「…………終わった」
最後の答案用紙を回収され、圭一は机へ突っ伏した。終わった。文字通り、何もかも終わった気がする。教室では他の生徒たちも一斉に緊張から解放され、あちらこちらで賑やかな声が上がり始めていた。試験の出来を確認し合う者もいれば、早速午後の予定について話し始める者もいる。その中で圭一だけは、机へ額を押しつけたまま微動だにしなかった。
「……前原君、大丈夫?」
隣の席から、心配そうな声が聞こえた。
「ああ……。大丈夫だ。俺はもう、何も怖くない……」
「え、えっと……それって大丈夫なの?」
大丈夫なわけがなかった。思い返せば、そもそも今回の試験について圭一がまともに意識したのは、今朝になってからだった。ゴールデンウィーク中は蜘蛛の糸の研究に明け暮れ、ようやく出来上がった十三号を実戦で失い、その次には鉄平との戦闘で試作品の問題点が山ほど見つかった。昨日も帰宅してからノートと睨めっこを続け、途中からは雛見沢の過去の事件について考え込んでしまい、気がつけば夜も随分と遅くなっていたのである。当然、その間に教科書を開いた時間などほとんどない。そして今朝、教室へ入って初めて、机の上に試験の準備をしているクラスメイトたちの姿が目に飛び込んできた。
『……何やってんだ、お前ら?』
『何って、今日テストじゃん』
あの瞬間の衝撃は、一昨日ライノに十三号を引き千切られた時にも匹敵するものだった。そこからはもう、悲惨というほかなかった。最初の国語はまだよかった。元々苦手な教科ではないし、問題文を読んで考えれば何とかなるものも多い。しかし数学になった途端、状況は一変した。見覚えのある公式を前にしても、その先をどう解けばいいのか分からない。ようやく思い出して計算を始めたと思えば、途中で別の公式と混同し、やり直しているうちに時間がなくなる。英語に至っては、昨夜調べた新聞記事の方がよほど頭へ入っていたくらいだった。
「……何で俺、あんなに自信満々で空欄埋めたんだろうな」
答案を提出した今となっては、妙な解放感より後悔の方が大きかった。
「圭一くーん!」
そんな圭一の耳へ、聞き慣れた声が飛び込んできた。顔を上げると、レナがこちらを覗き込んでいた。既に帰り支度を済ませたらしく、肩へ鞄を掛けている。
「テストどうだったかな? かな?」
「……聞くな」
「え?」
「頼む。今だけは何も聞かないでくれ」
レナはきょとんとした後、圭一の机の上に散らばった筆記用具と、力なく垂れ下がった両腕を見比べた。
「……もしかして、あんまり出来なかった?」
「何で分かった」
「え、えっと……」
「レナ、お前には分からねぇだろうな。答案用紙に向き合って初めて、久々に自分の勉強不足を思い知らされる人間の気持ちってやつが……」
「そ、それは勉強してなかったのが悪いんじゃないかな……」
「正論はやめろ! 今の俺には効きすぎる!」
思わず机を叩くと、レナは困ったように笑った。
「でも圭一くん、最近ずっと忙しそうだったもんね」
「……まあな」
「ゴールデンウィークも何か作ってたんでしょ?」
圭一は僅かに顔を上げた。
「何で知ってんだ?」
「この前、部活の時に言ってたよ。何か実験が上手くいかないって」
「ああ……そういや言ったっけ」
危ないところだった。もちろん、レナに蜘蛛の糸について詳しく話した覚えはない。適当にちょっと工作にハマっていると言っただけだったはずだが、それでも何かを尋ねられるたびに説明を考えなければならないのは面倒だった。
「ま、とにかく今回の試験は忘れよう」
「忘れちゃ駄目だと思うけど……」
「終わったことをいつまでも引きずるのはよくないだろ!」
「圭一くん、さっきまで凄く落ち込んでたのに……」
レナが笑う。圭一もつられて笑いかけたが、そこでふと、教室の時計へ目を向けた。まだ昼前だった。普段ならこの時間、魅音がどこかから現れて、試験の出来について散々からかってきそうなものだった。特に今日の自分の出来を知られれば、部活中ずっとその話題で弄られるに違いない。けれど、今日は姿が見えない。当然といえば当然だった。今日は学年ごとの試験日程で、二年生と三年生は別々の教室を使い、終了後の動きも分かれている。魅音は三年生の校舎にいるはずで、わざわざこちらへ顔を出す理由もなかった。それでも圭一は、何となく廊下の方を見てしまった。
「……圭一くん?」
「ん?」
「どうかした?」
「いや、別に」
圭一は慌てて視線を戻した。思い出したのは、一昨日の夕方だった。興宮で二人きりで遊び、映画を見て、ゲームをして、最後には川沿いを歩いた。あの日の魅音は普段より少し大人しく、何度か妙に照れた顔をしていた。そして最後に、何かを言い掛けたところで、あの轟音が響いたのである。
――私、圭ちゃんのこと――。
そこから先は聞けなかった。いや、聞かなかったと言う方が正しいのかもしれない。あの時、自分は魅音を置いて走り出した。もちろん、そうしなければならない理由はあったし、あの状況で立ち止まるという選択肢などなかった。それでも。
「……ったく」
圭一は小さく息を吐いた。昨日も学校には来ていたが、ライノ事件の翌日ということもあって、詩音と鉄平について話したり、調べ物をしたりしているうちに一日が終わってしまった。魅音とは普段通り顔を合わせ、部活中にもいつものように言い合いをしたものの、二人きりで話す機会はなかったのである。あの後、魅音がどう思ったのか。怒っているのか。それとも、もう気にしていないのか。何となく気になってはいるのだが、だからといって自分から何を言えばいいのかも分からなかった。
「……圭一くん?」
「お、おう! 何だ?」
「さっきから変だよ?」
「そうか?」
「うん。何か考え事してるみたい」
「……まあ、テストのことだよ」
そう言って誤魔化すと、レナは納得したように頷いた。
「そっか。じゃあ、今日はゆっくり休まないとね」
「ああ。そうする」
実際には、帰宅したら昨日の実験の続きをするつもりだった。しかし、その予定は思いがけない形で変更されることになった。
「前原君、ちょっといいかな」
帰り支度を終え、教室を出ようとしたところで担任に呼び止められた。
「はい?」
「今、警察の方がいらしてるんだけど、少しお話を聞きたいそうなの」
圭一の足が止まった。
「……警察?」
「ええ。興宮署の刑事さんよ。一昨日の工事事故について、何か見聞きしていないか確認したいそうなの。事件のことで心当たりはある?」
「い、いや……別に」
「そう。任意のお話だそうだし、無理に答える必要はないからね。先生も近くにいるから、困ったことがあったら言ってちょうだい」
「……はい」
そう答えながら、圭一は頭の中で昨日の出来事を思い返していた。鉄平。工事事故。黒い車。そして、図書館の外に停まっていた一台の車。昨日、図書館から出た時のことだった。自転車を停めていた場所から少し離れた道路に、見覚えのない車が停まっていた。最初は特に気にしなかったのだが、自転車へ向かう途中、車内からこちらを見ている人物がいるような気がしたのである。結局、そのまま走り去ってしまったため、車の中に誰がいたのかまでは分からなかった。ただ、妙に引っ掛かっていた。
「……前原君?」
「あ、はい!」
圭一は我に返った。
「すぐ行きます」
担任に案内され、職員室の隣にある小さな応接室へ向かう。廊下を歩きながら、圭一は出来る限り平静を装っていたが、内心では既に嫌な予感がしていた。まさか、昨日のことがバレたのだろうか。いや、それはないはずだ。鉄平と戦っていた時には赤鬼の仮面を被っていたし、現場を離れる時も葛西の車に乗っていた。詩音が正体を知ったのは自分の迂闊な反応が原因だったが、警察がそこまで辿り着けるとも思えない。それでも、心臓は少しずつ早くなっていた。
「こちらよ」
担任が扉を開く。中には、一人の中年男性が座っていた。大柄というほどではないが、随分と恰幅がよく、薄くなった髪を整えた顔には柔和な笑みが浮かんでいる。机の上には手帳が置かれており、男は圭一の姿を見ると、ゆっくりと腰を上げた。
「いやぁ、どうもどうも。前原圭一さんですねぇ」
「……はい」
「初めまして。私、興宮署の大石と申します」
男はそう言って、警察手帳を見せた。圭一は一瞬だけそれへ目を向ける。
「……大石さん、ですか」
「ええ。突然学校まで押しかけてしまって、申し訳ありませんねぇ。少しお話を伺いたいことがありまして」
「……俺に?」
「はい。まあ、そう身構えないでください。別にあなたが何か悪いことをしたというわけじゃありませんから。あくまで、事件について何かご存じないか確かめたいだけです」
大石はにこやかに笑った。しかし、圭一はその笑顔を素直に受け取れなかった。相手は刑事である。しかも、わざわざ学校まで自分を訪ねてきたのだ。何の理由もなく雑談をしに来たとは考えにくい。担任が部屋を出ると、大石は圭一へ椅子を勧めた。
「どうぞどうぞ。試験が終わったばかりでしょう? お疲れのところ申し訳ありません」
「……どうも」
圭一は向かいへ腰掛けた。大石はすぐに本題へ入ろうとはせず、机の上にあった湯呑みを手に取る。
「いやぁ、それにしても随分と立派な学校になりましたねぇ。私が若い頃なんか、この辺りにはこんな建物ありませんでしたよ」
「……そうなんですか」
「ええ。興宮も随分変わりましたからねぇ。最近はあちこちで建設工事をやってますし、新しい人も増えまして」
圭一は曖昧に頷いた。
「前原さんは、確か東京から越してきたんでしたね?」
「……はい」
「こちらの生活には慣れましたか?」
「まあ、それなりには」
「それは結構。お友達も出来ました?」
「ええ。普通に」
「園崎魅音さんや、竜宮レナさんとも仲がいいそうですねぇ」
圭一は僅かに眉を動かした。
「……何で知ってるんです?」
「いやいや、少し確認しただけですよ。最近転校してきた生徒さんだと伺ったものですから」
「……はぁ」
圭一は腕を組んだ。目の前の男は、先ほどからどうでもいい話ばかり続けている。東京から来たことも、学校の友人関係も、別に秘密にするような内容ではない。だが、何故そんなことをわざわざ警察が調べているのか。
「……あの」
「はい?」
「俺に何か聞きたいことがあるんですよね?」
大石が笑った。
「おや、せっかちですねぇ」
「いや、そりゃそうでしょう。テスト終わったと思ったら、いきなり警察に呼ばれてるんですから」
「んっふっふ。それもそうですねぇ」
大石は湯呑みを置いた。
「では、単刀直入に伺いましょうか。前原さん、一昨日の夕方は何をしていました?」
圭一の心臓が跳ねた。しかし、顔には出さなかった。
「……一昨日?」
「ええ。日曜日の夕方です」
「友達と遊んでましたけど」
「ほう。どちらで?」
「興宮の駅前の繁華街で、色々」
「なるほどなるほど」
大石は頷く。
「その時、園崎魅音さんと一緒だったそうですねぇ」
「……そうですけど」
「いやぁ、若いっていいですねぇ。映画を見たり、買い物をしたり。実に羨ましい」
「……何でそんなことまで知ってるんです?」
「んっふっふ。実はですねぇ、あの日の夕方、川沿いの道で若い男女を見かけたという人がいましてね。事件の後で少しお話を伺ったんですよ」
「……男女?」
「ええ。女の子の方は、どうやら園崎家のお嬢さんらしい。それで、一緒にいた男の子は誰だろうと思いまして。お知り合いに聞いてみたところ、最近東京から転校してきた前原さんじゃないかと」
圭一は黙った。
「別に、お二人が何をしていたかを調べたかったわけじゃありませんよ。あの日、あの辺りにいた人を探しているんです。映画や買い物のお話も、駅前で見かけた方から伺っただけですしねぇ」
「……そうですか」
大石の口調は相変わらず柔らかい。しかし、先ほどまでの雑談とは明らかに違っていた。少なくとも、この男は自分が一昨日どこにいたのかを、ある程度調べた上でやって来ている。
「それで、夕方には川沿いを歩いていたとか」
「……ええ」
「その後は?」
圭一は一瞬考えた。
「……用事が出来たんで、途中で帰りました」
「用事、ですか」
「はい」
「どんな?」
「……個人的な用事です」
大石は少しだけ目を細めた。
「なるほど。まあ、その辺りは無理に聞きませんよ」
本当だろうか。圭一には到底そう思えなかった。大石は手帳を開くと、何かを確認するように視線を落とした。
「実はですねぇ。その日の夕方、興宮の再開発地区で少々騒ぎがありまして」
来た。圭一は内心で身構えた。
「……工事事故のことですか?」
「ああ、新聞でご覧になりました?」
「ええ。昨日の朝、載ってたんで」
「そうですか。いやぁ、最近は随分と事故が多くて困りますねぇ」
大石はそう言って笑った。しかし、その表情がどこか妙だった。
「……大石さん」
「はい?」
「俺、何か事故について聞かれてるんですか?」
「ええ。実はその事故の直前、現場からそう遠くない場所で、騒ぎのあった方向へ走っていく少年を見かけたという話もありましてねぇ。先ほどの目撃情報と合わせると、もしかしたら前原さんじゃないかと思ったんです」
圭一は思わず息を呑みそうになった。
「……俺が?」
「ええ。もちろん、まだそうと決まったわけじゃありません。ただ、もし近くにいたのなら、何か見聞きしていないかと思いまして」
「……誰が見たんです?」
「それはちょっと。お話してくださった方にも事情がありますからねぇ」
大石は笑ったまま答えなかった。圭一は頭の中で必死に考えた。川沿いを走り去るところは魅音にも見られているし、途中で通行人とすれ違った可能性もある。それならば、走っていく姿を見られていてもおかしくない。ただ、あの仮面の男と自分を結びつけるような証拠までは残していないはずだった。
「……俺、別に何も見てないですよ」
「ほう」
「音は聞きましたけど、何があったのかまでは」
「なるほどなるほど。では、現場までは行っていないと?」
圭一は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……行ってません」
大石はすぐには返事をしなかった。その沈黙が、妙に長く感じられた。やがて大石は、ゆっくりと手帳を閉じた。
「……そうですか」
「……何です?」
「いえね。実は、私どもも少々困っているんですよ」
圭一は眉を寄せた。
「……警察が?」
「ええ。あの件、私どもの手から離れてしまいましてねぇ」
「……どういうことです?」
「現場には警察官も駆けつけましたし、当然、私も報告を受けていました。ところが、翌朝になって本部から連絡がありましてねぇ。特殊な案件として別の部署が引き継ぐので、所轄は手を引くように、と」
「……別の部署?」
「そういうことです。もっとも、どこの誰が何を調べているのか、私には詳しく教えてもらえませんでしたが」
「……そんなことあるんですか?」
「事件の性質によって、担当が変わること自体は珍しくありませんよ。ただ、今回は少々妙でしてねぇ。現場の詳しい資料もこちらでは確認できなくなりましたし、捜査を引き継いだ部署からも、ほとんど説明がないんです」
大石は相変わらず穏やかな口調だった。しかし、その目は笑っていなかった。
「いやぁ、長いこと刑事をやっていますがね。こういうのは、あまり気持ちのいいものじゃありません」
「……じゃあ、大石さんはもう調べられないんですか?」
「公式には、そういうことになりますねぇ」
大石は肩を竦めた。
「ですが、気になることまでなくなるわけではありませんから」
「……気になること?」
「ええ。例えば、あの現場で本当に何が起きたのか。それに、騒ぎが起きる前に近くを通った人たちが、何を見聞きしたのか。せめてその程度は、確かめておきたいと思いましてねぇ」
圭一は黙っていた。警察ですら、詳しく調べられない。それは予想していたよりも遥かに不気味な話だった。
「……じゃあ、あれって本当に工事事故だったんですか?」
「さあ、どうでしょうねぇ」
「さあって……」
「私も知りたいくらいなんですよ」
大石は苦笑した。
「ただ、最初に現場へ入った警察官の話では、普通の工事事故にしては妙な壊れ方をしていた場所もあったそうでしてねぇ。それがどういう経緯でああなったのか、今ではまともに確認することも出来ません」
圭一は唇を結んだ。十三号を引き千切った鉄平の姿が蘇る。あの灰色の身体。角。異常な怪力。そして、最後に現れた黒い車。まさか、あの連中が関係しているのだろうか。
「……変な話ですね」
圭一は出来るだけ何気なく言った。
「ええ。本当に」
大石は頷いた。
「ところで前原さん。北条鉄平という名前に、聞き覚えはありませんか?」
圭一の指が僅かに動いた。
「……北条鉄平?」
「はい」
「……名前くらいは」
「ほう。どちらで?」
「友達の親戚だって聞いたんで」
「沙都子さんですねぇ」
大石は即座に答えた。圭一は思わず顔を上げる。
「……沙都子のことも知ってるんですか?」
「ええ。北条家のことなら、多少は」
大石は少し間を置いた。
「実は、あの事故の前後で鉄平さんの名前が出てきているんですよ。どこまで関係しているのかは分かりませんが、事件の頃から所在もはっきりしないようでしてねぇ」
「……行方不明ってことですか?」
「そこまでは申し上げられません。単に連絡がつかないだけかもしれませんから。ただ、何とも妙な話でしょう?」
圭一は頷かなかった。鉄平。その名前が出たということは、やはり警察も何かを掴んでいるのだろうか。しかし、少なくとも大石はあの装甲のことまでは知らないようだった。知っているのなら、もっと別の質問をしてくるはずだ。
「……それで、俺に何を聞きたいんです?」
「いやいや。前原さんが鉄平さんについて何かご存じなら、と思っただけですよ。先ほどお話しした通り、私も詳しいことは分かりませんので」
大石は一瞬考え込むように視線を落とし、それから何でもない調子で続けた。
「いやぁ、北条家も随分と不幸が続いた家でしてねぇ」
「……不幸?」
「ご両親の事故に、去年の悟史君の失踪。ご存じありませんでした?」
圭一の表情が変わった。
「……悟史? えっーっと、聞いたことがあるような……ないような……」
大石はその反応を見逃さなかった。
「おや。知らなかったんですか」
「……新聞で名前は見ましたけど」
「新聞?」
「ああ、いや……昨日、図書館でちょっと昔の記事を調べてたんです」
言ってから、圭一は少し後悔した。別に隠す必要のある話ではない。それでも、目の前の男へ自分から情報を与えてしまったような気がしたのである。大石は面白そうに笑った。
「なるほど。勉強熱心ですねぇ」
「……別に、そんな大したことじゃ」
「では、オヤシロさまの祟りについても?」
圭一は黙った。どうしてそこまで知っているのだろう。いや、図書館で何を調べたのかまで把握しているとは限らない。北条家の事故を調べれば、祟りの話に辿り着くことくらい、大石なら分かっているのかもしれない。
「……まあ、少しは」
「そうですか」
大石は満足そうに頷いた。
「去年、失踪した北条悟史君は、沙都子さんのお兄さんなんですよ」
「……兄貴?」
「ええ」
圭一は思わず言葉を失った。昨日、新聞で悟史の名前を見た時も、沙都子との関係までは分からなかった。ただ名字が同じというだけで、何か関係があるのかもしれないと思った程度だった。それが、兄だった。
「……沙都子、兄貴がいたのか」
小さく呟く。大石は圭一を見つめていた。
「お友達からは、何も聞いていませんでしたか?」
「……ええ」
「なるほどなるほど」
大石は何やら納得したように頷いた。その仕草が、圭一には少し気に入らなかった。
「……何なんです?」
「はい?」
「何か、知ってて当然みたいな言い方するじゃないですか」
大石は目を瞬かせた。
「いやいや、そんなつもりはありませんよ」
「沙都子が話したくないなら、別に俺が知らなくてもおかしくないでしょう」
言ってから、圭一は自分でも少し驚いた。昨日、沙都子が鉄平について話すのを嫌がったことを思い出したのである。もし兄が失踪しているのなら、家族の話題そのものを避けたいと思っていても不思議ではない。大石はしばらく圭一を見ていたが、やがてゆっくりと笑った。
「……そうですねぇ。確かにその通りです」
圭一は何も答えなかった。
「ただ、前原さん」
大石は続けた。
「あなたが今、誰と仲良くしているのか。それは少し考えておいた方がいいかもしれませんねぇ」
「……どういう意味です?」
「いやいや、深い意味はありません。ただ、この土地には昔から色々な事情がありますから」
まただ。肝心なことは何一つ言わない。圭一は苛立ちを覚えた。
「……何か知ってるんなら、はっきり言ってくださいよ」
「残念ながら、まだ確かなことが分からないんですよ」
大石は立ち上がった。
「だからこそ、こうしてお話を伺っているわけです」
圭一も椅子から腰を上げた。結局、この男が何を知っていて、何を疑っているのかは分からなかった。ただ、自分が一昨日の現場近くにいたことまで調べられているのは確かだった。
「……一つ聞いていいですか」
「はい、何でしょう」
「何で俺なんです? 事故のことなら、もっと他に聞く人いるでしょう」
大石は少しだけ考えた。
「そうですねぇ……。一つは、先ほど申し上げた目撃情報です。事件の近くにいたかもしれない方には、出来る限りお話を伺っておきたいと思いましてねぇ」
「……それだけですか?」
「んっふっふっふ。鋭いですねぇ」
大石は笑った。
「前原さんは、この土地へ来たばかりでしょう?」
「……それが?」
「昔から住んでいる人には、昔からの付き合いや、色々なしがらみがあります。でも、あなたにはまだそれがない。だからこそ、何か気づくこともあるんじゃないかと思いましてねぇ」
圭一は眉を寄せた。
「……俺を利用しようってことですか?」
「んっふっふっふ。随分はっきり言いますねぇ」
否定しなかった。そのことが、圭一にはかえって不気味だった。
「まあ、今日はこのくらいにしておきましょう」
大石は名刺を一枚差し出した。
「何か思い出したら、いつでも連絡してください。あの日の事故のことでも、昔の事件のことでも構いませんから」
圭一は少し迷ってから、それを受け取った。
「……分かりました」
「それと、前原さん」
扉へ向かいかけたところで、大石が声を掛けた。
「何です?」
「お友達は大事にしてくださいねぇ」
圭一は振り返った。大石は相変わらず笑っていた。
「……言われなくても、分かってますよ」
そう答え、圭一は応接室を後にした。
「……何なんだよ、あのおっさん」
校舎を出たところで、圭一は思わず呟いた。鞄の中には、大石から渡された名刺が入っている。興宮署、刑事、大石蔵人。そこに書かれた文字を思い返しながら、圭一は校門の方へ歩いていた。結局、あの男は何がしたかったのだろう。一昨日の事件について調べている。しかし、公式には捜査を任されていない。それなのに、わざわざ自分へ会いに来た。しかも鉄平だけでなく、北条家や祟りのことまで持ち出してきたのである。
「……絶対、何か知ってるだろ」
圭一は小さく息を吐いた。そして、昨日の図書館を思い出す。あの車。大石自身が乗っていたのかどうかは分からない。しかし、少なくとも昨日から誰かが自分の行動を見ていた可能性はあった。となると。
「……あんまり派手に動かねぇ方がいいか」
そう考えたところで、今度は昨日の夜の実験が頭へ浮かんだ。ウェブシューター一号。相変わらず飛距離は短く、特殊な蜘蛛の成分を加えた試料は途中で詰まりやすい。ようやく細く伸びるようになってきたというのに、それを手首から勢いよく飛ばす段階になると途端に上手くいかなくなる。本当なら、今日の午後も続きを試すつもりだった。
「……帰って実験でもするか」
そう呟いたところで、腹が鳴った。圭一は足を止めた。
「……そういや、昼飯まだだったな」
試験が午前中で終わるため、今日は学校で昼食が出ない。家へ帰れば何かあるだろうが、そこまで腹が持ちそうになかった。駅前で何か食べるか。それとも途中で買って帰るか。そんなことを考えていると、
「圭一くーん!」
後ろから、聞き慣れた声が飛んできた。振り返ると、レナが小走りでこちらへ向かってくる。
「おう、レナ」
「よかったぁ。もう帰っちゃったかと思ったよ」
「どうした?」
「圭一くん、まだお昼食べてないかな? かな?」
「おう。ちょうどどうしようか考えてたとこ」
「ほんと!?」
レナの顔が明るくなった。
「じゃあさ、一緒にお昼食べない?」
「いいけど。どこで?」
「えっとね……」
レナは少し嬉しそうに笑った。
「ダムの方、行かない?」
「……ダム?」
「うん。今日、お天気もいいし、レナ、あそこでお弁当食べようと思ってたの。圭一くんも一緒にどうかなって」
圭一は少し考えた。ダム。昨日から、その言葉ばかり耳にしている気がする。北条夫妻の転落事故。園崎お魎の死。オヤシロさまの祟り。そして、今の興宮を作った再開発。どれも、あのダムと少なからず関わっている。
「……そうだな」
圭一は頷いた。
「行くか」
「ほんと!? やったぁ!」
レナは嬉しそうに両手を合わせた。
「でも俺、弁当持ってねぇぞ」
「じゃあ途中で買っていこうよ。レナのお弁当もちょっと分けてあげるね」
「おっ、マジで?」
「うん!」
圭一は思わず笑った。
「よっしゃ! じゃあ今日はレナのお弁当を全部食い尽くしてやるぜ!」
「はぅ! 全部は駄目だよぉ!」
「冗談だって!」
レナが笑う。圭一も笑った。ほんの少しだけ、朝から続いていた重たい気分が軽くなった気がした。
<雑談>
圭一自身、感触として東京にいた頃より勉強をしてないので、こんな感じになりました(笑)。でも圭一って勉強せずともケロッと高得点を取りそうな気がします。
最近、自分でも投稿する前にちゃんと誤字脱字無いかとか、チェックしてるつもりなんですけどね。それでもなぜか誤字脱字が発生してしまう(笑)。誤字脱字報告してくれるとありがたいです。