その日の夜。前原圭一は、自室の机へ向かっていた。机には、ここ数日で増えた試料と書き込みだらけのノートが広がっている。片隅には分解されたウェブシューター一号と、ライノとの戦闘で切断された十三号の残骸。壁際には試験用の重りが積まれ、乾燥させた糸の切れ端が何本も吊るされていた。
「……さて、どうしたもんかな」
圭一は椅子の背もたれへ身体を預け、天井を仰いだ。今日は色々なことがあった。試験の出来は散々だったし、大石という妙な刑事にも会った。レナとはダム湖で昼食を食べ、オヤシロさまの祟りについて聞いた。そして最後には、鷹野三四という変わった研究者に出会ったのである。特に鷹野との会話は、今になっても妙に頭へ残っていた。オカルト好きの研究者。そんな珍しい組み合わせに驚かされたが、話してみれば随分と面白い人だった。人工筋肉にも詳しく、圭一が実験で苦労していると話した時には、馬鹿にするどころか真面目に答えてくれた。
「……並び方、か」
圭一は小さく呟いた。強い材料を混ぜれば、必ず強いものが出来るとは限らない。大切なのは、何が入っているかだけではなく、どう並び、どう結びついているか。鷹野はそんなことを話していた。
「……どう並んでるか、ねぇ」
圭一はノートを開いた。思い返せば、最初にウェブシューターを作ろうと思い立った頃は、もっと簡単に考えていた。すべての始まりは、あの特殊な蜘蛛だった。雛見沢へ引っ越して間もない頃、圭一は奇妙な蜘蛛に噛まれた。それ以来、壁を這い、常人離れした力を発揮し、危険を予知するような感覚まで身についた。そして、その蜘蛛が残した糸も、普通では考えられないほど丈夫だった。しかし、蜘蛛の能力を得たからといって、圭一自身が糸を出せるようになったわけではない。
「……蜘蛛男なのに、糸が出ねえってのもなぁ」
だったら、道具を使えばいい。あの蜘蛛のような丈夫な糸を作り、腕に装着した機械から撃ち出せるようにする。そうすれば離れた物を引き寄せたり、悪党を縛り上げたりできる。最初はそんな単純な発想だった。釣り糸や縄を利用した試作品から始まり、やがて蜘蛛由来の材料を加えることで強度が変わると気づいた。しかし、丈夫な糸が出来ても装置の内部で詰まり、勢いよく撃ち出せば今度は糸がまとまらずに千切れてしまう。同じ材料を使っても、日によって結果が異なることさえあった。
「……まったく。糸ってのは、こんなに面倒臭いもんだったのかよ」
強度だけなら、既に相当なものが出来ている。北条鉄平との戦闘で使用した十三号も、普通の人間が相手なら十分すぎるほど丈夫だっただろう。しかし、鉄平は普通の人間ではなかった。あの異様な筋力と巨大な肉体。十三号は結局、その力に耐えきれず切断されてしまった。
「……でも、問題はそこだけじゃねえんだよな」
十三号のように、あらかじめ丈夫な糸を用意することはできる。しかし、必要な瞬間に撃ち出せなければ、ウェブシューターを作る意味がない。いちいち縄を持ち歩くわけにもいかないのである。圭一は机に並んだ三つの試料へ目を向けた。一つは何も加えていないもの。もう一つは普通の蜘蛛の巣から得られた成分を加えたもの。そして最後が、あの特殊な蜘蛛の成分を加えたものだった。最初の試料は乾燥すると脆くなり、少し力を加えるだけで割れてしまう。普通の蜘蛛由来のものを加えた試料には多少の粘りがあったが、劇的な違いではない。ところが、最後の試料だけは明らかに違った。細く伸び、ある程度の力を加えても簡単には切れず、力を抜けば僅かに元へ戻ろうとする。
「……やっぱり、こいつだけおかしいんだよな」
これまでは、特殊な蜘蛛の成分そのものが丈夫だから、混ぜた材料も丈夫になると考えていた。しかし、それなら成分を増やすほど強くなってもよいはずだった。実際には違う。ある程度を超えると、かえってまとまり方がおかしくなる。
「……もしかして」
圭一は以前の実験記録を探した。
『特殊成分を少し加えただけで、全体の伸び方が変わる』
「……全体?」
そうだ。変化しているのは特殊な成分の部分だけではない。試料全体が、以前とは違う性質を示している。圭一は鉛筆を取り、ノートへ書き込んだ。
『特殊成分そのものが強い?』
『他の材料を変えている?』
もし、特殊な成分が単に補強するのではなく、他の材料をより丈夫な形へまとめるのを助けているとしたら。
そう考えれば、少ない量でも大きな違いが生まれる理由に、一応の説明はつく。
「……なるほどな」
もちろん、まだ仮説にすぎない。材料の内部で何が起きているのか、専門的な設備を持たない圭一には確かめようがなかった。
しかし、少なくとも今までとは違う考え方が出来る。何を混ぜるか、どれだけ混ぜるか。そればかり考えていたが、本当に重要なのは、混ぜた後の材料がどういう状態になるかなのかもしれない。
「……あの人、結構すげぇこと言ってたんだな」
圭一は昼間の鷹野を思い出した。向こうにしても、中学生が趣味の工作に苦労していると思って助言しただけなのだろう。それでも、その言葉が今になって役立っている。圭一はノートに書き加えた。
『特殊成分X――材料を並べる? 結びつける?』
『強い糸を作るための補助役?』
それから圭一は、以前の試料を改めて見比べた。すると、丈夫な糸になったものは引っ張った時の伸び方が比較的揃っているのに対し、途中で切れてしまうものは不均一な塊が残っていることに気づいた。
「……やっぱり、何か関係ありそうだな」
圭一は嬉しくなってきた。もっとも、具体的な仕組みまで分かったわけではない。タンパク質が複雑な構造を持つことくらいは学校で習ったが、そこから先は知らなかった。そこで圭一は、図書館から借りてきた生物学の入門書を取り出した。
「……αヘリックスに、βシート?」
聞き慣れない言葉だった。説明によれば、タンパク質は単に鎖のように繋がっているだけではなく、その鎖が折り畳まれたり、隣り合った部分同士で結びついたりするらしい。圭一は図を眺めた。細長い鎖が何本も並び、その間を小さな線が繋いでいる。
「……網みたいだな」
一本だけなら頼りないものでも、何本も並んで繋がれば、全体として丈夫になる。実際に同じことが起きているかは分からない。しかし、鷹野の言葉とも繋がる気がした。
「……これか?」
圭一は図を真似してノートへ描き写し、その横へ書き加えた。
『βシート構造?』
そして、特殊な蜘蛛から得られた成分Xに、新しい名前をつけることにした。
『βタンパク質(仮称)』
「……我ながら、ちょっとそれっぽくなってきたな」
もちろん、勝手につけた名前にすぎない。それでも、何を調べようとしているのかは少しはっきりした。圭一は特殊な成分を含んだ試料を手に取った。細く、丈夫で、しなやかに伸びる糸。
「……お前、ただ強いだけじゃなかったんだな」
次に考えるべきことが見えてきた。材料をどういう状態にすれば丈夫な糸になるのか。そして、それをどうやって安定して再現するか。圭一はノートの新しいページを開いた。
『ウェブシューター二号開発計画』
その下へ、射程、糸の安定性、詰まりにくさ、命中精度、実用時の信頼性と書き並べていく。
「……よし」
時計を見ると、既に随分と時間が経っていた。本当なら、試験が終わった今日はゆっくり休むつもりだったのだが。
「……鷹野さん、か」
祟りについて楽しそうに語り、研究には詳しく、何を尋ねても妙な笑みを浮かべていた女性。正直、まだよく分からない人である。それでも。
「……まあ、助かったのは確かだな」
今度会うことがあれば、礼くらいは言ってもいいかもしれない。圭一はノートを閉じ、机の上の試作品を見つめた。一昨日までの自分には、どう改良すればいいのかさえ分からなかった。しかし今は、少なくとも進む方向が見えている。
「……待ってろよ」
圭一は小さく笑った。
「今度こそ、ちゃんと使えるやつにしてやるからな」
それから数日間。テスト勉強から解放された圭一は、時間を見つけては実験を重ねていた。学校から帰れば宿題を片づけ、その後は参考書と実験ノートに向かう。時には食事を忘れ、母親から声を掛けられることもあった。もっとも、実験は決して順調ではなかった。
「……くそっ。また詰まった!」
試作品の出口には、白い材料が不格好な塊となって残っている。あれから圭一は、特殊な蜘蛛の成分を加える割合だけでなく、材料の状態にも注意を向けていた。しかし、丈夫な糸が出来ても、装置から上手く飛び出すとは限らない。
「……何なんだよ、もう」
圭一は机に突っ伏し、実験ノートを眺めた。試料番号、射出時の状態、糸の伸び方、乾燥後の強度、装置内部に残った材料の様子。以前よりも記録する項目は増えている。その中に、一つ気になる記述があった。
『射出時、急に材料が流れやすくなる場合あり』
「……ん?」
容器の中では随分と粘り気が強い材料が、装置から押し出される時には妙に滑らかに流れることがある。最初は気のせいだと思っていたが、同じ現象が何度か起きていた。
「……これ、何かあるのか?」
圭一は図書館で借りてきた高分子材料の入門書を開いた。中学生には少々難しい内容だったが、辛抱強く読み進めると、ある項目で手が止まった。
「……非ニュートン流体?」
説明によれば、液体はすべてが同じように流れるわけではないらしい。水のように一定の条件下では粘度がほぼ変わらないものもあれば、力の加わり方によって流れやすさが変化するものもある。
『剪断希薄化』
「……せんだん、きはくか?」
剪断力が加わることで、見かけの粘度が低下する現象。つまり、普段は粘り気の強い材料でも、流れる際の条件によっては滑らかに動くことがあるという。
「……へぇ。動かし方でドロドロ具合が変わるってことか?」
随分と乱暴な理解だったが、圭一は早速ノートへ書き込んだ。
『剪断希薄化――流動時に粘度が下がる?』
『射出装置の中で起きている可能性』
もし、今使っている材料にも似た性質があるのなら、容器の中では粘り気を保ちながら、射出する時だけ流れやすくなるのかもしれない。しかし、すぐに別の疑問が浮かんだ。
「……でも、それじゃあ糸にならねえじゃん」
流れやすくなるだけなら、単なる液体と大差ない。必要なのは、装置から滑らかに飛び出し、なおかつ丈夫な糸へ変化する材料なのだ。
「……出る時は柔らかくて、出た後は丈夫になる……か」
何とも勝手な要求である。しかし、本物の蜘蛛はそれに近いことをやっている。あの小さな身体から材料を送り出し、細く丈夫な繊維を作っているのだ。
「……蜘蛛って、実はとんでもねえ生き物なんじゃねえか?」
圭一は今さらながら感心した。もっとも、その日の実験も失敗に終わった。さらに数日が経過した。繰り返し試験するうち、圭一は一つの傾向に気づいていた。材料の組成がほぼ同じでも、射出された時の状態によって糸の性質が変わる。途中で不規則に途切れたり、太い塊となって飛び出したものは弱く、細く途切れずに伸びたものは比較的丈夫だった。
「……こいつら、同じ材料なのにな」
圭一はノートへ二本の線を描いた。一本は不規則に曲がった線。もう一本は真っ直ぐ伸びた線である。その時、鷹野の言葉が頭をよぎった。大切なのは、どう並んでいるか。
「……並び方」
圭一は再び参考書を開いた。今度は高分子の流動と変形についての項目である。
「……伸長流動?」
高分子を含む材料が引き伸ばされる際、内部の分子鎖が流れの方向へ配向することがあるらしい。
「……そうか。引っ張られると、中の奴らも同じ方向を向こうとするのか」
圭一は以前描いたβシートの図を思い出した。もし特殊な蜘蛛から得られたβタンパク質が、他の材料の配向や構造形成を助けているのだとしたら、単に混ぜるだけでは足りない。糸になるまでの間に、材料を適切に引き伸ばす必要があるのかもしれない。
「……おお」
何となく、繋がった気がした。これまで圭一は、射出速度を飛距離の問題としてしか考えていなかった。勢いよく撃てば遠くへ届き、弱ければ近くに落ちる。しかし、射出する時の流れ方そのものが材料の構造に影響する可能性がある。圭一は急いで実験結果を見直した。勢いが足りない時は出口付近で塊になりやすく、比較的勢いよく射出できた時は細く伸びることが多い。ただし、強すぎても流れが乱れる場合があった。
「……つまり、速けりゃいいってわけでもねえのか」
さらに、射出された材料が糸になるまでの時間も重要だった。形成が遅すぎれば、標的に届く前に散ってしまう。逆に早すぎれば、十分に伸びる前に脆くなる可能性がある。そして、同じ距離なら速く撃ち出すほど空中にいる時間は短くなる。
「……そうか。時間だけじゃなくて、状態か」
大切なのは、細く安定して伸びた状態で空気に触れ、標的に届くまでに内部の構造が形成されること。もちろん、分子の動きや固化に関係する反応を直接測定できるわけではない。しかし、実験結果との辻褄は合っていた。圭一はノートへ書き込んだ。
『仮説――射出時の流動と、射出後の構造形成が重要』
『βタンパク質は分子の配向・結合を助ける?』
「……よしよし。何だか科学者っぽくなってきたぞ」
もっとも、装置が完成したわけではない。その後も試験は失敗続きだった。途中で材料が途切れるもの。細い糸になっても乾燥後に強度が落ちるもの。最初の数回だけ成功し、やがて装置が詰まってしまうもの。
「……くそっ。またかよ!」
何度目かの失敗に、圭一は机へ突っ伏した。しかし、以前のように失敗を放置することはなかった。どこで流れが乱れたのか。出来上がった糸は均一だったのか。射出直後と時間が経った後では、どう変化したのか。一つずつ記録するうち、射出直後の形状が安定している試料ほど、最終的な糸の状態も揃っていることが分かってきた。
「……やっぱり、そういうことか」
材料の強さだけでなく、糸として形成されるまでの過程を安定させる。それが重要なのだ。射出時には滑らかに流れ、出口を通過した後は細く安定して伸びる。そして、空気に触れた材料が適切なタイミングで丈夫な繊維へ変わる。
「……いけるかもしれねえ」
圭一は机の上の新しい試作品を手に取った。ウェブシューター二号。外見こそ一号と大差ないが、内部の設計思想は随分と変わっている。一号は、とにかく材料を押し出すことを目的としていた。それに対して二号は、材料が内部を流れ、外へ出て、糸になるまでの一連の過程を重視している。
「……ま、やってみるしかねえか」
圭一は装置を構えた。試験の結果は、これまでとは明らかに違っていた。射出された白い流れが、途中で塊になったり散ったりすることなく、細い一本の線となって伸びていく。そして。
「……おっ?」
白い糸は、試験用の標的へ到達していた。しかも、そこで途切れていない。
「……マジか?」
圭一は慌てて試料を確認した。射出された材料は、標的へ達する頃には既に糸としての形状を保ち始めていた。完全に安定したわけではないが、以前より明らかに均一な糸が形成されている。圭一はしばらく黙り込んだ。
そして。
「……よっしゃああああっ!!」
部屋いっぱいに歓声が響き渡った。
「出来た! 出来たぞ!!」
ところが、次の瞬間。
「……圭一! 何時だと思ってるの!」
階下から母親の声が飛んできた。
「……あっ。わ、悪い!」
時計を見ると、既に夜も更けていた。圭一は慌てて声を落とし、もう一度机へ向き直った。嬉しい。確かに嬉しい。しかし。
「……いや、待て待て」
一度成功しただけでは意味がない。実戦で使う以上、何度でも同じ結果が得られなければならない。誰かを助けようとした時に糸が出なかったり、途中で切れてしまったりすれば、自分だけでなく相手まで危険にさらしてしまう。
「……まだだな。ちゃんと確かめねえと」
翌日も試験は続いた。射出を繰り返し、装置の詰まり、糸の太さ、時間経過による状態の変化を調べる。何度か失敗もあったが、以前とは明らかに違っていた。結果のばらつきが小さくなり、糸の状態も揃うようになってきたのである。そして夕方。最後の試験結果を書き込んだ圭一は、しばらくノートを眺めていた。
「……へへっ」
一号の失敗も、十三号の切断も、決して無駄ではなかった。圭一は手首の装置へ目を向けた。
「……ようやく、ここまで来たな」
試験上では、ようやく実用的な水準に近づいた。もちろん、まだ確かめるべきことはある。しかし、それでも。
「……よし! 明日、詩音にも見せてやるか!」
翌日の午後。
「……なるほど。それで、私を呼んだわけですか」
園崎詩音は、前原家の圭一の部屋で実験ノートを眺めていた。圭一がスパイダーマンであることを知って以来、詩音がこの部屋へやって来ることも珍しくなくなっていた。
「おう! 見てくれよ、これ!」
圭一は得意げに装置を掲げた。
「ついに完成したんだぜ! ウェブシューター二号!」
「へえ。おめでとうございます」
詩音は微笑んだ。
「で、今度はちゃんと動くんですか?」
「おい! 第一声がそれかよ!?」
「だって、前にも完成したって言ってませんでした?」
「……うっ」
以前も似たようなことを言い、結局材料が詰まってしまった覚えがある。
「……今回は違うんだよ!」
「ふふっ。では、どう違うのか教えてもらいましょうか」
圭一は待ってましたとばかりにノートを開いた。
「いいか、詩音。今までの問題は、糸が丈夫でも撃ち出すと途中で切れたり、塊になったりすることだったんだ」
「ええ。それは何度も聞きましたね」
「そこで俺は、糸が出来るまでの過程を考え直したんだよ!」
圭一は鉛筆で数本の線を描いた。
「材料の中にある分子が、バラバラじゃ丈夫な糸になりにくい。でも、引っ張られて同じ方向へ並び、上手く結びつけば、強い構造になる可能性があるんだ」
「……なるほど。前に話していたβタンパク質が関係してるんですか?」
「そう! あの蜘蛛から取れた特殊な成分だ! こいつが他の材料の並び方を助けてるんじゃないかと思うんだよ」
「……思う?」
「……まだ仮説だけどな」
圭一は少し気まずそうに答えた。
「それで、撃ち出す時の状態を変えたんだ。剪断希薄化って知ってるか?」
「……何ですか、それ」
「簡単に言えば、材料に力が加わって流れる時、粘り気が変わることがあるって話だ」
圭一は参考書を開いた。
「普段はドロドロした材料でも、条件によっては流れやすくなる。だから、装置の中では滑らかに流して、外へ出た後は細く伸ばす。その過程で分子も同じ方向へ並びやすくなるんじゃないかって考えたんだ」
「……そうですか。でも、それだけだと細長い液体が飛ぶだけじゃありません?」
「そう! そこも問題だったんだ!」
圭一は勢いよく頷いた。
「撃ち出された材料が空気に触れて、標的に届く頃には糸になってなきゃ駄目なんだ。だから、射出時の流れ方と、糸が形成されるタイミングの両方を考えた」
「……なるほど。今回は上手くいったんですか?」
「多分な!」
「……多分?」
「いや、だから実験結果からの推測だって!」
「ふふっ。圭ちゃん、さっきから推測ばっかりですねぇ」
「仕方ねえだろ!? こっちは中学生なんだぞ! 分子がどう並んでるかなんて、簡単に分かるかよ!」
「あははっ! それもそうですね!」
詩音は楽しそうに笑った。しかし、すぐに表情を和らげる。
「でも、すごいじゃないですか」
「……へ?」
「前はどうして失敗するのかも分からなかったんでしょう? それが今では、問題を考えて、ちゃんと試験までしているんですから」
圭一は少し照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「……へへっ。まあ、そう言ってもらえると嬉しいけどよ」
「それで、肝心の性能はどうなんです?」
「おう! それを見せたかったんだ!」
圭一はノートの後半を開いた。そこには、昨日までの試験結果が記録されている。射出の安定性、糸の太さ、途切れる頻度、乾燥後の強度。いずれも以前より改善していた。
「……なるほど。確かに随分良くなってますね」
「だろ!?」
「でも、一つ気になることがあります」
「……何だ?」
「圭ちゃん、これって本当に人間一人を支えられるんですか?」
「…………」
圭一は黙り込んだ。
「……いや、強度試験ならやったぜ?」
「ええ。でも重りを吊るすのと、圭ちゃん自身がぶら下がるのとでは違いますよね? 急に糸が引っ張られたり、壁にくっついた部分が剥がれたりしたら?」
「……まあ、そりゃそうだけど」
圭一は腕を組んだ。確かに、糸が丈夫でも接着部分が剥がれてしまえば意味がない。急に力が加わった時の耐久性も、まだ十分に確かめられていなかった。
「……そうか。まだ試さなきゃならねえことがあるな」
「でしょう?」
詩音は満足げに頷いた。
「でも、今日ここまで出来たことは、ちゃんと喜んでもいいと思いますよ」
「……まあ、そうだな」
圭一は二号を見つめ、小さく笑った。
「少なくとも、前よりは一歩進んだわけだ」
「ええ」
詩音は頷いた。
「ところで、圭ちゃん」
「ん?」
「これ、完成したら何に使うつもりなんです?」
「何って……そりゃ、スパイダーマンなんだから、糸を使ってこう、なんやかんやするんだろ?」
圭一は右手首の装置を構えた。
「遠くの物を引き寄せたり、悪党をぐるぐる巻きにしたり!」
「……それだけですか?」
「……へ?」
「せっかく遠くまで糸を飛ばせて、しかも丈夫になったんでしょう? だったら他にも色々できそうじゃありません?」
「……他に?」
圭一は腕を組んだ。確かに、糸の用途は敵を拘束することだけではない。しかし、いざ他の使い道を尋ねられると、すぐには思いつかなかった。
「……うーん。そうだなぁ」
そこで、圭一は机に置かれた十三号の切れ端へ目を向けた。鉄平との戦いで使用した、縄状のウェブ。あの時は巨体を拘束しようとして散々苦労したが、十三号は敵を捕らえる以外にも使っていた。
「……あ」
「どうしました?」
「いや……そういや、あの時……」
圭一は十三号の切れ端を手に取った。
「鉄平と戦った時、柱にこいつを引っかけて、身体を振ったことがあったんだよ」
「……身体を?」
「ああ。縄を柱に引っかけて、そいつを掴んだまま飛び出したら、身体がこう……」
圭一は片手で弧を描いた。
「……ぶらーん、って」
「……ぶらーん?」
「そう! 振り子みたいな感じだ!」
圭一はノートに簡単な図を描いた。高いところに支点があり、そこから伸びる糸の先に重りがぶら下がっている。
「ほら、振り子ってあるだろ? あれと似たようなことが、十三号でも起きたんだよ!」
「……なるほど。圭ちゃん自身が振り子の重りになっていたわけですね?」
「……そういうことになるな」
圭一は図を眺めた。当時は戦闘の最中で、そんなことまで考える余裕はなかった。
しかし、今になって思い返すと興味深い。糸を高い場所へ固定し、身体を支えられたまま前進すれば、支点を中心に弧を描く。
「……待てよ」
圭一は鉛筆を止めた。十三号はあらかじめ作った縄だったので、使うたびに自分で回収しなければならなかった。
しかし、二号ならどうだろう。
「……おい、詩音」
「はい?」
「今度のウェブシューターって、遠くへ糸を撃てるんだよな」
「ええ。さっきからそう言ってるじゃありませんか」
「それで、糸の先端がどっかにくっつけば、そこを支点にできるだろ?」
「……まあ、ちゃんと固定できれば、ですけど」
「だよな!」
圭一は勢いよく鉛筆を走らせた。先ほどの振り子の隣に、二つの高い建物を描く。一方の建物から斜めに伸びる糸。そして、その先にぶら下がる小さな人間。
「……こうだ!」
「……これは?」
「例えば、このビルの高いところに糸を撃ち込むだろ? そんで、ぶら下がったまま前へ進むと……」
圭一は人間を表す丸を、大きく弧を描くように動かした。
「……こう、ぐるーっと!」
「……ああ! 振り子のように移動するんですね!」
「そういうことだ!」
圭一は得意げに頷いた。しかし、詩音はすぐに首を傾げた。
「でも、それだと一回揺れたら戻ってきちゃいません?」
「……へ?」
「振り子って、右へ振れたら今度は左へ戻るでしょう?」
「…………」
圭一は黙り込んだ。確かに、同じ糸にぶら下がっている限り、どこまでも前進できるわけではない。
「……うっ。そうか。駄目かぁ」
「いえ、でも……」
詩音は図を眺めながら考えた。
「圭ちゃん。その糸って、途中で離せるんですよね?」
「……ん?」
「今度は装置から撃ち出すわけでしょう? だったら、好きな時に切り離すこともできるんじゃありません?」
「……ああ。そのつもりだけど」
「だったら、振り子が前へ進んだところで糸を離したらどうなるんです?」
「…………」
圭一はノートへ目を落とした。支点を中心に弧を描く身体。その途中で糸を離せば。
「……あっ!」
圭一は声を上げた。
「そうか! そのまま前に飛んでいくのか!」
圭一は急いで矢印を書き足した。
「振り子の途中で糸を離せば、それまでの勢いで身体は飛んでいく!」
「ええ。そういうことですよね?」
「……待てよ。だったら!」
圭一はさらに前方へ建物を描いた。
「最初の糸を離して、空中にいる間に次のビルへ糸を撃てば……!」
「……あ!」
詩音も思わず声を漏らした。
「……また、振り子になる!」
「そうだよ! 一回揺れたら糸を離して、次の場所へ撃ち直せばいいんだ!」
「……なるほど! それなら、上手く繰り返せばかなり遠くまで移動できそうですね!」
「だろ!?」
圭一は興奮した様子で部屋を歩き始めた。
「最初のビルへ糸を撃って、振り子みたいに前へ進む! そんで、ちょうどいいところで離して、次のビルへ撃つ!」
圭一は右手首を突き出した。
「シュッ!」
身体を大きく傾ける。
「ぐいーん!」
さらに反対の手を突き出す。
「シュッ! ぐいーん!」
「……ぷっ!」
詩音は思わず吹き出した。
「ちょ、ちょっと圭ちゃん! 何やってるんですか!」
「見りゃ分かるだろ! 空中移動の再現だよ!」
「いや、分かりますけど! あはははっ!」
詩音は口元を押さえて笑った。しかし、圭一は気にしていなかった。頭の中では既に、興宮の街並みが広がっている。建設途中の高層ビル、商業施設の屋上、立体的に交差する道路。そして、それらの建物の間を蜘蛛の糸で飛び移る自分の姿。
「……すげえ! すげえぞ、これ!」
「ふふっ。随分と気に入ったみたいですねぇ」
「当たり前だろ! 考えてもみろよ、詩音! ビルの屋上から糸を撃って、街の上をビューンって飛ぶんだぜ!? 最高じゃねえか!」
「……まあ、気持ちは分からなくもないですけど」
詩音は笑った。
「でも、圭ちゃん。一つ忘れてません?」
「……ん?」
「振り子って、支点より下を通るんでしょう?」
「……おう」
「それに、糸を離したら次の糸がくっつくまでは空中にいるわけですよね?」
「……まあ、そうだな」
「だったら、失敗したらどうするんです?」
「…………」
圭一の笑顔が固まった。
「次のビルに糸が届かなかったら? それに、くっつかなかったら? 勢いが強すぎて建物にぶつかるかもしれませんよねぇ?」
「……お、お前なぁ!」
圭一は思わず声を上げた。
「せっかく人が夢を膨らませてるってのに、いちいち現実的なこと言いやがって!」
「だって、大切なことじゃありませんか。それに、圭ちゃん自身が言ってたでしょう? 実際に使う時の信頼性が大事なんだって」
「……うっ」
確かに、その通りだった。糸の強度に加え、接着部分の耐久性、身体が振られる時の力、切り離すタイミングまで考えなければならない。
「……なるほどなぁ」
圭一はノートへ目を落とした。そこには、二人で描いた奇妙な図が残っていた。ビルと糸。振り子。そして、次の建物へ伸びる矢印。実に単純な絵だが、その中には今まで考えもしなかった可能性が詰まっている。
「……まあ、いきなり出来るとは思わねえけどさ。でも、いつか本当にこれが出来たら、すげえと思わねえか?」
「……そうですね。圭ちゃんがビルの間を飛び回っていたら、ちょっと見てみたいかもしれません」
「だろ!?」
「でも、最初から高いところで試すのは駄目ですからね?」
「…………」
圭一は黙った。詩音はその反応を見逃さなかった。
「……圭ちゃん? まさか、もう何か考えてません?」
「……いや?」
「…………」
詩音はにっこりと笑った。
「圭ちゃん。約束してくださいね?」
「……な、何を?」
「無茶なことをする前に、ちゃんと私に相談すること」
圭一は少し考え、苦笑した。
「……分かったよ」
「本当ですか?」
「ああ。本当だって!」
詩音は満足げに頷いた。
「それなら、私もお手伝いしますよ」
「……おっ! マジか!?」
「ええ。だって、圭ちゃんの助手ですからね」
詩音は悪戯っぽく笑った。
「せっかく完成させたウェブシューターが原因で、圭ちゃんに何かあったら寝覚めが悪いですし」
「……へへっ。そりゃありがたいな」
圭一は笑い、机の上の二号を手に取った。幾度となく失敗を重ね、ようやく辿り着いた試作品。まだ完璧ではない。実際に街で使うには、確かめなければならないことも山ほどある。それでも、圭一は確かな手応えを感じていた。
「……よし。じゃあ、次はいよいよ実地試験だな!」
「ええ。ただし、まずは安全な場所からですよ?」
「分かってるって!」
圭一は笑った。しかし、その視線は再びノートへ向けられていた。二つの建物の間を、弧を描くように伸びる一本の線。ほんの少し前まで、糸は敵を捕らえるための道具にすぎなかった。しかし、もし自分自身を運ぶためにも使えるのなら。もし、十三号で偶然経験した振り子運動を、何度でも繰り返せるのなら。
「……へへっ」
圭一は思わず笑みを漏らした。詩音はそんな圭一を横目に、呆れたように溜息をつく。
「……まったく。ちゃんと聞いてるんでしょうねぇ」
もっとも、この時の詩音はまだ知らなかった。圭一が数日後、十五階建てのマンションの屋上で、自分の言葉を思い出して青ざめることになるとは。そして圭一自身も、頭の中では簡単に描けた振り子運動が、実際にはどれほど恐ろしいものなのか、まだ理解していなかったのである。
<雑談>
いきなり圭一がウェブシューターを作るのは変なので、こういう運びになりました!まあそれでもこんな短期間で作ってる時点で天才ですw