スパイダーマンのなく頃に   作:晃晃

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相棒 

その夜、前原家。夕食と風呂を済ませた圭一は、自室の机へ向かっていた。いつもなら帰宅するなり実験を再開するところだが、今日はさすがに身体が重かった。右足首はすでに大分楽になっているものの、腕や肩にはまだ疲労が残っている。圭一は椅子へ腰を下ろし、机の上へ二つのものを並べた。切れた十三号。そして、ウェブシューター一号。どちらも、今日の戦いで使ったものだった。

 

「……参ったなぁ」

 

思わず溜息が漏れる。十三号は完全に切れていた。自分の体重を支えるどころか、もう以前のような使い方は出来ないだろう。一号の方も散々だった。固定具は途中でずれかけたし、試料はまともな糸にならず、最後にはほとんど出なくなってしまった。お世辞にも成功とは言えない。それでも。圭一はしばらく一号を見つめていた。

 

「……けど、使えたんだよな」

 

小さく呟く。弱かった。射程も短かった。だが、あの白い試料がなければ、ライノの視界を遮ることもほんの少ししか出来なかった。最後の突進を誘導することも、恐らく難しかっただろう。

 

「……なるほどねぇ」

 

圭一はノートを開いた。これまでの実験記録が、ぎっしりと書き込まれている。試料の違い。強度。伸び方。粘り気。そして、失敗の数々。そのページを捲りながら、圭一は今日の戦いを思い返した。以前の自分は、強い糸を作ることばかり考えていた。蜘蛛の糸なのだから、何よりもまず強度が必要だ。人を引っ張れるくらい強くなければ意味がない。そう考えていた。しかし。

 

「……別に、それだけじゃねぇんだよな」

 

圭一は鉛筆を手に取り、新しいページを開いた。そこへ今日のことを書き込んでいく。

 

『十三号――破損。ライノの力に耐えられなかった』

 

『一号――強度不足。射程不足。連続使用も不安定』

 

そこまで書いて、一度鉛筆を止めた。そして、その下へ続ける。

 

『ただし、妨害には有効』

 

圭一は今日の戦いを思い出しながら、さらに言葉を重ねた。相手の顔へ貼りつけば、視界を遮る。手や足へ付着すれば、一瞬だけ動作を乱せる。必ずしも相手を完全に拘束する必要はない。強靱な縄と違い、ウェブは撃ち出した瞬間に相手へ届く。もちろん、今の一号ではまだその利点を十分に活かせていない。だが、もし完成すれば。

 

「……もっと出来ること、増えるんじゃねぇか?」

 

圭一は小さく笑った。相手の動きを封じる。遠くのものを引き寄せる。高い場所へ糸を掛ける。危ない場所にいる人を助ける。今までは、どれも十三号を使って無理矢理やっていたことだった。しかし、ウェブシューターなら。腕を伸ばすだけで、それが出来るかもしれない。

 

「……よし」

 

圭一はノートの端へ、大きく文字を書き込んだ。

 

『ウェブシューター二号』

 

もっと遠くへ。もっと正確に。もっと素早く。そして、何より。

 

『糸として使えること』

 

圭一はその一文へ二重線を引いた。

 

「……そうだよな」

 

一号の最大の問題は、結局そこなのだ。射出そのものは出来るようになった。しかし、出てくるものがまともな糸にならない。つまり、装置の改良だけでは足りない。材料も同時に考え直す必要がある。圭一は机の隅に置かれた飼育容器へ視線を移した。例の蜘蛛が、今日もその中で静かに糸へぶら下がっている。

 

「……お前、本当にすげぇよな」

 

圭一は思わず呟いた。この小さな蜘蛛は、あれほど細く、強靱な糸を何の苦労もなく作り出している。いや。苦労がないかどうかは分からない。そもそも、自分はまだ蜘蛛がどうやって糸を作っているのかさえ、ろくに理解していないのだ。

 

「……何か、根本的なところを勘違いしてんのかねぇ」

 

圭一は椅子の背もたれへ身体を預けた。答えは出ない。ただ、今日の戦いで一つだけはっきりしたことがあった。自分の力だけで、何でも解決出来るわけではない。今までなら、多少強引にでも相手を殴ってしまえば、大抵のことは済んでいた。しかし、今日のライノには通用しなかった。怪力。反射神経。壁を這う能力。そのどれもが役に立った。だが、それだけでは足りなかった。相手の動きを読まなければならない。周囲への被害も考えなければならない。自分が避けた先に何があるのかまで、意識しなければならない。今日、シャッターを壊された店のことが頭に浮かんだ。あの時、自分がほんの少しだけ違う方向へ避けていれば。あるいは、最初から相手を人のいない場所へ誘導していれば。被害を減らせたかもしれない。

 

「……まだまだだな、俺も」

 

圭一は苦笑した。蜘蛛に噛まれてからというもの、自分の身体に起きる変化が面白くて仕方がなかった。高いところへ登れる。重いものを持ち上げられる。普通の人間には出来ないことが出来る。その能力を使って人を助けるのも、悪い気分ではなかった。しかし、今日の戦いは少し違った。人を助けるというのは、ただ相手を倒せばいいという話ではないらしい。そんな当たり前のことを、今さらながら思い知らされた気がした。圭一はふと、机の端に置いた赤鬼のお面を見た。片方の角が折れた、間の抜けた顔。今になって改めて見ると、どうにも笑えてくる。

 

「……ったく、何が蜘蛛男だよ」

 

こんな格好で街中を飛び回っていたのかと思うと、恥ずかしくて仕方がない。それでも。圭一はお面を手に取り、暫く眺めていた。今日、自分はこれを被って、詩音を助けた。街を壊していた男と戦った。そして、どうにか勝つことが出来た。格好は悪かった。装備も未完成だった。それでも。

 

「……まあ、悪くはなかったか」

 

圭一は小さく笑った。その時、机の上の時計が目に入った。もう随分遅い。明日も学校がある。圭一は慌ててノートを閉じ、壊れた十三号と一号を机の端へ寄せた。

 

「……続きは明日だな」

 

そう呟いて立ち上がる。部屋の灯りを消そうとしたところで、ふと窓の外へ目を向けた。遠くには、興宮の夜景が広がっている。新しく建てられたビル群。街灯の並ぶ道路。そして、そのさらに向こう。山間に広がる暗いダム湖と、周囲に点在する施設の灯り。昼間はあれほど賑やかだった街も、夜になると随分違った表情を見せる。圭一はしばらく、その景色を眺めていた。今日戦った男。北条鉄平。沙都子の叔父。あの身体は一体何だったのだろう。そして、最後に呟いた

 

「話が違う」

 

という言葉。誰かとの約束なのか。それとも、単なる負け惜しみなのか。考えても分からない。圭一は軽く頭を振った。

 

「……ま、明日詩音にでも聞いてみるか」

 

そう呟いて、窓から離れる。最後にもう一度、机の上のウェブシューター一号へ目を向けた。まだ不格好で、頼りない試作品。それでも、この小さな装置には確かな可能性があった。圭一は口元を緩める。

 

「……次は、もっとマシなの作ってやる」

 

部屋の灯りが消えた。興宮の夜は、静かに更けていった。その頃、興宮の再開発地区では、事故現場の片づけが続いていた。倒れた仮囲いの向こうには、崩れた土砂と大きく歪んだ防護設備が残されている。警察官たちが立ち入りを制限する中、現場へ到着した黒い車の周囲では、何人かの男が低い声で話し合っていた。やがて、その一人が後部座席の扉を開けた。車の中は暗く、外から内部を窺うことは出来ない。

 

「……急げ」

 

誰かがそう言った。

 

「ここに長くいるわけにはいかない」

 

扉が閉められる。ほどなくして、黒い車は静かに走り出した。その行き先を、知る者はほとんどいなかった。

 

§

 

翌日になり、いつものように学校へ行く。あの戦闘の翌日なのだから、休んでも良かった。けれど、親に心配を掛けたくない。昨日の魅音も何かを言おうとしていたし、詩音とも昨日のことを話さないといけない。

 

「きりーつ、気をつけ。礼」

 

朝礼のHRが始まり、担任が通常通り朝の連絡ごとをしていく。その途中で気になること、いや、俺としてただ聞き逃すことが出来ないようなことを言っていた。

 

「最近、興宮では犯罪、事件が多く起きています。下校時は気を付けて、できるだけ集団で帰ってください」

 

そんな内容だった。俺が気になったのは朝にテレビを付けたが、昨日のライノについてはどこのニュースも取り上げることもなく、一切の情報が表に出ていない。ああいう直に危ない事件があったのにただの注意喚起だけ。妙に気になった。

 

昼休みに入り、みんなで飯を囲んで食べる時間。

 

「あれ?圭一くん、一緒に食べないの?」

 

「あーえっと、他に先客があってな。それに...あんまり食欲もないから今回は勘弁」

 

レナにそう言われて、咄嗟に返事をする圭一。圭一は別に予約を取ったわけではないが、食欲がないのは事実だった。

 

圭一は詩音の方から何かしらの連絡や話し合いをすると思ったので、昼まで待っていた。けれども、待っていても来ない。よって、圭一は自分からで詩音の元へ赴くことにした。圭一は新校舎を出て、旧校舎に入る。太陽はまだ真上にあって、旧校舎は照明が少ないからか暗かった。そして廊下は特段広いわけじゃない。新校舎のピカピカさはなく、どこか寂しさを感じる建物であったが、圭一は構わず歩く。階段を軽々と上り、三年生のいる三階へ。

 

「詩音のクラスって...どこだっけ?」

 

圭一は三階の廊下に立ち尽くし、左右へ首を巡らせた。教室の扉にはそれぞれ組や学年を示す札が掛かっているものの、肝心の詩音がどのクラスに所属しているのかを聞いていなかったことに、今さらながら気づいたのである。旧校舎に来るのはこれが初めてではないが、普段は新校舎で過ごしているため、こちらの構造にはどうにも馴染みがない。しかも昼休みとあって廊下には生徒が行き交っており、見知らぬ顔の圭一へ時折不思議そうな視線が向けられていた。

 

「……参ったな。適当に探すか」

 

そう呟いて歩き出したところで、向こうから女子生徒が二人やって来た。圭一は少し迷った末、その片方へ声を掛ける。

 

「なあ、ちょっといいか?」

 

「はい?」

 

「園崎詩音って奴を探してるんだけど、どこのクラスか知らねぇ?」

 

女子生徒は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに廊下の奥を指差した。

 

「詩音さんなら、三年五組ですよ。あそこの教室です」

 

「おお、助かった! ありがとな!」

 

礼を言って歩き出す。教えられた教室は廊下の突き当たりに近い場所にあり、開け放たれた扉の向こうからは賑やかな話し声が聞こえていた。圭一は入口から中を覗き込む。窓際には数人の女子生徒が集まり、机を寄せ合って昼食を食べている。黒板には午後の授業予定が書かれており、教室の後ろには古びた掃除用具入れが置かれていた。

 

しかし、肝心の詩音が見当たらない。

 

「……あれ?」

 

もう一度室内を見回す。園崎魅音と瓜二つの顔なのだから、いればすぐに分かるはずだった。ところが、どこにもそれらしい姿がない。圭一がどうしたものかと考えていると、入口近くに座っていた女子生徒がこちらへ顔を向けた。

 

「誰か探してるの?」

 

「ああ、園崎詩音ってここだよな?」

 

「詩音? さっきまでいたけど……」

 

女子生徒は教室の奥へ目を向けた。

 

「確か、屋上に行くって言ってたような」

 

「屋上?」

 

「うん。お昼持って」

 

「そっか。ありがとな!」

 

圭一は軽く手を上げ、教室を後にした。屋上なら人も少ないだろうし、昨日の話をするにはちょうどいい。そう考えながら階段へ向かう。ところが、踊り場に辿り着いたところで、一つ気になることがあった。

 

「……いや、待てよ」

 

詩音が屋上にいるのなら、どうして昼まで自分へ連絡してこなかったのだろう。昨日あれだけの騒ぎがあったのだから、向こうも気になっているはずである。もっとも、詩音にだって授業や友人付き合いはある。自分と違って、昼休みの予定があるのかもしれない。

 

そう納得して階段を上がり、屋上へ続く扉を押した。

 

ぎい、と古びた蝶番が音を立てる。

 

外へ出た途端、初夏の風が頬を撫でた。新校舎より低い旧校舎の屋上からは、興宮の市街地がよく見える。校庭の向こうには新しい校舎があり、そのさらに奥には、建設途中のビルがいくつも並んでいた。遠くに見えるクレーンの群れは、まるで鉄で出来た巨大な昆虫が首を伸ばしているようだった。

 

そして、その屋上の隅。

 

金網にもたれ掛かりながら、弁当箱を膝へ置いている少女が一人いた。

 

「……お」

 

圭一は思わず口元を緩めた。

 

「いたいた。おーい、詩音!」

 

声を掛けると、少女は箸を止めて振り返った。

 

「……あら?」

 

見慣れた顔が、少し驚いたようにこちらを見る。

 

「圭ちゃんじゃないですか。珍しいですねぇ、こんなところまで」

 

「珍しいも何も、お前を探しに来たんだよ」

 

「私を?」

 

「ああ。ちょっと話があってさ」

 

詩音は箸を持ったまま、圭一をじっと見つめた。それから、何かに気づいたように小さく笑う。

 

「……ああ、昨日のことですね?」

 

「それ以外に何があるんだよ」

 

「ふふっ。まあ、そうでしょうね」

 

詩音は隣の空いた場所を軽く叩いた。

 

「どうぞ。ちょうど一人で退屈してたところです」

 

「なら、もっと早く連絡してくれよ。昼まで待ってたんだぜ?」

 

「ええ? 圭ちゃんから来てくれるとは思いませんでしたから」

 

「何だよ、それ」

 

「だって、昨日はあれだけ疲れてたじゃないですか。今日は大人しく休んでるかと思って」

 

「学校来てる時点で休めてねぇだろ」

 

「それもそうですねぇ」

 

詩音はくすくすと笑った。圭一は呆れながらも隣へ腰を下ろす。コンクリートの床は日差しで温まっており、座ると僅かに熱が伝わってきた。遠くからは校庭で遊ぶ生徒たちの声が聞こえる。昨日の喧騒とは打って変わって、平和そのものの昼休みだった。

 

「……で、身体の方はどうなんです?」

 

詩音が弁当箱を閉じながら尋ねた。

 

「ん? ああ、まあまあだな。足首はもうほとんど痛くねぇし、腕も昨日よりは随分マシだ」

 

「本当でしょうね?」

 

「本当だって」

 

「昨日もそう言ってましたよねぇ」

 

「昨日より回復したって話だよ!」

 

圭一は苦笑して腕を軽く動かしてみせた。実際、朝起きた時にはまだ多少の違和感があったものの、今では日常生活に支障がない程度には回復している。普通の人間なら、あれほどの衝撃を受けて翌日に学校へ来ることなど難しかったかもしれない。そう考えると、改めて自分の身体が普通ではなくなったことを実感する。

 

「……無茶はしないでくださいよ」

 

「ああ。分かってる」

 

詩音はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は追及しなかった。代わりに、鞄から折り畳まれた新聞を取り出す。

 

「それより圭ちゃん。これ、見ました?」

 

「……新聞?」

 

「はい。今朝の興宮の地方紙です」

 

圭一は差し出された新聞を受け取った。開かれたページには、昨日の事件と思しき記事が小さく掲載されている。見出しは『再開発地区で工事事故 周辺道路が一時通行止め』。その下には、倒れた仮囲いや散乱した資材の写真が添えられていた。

 

「……は?」

 

思わず声が漏れた。

 

圭一は記事を目で追った。夕方、興宮の再開発地区で工事用設備の一部が破損し、周辺道路が一時的に通行止めになったという内容だった。現場では大きな音が確認され、警察や消防が出動したものの、現在は安全確認が進められているらしい。

 

そこに、北条鉄平の名前はなかった。

 

巨大な灰色の外装を纏った男のことも、街中を暴れ回っていたことも、何一つ書かれていない。

 

「……おいおい」

 

圭一は新聞から顔を上げた。

 

「何だよ、これ」

 

「私も同じことを思いました」

 

詩音の声から、いつものからかうような調子が消えていた。

 

「今朝、家で見つけたんですけどね。随分と妙な書き方をしてるなぁって」

 

「妙どころじゃねぇだろ。事故って……」

 

圭一はもう一度記事へ目を落とす。

 

「昨日、あそこで何があったと思ってんだよ。あのライノが街中で暴れて、店のシャッターぶっ壊して、人まで襲ってたんだぞ?」

 

「ええ。私も見ましたから」

 

「しかも俺、実際に戦ったんだぜ? 十三号まで切られて、あんな目に遭ったのに……」

 

圭一は言いかけて、思わず息を吐いた。新聞の紙面に載っているのは、ただの工事事故。あの異常な怪力も、灰色の身体も、鉄平の怒声も、まるで最初から存在しなかったかのように扱われている。

 

「……昨日のこと、夢だったって言われてるみたいだな」

 

ぽつりと呟く。

 

詩音はすぐには答えなかった。

 

「……そうですね」

 

やがて、小さく頷いた。

 

「ただ、圭ちゃん。ニュースになってないからって、必ず誰かが隠したとは限りませんよ」

 

「……え?」

 

「昨日の騒ぎは夕方でしたし、新聞社が詳しい情報を掴めなかった可能性もあります。警察がまだ調べている途中なのかもしれませんし」

 

「まあ……それはそうだけどさ」

 

圭一は眉を寄せた。

 

「でも、あれを事故って言うのは無理があるだろ」

 

「ええ。そこなんですよね」

 

詩音は膝を抱えるように座り直した。

 

「詳しいことが分からないなら、普通は調査中とでも書けばいい。なのに、最初から工事事故として説明されている。そこが引っ掛かるんです」

 

圭一は黙って新聞を見つめた。

 

考えてみれば、昨日の現場には警察も来ていた。圭一自身、屋上から何台もの車両が集まる様子を見ている。それなのに、今朝のニュースでは怪人の存在が一切触れられていない。

 

「……あの黒い車も気になるんだよな」

 

「黒い車?」

 

「ああ。昨日、俺が屋上に上がった後に来た奴。警察の車でも救急車でもなかったんだけど、何人か男が降りてきて、現場の警官と話してたんだ」

 

「……ふぅん」

 

詩音は顎へ指を当てた。

 

「その人たちが、ライノを連れていったんです?」

 

「いや、そこまでは見てねぇ。俺が見た時は、鉄平の方へ向かってただけだ」

 

「なるほど」

 

「けど、変じゃねぇか? 普通だったら、あんな危ない奴は警察が捕まえるだろ」

 

「そうですねぇ。ただ、特殊な装備を着けていたのなら、専門の人が呼ばれた可能性もありますけど」

 

「……専門の人、ねぇ」

 

圭一は腕を組んだ。

 

昨日の鉄平の姿を思い返す。異様に膨らんだ肩と腕。灰色の外装。そして、身体の動きに合わせて伸び縮みしていた、筋肉のようなもの。普通の服でも鎧でもない。何か特殊な技術で作られたものだということくらいは、圭一にも分かった。

 

ただ、それが何なのかまでは分からない。

 

「そういや、昨日あいつが妙なこと言ってたんだよ」

 

「妙なこと?」

 

「ああ。最後、動けなくなった時にさ。『話が違う』って」

 

詩音の眉が僅かに動いた。

 

「……話が違う?」

 

「そう。誰に言ってんのか知らねぇけど、あの身体が動かなくなった時だったからな。何か約束でもしてたのかもしれねぇ」

 

「……なるほど」

 

詩音はしばらく考え込んだ。

 

「圭ちゃん。その人、昨日の戦いで自分の名前は言わなかったんですよね?」

 

「ああ。聞いたけど、教えてくれなかった」

 

「じゃあ、鉄平だと分かったのは私から聞いたから」

 

「そういうことだな」

 

詩音は小さく頷いた。

 

「……実は、私も気になってたんです」

 

「何が?」

 

「北条鉄平が、最近何をしていたのかです」

 

圭一は詩音へ顔を向けた。

 

「昨日も言ってたよな。園崎家に噂が入ってくるって」

 

「ええ。あの人、以前からあまり評判がよくありませんでしたから。金銭絡みの揉め事も多かったみたいですし、園崎家でも名前くらいは知られています」

 

「へぇ……」

 

「でも、それだけなんですよ」

 

詩音は少し困ったように笑った。

 

「昔、どういう人だったのかは多少知っています。でも、最近どこで何をしていたのか、誰と付き合っていたのか、何の仕事をしていたのか……そういうことは、私も知りません」

 

「……そっか」

 

「何より、昨日のあの姿です。普通に生活していた人が、突然あんな身体になったなんて、どう考えてもおかしいでしょう?」

 

圭一は頷いた。

 

「だよなぁ。俺だって最初、何かの着ぐるみかと思ったくらいだし」

 

「着ぐるみで十三号を引き千切れるなら、それはそれで大発明ですけどね」

 

「笑えねぇよ、それ」

 

二人は少しだけ笑った。

 

しかし、すぐに詩音の表情が真剣なものへ戻る。

 

「……調べてみましょうか」

 

「調べる?」

 

「ええ。北条鉄平の最近の動向です」

 

詩音は新聞を圭一から受け取ると、丁寧に折り畳んだ。

 

「園崎家には、興宮で商売をしている人や、昔からこの辺りに住んでいる人との繋がりがあります。もちろん、何でも分かるわけじゃありませんけど、鉄平が最近どこに出入りしていたのかくらいなら、何か聞けるかもしれません」

 

「……おお!」

 

圭一は思わず身を乗り出した。

 

「頼めるか?」

 

「構いませんよ。ただし」

 

詩音は人差し指を立てる。

 

「期待しすぎないでくださいね。私だって、園崎家の情報を自由に調べられるわけじゃないんですから」

 

「分かってるって」

 

「それと、圭ちゃんは勝手に危ないところへ首を突っ込まないこと」

 

「……え?」

 

「昨日みたいな怪人が、また出てくるかもしれないでしょう?」

 

「いや、でも……」

 

「でも?」

 

詩音がじっと見つめてくる。

 

圭一は言葉を詰まらせた。確かに、昨日のライノは今まで戦ってきた相手とは桁違いだった。もし同じような奴がもう一人現れたら、今の装備では到底余裕を持って戦えるとは思えない。

 

「……分かったよ。無茶はしねぇ」

 

「本当でしょうね?」

 

「だから本当だって!」

 

「なら、約束です」

 

詩音はようやく満足したように微笑んだ。

 

圭一は新聞を見下ろしながら、しばらく考えていた。

 

「……でもさ、詩音」

 

「はい?」

 

「もし、これが本当に誰かに隠されてるんだとしたら……俺、ちょっと許せねぇな」

 

詩音は黙って圭一を見た。

 

「昨日、あの場所にいた人たちは本当に怖かったはずだぜ。店を壊された奴もいるし、逃げ回ってた人もいた。それを、何もなかったみたいに事故で済まされたらさ……」

 

圭一は言葉を探した。

 

「……何か、違うだろ」

 

風が吹いた。屋上の金網が微かに音を立てる。

 

「俺だって、昨日のこと全部分かってるわけじゃない。鉄平が何であんな身体になったのかも知らねぇし、あいつが何をしたかったのかも知らねぇ。でも、実際に暴れてたことは確かなんだよ」

 

詩音は静かに頷いた。

 

「……そうですね」

 

「それに、もしあいつをあんな風にした奴が別にいるんだったら……そいつが何考えてるのかも気になる」

 

圭一は遠くの街並みへ視線を向けた。

 

昨日は、あの中で戦っていた。店のシャッターが壊れ、人々が逃げ、灰色の巨体が街を踏み荒らしていた。今日になれば、同じ場所にはまた人が戻り、何事もなかったように生活が続いているのだろう。

 

それは悪いことではない。

 

むしろ、そうであってほしい。

 

しかし、その平穏が、何かを隠したまま成り立っているのだとしたら。

 

「……俺さ」

 

圭一は小さく呟いた。

 

「最初は、この力があれば色んなこと出来ると思ってたんだよ。壁を登ったり、高いところから飛び降りたり。正直、面白くて仕方なかった」

 

「ええ。知ってますよ」

 

詩音が少し笑う。

 

「圭ちゃん、初めて会った時から随分楽しそうでしたし」

 

「……まあな」

 

圭一は苦笑した。

 

「けど、昨日みたいな奴がいるなら、話は別だよな」

 

「……」

 

「俺が逃げたら、代わりに誰が止めるんだって話になるし」

 

そこまで言って、圭一は一度言葉を切った。

 

自分でも、少し大袈裟なことを言っている気がした。たかが中学生一人が、街の安全について何を語っているのか。警察だっている。大人だっている。自分だけが何かを背負わなければならない理由など、本当はないのかもしれない。

 

それでも、昨日見た光景を思い返すと、何もしないままではいられなかった。

 

「……まあ、何だ」

 

圭一は頭を掻いた。

 

「これからも、出来ることはやってみようと思う」

 

「……出来ること、ですか?」

 

「ああ。怪人が出てきたら止める。困ってる奴がいたら助ける。変なことがあったら、ちゃんと調べる。少なくとも、昨日みたいなことを、なかったことにはしたくねぇ」

 

詩音はしばらく黙っていた。

 

やがて、少しだけ困ったような笑みを浮かべる。

 

「……圭ちゃんって、やっぱり変な人ですねぇ」

 

「何だよ、急に」

 

「普通、あんな怖い目に遭った翌日に、そんなこと言いませんよ」

 

「……そうか?」

 

「そうですよ」

 

詩音は圭一の顔を見つめた。

 

「でも……圭ちゃんらしいと思います」

 

圭一は照れくさくなり、わざとらしく肩を竦めた。

 

「ま、何にせよ、俺一人じゃ調べようがねぇしな。頼むぜ、相棒」

 

「……相棒?」

 

詩音が目を瞬かせた。

 

「ああ。違うのか?」

 

「いえ、違いませんけど」

 

詩音は少しだけ笑った。

 

「……そうですね。相棒ですからね」

 

「おう!」

 

圭一は満足そうに頷いた。それから、ふと思い出したように口を開く。

 

「……あ、そうだ」

 

「何です?」

 

「もう一つ、相談があったんだった」

 

「相談?」

 

「ああ。昨日のことでさ……」

 

圭一は言いかけて、口を閉ざした。

 

詩音はその様子を見て、僅かに首を傾げる。

 

「……圭ちゃん?」

 

「いや……何て言うか……」

 

「歯切れが悪いですねぇ」

 

「うるせぇな! ちょっと待てって!」

 

圭一は頭を掻いた。さっきまで怪人や事件についてはあれほどすらすら話していたのに、どうしてこの話題になると急に言葉が出てこなくなるのだろう。

 

詩音は不思議そうに待っていたが、やがて何かに思い当たったらしい。

 

「……もしかして、お姉のことですか?」

 

圭一の肩が跳ねた。

 

「なっ……!」

 

「……あら」

 

詩音の口元がゆっくりと持ち上がる。

 

「図星ですか?」

 

「ち、違っ……いや、違わねぇけど!」

 

「ふふっ。なるほどなるほど」

 

「何だよ、その顔!」

 

「いえぇ? 別に何も?」

 

明らかに楽しんでいる。圭一は嫌な予感がした。

 

「……お前、昨日のこと、どこまで知ってんだ?」

 

「どこまでって...私はお姉になんとか聞き出そうとはしてみたんですけど、全然話してくれないんです。だから、昨日の朝以降は聞いてませんよ。なんです?圭ちゃんから報告する気になったんですか?」

 

「そうだな...えっと...魅音と俺が……その……」

 

「なんですか?ハッキリ言ってくださいよ...もしかして...告白でもされた、とか?」

 

「え!?いや、違う違う...」

 

「ええ? 違うんですか?」

 

「いや、違うっていうか……!」

 

詩音はとうとう堪えきれなくなったように笑った。

 

「ふふっ、圭ちゃん。本当に面白いですねぇ」

 

「こっちは真剣なんだよ!」

 

「はいはい。ちゃんと聞きますよ」

 

詩音は笑みを収め、少しだけ姿勢を正した。

 

「それで、お姉と何があったんです?」

 

圭一は深く息を吐いた。

 

「……昨日さ。最後、川沿いを歩いてたんだよ」

 

「はい」

 

「そしたら、魅音が急に静かになってさ。何か言いたそうにしてたんだ」

 

詩音は黙って頷いた。

 

「俺のこと……何か言おうとしてたんだけど……」

 

圭一は言葉を止めた。

 

「……その瞬間に、例の騒ぎが起きた」

 

「……ああ」

 

詩音の表情が僅かに変わった。

 

「だから、俺、魅音を置いて走っちまったんだよ。何も説明せずに」

 

「……そうだったんですか」

 

「ああ。昨日の夜に謝ろうかと思ったんだけど、何て言えばいいか分かんなくてさ」

 

圭一は膝へ肘をついた。

 

「今日も、朝に一瞬、顔は合わせたんだけど……何か気まずくてな」

 

「お姉は、何か言ってました?」

 

「いや。普通に挨拶はしたんだけど、何となく目ぇ逸らされたような気がしてさ」

 

詩音は少し考え込んだ。

 

「……なるほど」

 

「なあ、詩音」

 

圭一は真剣な顔で尋ねた。

 

「こういう時って、どうすりゃいいんだ?」

 

詩音は少しの間、圭一を見つめていた。それから、ゆっくりと息を吐く。

 

「……圭ちゃん」

 

「何だよ」

 

「それ、私に聞くんですか?」

 

「他に誰がいるんだよ!」

 

「いえ、まあ……そうですけど」

 

詩音は小さく笑った。

 

「でも、私、お姉の妹ですよ?」

 

「知ってるよ!」

 

「つまり、お姉のことなら圭ちゃんよりずっと分かる立場なんですけど」

 

「だから聞いてんだろ!」

 

「……ふふっ」

 

詩音は楽しそうに目を細めた。

 

「そうですねぇ。まず一つだけ聞きますけど」

 

「何だ?」

 

「圭ちゃん。お姉が何を言おうとしてたのか、本当に分からないんです?」

 

圭一は黙り込んだ。昨日の夕方。川沿いの遊歩道。夕日。魅音が握りしめていたぬいぐるみ。そして、いつもとは違う真剣な表情。

 

あの時、魅音は確かに言った。

 

自分のことを。

 

「……いや」

 

圭一は小さく答えた。

 

「何となくは、分かる...気がする」

 

「……でしょうね」

 

詩音は穏やかに頷いた。

 

「だったら、まずはちゃんと謝ることです」

 

「……謝る?」

 

「はい。昨日、途中でいなくなってごめんって。それだけでもいいと思いますよ」

 

「でも、理由聞かれたらどうすんだよ?」

 

「全部話す必要はありません。圭ちゃんには、話せない事情があるんでしょう?」

 

圭一は頷いた。

 

「……ああ」

 

「なら、せめて、いなくなったことについては謝る。それから、お姉の話をちゃんと聞いてあげてください」

 

「……なるほど」

 

圭一は少し考えた。

 

「じゃあ、昨日の続きを聞いてみるってことか?」

 

「……まあ、それでもいいですけど」

 

詩音は少しだけ笑った。

 

「ただ、圭ちゃん」

 

「ん?」

 

「お姉だって、勇気を出して言おうとしてたんだと思いますよ」

 

その言葉に、圭一は顔を上げた。

 

「……勇気?」

 

「ええ。普段のお姉って、ああいうことを正面から言うの、あんまり得意じゃありませんから」

 

詩音は遠くの新校舎を見つめた。

 

「だから、もしまた話してくれるなら……今度は、ちゃんと最後まで聞いてあげてくださいね」

 

圭一はしばらく黙っていた。

 

「……分かった」

 

やがて、短く答えた。

 

「俺、次に会った時にでも話してみる」

 

「それがいいと思います」

 

詩音は微笑んだ。

 

その表情を見て、圭一はようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……ありがとな、詩音」

 

「いえいえ。相棒ですからね」

 

「おう」

 

「でも」

 

詩音の口元が、再び悪戯っぽく持ち上がった。

 

「でももしお姉に告白されたら、どうするつもりなんです?」

 

「ぶっ!」

 

圭一は思わず噎せた。

 

「な、何言ってんだよ!」

 

「ええ? 大事なことでしょう?」

 

「そりゃ……そうだけど!」

 

「圭ちゃん、お姉のこと嫌いじゃないでしょう?」

 

「当たり前だろ!」

 

「じゃあ、好き?」

 

「……は!?」

 

「好きか嫌いかで言えば、ですよ?」

 

圭一は口を開きかけて、閉じた。魅音のことは好きだ。部活仲間として、一緒にいて楽しい相手として。それは間違いない。けれど、昨日の夕方を思い出すと、いつもと同じ意味で好きだと言い切れるのか、少し分からなくなっていた。

 

「……そういうの、まだよく分かんねぇよ」

 

結局、そう答えた。詩音は少しだけ目を細めた。

 

「……ふぅん」

 

「何だよ」

 

「いえ、別に」

 

「絶対何か考えてるだろ」

 

「さあ、どうでしょう?」

 

圭一は大きく溜息を吐いた。

 

「……もういい。お前に相談した俺が馬鹿だった」

 

「ええっ、酷いですねぇ。ちゃんと助言したじゃないですか」

 

「最後の質問が余計なんだよ!」

 

詩音は楽しそうに笑った。やがて昼休みの終わりを告げる予鈴が、校舎の向こうから聞こえてきた。圭一は立ち上がり、制服についた埃を軽く払う。

 

「……そろそろ戻るか」

 

「そうですね」

 

詩音も弁当箱を片づけて立ち上がった。

 

「圭ちゃん」

 

「ん?」

 

「北条鉄平のこと、何か分かったら連絡しますね」

 

「ああ。頼む」

 

「それと、お姉のことも」

 

「……おう」

 

圭一は少し照れくさそうに頷いた。

 

詩音はそんな圭一を見て、ふっと微笑む。

 

「……頑張ってくださいね」

 

「何をだよ!」

 

「さあ?」

 

「お前なぁ……」

 

またからかわれた。圭一は頭を掻きながら階段の方へ歩き出す。

 

扉を開ける直前、ふと振り返った。

 

「……詩音」

 

「はい?」

 

「昨日は、ありがとな」

 

「……昨日?」

 

「ああ。無線でずっと付き合ってくれただろ。あれ、結構助かったんだぜ」

 

詩音は一瞬だけ驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと笑った。

 

「……どういたしまして」

 

圭一は軽く手を振り、屋上を後にした。一人残された詩音は、しばらく扉の方を見つめていた。やがて、手元の新聞へ視線を落とす。

 

再開発地区の工事事故。

 

その小さな記事には、北条鉄平という名前が一文字も載っていない。

 

「……まったく」

 

詩音は小さく息を吐いた。

 

「本当に、厄介なことになってきましたねぇ」

 

そう呟いて新聞を折り畳む。新校舎の方からは、午後の授業へ急ぐ生徒たちの声が聞こえていた。

 

昨日、あの街で何が起きたのか。

 

そして、北条鉄平はどこへ消えたのか。

 

今はまだ、誰にも分からなかった。

 

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