「……今だ!」
腕を伸ばす。一号が作動した。プシュッ!白い試料が飛び出す。狙いは顔。しかし、勢いが弱い。白い塊は途中で形を崩しながらも、どうにかライノの目元へ届いた。
「ぐっ!?」
男が反射的に顔を背ける。その一瞬を圭一は見逃さなかった。身体を横へ投げ出しながら、相手の進路から外れる。ライノは圭一を追おうとした。しかし、もう遅い。全力で踏み込んだ巨体は、すぐには方向を変えられない。
「うおおおおおっ!?」
男が怒声を上げる。そのまま土砂の積まれた場所へ突っ込んだ。まず仮設の防護設備へ肩がぶつかり、次いで積み上げられていた土砂が崩れる。重たい衝撃音と共に大量の砂埃が舞い上がり、ライノの巨体がその中へ消えた。圭一は少し離れた場所へ着地し、勢いを殺しながら数歩後退した。
「っ……!」
思った以上にギリギリだった。あのまま一瞬でも遅れていたら、確実に巻き込まれていただろう。圭一は額の汗を拭い、土煙の向こうを見つめた。
「……どうだ?」
返事はない。いや、そもそも返事を期待しているわけではない。無線から詩音の声が届いた。
『圭ちゃん!? 今、ものすごい音がしましたけど!』
「ああ。土砂の山に突っ込ませた」
『……土砂?』
「工事現場だよ。あいつを、そこへ誘い込んだんだ」
『圭ちゃんは無事なんですか!?』
「一応な。けど、向こうはまだ分かんねぇ」
圭一は慎重に土煙の方へ近づいた。先ほどまで立派に積み上がっていた土砂は大きく崩れ、その中央に灰色の巨体が横たわっている。男はまだ意識があるらしい。大きな腕を動かし、身体を起こそうとしていた。
「……マジかよ」
圭一は思わず呟いた。あれほどの勢いで突っ込んで、まだ動けるのか。いったいどういう身体をしているのだろう。男は苦しげに息を吐きながら、地面へ手をついた。
「くそ……!」
身体を持ち上げようとする。だが。灰色の腕が不自然に揺れた。肩から背中にかけての隆起が一度大きく収縮し、そのまま動きを止める。
「……何じゃ?」
男は自分の腕を見下ろした。もう一度力を込める。しかし、先ほどまでのようには動かなかった。
「おい……!」
大きな身体が僅かに持ち上がったものの、すぐに土砂の上へ崩れ落ちる。男の表情が、怒りから困惑へ変わっていく。
「何じゃ、こりゃ……! 動けや……!」
圭一はその様子を見て、僅かに眉を顰めた。やはり、あの灰色の外装には何かある。単なる防具ではない。身体を動かすための何らかの仕組みがあるのだろう。だが、それが限界を迎えたのか、それとも衝突で壊れたのかは分からなかった。男は何度も身体を起こそうとしたが、そのたびに腕が不自然に震え、結局は土砂の上へ沈み込んでしまう。
「……話が違うやないか」
やがて、そんな言葉が聞こえた。圭一は僅かに目を細くした。
「……ん?」
「こんな……こんなはずや……!」
男は歯を食いしばっている。圭一は少し迷った末、声を掛けた。
「おい」
男が睨み返してくる。
「何じゃ……!」
「もうやめとけよ。これ以上暴れたって、どうにもなんねぇだろ」
「……黙れ」
「それに、お前だって苦しそうじゃねぇか」
「うるさい言うとるやろが……ボケ!」
男の声には、先ほどまでの勢いがなかった。圭一は距離を保ちながら、相手の様子を観察した。顔色は悪い。呼吸も荒い。灰色の外装はまだ身体に密着しているが、先ほどのような力強い動きは見られなかった。あの外装がどういうものなのかは分からない。しかし、その内側にいるのは間違いなく人間だった。圭一は少し考えてから、尋ねた。
「……お前、何者なんだ?」
男が顔を上げる。
「……はぁ?」
「だから、名前だよ。お前、何て名前なんだ?」
男は一瞬だけ圭一を睨みつけ、それから吐き捨てるように言った。
「知るか……!」
「いや、自分の名前くらい知ってんだろ」
「うるさいんじゃ……!」
それ以上は答えようとしなかった。圭一は小さく息を吐いた。
「……まあ、いいけどさ」
その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。警察だろうか。いずれにせよ、これだけ大きな騒ぎになったのだ。誰かが通報していてもおかしくない。圭一は立ち上がった。
「そんじゃ、俺はそろそろ失礼するぜ」
男が顔を上げる。
「……待てや」
「何だよ」
「お前……次は……!」
そこで言葉が途切れた。男は悔しそうに顔を歪め、何かを言おうとしていたが、荒い呼吸に遮られてうまく続けられないようだった。圭一はしばらく相手を見つめていたが、やがて肩を竦めた。
「次があるなら、もうちょっと大人しくしてくれよな」
そして、片方の角を失った赤鬼のお面を指で直した。
「こっちだって、今日一日で散々な目に遭ったんだからよ」
男は答えなかった。圭一はそれ以上近づかず、近くの建物へ向かった。壁へ手を掛け、そのまま登る。屋上へ辿り着くと、ようやく人目から離れることが出来た。
「……はぁぁぁぁ」
大きな溜息が漏れた。全身の緊張が、一気に解けた気がした。
「……疲れたぁ」
足元へ座り込み、仮面の位置を直す。右足首がまだ少し痛む。腕も痺れている。それでも、大きな怪我はしていないらしい。圭一は腰の無線機へ手を伸ばした。
「詩音、聞こえるか?」
『圭ちゃん!?』
返事はすぐにあった。
『どうなったんです!?』
「ああ。何とか終わった」
『……終わった?』
「相手が動けなくなった。今は土砂の中で休憩中ってところかな」
『……圭ちゃん』
「ん?」
『本当に無事なんですよね?』
圭一は一瞬だけ黙った。そして、自分の腕を見下ろす。少し痺れている。足首にも痛みがある。赤鬼のお面は片方の角が折れた。十三号は切れた。一号も、試料を使い果たしてしまった。それでも。
「……ああ。俺は大丈夫だ」
圭一は穏やかに答えた。
「怪我も大したことねぇよ」
無線の向こうから、深い溜息が聞こえた。
『……もう、本当に心配したんですからね』
「悪かったって」
『いつもそれです』
「いつもって、まだそんな何回もやってねぇだろ」
『回数の問題じゃありません!』
圭一は苦笑した。詩音の声には、明らかな安堵が混じっていた。普段は散々こちらをからかってくるくせに、こういう時だけ妙に真剣になる。いや。本当は、こういうところも含めて詩音なのだろう。
「……ところで詩音」
『何です?』
「さっき、あいつのこと知ってるって言ってたよな」
無線の向こうが、一瞬静かになった。
『……ああ』
「誰なんだ?」
少しの間があった。そして。
『北条鉄平です』
圭一は眉を動かした。
「……北条?」
『ええ』
「北条って……沙都子の?」
『叔父ですよ。沙都子の』
圭一は思わず、眼下の工事現場へ視線を落とした。あの男が。沙都子の叔父。
「あいつが……?」
『園崎家にも、いろいろ噂が入ってきますからね。あの人のことも、多少は知ってます』
「……どういう奴なんだ?」
『あんまり評判のいい人ではありませんよ。金絡みの揉め事も多いみたいですし、周りからも煙たがられてます』
詩音はそこで一度言葉を切った。
『でも……』
「ん?」
『あんな身体だったなんて、私は知りませんでした』
圭一は黙り込んだ。確かに、あの男の身体は異常だった。腕も脚も、普通の人間とは思えないほど大きい。全身を覆う灰色の外装。まるで筋肉そのものが、外側へもう一つ増えたような奇妙な姿。圭一は、デパートで見た未来技術の展示を一瞬だけ思い出した。人工筋肉。そんな言葉があった。だが、あれは人間の動きを補助するための小さな装具だったはずだ。目の前の男の身体を覆っていたものとは、見た目も用途も随分違う。同じものなのかどうか、分かるはずもなかった。
「……変な話だな」
圭一は呟いた。
『ええ』
「何であんな身体してんだろうな」
『……さあ』
詩音の声にも、困惑が混じっていた。
『私にも、分かりません』
それ以上、二人とも何も言わなかった。圭一は再び工事現場を見下ろした。すでに警察らしき車両が現場へ到着している。何人もの人間が、倒れた仮囲いの近くで何か話し合っていた。やがて、道路の向こうから黒い車が一台現れた。救急車ではない。警察車両でもない。その車が工事現場の近くへ停車し、何人かの男たちが降りてくる。圭一は何となく、その光景を眺めていた。彼らは警察官と思しき人物と何か話している。その後、数人が鉄平のいる方へ向かった。
「……何だ?」
特に不審なことをしているわけではない。こういう大きな事故なら、関係者が集まってくることもあるだろう。しかし、圭一には少しだけ妙に思えた。あの灰色の外装を着た男を、誰がどうやって扱うのだろう。警察がそのまま逮捕するのか。それとも、何か別の事情があるのか。
「……まあ、俺が考えても仕方ねぇか」
圭一は小さく呟いた。
『圭ちゃん?』
「ああ、何でもねぇ。今、警察が来たところだ」
『なら、早く離れた方がいいですよ』
「そうだな」
圭一は立ち上がった。そのまま屋上の端へ向かい、最後に一度だけ工事現場を振り返る。鉄平の姿は、土砂と集まった人々に隠れてよく見えなかった。ただ、あの男の最後の言葉だけが、妙に耳へ残っていた。
――話が違うやないか。
一体、何の話なのだろう。圭一には分からなかった。