「いてててて...」
「ちょっと、逃げないでくださいよ、圭ちゃん」
車の後部座席。詩音は救急箱を取り出して、圭一のスーツのキャップを外す。女の攻撃で打撲跡と、傷跡が出来ていた。
「まったく、無茶するもんです...私、あれだけ止めたはずなんですけどね...」
「いや、悪いと思ってるって。最近、この辺も治安が悪くなったしさ。スパイダーマンってヒーローがいないと忽ち、とんでもない被害になるところだったし」
「そうですねぇ。この前も...スパイダーマン目掛けて狙われてましたもんね」
詩音は変わらず消毒液で顔を拭いていく。染みる傷跡に苦悶を浮かべる圭一。それが可笑しかったのか、ふふっと笑いを浮かべているのは詩音だった。車は市街地を回っている。圭一の家はちょうど興宮を出た雛見沢のニュータウンにある。普通ならば、スパイダーマンという興宮と雛見沢という狭い地域ヒーローは自分の力で戻ったり、帰ったりするものだが最近は違う。葛西という詩音の付き人がボロボロになった圭一をほぼ毎夜運び出す、というのが最近の日課になっている。
「圭一さん、これ見てください」
葛西が車のテレビをつける。そこは先程までの戦闘後の現場が映し出されていた。
「あら、スパイダーマンもかなり有名人になってますね」
「.....」
「あれ?圭ちゃん、うれしくないんですか?」
「嬉しいっつうか...微妙だな。だって、こんなに取り上げられてるってことはそれだけこの町が荒れてるってことだからな」
沈んだ声で語る圭一。リポーターが現状の異様さをヘリの上から取り上げていたが、圭一はすぐに違和感に気づいた。
「なあ。これ...あの緑の怪物は?」
「緑の怪物?ああリザードウーマンですね、さっき圭ちゃんが蜘蛛糸で...あれ?」
詩音も圭一も言葉を詰まらせた。さっき大量の蜘蛛糸で捕まっているはずの怪物がヘリのどこからも見えない。なんなら、騒ぎが大きくなっているような。二人はぎょっとしながらも、じわりと背後を振り向く。
「■■■■■■ぁあああああああ!!!!!!」
怪物が獣ごとき咆哮する。夜ということもあって、車の姿はないが、一般道で駆けているのは間違いなくあの怪物であった。ダンダンと地震のように地を揺らして走ってくる。
緑色と、目は白を剥いている怪物。この幹線道路を猪突猛進しながら、車を跳ねねけておってきていた。咄嗟に叫んだ詩音。
「か、葛西!早く!追われてますよ!早く」
葛西は気づいたのか、アクセルは一気に踏む。時速40キロほどしか出てなかった車も一層と加速する。いきなり加速したものだからか、詩音と圭一は同時に慣性で後ろの座席に頭を打つ。
「ど、どうなってるんだ!?」
「それは私が聞きたいですよ!きゃあああああ!!」
怪物は車体の後方に張り付いてくる。車の加速と怪物の速度は同じでは無かったのか、引っ張られるほどに車体がフラフラと不安定へとなっていく。まるで廻し終わりの駒のようにどんどんと方向を見失っていった。
「圭一さん、まずいです!このままだとぶつかります!」
希に見ない葛西の緊急の叫び。それほどに自体は切迫していた。
「詩音!替えのウェブは!?持ってきたか?」
「あるわけないじゃないですか!だって、圭ちゃんが試運転って言ってたじゃないですか!?」
圭一が今日の夜にスイングをしていたのはそのためだった。新型のウェブシューターと体を慣らすのに詩音と葛西は付いてきただけ。だから、緊急事態など想定していない。ましてや、こんな怪物は一般人には手にあまりすぎる。
圭一は握っていたキャップを頭にかぶる。傷の入ったキャップだがもし誰かに見られるというのはリスクがあり過ぎた。すぐにドアを開けて、車の上へと上る。低い姿勢を保ちつつ、敵を伺う。
「■■■■■■!!!」
圭一は方向にうろたえず、トランクに出来るだけ近くににじり寄っていく。
「これでも喰らえ!スパイダーキックッ!」
手でしっかりと車を掴みながら、圭一は何発も蹴りを入れた。
一発。うろたえる。
二発。態勢が崩れる。
三発。大きく手を掴み損ね、怪物は大回転をしながら地面を擦る。
車はボロボロになりながらも、走り続けた。圭一は倒れた怪物を見つめながら、車上に残る。視覚も優れているのか、それとも何かを確認していた。緑の影がだんだんと小さくなっていく。それは力を使い過ぎた反動なのか、はたまた別の何かなのか。けれど、車は走り続ける。次の信号で止まるころには怪物は見えなくなっていた。
そして車体に戻り、圭一は一息を吐いた。
「リザードウーマン。やっといなくなりましたね...」
「ああ、やっといなくなったな.......ってリザードウーマンってなんだよ」
圭一が疲れの中で、詩音に問うた。
「えっと...さっきの姿を見て、私が命名したんです。トカゲの事、リザードって言いません?圭ちゃんが蜘蛛男なら、トカゲみたいな見た目なので、蜥蜴女でいいじゃないですか」
かってに怪物の名前を付けている詩音。しかし、圭一のこのスパイダーマンという名を考えたのは詩音だ。そして圭一が蜘蛛男であると最初の気づいたのも詩音だ。
「ああ、それと圭ちゃん。さっきのあれなんです?」
「あれ?俺、何かしたか?スパイダーマンの時の口調か?確かにいつもの俺とは違うけど、身バレしないようにってことで、こうなったんだろ?」
「違います。さっきのスパイダーキックとかいうダサい攻撃ですよ!」
「あれか?別にいいだろ、俺の技なんだし。さっき思いついた」
「よくありません、ダサすぎます」
「いいだろ」
「ダメです」
「......」
「.......」
かってに怪物の名前を付けている詩音。しかし、圭一のこのスパイダーマンという名を考えたのは詩音だ。そして圭一が蜘蛛男であると最初の気づいたのも詩音だ。
「はぁ……疲れた」
圭一は溜息を吐き、座席に身体を預けた。
全身が重い。さっきまでアドレナリンに押し流されていた痛みが、今になって一斉に戻ってきたようだった。
「お疲れ様でした、圭一さん」
葛西はバックミラー越しに圭一を見る。
「……葛西さんも。車、めちゃくちゃになってますけど」
「まあ、走れるだけ問題ありません」
「いや、それ問題あるだろ……」
後部座席から車内を見回す。
ドアには傷が入り、後部座席のシートは一部が破れている。外装にもいくつか大きな凹みがあった。
「これ、弁償とか……」
「お気になさらず。お嬢様を守るのも私の仕事ですから」
「いや、俺も乗ってたんだけど……」
「では、お二人を守ったということで」
「……葛西さん、強いなぁ」
圭一は苦笑した。
窓の外を流れていた興宮の明かりが、少しずつ減っていく。
商店街の看板。
コンビニの照明。
遠くに見える高層建築。
それらが途切れるにつれて、街の輪郭も次第に暗闇へ沈んでいった。
やがて、山道に入る。興宮と雛見沢を繋ぐ道路。
昼間なら何度も通った道だが、夜になると別の場所のように見える。
「……もうすぐですね」
詩音が呟く。
「ああ」
圭一は窓の外を見る。山の向こうには、雛見沢ニュータウンの明かりが見え始めていた。
斜面に沿って建てられた集合住宅。規則正しく並んだ街灯。そのさらに奥には、巨大なダム湖が月明かりを受けて静かに光っている。
圭一にとっては、もう見慣れた景色だった。けれど今夜だけは、妙に遠く感じた。
「……今日、いろいろありすぎだろ」
「いつものことじゃないですか?」
「いや、いつものことにするなよ」
詩音が笑った。
「でも圭ちゃん、最近本当に大変そうですよね」
「……そうか?」
「ええ」
詩音は救急箱を閉じた。
「毎晩毎晩、怪我して帰ってくるんですから」
「それは……」
圭一は言葉を濁す。自分でも分かっていた。
最近、敵が強くなっている。最初はただのチンピラだった。
殴られても、避けられた。強化した糸を使えば簡単に拘束できた。
けれど最近は違う。
今日のリザードウーマンは、明らかに今までの相手とは違った。
「……あいつ、普通の人間じゃなかったよな」
「ええ」
詩音の声から、さっきまでの軽さが消える。
「それに、圭ちゃんを狙っているみたいでした」
「……」
圭一は黙った。
リザードウーマン。
あの異様な姿。
そして、自分を見るなり襲い掛かってきたこと。
偶然とは思えない。
「……俺を狙ってた、か」
圭一は小さく呟いた。
けれど、すぐに首を振った。
「まあ、考えても仕方ないか」
「そうやってすぐ一人で考えるの、圭ちゃんの悪い癖ですよ」
「……うるさいな」
「ふふっ」
やがて車はニュータウンへ入った。集合住宅の並ぶ一角で、葛西が車を停める。
「ここでよろしいですか?」
「うん。ありがとう」
圭一はドアを開けようとして――止まった。
「……ちょっと待って」
「どうしました?」
「親、まだ起きてるかな」
「もう深夜ですから、普通なら寝ているでしょう」
「普通なら、な」
圭一はため息をつく。
そして車から降りた。
「じゃあ、また明日」
「明日も学校で会うんですから、普通にそう言えばいいんですよ」
詩音が笑う。
「おやすみなさい、圭ちゃん」
「おう。おやすみ」
車が静かに走り去っていく。
圭一はその後ろ姿を見送ると、マンションを見上げた。
五階。自分の部屋。
普通なら、エレベーターに乗って廊下を歩くだけだ。
だが――今の格好では、それができない。
圭一は周囲を見回した。
人影なし。明かりもほとんどない。
「……よし」
建物の壁に手をつく。
ぴたり。
手のひらが壁面に吸い付いた。
「便利だよなぁ、これ」
小さく呟き、圭一は壁を登り始めた。
一階。
二階。
三階。
夜風が頬を撫でる。五階までなら、もう慣れたものだった。ベランダの手すりを掴み、身体を引き上げる。
「よっ、と」
そして、自分の部屋の窓を見る。カーテンは閉まっている。明かりもない。
「……セーフ」
窓に手を掛け、ゆっくりと開ける。カラリ、と僅かな音がした。圭一は固まった。
「…………」
しばらく待つ。何も起こらない。
「……よし」
窓から身体を滑り込ませる。自分の部屋。見慣れた机。教科書。脱ぎっぱなしの制服。ベッド。そのどれもが、ほんの数時間前まで当たり前だったものだ。圭一は部屋の中央に立った。そして、ゆっくりとマスクに手を掛ける。
「……ふぅ」
外す。次に、スーツの留め具を外していく。腕を抜き、脚を抜き、最後に身体からスーツを剥がした。途端に、身体が軽くなったような気がした。
けれど、それは気のせいだった。
「いてて……」
肩を回す。痛い。腹部も痛い。脚にも鈍い痛みが残っている。圭一はベッドの端に腰を下ろした。脱いだスーツを見る。赤と青。自分で作った、蜘蛛のスーツ。最初はただの遊びだった。能力を試して、使い倒す。蜘蛛の糸を使って。夜の街を飛んで。そして、いつの間にか。
「……スパイダーマン、か」
自分で口にして、少しだけ笑う。今日も人を助けた。
けれど今日は、自分も助けられた。詩音と葛西がいなければ、どうなっていたか分からない。
「……俺一人じゃ、無理か」
ぽつりと呟く。
その言葉が、妙に胸に残った。
だが、今は考える気力もなかった。圭一はスーツを丁寧に畳み、机の奥へ押し込んだ。シューターも外す。傷ついたキャップは机の上に置いた。
「明日……直さないとな」
そう呟いたところで、大きな欠伸が出た。
圭一はそのままベッドへ倒れ込む。
「……もう、無理」
布団を引き寄せる。
目を閉じる。
今日の出来事が頭の中を駆け巡る。
リザードウーマン。
蜘蛛糸。
逃走。
詩音。
葛西さん。
「……あれ、何だったんだ……」
考えようとした。
だが、もう限界だった。
圭一はゆっくりと眠りへ落ちていく。窓の外では、ニュータウンの灯りが静かに瞬いていた。そしてその遥か向こう。巨大なダム湖の水面には、月だけが浮かんでいた。
――では、話を二か月前に戻そう。
まだ前原圭一が、この雛見沢へやって来たばかりの頃。
蜘蛛の糸で夜空を飛ぶことも、赤と青のスーツに袖を通すことも、詩音に秘密を知られることもない。
そして何より。
自分がいつか『スパイダーマン』などという名前で呼ばれることさえ、知るはずもなかった頃まで。