スパイダーマンのなく頃に   作:晃晃

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鉄平調査 

詩音は圭一との会話のあと、早退を取ってすぐに帰ることにした。演技派だった詩音は体調不良が認められて、颯爽と足取りを運ぶ。

 

「……我ながら、病人の歩き方じゃありませんねぇ」

 

旧校舎を出て、校門を抜けたところで詩音はそんなことを呟いた。先ほどまで教師の前では具合が悪そうに俯き、時折額を押さえる仕草までしていたのだが、今ではすっかり元気になっている。こんな姿を担任に見られれば仮病が一瞬で露見してしまうだろう。もっとも、今さら学校へ戻る気もなかったし、そもそも詩音には授業を抜け出してまで調べておきたいことがあった。

 

北条鉄平。

 

昨晩、灰色の異様な身体で興宮の街を暴れ回り、圭一と戦った男である。沙都子の叔父にあたり、園崎家でも名前くらいは知られている人物だったが、詩音自身、その男について詳しく知っているわけではない。酒癖が悪く、金銭関係の揉め事が絶えない。まともな仕事にも就かず、興宮の繁華街をうろついていた。そんな噂なら以前から聞いていたし、葛西からも注意するように言われたことがあった。

 

しかし、あの姿は何だったのだろう。

 

夕べの出来事を思い返す。道路を踏み砕くほどの脚力に、圭一が丹精込めて作った十三号さえ引き千切る怪力。車内から遠巻きに見ただけでも、普通の人間ではないことくらいは分かった。まして、圭一は実際にその怪物と戦い、あれほど苦労してようやく倒したのである。

 

それなのに、今朝の新聞には工事事故としか書かれていなかった。鉄平の名前も、あの異様な姿も、何一つ報じられていない。詩音は鞄の中に入れていた新聞を思い浮かべながら、僅かに眉を顰めた。

 

「……事故、ですか」

 

誰かが意図的に隠しているのか、それとも報道機関へ正確な情報が伝わっていないだけなのか。今の時点で判断することは出来ない。ただ、あれほどの事件を起こした北条鉄平という男が、昨日まで一体何をしていたのか。それくらいは調べておいても損はないはずだった。

 

詩音は腕時計を確認すると、そのまま駅前へ向かった。幸い、こういう話を聞くのに適した人物には心当たりがある。

 

「……葛西なら、何か知ってるでしょうかねぇ」

 

そう呟いて、詩音は少し足を速めた。

 

「北条鉄平、ですか」

 

葛西は詩音の口からその名前が出た途端、僅かに眉を動かした。

 

場所は興宮の市街地にある園崎家の関係事務所だった。昼過ぎということもあって人の出入りは少なく、奥の応接室には壁時計の針が進む音だけが静かに響いていた。詩音はソファへ腰掛け、葛西が淹れてくれた茶を一口飲むと、昨日の出来事を思い返すように息を吐いた。

 

「はい。昨日のあの人です。葛西も見たでしょう? あのサイみたいな怪物」

 

「ええ。忘れられるようなものではありませんね」

 

「ですよねぇ。圭ちゃんなんか、随分ひどい目に遭ったみたいですし」

 

「前原さんは大丈夫だったんですか」

 

葛西はそう尋ねた。詩音と共に車で現場へ駆け付けた時にも、圭一が無茶をしていることを随分気に掛けていた。あの少年が普通ではない身体能力を持っていることは葛西も知っている。それでも、相手が相手だけに、楽観出来るような状況ではなかった。

 

「今日も元気に学校へ来てましたよ。さっき屋上で話してきましたけど、もうすっかりいつもの圭ちゃんでした」

 

「それは何よりです」

 

「まあ、本人は平気そうにしてましたけどね。昨日は大事にしてた縄が切れたとか、身体のあちこちが痛いとか、散々だったみたいです」

 

詩音は苦笑したものの、葛西はすぐには笑わなかった。昨日の鉄平を見ていれば、圭一が無事だったという事実の方が不思議なくらいだったのである。

 

「……それで、詩音さん。あの男について調べたいということですか」

 

「話が早くて助かります」

 

「ですが、どうしてまた」

 

「昨日の新聞、読みました?」

 

葛西は頷いた。詩音は鞄から折り畳んだ新聞を取り出すと、再開発地区の工事事故を報じた小さな記事を指差した。

 

「これですよ。あれだけ派手に暴れたのに、工事事故ですって。圭ちゃんが見たっていう黒い車のことも気になりますし、何かおかしいと思いません?」

 

葛西は新聞に目を通し、しばらく黙っていた。やがて、卓上へそれを戻す。

 

「確かに、不自然ではありますね。ただ、警察側がまだ詳細を公表していない可能性もあります」

 

「ええ。圭ちゃんにも同じことを言いました。でも、それなら余計に気になるじゃないですか。あの男が何者で、どうしてあんなことになったのか」

 

「……なるほど」

 

「葛西、北条鉄平について何か知りません?」

 

葛西は少し考え込んだ。園崎家は興宮や雛見沢に古くから根を張っているため、土地の人間についての噂なら自然と集まってくる。しかし、それは決してすべての人間の行動を把握しているという意味ではない。まして北条鉄平のような男は、関わる相手によって居場所を転々とするため、最近の足取りまで正確に掴んでいるとは限らなかった。

 

「以前のことなら、多少は知っています。酒と金の問題が絶えず、仕事も長続きしない。園崎家と直接揉めたという話は聞いていませんが、興宮の繁華街では随分と評判が悪かったようですね」

 

「その辺りは私も聞いてます。でも、最近はどうなんです?」

 

「最近、ですか……」

 

葛西はそこで言葉を止めた。

 

「そういえば、ここしばらく名前を聞いていませんね」

 

「……聞いてない?」

 

「ええ。以前は飲み屋で揉めたとか、金を貸した相手が探しているとか、そういう話が時折入ってきたのですが。ここ二、三か月は随分と静かになったようです」

 

「急に心を入れ替えたとか?」

 

「それなら結構なことですが」

 

淡々とした返答に、詩音は思わず笑った。しかし、すぐに考え込む。北条鉄平という男がどういう人物なのか、実際に会ったことのない詩音には分からない部分も多い。それでも、昨日のあの荒々しい様子を見る限り、突然大人しくなったとは考えにくかった。

 

「金の方はどうなったんでしょうね。以前、結構借金してたって聞きましたけど」

 

「少し待ってください」

 

葛西は席を立つと、事務室の方へ姿を消した。しばらくして戻ってきた時には、古い手帳を一冊持っていた。

 

「以前、知り合いから聞いた話を書き留めていたものです。正式な記録ではありませんが……」

 

そう前置きしてページを捲る。やがて葛西の指が一箇所で止まった。

 

「……ありました。三か月ほど前、鉄平が金を借りていた相手へ、まとまった額を返したという話がありますね」

 

「え?」

 

詩音は思わず身を乗り出した。

 

「まとまった額って、どれくらいです?」

 

「正確な金額は分かりません。ただ、長いこと返済が滞っていたものを、一度に清算したということです」

 

「……へぇ」

 

それは妙な話だった。まともな職にも就かず、酒と金の揉め事を繰り返していた人間が、突然まとまった金を手に入れたのである。宝くじにでも当たったのなら話は別だが、少なくとも葛西の知る範囲ではそんな噂はなかった。

 

「仕事を始めたとか、そういう話は?」

 

「あります。再開発地区の方で、鉄平に似た男を見掛けたという人がいたそうです」

 

詩音の表情が変わった。

 

「……再開発地区?」

 

「ええ。建設関係の仕事を紹介されたとか。ただ、正式な作業員として雇われていたのかまでは分かりません」

 

昨日の現場も、興宮の再開発地区だった。

 

詩音は茶の入った湯呑みを机へ置き、窓の向こうへ目を向けた。偶然という可能性もある。興宮ではここ数年、大規模な建設工事が至るところで行われているのだから、そこで働いていたというだけで不審なこととは言い切れない。

 

しかし、気になることが多すぎた。

 

突然まとまった金を手に入れ、最近は以前の知り合いの前にも姿を現さなくなった。そして昨日、あの異様な身体で工事現場の近くを暴れ回っていたのである。

 

「葛西さん、その仕事を紹介した人って分かりません?」

 

「今のところは」

 

「会社の名前とかも?」

 

「聞いていませんね。ただ、再開発地区の建設会社なら、園崎家とも付き合いのあるところが多いです。少し調べれば何か分かるかもしれません」

 

「……お願いします」

 

詩音がそう言うと、葛西はすぐに返事をしなかった。代わりに、じっと詩音の顔を見る。

 

「詩音さん」

 

「はい?」

 

「昨日の男について調べるのは構いませんが、何か分かったからといって、直接会いに行くようなことはしないでください」

 

「……あら」

 

詩音は少し笑った。

 

「葛西さんまで圭ちゃんみたいなこと言うんですねぇ」

 

「前原さんもそう言っていたんですか」

 

「ええ。危ないことには首を突っ込むなって。自分は真っ先に飛び込んでいくくせに」

 

葛西は僅かに息を吐いた。

 

「だからこそ、です」

 

「……?」

 

「昨日のような相手がまた現れたとして、前原さんが必ず助けに来られるとは限りません。私も同じです。詩音さんが何を調べるにしても、それだけは忘れないでください」

 

その言葉に、詩音はしばらく黙っていた。昨日、鉄平が圭一へ迫っていく光景が頭に浮かぶ。あの場面では、自分も葛西も車から見守ることしか出来なかった。自分の知恵や人脈が圭一の助けになることはあるかもしれないが、圭一の代わりにあの巨体を受け止められるわけではない。

 

「……分かりました」

 

詩音は静かに頷いた。

 

「私だって、好き好んで怪物と喧嘩するつもりはありませんよ」

 

「それを聞いて安心しました」

 

「まあ、圭ちゃんはどうだか分かりませんけどねぇ」

 

そう言って笑うと、葛西もほんの僅かに表情を緩めた。

 

 

葛西が関係者へ連絡を取っている間、詩音は事務所の窓際へ歩み寄った。

 

眼下には、午後の興宮の街が広がっている。道路を行き交う車の数も随分と増え、遠くには新しい集合住宅や商業ビルが並んでいた。そのさらに向こうでは、工事用のクレーンがゆっくりと動いている。今ではすっかり見慣れた景色だったが、詩音は時折、この街が昔からこうだったわけではないことを思い出す。

 

数年前まで、興宮はどこにでもある地方の町だった。

 

商店街があり、住宅街があり、駅前には古い建物が並んでいる。今のように高層の建物が林立することもなければ、県外から研究者や技術者が次々と移り住んでくることもなかった。もっとも、当時の詩音はまだ幼かったから、街の変化をすべて鮮明に覚えているわけではない。

 

しかし、その変化が何をきっかけに始まったのかは知っていた。

 

雛見沢のダム建設。

 

すべては、そこから始まった。

 

かつて雛見沢には、村全体を水の底へ沈めかねないほど大規模なダム計画が持ち上がっていた。山間に広がる田畑や住宅、長い年月をかけて築かれてきた集落の大部分が、完成後の貯水池へ飲み込まれるというものだった。村民にとっては単に引っ越しをするという話ではない。生まれ育った家も、先祖から受け継いできた土地も、神社や墓地を含めた村の歴史そのものが失われるのである。

 

当然、村は激しく反発した。

 

その中心にいたのが、園崎お魎だった。

 

園崎家の当主であり、詩音にとっては祖母にあたる人物である。お魎はもともと気性が激しく、一度こうと決めたことを簡単には曲げない人間だったらしい。村の土地を守るためなら相手が国であろうと県であろうと一歩も退かず、反対運動の先頭に立ち続けたという。建設会社との交渉が決裂したこともあれば、工事の進行を巡って村民と警察が衝突しかけたこともあった。

 

けれど、反対運動が長引くにつれて、村の中でも意見が分かれ始めていた。

 

全面中止以外は認めないという者もいれば、補償を受けて新しい土地へ移り住む方がよいと考える者もいる。若い世代の中には、興宮の発展や新しい雇用に期待する者まで現れていた。

 

そこでお魎と意見を異にしたのが、詩音の母である茜だった。

 

茜も、雛見沢を失うことに賛成していたわけではない。ただ、計画は既に大勢の人間を巻き込み、莫大な金が動き始めていた。建設工事も部分的に進んでいる。ここから全面中止を勝ち取るのは、最初に計画が持ち上がった頃とは比べものにならないほど難しくなっていた。

 

このまま反対運動を続けたところで、村が完全に守られる保証はない。むしろ、村民同士の対立が深まり、最後には何一つ守れなくなるかもしれない。

 

ならば、ダムそのものを小さくさせる。

 

貯水区域を見直し、村の高台にある集落や古手神社を残す。水没する土地については十分な補償金を要求し、移転先の確保や道路の整備まで条件に含める。さらに、周辺地域へ新しい産業を誘致することで、土地を失う人々にも生活の基盤を与える。

 

それが茜の考えだった。

 

もっとも、そんな理屈でお魎が納得するはずもなかった。

 

母娘は何度も衝突したと聞いている。お魎からすれば、土地の一部を沈めることを認める時点で敗北であり、茜からすれば、全面中止に固執することこそ村を危険に晒す行為だった。どちらも雛見沢を守ろうとしているのに、守るという言葉の意味が違っていたのである。

 

そして、そんな争いの最中だった。

 

園崎お魎が急死した。

 

前日まで元気に交渉の場へ出席し、帰宅後も茜と言い争っていたという。それが夜になって突然倒れ、病院へ運ばれたものの、翌朝には息を引き取っていた。医師は急性の心臓の異常と説明し、長年の疲労や心労が重なったのだろうという話になった。

 

しかし、納得しない者もいた。

 

何しろ、あの園崎お魎である。つい昨日まで誰よりも大きな声で怒鳴っていた人間が、翌朝には亡くなっているのだ。しかも、ダム建設を巡る争いが最も激しかった時期だった。

 

建設側が何かしたのではないか。反対運動を邪魔に思う誰かに狙われたのではないか。そんな噂が出るのも、無理はなかった。

 

けれど、証拠は見つからなかった。

 

何より、当時の村には疑惑を追及する余裕すらなかった。反対運動の象徴だったお魎を失い、村民たちはこれからどうすればよいのか分からなくなっていたのである。

 

そこで茜が動いた。

 

母の死によって空いた園崎家の中心に立ち、対立を続ける村民たちをまとめ直した。そして建設側との交渉を再開し、全面中止ではなく、ダムの縮小と補償条件の改善を求める方針へ転換したのである。

 

もちろん、誰もが納得したわけではなかった。

 

お魎の遺志を裏切ったと怒る者もいたし、園崎家が金で折れたと陰口を叩く者もいた。茜自身、母が生きていれば決して認めなかったであろう条件へ署名することに、思うところがなかったはずはない。

 

それでも、交渉は進んだ。

 

結果として、ダムの規模は当初計画から大幅に縮小されることになった。雛見沢の低地にあった住宅や田畑は水没したものの、高台側の集落や古手神社は残され、村そのものが完全に消えることだけは避けられた。住民の一部は興宮へ移り住み、残った者たちは新たに整備された丘陵地の住宅へ移った。

 

そして興宮には、移転に伴う補償金だけでなく、建設や研究開発に関わる資金が流れ込んだ。

 

道路が広がり、商業施設が建ち、研究所が新設され、そこで働く人々のために住宅が次々と建設された。かつての地方都市は急速に姿を変え、今では県外から訪れる人間が驚くほどの街並みを持つようになっている。

 

雛見沢が半分沈んだことで、興宮は大きくなった。

 

そう言ってしまえば、あまりにも単純だった。

 

実際には補償金を受け取って新生活を始めた者もいれば、慣れ親しんだ土地を離れられず、失われた村を懐かしむ者もいる。開発によって生活が豊かになった者もいれば、その恩恵から取り残された者もいるのだ。

 

少なくとも、茜は何もかもを失わせないために妥協した。

 

お魎は、何一つ失いたくないから戦った。

 

どちらが正しかったのか。

 

その答えは、今も出ていない。

 

「……お母さんも、大変だったんでしょうねぇ」

 

詩音は小さく呟いた。

 

茜は普段、娘たちの前でダム戦争のことを好んで話さない。まして、お魎の死についてはなおさらだった。詩音自身も母から直接聞いた話より、葛西や園崎家の関係者から耳にした話の方が多いくらいである。

 

けれど、そんな昔の出来事が今になって再び気になっているのは、昨日の鉄平の一件があったからだった。

 

あの灰色の身体。

 

人工物とも生き物ともつかない、異様な外装。

 

そして、再開発地区で突然起こった騒ぎ。

 

「……まさか、関係あるんでしょうかね」

 

詩音は遠くの建設現場へ目を向けた。

 

雛見沢を沈めたダムと、そこから発展した興宮。その二つを繋ぐ場所に、今ではいくつもの研究施設が建っている。

 

もちろん、それだけで何かが分かるわけではない。ただ、昨夜から胸の奥に残っている違和感だけは、まだ消えていなかった。

 

§

 

一方、圭一は午後の授業を終えた後も、すぐには帰宅しなかった。

 

昨日の鉄平について調べると言ったものの、詩音と違って園崎家の人脈など持っているはずもない。警察へ聞きに行くわけにもいかず、そもそも鉄平が逮捕されたのかどうかすら分からないのである。

 

ならば、まず身近なところから聞いてみる。

 

そう考えて、圭一は帰り支度をしていた沙都子へ声を掛けた。

 

「なあ、沙都子」

 

「何ですの、圭一さん。今日もまた何か悪巧みでも?」

 

「人を見たら悪巧みしてると思うなよ! ちょっと聞きたいことがあるだけだって」

 

沙都子は不審そうに眉を寄せた。普段の圭一ならば、ここで適当な冗談の一つでも飛ばし、沙都子が言い返しているうちにいつもの口喧嘩が始まるところだった。しかし、今日は少し事情が違う。圭一は周囲を見渡し、教室に残っている生徒たちが自分たちの会話を気にしていないことを確認してから、改めて口を開いた。

 

「お前さ、北条鉄平って知ってるよな?」

 

沙都子の手が止まった。

 

一瞬のことだったが、圭一はそれに気づいた。机の上に置いていた教科書を鞄へ入れようとしていた沙都子は、少しだけ視線を落とし、それから何事もなかったように手を動かし始めた。

 

「……叔父様のことですわね」

 

「ああ。そうそう」

 

「それがどうかなさいまして?」

 

「いや、ちょっと名前を聞いてさ。最近どうしてんのかなと思って」

 

自分でも随分と不自然な聞き方だと思った。沙都子にしてみれば、普段まったく話題に出さない叔父のことを、転校して間もない圭一が突然尋ねてきたのである。不審に思われても仕方がない。

 

案の定、沙都子は少し目を細めた。

 

「……何故、圭一さんが叔父様のことを?」

 

「えっと……知り合いから聞いたんだよ。北条って名字だったから、お前の親戚かなって」

 

「そうですの」

 

沙都子の返事は短かった。

 

「で、最近会ったりしたか?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ、今どこに住んでるとか、何の仕事してるとかは?」

 

「存じませんわ」

 

あまりにも素っ気ない返答に、圭一は思わず口を閉じた。

 

いつもの沙都子なら、こちらが何か聞けば余計なことまで付け加え、最後には必ずと言っていいほど圭一をからかってくる。ところが今は、必要なことしか答えようとしない。むしろ、一刻も早く話を終わらせたがっているように見えた。

 

「……そっか」

 

圭一は少し考えた。

 

「あいつ……いや、その叔父さんって、昔から興宮に住んでんのか?」

 

「圭一さん」

 

沙都子の声が僅かに硬くなった。

 

「叔父様のことを、どうしてそんなにお知りになりたいんですの?」

 

「……いや」

 

圭一は言葉に詰まった。昨日あの男と戦ったから。あの男が怪物になっていたから。そんなことを言えるはずもない。

 

しかし、だからといって、ここで適当な嘘を重ねることにも抵抗があった。

 

「……悪い。ちょっと気になっただけだ」

 

沙都子はしばらく圭一を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「叔父様が今どこで何をなさっているのか、私は知りません。それに、知りたいとも思っていませんわ」

 

「……そうなのか」

 

「ええ。梨花と暮らしておりますし、叔父様とは随分お会いしておりませんもの」

 

そこまで言って、沙都子は鞄を持ち上げた。

 

「それで、もうよろしいですの?」

 

「あ、ああ。悪かったな、変なこと聞いて」

 

「別に構いませんけど……」

 

沙都子は何か言い掛けたが、結局そのまま教室の出口へ向かった。しかし、扉のところまで歩いたところで一度だけ振り返る。

 

「……圭一さん」

 

「ん?」

 

「もし叔父様とお会いになっても、私のことは話さないでくださいまし」

 

それだけ言い残して、沙都子は廊下へ姿を消した。圭一はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

最後の一言が、妙に引っ掛かったのである。叔父に自分のことを話さないでほしい。

 

それは単に親戚付き合いが悪いというだけの話なのだろうか。沙都子の態度を見る限り、あまりいい思い出のある相手ではないことくらいは分かった。だが、だからといって勝手に事情を決めつけるわけにもいかない。

 

「……参ったな」

 

圭一は頭を掻いた。

 

北条鉄平。

 

沙都子の叔父。

 

昨日のライノ。

 

あんな怪物のような姿になって暴れていた男が、実は自分の友人と血の繋がった人間だった。その事実を、圭一はまだ上手く飲み込めずにいた。

 

しかも沙都子は、鉄平が最近何をしていたのか知らないらしい。

 

それなら、別の方法で調べるしかなかった。

 

「……とりあえず、昔の新聞でも見てみるか」

 

圭一は鞄を肩へ掛け、教室を後にした。

 

§

 

興宮の市立図書館は、駅前から少し離れた場所にあった。

 

新しい商業施設に挟まれたその建物は、周囲の近代的な街並みに比べると随分古びて見えたが、中へ入ってみれば意外なほど広かった。新聞や雑誌の閲覧室もあり、地元紙の古い記事をまとめた縮刷版が書架に並んでいる。圭一は受付の職員へ過去の事件を調べたいと伝え、教えられた棚の前へ向かった。

 

もっとも、ここへ来ればすぐに何か分かると期待していたわけではない。

 

そもそも北条鉄平が新聞に載るような人物なのかも分からないし、昨日の事件があの有様なのだから、過去の記録だってどこまで信用出来るか怪しいものだった。それでも、ただ家へ帰って考え込んでいるよりは何か得られるかもしれない。

 

「……さてと」

 

圭一は重たい縮刷版を机へ運び、ページを捲り始めた。

 

北条という名字を探す。地域の行事や学校の記事、町内会の話題など、目に入ってくるものは多かったが、鉄平本人へ繋がりそうな情報はなかなか見つからない。古い記事は文字も小さく、慣れない紙面を追っているだけで目が疲れてくる。

 

「……これ、結構面倒だな」

 

思わず呟き、椅子へ背中を預けた。

 

だが、しばらくして気を取り直し、もう一度ページを捲る。北条家について調べているのだから、鉄平本人だけでなく、家族に関する記事も手掛かりになるかもしれない。

 

そう考えたところで、ある見出しが目に留まった。

 

『雛見沢ダム湖付近で夫婦転落 妻死亡、夫の捜索続く』

 

「……ん?」

 

圭一は紙面へ顔を近づけた。

 

記事は二年前のものだった。雛見沢のダム湖付近で北条姓の夫婦が転落し、妻は死亡、夫は行方が分からなくなったという。警察や消防による捜索が続けられたものの、記事が書かれた時点では夫は見つかっていないらしい。

 

「……北条、ねぇ」

 

沙都子の顔が浮かんだ。

 

鉄平は叔父。

 

それなら、この夫婦も何か関係があるのだろうか。

 

圭一はもう一度記事を読み直した。しかし、そこに沙都子の名前はなく、家族構成も詳しくは書かれていない。事故の原因についても、足を滑らせた可能性があるという程度の説明しか見当たらなかった。

 

ただ、記事の末尾に妙な一文があった。

 

『地元では、前年のダム工事関係者の失踪事件などと結びつけ、オヤシロさまの祟りではないかと噂する声もある』

 

「……オヤシロさま?」

 

圭一は小さく呟いた。

 

聞き慣れない名前だった。

 

雛見沢に来てから一か月ほど経ったが、そんな話を詳しく聞いた覚えはない。神社や祭りについてなら梨花から少し教えてもらったこともある。しかし、祟りとなると話は別だった。

 

「……何だよ、祟りって」

 

圭一は記事をもう一度読み返した。

 

前年の失踪事件。

 

そう書いてある以上、その記事も残っているはずである。

 

圭一は一年前の縮刷版を取り出すと、日付を頼りに紙面を探し始めた。何ページも捲るうち、ようやくダム工事に関する記事を見つける。

 

工事現場での電気設備事故。

 

関係者の一人が事故後に行方不明。

 

そして、同じ時期に起きた園崎家当主の急死。

 

「……園崎?」

 

圭一の手が止まった。

 

園崎といえば、魅音と詩音である。

 

記事には、ダム反対運動の中心人物だった園崎お魎が急死したこと、それを受けて反対派の動向が変化したことなどが書かれていた。圭一は知らなかったが、かつての園崎家は雛見沢のダム建設を巡る争いで、かなり大きな役割を果たしていたらしい。

 

「……あの二人の婆ちゃんか」

 

圭一は腕を組んだ。

 

ダム工事関係者の失踪。

 

園崎お魎の急死。

 

その翌年には、北条夫妻の転落事故。

 

偶然にしては、随分と物騒な出来事が続いている。

 

もっとも、ダムのような大規模な工事では事故が起きることもあるだろうし、人間が突然亡くなること自体は不思議ではない。ここに書かれている事件がすべて関係しているとは限らなかった。

 

しかし、気になった。

 

圭一はさらに翌年の新聞を調べることにした。

 

そこで見つけたのが、古手家に関する記事だった。

 

『雛見沢神社関係者が死亡 妻の行方分からず』

 

「……古手?」

 

梨花。

 

今度は、あの小さな少女の名字だった。

 

記事によれば、神社に関係する古手家の男性が亡くなり、その妻が失踪している。事情は詳しく書かれていなかったが、やはりオヤシロさまの祟りについて触れられていた。

 

圭一は思わず顔を上げた。

 

「……おいおい」

 

園崎。

 

北条。

 

古手。

 

どれも、自分が普段から接している友人たちの名字だった。

 

これまで圭一にとって、雛見沢は少し変わった田舎の村にすぎなかった。半分完成したダムがあり、その周りに新しい住宅が建ち、昔からの集落と新しい街並みが混在している。初めて来た時は随分奇妙な場所だと思ったが、今では学校へ通い、部活仲間と遊ぶ、ごく普通の生活の場所になっていた。

 

しかし、その土地で数年前まで何が起きていたのか。

 

自分は、何も知らなかった。

 

圭一はさらに記事を探した。

 

四年目。

 

今から一年前の出来事だった。

 

『北条家親族の女性死亡 少年の行方分からず』

 

紙面を読んでいくと、北条家に関係する女性が亡くなり、同じ時期に北条悟史という少年が失踪したことが分かった。

 

「……悟史?」

 

初めて見る名前だった。

 

ただ、名字には覚えがある。

 

また北条だった。

 

圭一は紙面を見つめたまま、これまでの記事を頭の中で並べ直した。最初の年には園崎お魎が亡くなり、工事関係者が失踪している。翌年には北条夫妻が転落し、妻が死亡して夫が行方不明となった。その次は古手家。そして昨年は北条家の女性が亡くなり、少年が失踪した。

 

四年続けて、同じような時期に人が亡くなり、誰かが消えている。

 

「……何だよ、これ」

 

圭一は小さく呟いた。

 

記事の中では、いずれも事故や不審死、失踪として扱われている。警察の捜査によって何か共通の犯人が見つかったという記述もない。それなのに、土地の人間はこれらをひとまとめにして、オヤシロさまの祟りと呼んでいるらしかった。

 

圭一はノートを取り出し、年代と出来事を書き留めていった。

 

ここへ来た目的は、北条鉄平のことを調べるためだった。

 

ところが、鉄平本人についてはほとんど分からず、代わりに雛見沢で起きた奇妙な事件ばかりが見つかってしまったのである。

 

「……どうなってんだ、この村」

 

沙都子のことが頭に浮かぶ。

 

先ほど、鉄平の名前を出した時に見せた表情。そして、別れ際に言われた言葉。

 

――もし叔父様とお会いになっても、私のことは話さないでくださいまし。

 

今になって、その言葉が少し重く感じられた。

 

北条家では、いったい何があったのだろう。

 

あの少年は誰なのか。

 

そして、梨花の両親も。

 

圭一は新聞を閉じかけたが、ふと手を止めた。

 

この四年間の出来事が、昨日の鉄平と関係している証拠はない。そもそも祟りなどというものが本当にあるのかどうかさえ、分からなかった。

 

しかし、鉄平は昨日、普通の人間とは思えない姿になって暴れ回っていた。そして、その出来事は翌日には工事事故として報道されている。

 

何かが隠されているのだとしたら。

 

その隠されているものは、昨日初めて生まれたわけではないのかもしれない。

 

「……オヤシロさまの祟り、か」

 

圭一はノートの最後に、その言葉を書き加えた。

 

そして、しばらく考えた末、その横へ小さく疑問符を付ける。

 

祟り。

 

そんなものを簡単に信じるつもりはなかった。

 

けれど、だからといって、この四年間の事件を偶然の一言で片づける気にもなれなかったのである。

 

§

 

その頃、園崎家の関係事務所では、詩音が葛西から渡された一枚の紙を眺めていた。

 

そこには、興宮の再開発地区へ出入りしていた業者の名前がいくつか書かれている。葛西が知り合いの建設関係者へ問い合わせ、鉄平について尋ねたところ、数か月前に再開発地区の資材運搬や警備関係の仕事を紹介されたという話が出てきたのだ。

 

「……警備と資材運搬、ですか」

 

「ええ。ただ、本人が実際に何をしていたのかまでは分かりません」

 

葛西はそう説明した。

 

詩音は紙面へ視線を落とした。業者の中には園崎家と古くから付き合いのある名前もあったが、聞き覚えのない会社も含まれている。

 

「この会社……園崎と関係ありましたっけ?」

 

詩音はある名前を指差した。

 

葛西は紙を覗き込み、少し考えた末に首を横へ振った。

 

「少なくとも、直系の取引先ではありませんね。最近になって再開発地区の仕事を請け負うようになった会社のようです」

 

「じゃあ、どこから来た会社なんです?」

 

「そこはまだ分かりません。ただ、元請けの会社を通して現場へ入っているようです」

 

「ふぅん……」

 

詩音は小さく呟いた。

 

これだけでは、何か不正が行われていると決めつけることは出来ない。再開発地区では多くの企業が工事に関わっており、そのすべてを園崎家が把握しているわけではないのだから。

 

ただ、鉄平が最近になってまとまった金を手に入れたこと。

 

それまで出入りしていた場所から姿を消したこと。

 

そして、再開発地区で何らかの仕事をしていたらしいこと。

 

これらが一つの線として繋がり始めていた。

 

「……葛西」

 

「はい」

 

「この会社のこと、お母さんなら何か知ってますかね?」

 

葛西は少し考えた。

 

「茜さんなら、再開発に関わる会社のこともある程度ご存じでしょう。ただ、今の段階でお聞きになるなら、理由を説明した方がいいと思います」

 

「理由、ですか」

 

「ええ。詩音さんが何故そこまで北条鉄平のことを調べているのか。茜さんも気にされるでしょうから」

 

詩音は小さく笑った。

 

「……それは困りましたねぇ」

 

圭一のことを話すわけにはいかない。

 

まして、あの怪物と戦っていたのが前原圭一だったなどと、母に知られるようなことは絶対に避けなければならなかった。秘密を守ると約束した以上、たとえ相手が家族であっても、その約束を破るつもりはない。

 

「まあ、何とか考えますよ」

 

詩音は紙を折り畳み、鞄へしまった。

 

葛西はそんな詩音を見つめていたが、やがて静かに口を開く。

 

「……詩音さん」

 

「はい?」

 

「昨日のあの男、本当に北条鉄平だったんですね」

 

「ええ。圭ちゃんにも確認しましたし、私も見間違いではないと思います」

 

「そうですか……」

 

葛西は窓の外へ視線を向けた。

 

「人間というのは、あんな姿にもなれるものなんでしょうか」

 

詩音は答えられなかった。

 

自分自身、昨日から何度も同じことを考えていたからである。あんな力を持った人間が、突然この街へ現れた。けれど、それを知っている人間はごく僅かで、新聞ではただの事故になっている。

 

「……分かりません」

 

詩音は静かに答えた。

 

「でも、一つだけ確かなことがあります」

 

「何でしょう」

 

「あの人は、昨日まで普通の人間として興宮のどこかで暮らしてたんですよね」

 

葛西は何も言わなかった。詩音は鞄の中の紙へ視線を落とす。

 

「だったら、何かあったはずなんです。あんな姿になるまでに」

 

そして、その何かを知る人間がいるはずだった。

 

詩音は窓の向こうへ目を向けた。

 

街の外れには、今日も新しい建物が増え続けている。遠くの山際には、ダムと研究施設が小さく見えた。

 

かつて、雛見沢を守るために祖母が争い、母が妥協した土地。

 

その土地で今、何が起きているのか。

 

まだ、何も分からない。

 

けれど、ここで調べるのをやめる気にもなれなかった。

 

「……まったく」

 

詩音は小さく息を吐いた。

 

「圭ちゃんと知り合ってから、本当に退屈しませんねぇ」

 

口元には、いつものような笑みが浮かんでいた。

 

しかし、その目は笑っていなかった。

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