ダム湖から程近い山間部に、鹿骨総合生体科学研究所は建っていた。外観は、周囲の自然とは少々不釣り合いな、近代的な研究施設だった。白を基調とした建物には大きな窓が並び、敷地内には研究者や職員のための駐車場が設けられている。入口には研究所の名称が掲げられ、その傍らには再生医療や生体材料に関する研究内容を紹介する案内板まで設置されていた。実際、ここではそうした研究が行われている。地域の医療機関とも協力し、傷病者の治療や新しい医療技術の開発に取り組んでいることも事実だった。研究成果の一部は学会でも発表されており、外部の研究者が訪れることもある。少なくとも、表向きには何一つ不審なところのない施設である。
もっとも、それがすべてというわけではなかった。
「……お帰りなさいませ、鷹野所長」
研究所の玄関を抜けると、職員の一人が頭を下げた。
「ええ。ただいま」
鷹野三四は軽く頷き、そのまま廊下を進んでいく。途中、何人かの研究員とすれ違い、簡単な報告を受けたが、足を止めることはなかった。やがて、建物の奥にある一基のエレベーターの前へ辿り着く。鷹野は職員証を認証装置へかざした。短い電子音が鳴り、扉が開く。中へ入ると、鷹野は地下へ向かう階を選択した。ゆっくりと扉が閉じる。そして、エレベーターは下降を始めた。地上の研究棟とは異なり、地下には窓がなかった。長い廊下には白い照明が並び、その両側には用途の異なる研究室が続いている。壁には各区画の番号が記され、通路の要所には警備員が配置されていた。ガラス越しに見える研究室では、白衣を着た研究員たちが機器の前で作業を続けている。人体の筋肉構造を模した模型や、神経伝達を記録した図表、透明な容器の中で保管されている生体試料。地上の施設と同じく、ここでも研究は行われていた。ただし、その目的は大きく異なっていた。
人工筋肉による身体能力の増強。神経系への介入。生体組織の変容と再生。雛見沢症候群を用いた軍事利用。そして、それらを人間へ適用した際の反応。表向きの研究では扱うことのできない実験が、この地下では日々繰り返されていた。
「……所長」
廊下を進んでいた鷹野へ、一人の研究員が声を掛けた。
「例の被験者について、追加の報告が届いています」
「あら、そう」
鷹野は足を止めた。
「状態は?」
「現在、所在の確認を急いでいます。ただ、回収できた外装の破片については、複数の箇所に予想以上の損傷が認められました。それから、生体組織の出力低下についても、実験室で得られたデータと一致しない部分があります」
「……なるほどねぇ」
鷹野は差し出された資料を受け取り、ゆっくりとページを捲った。そこには、一昨日の再開発地区で起きた騒ぎについての記録がまとめられていた。灰色の外装に覆われた身体。異常な筋力。そして、途中から急激に低下した運動能力。被験者番号と共に記された名前は、北条鉄平。
本来、あの男に許可されていたのは、指定された環境下での能力測定に限られていた。ところが鉄平は、研究所との取り決めを無視し、再開発地区で騒動を引き起こしたのである。研究所側が把握した時には、既に警察へ通報が入っていた。
「……まったく。あの人にも困ったものねぇ」
鷹野は資料から目を離さず、呆れたように呟いた。
「せっかく順調に進んでいたのに、勝手な真似をしてくれるんですもの」
「黒瀬主任からも、同様の報告が上がっています。装甲の運用条件が守られていない以上、正確な性能評価は困難だと」
「でしょうね。あの人、そういうところには厳しいもの」
鷹野は小さく息をついた。鉄平の行動には、研究所の計画を狂わせる危険があった。無論、実験対象として扱っていた以上、その行動を完全に予測できなかった研究所側にも問題はある。しかし、だからといって一般市民の目の前であれほど派手な騒ぎを起こされては、機密保持も何もあったものではない。それでも、鷹野の関心は別のところにも向いていた。
「それで、例の妨害者は?」
「……あの覆面の人物ですね」
「ええ。そちらはどうなっているの?」
研究員は資料を一枚取り出した。
「現場で回収された付着物について、現在分析を進めています。一般的な接着剤や繊維とは異なる性質が認められていますが、成分の特定には至っていません」
「……ふぅん」
鷹野は興味深そうに目を細めた。報告書には、赤い鬼の面を被った正体不明の人物についても記されていた。鉄平の突進を何度も回避し、通常では考えられない身のこなしで戦っていたという。
その正体は分かっていない。
「それにしても、随分と妙な人が現れたものねぇ」
鷹野は楽しそうに笑った。
「研究所の想定外のところから、あんな人物が出てくるなんて」
「引き続き調査を進めます」
「ええ。お願いするわ。できれば、現場に残っていたものは全部調べてちょうだい」
研究員が頭を下げて去っていく。鷹野は資料を閉じようとしたが、ふと表紙の端に記された文字に目を留めた。
外装開発第二研究部門。
その文字を見て、鷹野は進行方向を変えた。第二研究部門の実験室は、同じ地下施設でも生体研究区画とは少し雰囲気が異なっていた。人体の模型や培養設備の代わりに、金属の部品や大型の測定装置が並び、ガラス張りの試験室には、灰色の装甲板を取り付けた人型の模型が設置されている。その一角で、一人の男が研究員たちと議論していた。四十代前半ほどの男だった。細い眼鏡を掛け、白衣の袖を肘まで捲り上げている。机には設計図が広げられ、赤い印が幾つも書き込まれていた。
「……ですから、これ以上の出力を想定するなら、現行の外装では無理があります。先に制御系を改めるべきでしょう」
男は研究員へそう告げると、入ってきた鷹野に気づいた。
「所長。戻られましたか」
「ええ。黒瀬さん、随分と熱心ね」
黒瀬俊明。研究所の第二研究部門を統括する、兵装・機械工学の主任研究員だった。
「熱心にもなりますよ。せっかく調整した装甲を、あんな使い方で壊されてはね」
「ふふっ。お気の毒さま」
「笑い事ではありません。北条鉄平は、そちらの生体強化部門が選定した被験者でしょう」
「本人の行動まで保証した覚えはないわ」
「それはこちらも同じです。しかし、装甲の性能を調べるために、街中で騒動を起こさせたと誤解されては困ります」
黒瀬は不機嫌そうに設計図を机へ置いた。鷹野はそれを見下ろした。
「それで、装甲そのものには問題があったの?」
「もちろんあります。設計した以上、そこは認めますよ。ですが、最大の問題は身体能力の安定性です。どれほど頑丈な外装を用意しても、中の人間が予測できない動きをしていては意味がない」
「……それについては、こちらでも検討しているわ」
「検討、ですか」
黒瀬は眼鏡を押し上げた。
「所長。失礼ながら、人体強化の研究はそろそろ方向を改めるべきではありませんか。筋肉を膨らませ、骨格を変え、外部から制御する。そんな方法では、実用性に限界があります」
「随分とはっきり言うのね」
「研究成果を求められているのはこちらも同じですから」
鷹野は笑みを浮かべたまま、返事をしなかった。黒瀬の指摘には一理あった。人体の構造を大きく変化させれば、それに応じて新たな問題が発生する。強化された筋肉が発揮する力を、骨格や神経が必ずしも十分に制御できるとは限らない。しかも、被験者ごとの個人差も大きい。それは、これまでの研究で何度も突き当たってきた問題だった。だからこそ、鷹野たちは別の方法も模索していた。
「……それなら、以前お話しした計画はどうかしら?」
鷹野が尋ねると、黒瀬の表情が僅かに変わった。
「例の血清ですか」
「ええ」
「理論上は興味深い。ただ、まだ人間への適用例が少なすぎる。少なくとも、既存の被験者とは条件を分けて検証する必要があります」
「分かっているわ」
「それと、もう一つ」
黒瀬は机の端に置かれた資料を手に取った。
「仮に成功したとしても、誰に使わせるかが問題です。身体能力だけが優れていても、判断力や精神面が伴わなければ、北条鉄平の二の舞になる」
「……そうね」
鷹野は静かに頷いた。
「十分な訓練を受けていて、身体的にも健康で、精神状態も安定している人間……。そういう人が理想的、というわけね」
「ええ。そして、研究の危険性を理解したうえで、自分の意思で参加する人物でなければなりません」
黒瀬は淡々と答えた。その言葉を聞いた時、鷹野の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。いつも穏やかな笑みを浮かべ、時折、呆れるほど真面目なことを言う男。研究の話をすると、専門外のことでも熱心に耳を傾けてくれる。鷹野が冗談を言えば笑ってくれるし、彼女が無茶なことを言えば、困ったように眉を寄せる。
富竹ジロウ。鷹野は、ほんの僅かに眉を動かした。
「……所長?」
黒瀬が怪訝そうに声を掛けた。
「何でもないわ」
鷹野はすぐに微笑みを取り戻した。
「それより、装備の方はどうなの? 前に頼んでいた試作品」
「ああ、そちらなら」
黒瀬は研究員へ合図した。研究員が室内の奥から、一つの金属製の円盤を運んできた。直径は人間の胴体を覆える程度。表面は鈍い銀色をしており、中央にはまだ何の模様も刻まれていなかった。見た目だけなら、大きな金属板を円形に加工しただけのものに見える。
「防護装備の試作品です。まだ最終調整前ですが、材料の試験結果は悪くありません」
「……へえ。随分と変わった形ね」
「携行性と防御範囲を考慮した結果です。もっとも、通常の人間が扱うには少々負担が大きい」
黒瀬は円盤へ目を向けた。
「ですが、仮に所長の研究が成功すれば、これを実際に扱える人間も現れるでしょう」
「……なるほどねぇ」
鷹野は円盤へ近づき、その表面を指先で軽く撫でた。冷たい金属の感触が伝わってきた。人間の身体を強くする技術。その力を制御し、守るための技術。二つを組み合わせれば、これまでとはまったく異なる成果が生まれるかもしれない。研究者として、鷹野はその可能性に強く惹かれた。
しかし。
「……ところで、所長」
黒瀬が口を開いた。
「適性候補者についてですが、監査担当の富竹二尉は、なかなか条件に合っていると思いませんか」
鷹野の指が止まった。
「……ジロウさん?」
「ええ。元々、身体を鍛えている方ですし、自衛官としての訓練も受けている。何より、研究所の事情にも多少は通じている」
「……」
「もちろん、本人の同意が前提ですが。研究計画の説明をするだけでも――」
「駄目よ」
黒瀬が言い終わるより早く、鷹野は答えていた。その声は、普段より少しだけ強かった。黒瀬は意外そうに目を上げた。
「……何か?」
「あの人は監査役でしょう。研究の被験者にするなんて、立場上も問題があるわ」
「それはそうですが、候補者としての適性を検討すること自体は――」
「他にも候補者はいるでしょう?」
鷹野は黒瀬の言葉を遮った。それから、自分の反応が少々過剰だったことに気づいたのか、軽く息をついて笑みを浮かべた。
「……まあ、まだ人間に適用できると決まったわけでもないもの。今からそんなことを考えても仕方ないでしょう?」
「……そうですな」
黒瀬はそれ以上追及しなかった。鷹野は円盤から手を離した。先ほどまで興味深く眺めていた試作品が、何故か急に冷たく見えた。
「それじゃあ、私は戻るわ。血清の追加データが出たら、報告をお願いね」
「承知しました」
黒瀬に見送られ、鷹野は第二研究部門を後にした。白い廊下へ戻る。規則正しく並んだ照明の下を歩きながら、鷹野は先ほどの会話を思い返していた。
富竹ジロウ。確かに、彼は適性候補者として悪くない。それどころか、黒瀬が言った条件を考えれば、相当に優秀な候補と言えるだろう。身体的な能力。精神的な安定性。軍人としての経験。そして、研究への理解。どれも、実験を成功させるためには望ましい要素だった。それなのに鷹野は、どうしてあれほど強く否定したのだろう。
答えは分かっていた。考えるまでもないことだった。
「……馬鹿ね」
鷹野は誰にともなく呟いた。他の被験者については、結果を冷静に分析できる。成功した理由も、失敗した理由も、研究者として整理できる。しかし、富竹が同じ実験台に乗る姿を想像した途端、それまでの冷静さが失われてしまった。そんな自分が、少し滑稽だった。研究者として考えれば、彼は非常に優れた候補者。
けれど、鷹野は彼を研究の材料として見たくなかった。少なくとも、今は。
鷹野は小さく息をつき、再び歩き始めた。その時、ふと昼間の出来事を思い出す。
前原圭一。
ダム湖で出会った、少し変わった少年。自分で熱心に研究をしていると言い、失敗した結果についても随分と考えていた。専門的な知識こそ乏しいようだったが、観察したことをそのまま受け入れず、理由を探そうとする姿勢には感心させられた。
「……ふふっ」
鷹野は小さく笑った。実験の結果が予想と違った時、何故そうなったのかを考える。そんな当たり前のことが、実は研究において何より大切なのだ。経験を積んだ研究者でさえ、自分の仮説を疑うことができず、都合の悪い結果を見落としてしまうことがある。まして、まだ何の専門知識も持たない中学生が、自分の失敗についてあれほど真剣に考えているというのは、なかなか珍しい。
「……将来が楽しみね」
それは、偽りのない感想だった。もちろん、ほんの短い会話を交わしただけで、その少年の能力を正確に評価できるわけではない。実際にどんな実験をしているのかも知らないし、研究者として必要な知識を身につけられるかどうかも分からない。
しかし、少なくとも。彼には、何かを知りたいと願う気持ちがあった。そして、分からないことを分からないままにしておけない性分らしかった。鷹野は、そういう人間が嫌いではなかった。
「……本当に来てくれたら、面白いかもしれないわね」
昼間の冗談めいた勧誘を思い出し、再び笑みを浮かべる。もっとも、今のところ本気で採用を考えているわけではない。相手はまだ中学生であり、将来どんな道へ進むのかさえ分からないのだから。それでも、自分の研究について、あれほど素直に目を輝かせて話を聞いてくれた少年のことは、少し印象に残っていた。
やがて、鷹野は地下研究区画の最奥にある扉の前へ辿り着いた。扉の向こうでは、今日も研究が進められている。人間の身体がどこまで変わり得るのか。どれほどの力を与えられるのか。そして、何をもって成功と呼ぶべきなのか。鷹野は手元の資料へ目を落とした。表紙には、新たな研究計画の名称が記されていた。
『人体機能強化計画・第三次臨床評価案』
その下には、被験者の選定基準と、今後の実験予定が並んでいる。鷹野は、ほんの一瞬だけ先ほどの黒瀬の言葉を思い出した。
――富竹二尉は、なかなか条件に合っていると思いませんか。
「……まったく」
鷹野は小さく呟き、資料を閉じた。扉が開く。白い照明に照らされた研究室の奥では、数人の研究員が新しい実験結果を待っていた。鷹野はそこへ足を踏み入れる。先ほどまで、湖畔で一人の少年と科学の面白さを語り合っていた女性。そして、つい先ほど、一人の男の名前を聞いただけで、研究者としての冷静さを失いかけた女性。その両方が、鷹野三四だった。
「……さて。続きを始めましょうか」
鷹野は再び資料を開いた。