4月。新春の季節の中、新築マンションに一つの家族が入居した。その家には前原家と書かれた表札がある。
ここ雛見沢では、四年前にダム計画によって村の姿が大きく変わった。もともとの計画では谷あいの集落をほぼ丸ごと水底へ沈めるはずだったのだが、園崎家を中心とした住民側と建設側の長い交渉の末、計画そのものが縮小された。川沿いの低地、田畑、古い住宅地の多くは予定通り水没する。その代わり、比較的標高の高い丘陵地には大規模な造成が行われ、水没区域に住んでいた住民の移転先として新しい住宅地が建設された。
ただし、それだけでは終わらなかった。
ダムと発電所の建設によって道路が拡張され、送電設備が整えられ、外から大量の人と金が入ってきた。発電所周辺には国の研究施設や企業の研究所まで建設され、そこで働く研究員や技術者、その家族を住まわせるために丘陵地の造成はさらに進んだ。昔ながらの家々に混じって、マンションや新築の戸建てが並ぶようになったのはそのためである。
そして、その変化の恩恵をもっとも受けたのが、山を越えた先にある興宮だった。資材を運ぶ企業、建設会社、研究所と取引する業者、商店、病院、不動産。それらが一斉に集まり、駅前にはビルが建ち、住宅街は広がり、かつての地方都市は見違えるように姿を変えた。今では不動産会社が「美しい町興宮、美しい自然雛見沢」と宣伝文句を掲げるほどである。
だから今の雛見沢は妙な土地だった。視線を下へ向ければ、青く広がる巨大なダム湖。その湖底には、かつて人が暮らしていた道や田畑が眠っている。反対に丘へ目を向ければ、まだ新しいマンションや住宅が規則正しく並び、そのさらに奥には山々が連なっていた。昔ながらの寒村とも、完全なニュータウンとも言い難い。古い土地の上に新しい町を無理やり継ぎ足したような、不思議な場所である。
前原家がここへ引っ越した理由も、そうした宣伝文句だけではなかった。圭一の父、伊知郎がこの変わった町並みを気に入ったのである。窓の外には山と湖があり、少し車を走らせれば興宮の市街地へ出られる。自然と都市の間に住むという生活は、絵を描く彼にはことのほか魅力的に映ったらしい。
その新居で、圭一は朝から引っ越しの片づけに追われていた。
「ん。重いぞこれ」
運送業者が玄関へ積み上げた段ボールを抱え、圭一は自分の部屋へ向かう。室内にはまだ段ボールがいくつも残されていたが、ベッドと勉強机、それからダンベルや簡単なトレーニング器具だけは既に場所が決まっていた。
「圭一。この荷物、あっちに置いてくれない?」
「分かった、すぐ行く」
母に言われた通り、圭一はまた段ボールを抱える。何往復目になるかも忘れたころ、ようやく最後の一箱を床へ下ろした。
「これで……最後っと」
額には薄く汗が浮かんでいた。
「やっぱり圭一は力持ちね。圭一がいて、本当に良かったわ」
「いや、俺もまだまだだよ。全然筋肉ないし」
嘘である。
圭一は一年前ほど前から身体を鍛えることに嵌まっていた。中肉中背と呼ぶにはいささか身体つきが良すぎる。肩は以前より広くなり、胸板も厚い。腕にも相応の筋肉がつき、腹には筋のように割れ目が浮いている。成長期と運動が重なったこともあり、身長も急激に伸びて百七十センチを越えていた。
「圭一。圭一が大きく、たくましくなってくれるのは嬉しいけど……」
「大いなる力には大いなる責任が伴う、だろ? お袋がよく言ってるやつ」
母は少し驚いた顔をしたあと、安心したように笑った。
「分かってくれてるなら……母さんが言うことはないわ」
大いなる力には大いなる責任が伴う。その言葉に込められた意味はたくさんある。自分より力の弱い相手へ乱暴に使うなという意味でもあり、自分に出来ることから逃げるなという意味でもある。圭一にとっては、小さいころから何度となく聞かされてきた、いわば前原家の家訓のようなものだった。
もっとも、この時の圭一は知らない。その言葉がこれから先、嫌というほど自分につきまとってくることを。
「さて……」
母が部屋を出ていったあと、圭一は一人、自分の部屋を眺めた。
「次はこいつらかぁ……」
床にはまだ開封していない段ボールが三箱残っている。教科書や小説、ゲーム、細々とした私物。今日中に全部片づけろと言われていた。
圭一は一番近くの箱を開いた。漫画や本を適当に本棚へ突っ込んでいく。次の箱には学校用品。三つ目は何が入っているのか自分でもよく分からない雑貨の山だった。
「なんでこんなもんまで持ってきたんだよ……」
昔使っていた玩具を手にして呆れた、その時だった。
首筋に何かが触れた。
「ん?」
髪の毛かと思った。
手で払う。
何もない。
圭一は気にも留めず、また箱へ手を伸ばした。
その手の甲に、今度は黒いものが落ちた。
蜘蛛だった。
「うおっ」
圭一は反射的に腕を振る。
蜘蛛は落ちなかった。
手の甲に張り付き、細い脚をせわしなく動かしている。体長はそれほど大きくない。ただ、よく見ると妙な蜘蛛だった。黒っぽい身体の一部に赤茶色の模様が入り、腹部には薄い線が走っている。
「なんだこいつ。荷物にでも入ってたのか?」
圭一が顔を近づけた。
その瞬間。
ちくり。
「痛っ!」
手を引っ込める。
蜘蛛が手の甲を噛んでいた。
「お前……噛みやがったな!」
圭一が指で弾こうとした瞬間、蜘蛛は素早く腕から飛び降りた。床へ落ちたと思ったが、細い糸が天井へ伸びていたらしく、その身体はするすると上へ昇っていく。
「待て!」
圭一が追う。
だが蜘蛛は壁の上部まで登ると、天井と壁の境目にある僅かな隙間へ潜り込んだ。よく見れば、その周辺には既に何本か細い糸が張られている。
「……もう巣作ってんのかよ、新築なのに...」
圭一は椅子を持ってこようとして、途中で止まった。
噛まれた手を見る。小さな赤い跡が二つ残っている程度だった。
「まあ……いっか」
蜘蛛は蚊や蠅などを食べる益虫だと聞いたことがある。わざわざ追いかけ回して殺すほどのものでもない。
「ちゃんと虫食ってくれよ。家賃代わりな」
天井に向かってそんなことを言うと、圭一は再び段ボールの整理へ戻った。手の甲に残った小さな傷も、数分後にはほとんど気にならなくなっていた。だから圭一は、その蜘蛛のことを忘れた。少なくとも、翌日までは。
翌朝。雛見沢の丘陵地に朝日が差し込み、ニュータウンの白いマンション群を淡く照らしていた。遠くに広がるダム湖の水面には朝靄が漂い、そのさらに向こうでは、山の稜線から昇った太陽が水面を細長く光らせている。圭一は新品の制服に袖を通し、まだ馴染まない襟元を指で引っ張りながら玄関へ向かった。
「じゃ、行ってくる」
「忘れ物ないでしょうね?」
「大丈夫だって。何回確認したと思ってんだよ」
母に見送られ、圭一は玄関を出た。
マンションを出ると、坂の下へ続く道路には同じように学校へ向かう子供たちの姿があった。ランドセルを背負った小学生、その少し先には制服姿の中学生。雛見沢の古くからの住民もいれば、研究所や関連企業の職員の家庭らしい新しい住民もいる。昔ならば雛見沢分校へ向かっていた子供たちも、今では皆、この道を通って興宮へ向かう。
ダム建設によって雛見沢分校が廃校となったのは四年前。旧校舎のあった場所は水没区域に含まれ、校舎そのものも解体された。代わりに雛見沢の子供たちは山を越え、興宮に新設、あるいは増築された学校へ通うようになった。もともと興宮にも小学校と中学校はあったが、ダムと研究施設を中心とした人口流入によって生徒数が急激に増え、一つの敷地へ校舎を集約する形で巨大化していった。
正式には興宮町立興宮小学校と興宮町立興宮中学校。二つは別の学校であり、校長も教師も授業も別々だった。しかし敷地は同じで、体育館や図書館、運動場の一部を共有している。地元の人間は二つをひっくるめて「興宮学園」などと呼んでいた。
圭一はその校門の前まで来て、思わず立ち止まった。
「……でか」
目の前に広がっているのは、圭一が想像していた田舎町の学校とはまるで違う光景だった。正門から先に長い並木道が伸び、その左右には新しい鉄筋校舎がいくつも並んでいる。奥には古びた三階建ての旧校舎、そのさらに向こうには小学校の校舎と広い運動場が見えた。体育館も一つではなく、大小二棟。グラウンドの端にはプールまである。
「学校っつうか……町じゃねえかこれ」
「えっと、前原くんかな、かな?」
背後から声をかけられ、圭一は振り返った。
肩まで伸びた茶色い髪。柔らかな笑顔を浮かべた少女が、鞄を両手で持ちながらこちらを見ていた。
「えっと……」
「竜宮レナだよ。今日から同じクラスなんだよね。みんなも転校生が来るって知ってるよ」
「ああ、前原圭一。よろしく....なんだ、こういうのって事前に知らされてるものなのか。てっきり、先生が最初に『転校生を紹介します』って言って、そこで知らされるものだと思ってたぜ」
「よろしくね、圭一くん」
レナは俺の言ったことを嬉しそうに笑った。
「いや、しかしすごい学校だな。周りを見ると結構、生徒が多いな」
「うん。転校してきた人は、だいたい最初それ言うかな」
「そりゃ言うって。校舎何個あるんだよこれ」
「中学校だけでも新校舎と旧校舎があるよ。生徒が増えすぎて、一つじゃ足りなくなったんだって」
レナは正門の向こうを指差した。
「新しい方が一組から四組。旧校舎が五組から八組。圭一君は三組だから、あっちだよ」
「八組!?」
圭一の声が思わず大きくなる。
「一学年八クラスって、どこの都会だよ……」
「昔はこんなに多くなかったみたい。ダムが出来てから、研究所で働く人とか会社の人がいっぱい引っ越してきたから」
「なるほどなあ……」
圭一は改めて校舎を見上げた。雛見沢のニュータウンもそうだったが、この土地はどうにも「急に大きくなった」という印象が強い。新しい建物の横には古い校舎が残り、そのさらに奥では増築工事まで続いている。発展したというより、増え続ける人間をどうにか押し込むために、町そのものが必死に形を変えているようにも見えた。
「おーい、レナー!」
今度は遠くから大きな声が飛んできた。
二人が振り向くと、長い緑色の髪を揺らしながら一人の少女が駆けてくる。制服の上着を少しだらしなく着崩し、いかにも活発そうな雰囲気を纏っていた。
「あ、もしかしてその子が転校生?」
「あ、魅ぃちゃん、おはよう。うん、前原圭一くん」
少女は圭一を上から下まで観察すると、不敵な笑みを浮かべた。
「へえ。結構でかいじゃん」
「第一声がそれかよ」
「おじさんは園崎魅音。魅音って呼んでいいよ。じゃ、よろしく。」
「お、おじさん?」
「細かいことは気にしない!気にしない!」
豪快に笑い、魅音は圭一の肩を叩く。初対面にしては随分と距離が近い。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ちなみに圭一、いやもう圭ちゃんって呼んでいい?三組なんだって?」
「ああ、というかもう呼んでるじぇねぇか!」
「あははははは、圭ちゃんはすごくいじりがいがあるねぇ。三組なら、レナもおじさんも一緒。良かったじゃん。知り合いゼロから始めなくて済んで」
「うっせ」
距離をガンガン詰めていく魅音。圭一はすぐにこの会話に慣れていき、馴染んでいく。
三人で校舎へ向かおうとしたところで、今度は小さな声が魅音を呼んだ。
「みー、魅ぃなのですよー、おはようなのです」
圭一が視線を下げる。
小学校側から二人の少女が歩いてきていた。一人は薄紫色の髪をした小柄な少女。もう一人は金髪の少女で、こちらはどこか勝ち気そうな表情をしている。二人ともランドセルを背負っていた。
「お、梨花ちゃんに沙都子じゃん!」
魅音が片手を上げる。
「おはようございますですわ、魅音さん、レナさん」
「おはよう、沙都子ちゃん。梨花ちゃんも」
「みー。おはようなのです」
圭一は二人を見たあと、魅音を見る。
「……小学生?」
「そうだけど?」
「お前ら知り合いなのか?」
「知り合いどころか、同志であり、仲間であり...ライバルでもある関係だね」
「は?」
圭一は目を瞬かせた。魅音の言っていることは圭一は余計なことが入ってるので、分からなかったがこんなにも距離が近いものなのか。
「いや待て。小学校と中学校だろ?」
「学校は別でも、放課後は一緒なんだよ。雛見沢から通ってる連中は昔から年齢関係なくつるんでるしな」
「昔の分校の名残みたいなものかな。かな」
レナが補足する。
梨花は圭一をじっと見上げた。
「圭一、なのですか?」
「え? なんで俺の名前知ってるんだ?」
「転校生が来ると魅ぃから聞いたのですよ」
「情報回るの早いな……」
「にぱー☆」
無邪気な笑顔を向けられ、圭一は何とも言えない顔をした。
一方、沙都子は腕を組んで圭一を見上げている。
「ふーん。あなたが噂の転校生なのですわね」
「噂ってなんだよ」
「魅音さん曰く、東京から来た生意気そうな男子だとか」
「おい魅音!」
「いやー、おじさんそんなこと言ったかな?」
「この感じ、絶対言っただろ!」
レナがくすくす笑い、梨花も楽しそうに見ている。圭一は着任初日の朝から、早くも妙な連中に囲まれてしまったらしい。
「ところで圭一さん」
沙都子が突然、にやりと笑った。
「運動には自信がおありで?」
「ん?」
「沙都子ちゃん、やめようよ...圭一くん来たばかりだし...」
レナの言葉とは裏腹に、魅音は明らかに面白がっている。
「いやいや、ここは転校生の実力を見るところでしょ?」
「何の実力だよ」
「それは放課後のお楽しみってことで」
魅音は圭一の背中を叩くと、そのまま中学校の校舎へ歩き出した。
「ほら、圭ちゃん。遅れる!遅れる!」
「あ、おい待て!」
圭一は慌てて後を追う。
その時だった。
足元が僅かにふらついた。
「……ん?」
一瞬だけ視界が霞んだ。頭の奥が妙に熱い。昨日の疲れが残っているのだろうか。そう考え、圭一は軽く額を押さえた。
「圭一くん?」
レナが振り返る。
「いや、なんでもない。ちょっと寝不足かも」
「引っ越し大変だったもんね」
「まあな」
圭一はすぐに歩き出した。
その時は、まだ本当にそれだけだと思っていた。
けれど身体の奥では、昨日蜘蛛に噛まれた場所を起点にして、何かが静かに広がり始めていた。