それから十数分後。
圭一は、興宮警察署の一室へ通されていた。
もっとも、自由に署内へ入れてもらえたわけではない。大石が事情を説明し、ほかの警察官による確認を受けたうえで、ひとまず別室で話を聞いてもらえることになったのである。
部屋の中には小さな机と椅子が置かれ、壁際には二人の警察官が控えていた。
圭一は椅子に腰を下ろし、正面に座る大石を見つめた。
「……いやぁ、何というか」
「何です?」
「思ったより大事になっちゃったなって」
「そりゃあ、そうでしょう」
大石は、にっこりと笑った。
「警察署の二階に、突然、壁を這う正体不明の人物が現れたんですからねぇ」
「……まあ、そうだよね」
圭一は苦笑した。大石は机の上に手帳を置き、少しだけ身を乗り出した。
「……さて、スパイダーマンさん。そろそろ本題に入りましょうか」
「……ああ」
「昨日の事件について、お話があるとか?」
「そうなんだ」
圭一は頷いた。
「今朝のニュースで、間宮律子って女が警察に捕まったって聞いてさ」
「……ほう」
「昨日、僕が戦った相手なんだ。だから、ちょっと聞きたいことがあって」
大石は静かに頷いた。
「……なるほどねぇ」
そして、手帳を開いた。
「では、まずこちらからお聞きしましょうか。昨日、あの場所で何があったんです?」
「……え?」
「いやぁ、こちらとしても分からないことが多いんですよ。突然、街中で異様な姿の女性が暴れ始めたかと思えば、今度はあんたまで現れた」
大石は、圭一へ視線を向けた。
「しかも、二人とも普通では考えられないような動きをしていた。私も現場で拝見しましたが、到底信じられない光景でしたねぇ」
「……ははは」
圭一は乾いた笑いを漏らした。
「まあ、ちょっと派手だったかな?」
「ちょっと、ですか」
大石は小さく笑った。
しかし、その目は真剣だった。
「……では、順番に聞かせていただきましょう。まず、あの女性とは以前から面識があったんですか?」
「いや、昨日が初めてだよ」
「……本当に?」
「ああ。名前だって、今朝のニュースで初めて知ったんだ」
「……なるほど」
大石は手帳に何かを書き込んだ。
「では、どうしてあの女と戦うことになったんです?」
圭一は少し考えた。
そして、昨日の出来事を説明し始めた。
再開発地区で異様な姿の女に遭遇したこと。彼女が周囲の建物や道路に被害を与えていたこと。圭一が止めようとしたところ、女が激しく抵抗し、そのまま戦闘になったこと。
大石は時折質問を挟みながら、黙って話を聞いていた。
「……なるほどねぇ。それで、女性の身体は最初からあのような姿だったと?」
「ああ。大きな尻尾があって、爪も伸びてた。力も相当なもんだったよ」
「……ふむ」
「しかも、妙に回復が早いんだ。普通なら動けなくなりそうな攻撃を受けても、すぐに立ち上がってくる。こっちも結構苦労したよ」
大石は眉を寄せた。
「……その辺りは、昨日現場にいた者からも報告を受けています。しかし、何とも奇妙なお話ですねぇ」
「だろ?」
圭一は頷いた。
「でも、もっと変なのはその後なんだ」
「……その後?」
「あいつ、最後には人間の姿へ戻ったんだよ」
大石の手が止まった。
「……戻った?」
「そう。尻尾も爪も、だんだん元に戻っていってさ。警察が来た頃には、もう普通の女の人みたいになってた」
「……なるほど」
大石は、しばらく考え込んだ。
昨夜、警察が身柄を確保した女性は、現在も普通の人間と変わらない姿をしている。しかし、その状態だけでは、現場で目撃された異常な姿を説明できなかった。
「……いやぁ」
大石は、ゆっくりと息を吐いた。
「ますます分からなくなってきましたねぇ」
「……僕も同じだよ」
圭一は肩を竦めた。
「だから、本人に聞いてみたいんだ」
「……本人?」
「間宮律子。あの女に、どうしてあんな身体になったのか聞いてみたいんだよ」
大石は静かに圭一を見つめた。
「……なるほどねぇ」
そして、少しだけ笑みを深くした。
「つまり、あんたは間宮律子に会わせてほしいと?」
「……うん」
圭一は頷いた。
「できればね」
「……そう簡単にはいきませんよ」
大石の返答は、予想通りだった。
「間宮律子は現在、昨日の事件の重要な関係者として警察の管理下にあります。いくら現場にいた人物だからといって、突然現れた正体不明の方を会わせるわけにはいきません」
「……まあ、そうだよね」
圭一は頭を掻いた。
「ましてや、あんた自身の身元も分かっていませんからねぇ」
大石は、にっこりと笑った。
「こちらとしては、まずスパイダーマンさんについても、詳しく事情を伺いたいところなんですが」
「……うっ」
圭一は、思わず身を引いた。
予想していたとはいえ、やはりこの展開は避けられないらしい。
「……いやぁ、正体についてはちょっと……」
「……ちょっと?」
「ほら、色々あるんだよ。ヒーローって」
「……んっふっふっふ」
大石は小さく笑った。
「なるほど。正義の味方にも、秘密があるというわけですか」
「……そういうこと」
「……しかしねぇ」
大石は手帳を閉じた。
「秘密を持っている方に、警察の情報だけ教えろと言われましても、こちらとしては困るんですよ」
「……ああ」
圭一は小さく頷いた。
確かに、その通りだった。自分の正体は明かさない。しかし、警察が把握している事件の情報は知りたい。これでは、あまりに都合がよすぎる。
圭一は、少し考え込んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……じゃあ、一つだけ教えてもいいかな」
「……ほう?」
大石は顔を上げた。
「何でしょう?」
「北条鉄平って男、知ってるよね?」
その名前を聞いた瞬間。
大石の目が、僅かに細くなった。
「……北条鉄平?」
「うん」
圭一は頷いた。
「前に、そいつとも戦ったことがあるんだ」
大石は、すぐには答えなかった。
「……それはまた、興味深いお話ですなぁ」
「……だろ?」
圭一は少し身を乗り出した。
「大きな角のついた、灰色の装甲を着てたんだ。ものすごい力で、工事現場をめちゃくちゃにしてさ」
「…………」
大石は、静かに圭一を見つめていた。
その事件については、大石も以前から関心を持っていた。工事現場で起きた不可解な騒動。通常の事故として扱われたにもかかわらず、証言や現場の状況には説明のつかない部分があった。
しかも、捜査には通常とは異なる制約が掛かっていた。
大石は、その理由をまだ掴みきれていなかったのである。
「……あんた、あの現場にもいたんですか」
「……ああ」
「……なるほどねぇ」
大石は、ゆっくりと頷いた。
「それで、北条鉄平がどうしたというんです?」
「……そいつも、普通じゃない力を持ってたんだよ」
圭一は答えた。
「昨日の女とはちょっと違うけどさ。どっちも人間離れした力を持ってた。だから、何か繋がりがあるんじゃないかと思って」
「……繋がり?」
「ああ。鉄平の装備を作った奴と、間宮律子をあんな身体にした原因。もしかしたら、同じところに繋がってるんじゃないかって」
大石は、しばらく黙っていた。そして、手帳を開いた。
「……それは、あんたの推測ですか?」
「……うん。今のところはね」
「……なるほど」
大石は頷いた。
「では、二人が実際に関係している証拠は、まだないわけですな」
「……そういうこと」
圭一は肩を竦めた。
「だからこそ、調べたいんだよ」
大石は、静かに圭一を見つめていた。昨夜の事件について具体的な証言を持ち、さらに鉄平の事件にも関わっているという人物。しかも、その両方で普通では考えられないような力を持つ相手と戦っている。
簡単に信用できる存在ではない。だが、話を聞く価値はある。
「……いやぁ」
大石は、小さく息を吐いた。
「これは、なかなか厄介なお客さんが来たものですねぇ」
「……へ?」
「いえいえ、こちらの話です」
大石は笑った。そして、しばらく考え込んだ後、椅子から立ち上がった。
「……少し、確認してきましょう」
「……確認?」
「ええ。あんたのお話を踏まえて、こちらでも判断する必要がありますから」
「……じゃあ!」
圭一は思わず身を乗り出した。
「間宮律子に会わせてもらえるの!?」
「まだ、そう決まったわけじゃありませんよ」
大石は、にっこりと笑った。
「何しろ、警察署というのは、あんたが思っているほど融通の利く場所ではありませんからねぇ」
「……そっか」
圭一は小さく肩を落とした。
大石は扉へ向かいながら、振り返った。
「……それと、スパイダーマンさん」
「ん?」
「こちらが確認している間は、大人しく待っていてくださいよ?」
「……ああ。分かってる」
「窓から勝手に出ていったりもしないでくださいねぇ」
「……しないって!」
大石は小さく笑い、部屋を出ていった。残された圭一は、椅子へ深く腰を下ろした。壁際には、相変わらず警察官が控えている。どうやら、簡単に自由にしてもらえるわけではなさそうだった。
「……ったく」
圭一は小さく呟いた。
「ヒーローが警察署へ来るのも、楽じゃねえなぁ……」
その声に、警察官の一人がちらりと圭一を見た。圭一は慌てて姿勢を正した。
「……あ、どうも」
しかし、警察官は何も答えなかった。ただ、少し困惑した様子で圭一を見つめている。圭一は、マスクの下で苦笑した。
どうやら、今朝のニュースで見たキャプテン・トミタケのように、堂々と振る舞うのはまだ難しいらしい。
§
しばらくして、大石が戻ってきた。
「……お待たせしましたねぇ」
圭一は顔を上げた。
「……どうだった?」
大石は椅子に腰を下ろした。
「まず、間宮律子は今のところ、人と話ができる状態にはあります。ただし、昨日の事件については、まだ調べている最中です」
「……ああ」
「それに、あの女性自身も、あまり協力的とは言えませんでねぇ」
大石は苦笑した。
「こちらから何を聞いても、なかなか話してくれないんですよ」
「……なるほど」
圭一は頷いた。昨日のあの女の態度を思い出せば、想像はつく。
「……それで?」
圭一は身を乗り出した。
「会えるの?」
大石は、少し間を置いてから口を開いた。
「……短時間だけなら、話をしていただくことになりました」
「……おっ!」
圭一は思わず拳を握った。
「本当!?」
「ええ。ただし、誤解しないでくださいよ。あんたを自由に面会させるということではありません」
大石は人差し指を立てた。
「こちらも同席しますし、質問の内容によっては話を止めさせていただきます。間宮律子本人が拒否した場合も、そこで終了です」
「……ああ。分かった」
「それと、勝手に相手へ触れたりしないこと。こちらの指示には必ず従ってください」
「もちろん!」
圭一は頷いた。大石は、しばらく彼を見つめていた。そして、小さく笑った。
「……では、行きましょうか」
圭一は椅子から立ち上がった。昨日、あれほどの激闘を繰り広げた相手と、今度は警察署の中で向かい合う。
何とも奇妙な話だった。しかし、圭一には確かめたいことがある。間宮律子がどうしてあんな身体になったのか。そして、北条鉄平との間に何らかの繋がりがあるのか。その答えが、ようやく手の届くところにあるのかもしれなかった。
廊下へ出ると、圭一は思わず辺りを見回した。
興宮警察署の内部に入るのは、もちろん初めてである。壁には事件防止の標語や指名手配犯の似顔絵が貼られ、奥の部屋からは電話のベルや人の話し声が聞こえていた。
もっとも、圭一が興味深そうに周囲を眺めているのとは対照的に、すれ違う警察官たちは例外なく驚いた様子を見せていた。
「……大石さん」
「……何でしょう?」
「何か、みんな俺のこと見てない?」
「そりゃあ、見ますよ」
大石は平然と答えた。
「何しろ、こんな格好のお客さんが来るのは初めてですからねぇ」
「……そっか」
圭一は小さく肩を落とした。それでも、昨日のような戦闘をするわけではない。今日の目的は、あくまでも話を聞くことである。圭一は気を取り直し、大石の後を追った。やがて、二人は廊下の奥にある一室の前で足を止めた。扉の脇には警察官が立っている。
大石が声を掛けると、警察官は小さく頷き、扉を開けた。
「……では、スパイダーマンさん」
「……ああ」
圭一は頷いた。そして、ゆっくりと室内へ足を踏み入れた。部屋の中は、思っていたよりも狭かった。灰色の壁に、向かい合わせの机と椅子。天井の蛍光灯が、室内を白く照らしている。奥には二人の警察官が控えており、圭一が入ってくると、その視線が一斉に向けられた。
そして、机の向こう側には、一人の女が座っていた。
間宮律子。昨日、リザードウーマンとなって圭一と戦った女性である。もっとも、今の彼女からは、昨夜の怪物を想像することは難しかった。
髪は乱れ、顔には疲労の色が濃く残っている。腕には医療用の布が巻かれ、身体の急な変化に備えて、警察官たちが慎重に様子を見守っていた。
しかし、その目だけは昨日と変わらなかった。鋭く、攻撃的で、周囲の人間を強く警戒している。
「……何だい、また来たのかい」
女は不機嫌そうに口を開いた。
「さっきから同じことばっかり聞きやがって。もう話すことなんかないって言ってるだろ」
「まあまあ、そうおっしゃらずに」
大石は穏やかに答えた。
「今日は、ちょっと変わった方が来ておりましてねぇ」
「……変わった?」
律子は眉を寄せた。
そして、大石の背後へ視線を向けた。
そこに立っていたのは、赤と青のスーツを着た人物だった。
「…………」
女の表情が固まった。
次の瞬間。
「――あんたッ!!」
律子は勢いよく身を乗り出した。
椅子が大きな音を立てる。
「何であんたがここにいるんだよッ!?」
「うおっ!?」
圭一は思わず後ずさった。
「ちょ、ちょっと! 落ち着いてって!」
「落ち着けるわけないだろッ!!」
律子は圭一を睨みつけた。
「昨日、散々人の邪魔しやがって……! 今度は警察まで連れてきたってのかい!?」
「いやいや! 僕は別に警察の人間じゃないって!」
「だったら何しに来たんだよ!」
「……ちょっと話を聞きに来ただけだよ!」
「ふざけんじゃないよッ!!」
律子が再び身を乗り出そうとしたところで、大石が机を軽く叩いた。
「……間宮さん」
穏やかな声だった。しかし、その響きには、明確な制止の意思が込められていた。
「落ち着いてください。ここは警察署ですよ」
「……っ!」
律子は舌打ちした。しばらく圭一を睨んでいたが、やがて椅子の背へ身体を預けた。
「……何だってんだよ、まったく」
大石は、ゆっくりと圭一へ目を向けた。
「……では、スパイダーマンさん」
「……あ、ああ」
「お話をどうぞ。ただし、こちらも同席させていただきますからね」
「……分かった」
圭一は頷いた。そして、律子の正面に腰を下ろした。昨日は、あれほど巨大な怪物として圭一を追い詰めた女である。それが今は、普通の人間と変わらない姿で目の前に座っている。その事実が、圭一にはどうにも不思議だった。
「……まず、一つ聞きたいんだけど」
圭一は、できるだけ落ち着いた声で口を開いた。
「昨日のあれ、一体何だったの?」
「……は?」
「ほら、あの身体だよ。尻尾が生えて、爪が伸びて、まるでトカゲみたいになってたじゃないか」
律子の表情が険しくなった。
「……知らないね」
「いやいや。知らないってことはないでしょ?」
圭一は肩を竦めた。
「実際にああなってたんだからさ。こっちは何度も追いかけ回されて、大変だったんだよ?」
「……あんたが勝手に首突っ込んできたんだろ」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
圭一は少し身を乗り出した。
「でも、あんな身体になるなんて普通じゃない。何か理由があるはずだよね?」
「…………」
律子は答えなかった。
ただ、圭一を睨みつけている。圭一は少し考えた。真正面から聞いても、簡単には答えてくれないらしい。それなら、別のところから話を始めた方がよさそうだった。
「……じゃあ、話を変えようか」
圭一は椅子に座り直した。
「北条鉄平って男、知ってるよね?」
その瞬間。
律子の目が、僅かに動いた。
「…………」
圭一は、その変化を見逃さなかった。
「……やっぱり」
「……何がやっぱりだい」
「いや、ちょっとね」
圭一は軽く笑った。
「前に、その人とも会ったことがあるんだ」
「…………」
「大きな角を生やして、灰色の鎧みたいなのを着た男でさ。ものすごい力だったよ」
律子は黙っていた。しかし、その表情は明らかに変わっていた。
「……あいつ」
やがて、律子が小さく呟いた。
「……また余計なことしやがって」
圭一は目を細めた。
「……やっぱり知ってるんだ」
「……ふん」
律子は顔を逸らした。
「知らないとは言ってないだろ」
「……なるほどね」
圭一は頷いた。そして、大石へちらりと目を向けた。大石は何も言わずに二人の会話を聞いていた。ただし、机の上には手帳が置かれ、時折、何かを書き込んでいる。
「……それでさ」
圭一は再び律子へ向き直った。
「鉄平さんと、あんたはどういう関係なの?」
「……別に。昔からの知り合いだよ」
「それだけ?」
「それだけさ」
律子は吐き捨てるように言った。圭一は、少しだけ考え込んだ。少なくとも、二人が互いを知っていたことは分かった。
しかし、それだけでは、異常な能力との繋がりは説明できない。
「……じゃあ、もう一つ」
圭一は、ゆっくりと口を開いた。
「鉄平さんが、あんな装備を持ってたことは知ってる?」
律子は眉を寄せた。
「……何だい、あんな装備って」
「さっき言ったでしょ。大きな角がついた、灰色の鎧みたいなやつだよ。普通の人間じゃ考えられないような力を出せるんだ」
「……ふん」
律子は鼻を鳴らした。
「……あいつも随分と調子に乗ってるんだね」
「……あいつも?」
圭一は、すぐに聞き返した。律子は口を閉じた。
「……何でもないよ」
「いやいや、今の言い方、ちょっと気になるんだけど」
「うるさいね。何でもないって言ってるだろ」
律子は顔を逸らした。圭一は、それ以上追及しなかった。無理に問い詰めたところで、かえって口を閉ざしてしまうかもしれない。今は、彼女が何に反応するのかを確かめる方が先だった。
「……まあ、いいや」
圭一は肩を竦めた。
「でも、あんたも鉄平さんも、普通じゃない力を持ってたんだよね。偶然にしては、ちょっと出来すぎじゃない?」
「…………」
「何か、共通点があるんじゃないの?」
「……あんたには関係ないだろ」
「関係あるよ」
圭一は即座に答えた。
「昨日、あんたが街で暴れたせいで、大勢の人が危ない目に遭ったんだ。それに、鉄平さんも同じような力を持ってた。もしほかにもそんな人がいるなら、また同じことが起きるかもしれない」
圭一は、少しだけ声を落とした。
「……だから、知りたいんだ」
律子は圭一を睨んだ。
「……正義の味方気取りかい」
「……まあ、そういうことになるのかな」
圭一は軽く肩を竦めた。
「一応、スパイダーマンって名乗ってるからね」
「……ふん」
律子は鼻で笑った。
「……馬鹿みたいだね」
「よく言われるよ」
圭一は即答した。その軽口に、律子は一瞬言葉を詰まらせた。大石も、僅かに口元を緩めたが、すぐに手帳へ視線を戻した。
「……もう一つ、聞きたいことがあるんだ」
圭一は話を続けた。
「……何だい」
「昨日、あんた、園崎って言ってたよね?」
律子の表情が変わった。今度は、明らかに不快そうな顔だった。
「……園崎?」
「うん。園崎家。あんた、あの名前を口にしてたんだ」
「…………」
「何か関係があるの?」
しばらく圭一を睨んでいた。しかし、やがて小さく笑った。それは先ほどまでの怒りとは違う、どこか皮肉を込めた笑みだった。
「……関係?」
律子はゆっくりと顔を上げた。
「あるに決まってるだろ」
「……へえ?」
圭一は身を乗り出した。
「どんな?」
「……あんた、興宮のことをどれだけ知ってるんだい?」
突然の問いだった。圭一は目を瞬かせた。
「……興宮?」
「そうさ」
律子は鼻を鳴らした。
「この街が、ここ数年でどれだけ変わったと思ってるんだい」
圭一は少し考えた。確かに、興宮は急速に発展している。高層ビル。再開発地区。新しい商業施設。ダム事業や研究施設への投資によって、多くの企業が進出してきた街である。
「……まあ、随分と景気がいいみたいだね」
圭一が答えると、律子は笑った。
「……景気がいい、ねぇ」
その声には、明らかな棘があった。
「そりゃ、景気がいい奴らにはそう見えるだろうさ」
「……?」
「園崎の連中なんか、いい例だよ」
律子は顔を歪めた。
「あいつら、昔からこの辺じゃ顔が利いてたけどさ。今じゃ再開発だの新しい企業だの、何にでも首突っ込んでるじゃないか」
大石は黙っていた。圭一も、口を挟まなかった。
「新しい道路ができりゃ、その周りの土地が値上がりする。ビルが建ちゃ、工事や店に金が動く。で、そういう仕事は、結局顔の利く連中のところへ集まるのさ」
「……園崎家が、全部持っていったってこと?」
圭一が尋ねると、律子は鼻で笑った。
「全部とは言わないさ。でも、あいつらが大きくなればなるほど、昔からこの辺で小銭を稼いでた連中の居場所はなくなるんだよ」
「……なるほど」
「鉄平みたいなのは、まさにそうさ」
律子は吐き捨てるように言った。
「あの男、昔からろくな仕事もしてなかったけどね。それでも、ちょっとした金になる話くらいは転がってたんだ。ところが再開発が進んで、会社だの組合だのが幅を利かせるようになったら、そういう話も減っちまった」
「……ふぅん」
圭一は腕を組んだ。
「でも、それって園崎家が悪いって話なの?」
「……何?」
律子が眉を寄せた。圭一は肩を竦めた。
「いや、だってさ。あんたたちの仕事が減ったのは分かったけど、だからって園崎家が悪いことをしたとは限らないでしょ?」
「……っ!」
律子の表情が険しくなった。
「……何も知らないくせに!」
「そうだよ。だから聞いてるんだ」
圭一は静かに答えた。その言葉に、律子は一瞬黙った。
「……ちっ」
やがて、彼女は舌打ちした。
「……まあ、いいさ」
律子は椅子の背へ身体を預けた。
「とにかく、鉄平もあたしも、あいつらの下で頭下げて生きていくつもりはなかったんだよ」
「……なるほどね」
圭一は小さく頷いた。放課後、詩音が話していたことを思い出す。再開発が進めば、利益を得る者もいれば、仕事を失う者もいる。間宮律子もまた、そうした変化に不満を抱いていた一人なのだろう。
しかし、だからといって園崎家に実際の非があったとは限らない。少なくとも、今の彼女の話だけでは判断できなかった。
「……それで?」
圭一は尋ねた。
「……何が?」
「仕事が減ったって話だよ。あんたたち、その後どうしたの?」
律子は、しばらく圭一を見つめていた。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……ある話が来たのさ」
「……ある話?」
律子は一度、大石へ目を向けた。大石は相変わらず、静かに話を聞いている。その視線を確認してから、律子は少しだけ声を落とした。
「……研究の協力者を探してるって話だよ」
圭一は眉を寄せた。
「……研究?」
「ああ」
律子は頷いた。
「身体の検査だとか、新しい薬の試験だとか、そんな話だった」
圭一は、思わず大石へ視線を向けた。大石もまた、手帳へ何かを書き込んでいた。
「……それで、あんたは参加したの?」
「……そうさ」
律子は答えた。
「報酬がよかったんだよ。普通に働くより、ずっとね」
「……なるほど」
圭一は小さく頷いた。しかし、その言葉には引っ掛かるものがあった。研究の協力者。身体の検査。新しい薬の試験。それらは、普通なら医学の研究で耳にするような話である。
だが、目の前の女性が昨日どんな姿になっていたのかを思い出せば、単なる健康診断だったとは考えにくい。
「……じゃあ、鉄平さんも?」
圭一が尋ねると、律子は肩を竦めた。
「さあね。あいつも似たような話に乗ったんだろうさ」
「……だろうさ?」
「詳しいことまでは知らないよ。あたしとあいつは、別に何でも話す仲じゃないんだから」
「……ふぅん」
圭一は腕を組んだ。少なくとも、鉄平が同じ研究に参加していたと確認できたわけではない。律子自身も、そこは曖昧にしか知らないらしい。
ただ、彼女の口から鉄平と研究の話が続けて出てきたことは、無視できなかった。
「……それで、あんたはその研究で何をしたの?」
圭一は尋ねた。
律子は、不機嫌そうに顔をしかめた。
「……検査だって言っただろ」
「いや、具体的にさ。何を調べられたの?」
「……知らないよ。身体のあちこち調べられて、薬を使われたりもした。それだけさ」
「……薬?」
圭一は眉を寄せた。
「何の薬?」
「そんなこと、あたしが知るわけないだろ!」
律子は声を荒らげた。
「最初に聞いたのは、新しい医療技術の研究だって話だったんだよ。難しい説明ばっかりされただけ」
圭一は、思わず口を閉じた。大石が静かに問い掛けた。
「……間宮さん。その時、身体に何か変わったことはありましたか?」
律子は、大石を睨んだ。しかし、しばらくしてから自分の手へ視線を落とした。
「……最初は、何ともなかったよ」
その声は、先ほどまでより少し低かった。
「何度か検査を受けて、金を貰って、それで終わりだと思ってた。ところが、そのうち身体の調子が変わり始めたんだ」
圭一は、黙って彼女を見つめた。
「……調子が変わった?」
「ああ。疲れにくくなったり、前より力が出るようになったりね。最初は、むしろ調子がよくなったと思ったくらいさ」
「……それが、あんな姿に?」
律子は答えなかった。その代わり、机の上へ視線を落とした。
「……ある時から、自分でもどうなってるのか分からなくなった」
先ほどまでの攻撃的な声とは違っていた。怒りでも、皮肉でもない。どこか、自分自身の身体を恐れているような響きがあった。
圭一は、昨日の戦闘を思い出した。
巨大な尻尾。
鋭い爪。
異常な回復力。
そして、最後には人間の姿へ戻っていったこと。あれが、研究によって引き起こされた変化だというのか。
「……それで、研究してた人たちは何て言ったの?」
圭一は尋ねた。律子は鼻で笑った。
「……経過観察が必要だってさ」
「……経過観察?」
「ああ。しばらく施設に残れだの、検査を続けろだの、好き勝手言いやがって」
「……でも、あんたは出てきた」
「当たり前だろ!」
律子は声を荒らげた。
「あたしは金を貰って検査を受けるって話だったんだ! 一生あいつらの言いなりになるつもりなんかなかったんだよ!」
「……なるほど」
圭一は静かに頷いた。
しかし、疑問は残った。
身体に異常が起きていたなら、検査を続ける必要があったのかもしれない。
一方で、本人に詳しい説明をしないまま、施設に留まるよう求めたのだとすれば、それもまた奇妙な話だった。
どちらが正しいのか、今の圭一には判断できない。
「……なあ、間宮さん」
圭一は、少しだけ声を落とした。
「その人たち、どうしてあんたの身体が変わったのか、説明してくれなかったの?」
「……さあね」
律子は顔を逸らした。
「何か色々言ってたけど、結局あたしに分かるような説明なんかなかったよ。まだ調べる必要があるだの、しばらく様子を見ろだの……」
「……そっか」
圭一は小さく頷いた。
少なくとも、彼女自身も自分の身体に何が起きたのか、完全には理解していないらしい。
そこで、大石が口を開いた。
「……間宮さん」
「……何だよ」
「その施設について、もう少し詳しく教えていただけませんかねぇ」
律子は黙った。
大石は穏やかに続けた。
「場所でも、名前でも構いません。覚えていることがあれば、ぜひ聞かせていただきたいんですが」
「…………」
律子は、しばらく俯いていた。
そして、小さく呟いた。
「……ダムの近くさ」
圭一の身体が、僅かに強張った。
「……ダム?」
「ああ」
律子は顔を上げた。
「山の方に、でっかい研究所があるだろ」
その瞬間、圭一の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。
ダム湖。
その近くに建てられた巨大な研究施設。
以前、レナと訪れた湖畔で出会った、一人の女性。
鷹野三四。
自分の蜘蛛の糸の研究について、親切に助言してくれた研究者である。
「……まさか」
圭一は、思わず小さく呟いた。
律子が眉を寄せた。
「……何だい?」
圭一は、少しだけ考えた。
そして、慎重に口を開いた。
「……その研究所って」
「……ああ?」
「鹿骨総合生体科学研究所?」
律子の表情が変わった。
「……何だい」
その声には、明らかな警戒が混じっていた。
「……あんた、知ってるのかい?」
圭一は答えなかった。
代わりに、もう一度尋ねた。
「……そこに通ってたの?」
律子は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……ああ」
小さく頷いた。
「……何度かね」
圭一は、言葉を失った。
鹿骨総合生体科学研究所。
間宮律子が、あの施設に通っていた。
それまで、圭一が研究所を疑っていた理由は、あくまでも推測にすぎなかった。
異常な身体能力。
高度な技術。
そして、近隣に存在する大規模な研究施設。
その三つが、漠然と結びついているように感じていただけだったのである。
しかし、今は違う。
目の前の女性が、自らあの研究所へ通っていたと証言している。
もちろん、それだけで研究所が昨日の事件を引き起こしたと証明されたわけではない。彼女の身体に起きた変化が、具体的にどの研究によるものだったのかも分からない。
それでも、初めて確かな手掛かりらしいものが得られたことになる。
「……鹿骨総合生体科学研究所、ですか」
大石が、ゆっくりとその名前を繰り返した。
彼は手帳に何かを書き込み、律子へ視線を向けた。
「間宮さん。確認させてください。今おっしゃった研究所で、実際に検査や試験を受けたということで間違いありませんね?」
「……ああ」
「では、その研究の内容や担当者について、何か覚えていませんか?」
「……知らないよ」
律子は不機嫌そうに答えた。
「向こうは色々説明してたけど、あたしは金を貰うために行ってたんだ。研究者の名前なんか、一々覚えてないさ」
「……なるほど」
大石は、それ以上追及しなかった。
ただし、手帳へ書き込む手は止めなかった。
圭一は、俯いた律子を見つめていた。
あの研究所。
そして、鷹野三四。
以前、彼女は圭一の研究に興味を示し、色々と助言してくれた。
その時の親切な態度を思い出すと、どうしても目の前の話と結びつかなかった。
あの女性が、こんな研究について知っているのだろうか。
そもそも、本当に同じ施設で行われた研究なのだろうか。
圭一は、しばらく考え込んだ。
しかし、ここで鷹野の名前を出すことはしなかった。
彼女が事件に関わっているという証拠は、まだ何もないのだから。
「……それでさ」
圭一は、もう一度律子へ向き直った。
「北条鉄平も、そこへ通ってたの?」
律子は眉を寄せた。
「……だから、知らないって言ってるだろ」
「……そっか」
「ただ、あいつも金になる話には目がない男だからね。似たような話に乗ったとしても、不思議じゃないだろうさ」
「……なるほど」
圭一は頷いた。
鉄平が研究所に関係しているかどうかは、依然として不明だった。
しかし、もし鉄平も同じような研究に参加していたのなら。
あるいは、あの装備を作った人間が研究所と関係しているのなら。
二つの事件は、一つの場所へと繋がることになる。
「……もう一つだけ、いいかな」
圭一は尋ねた。
律子は面倒そうに顔を上げた。
「……何だよ、まだあるのかい」
「昨日、あんたが街で暴れてた理由だよ」
圭一は、彼女を見つめた。
「何か探してるみたいだったけど、何が目的だったの?」
律子の表情が変わった。
「…………」
「研究所から出てきた後、どうしてあんなところへ行ったの?」
「……あんたには関係ないだろ」
「いや、関係あるよ」
圭一は静かに答えた。
「昨日、あんたが暴れたせいで、関係ない人まで危ない目に遭ったんだ。何があったのかくらい、知りたいんだよ」
「……っ!」
律子は圭一を睨みつけた。
しかし、今度はすぐに言い返さなかった。
しばらく沈黙が続いた後、彼女は顔を逸らした。
「……話したくないね」
圭一は、少しだけ考え込んだ。
これ以上聞いても、今は答えてくれそうにない。
「……分かったよ」
圭一は、小さく頷いた。
「今は、それ以上聞かない」
律子は、少しだけ意外そうに圭一を見た。
しかし、すぐに顔を逸らした。
「……ふん」
圭一は椅子へ背中を預けた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……でもさ」
「……何だい」
「金が欲しかったのは分かった。園崎家が気に入らないのも、まあ、あんたの勝手だと思う」
圭一は続けた。
「でも、昨日みたいなことをしていいわけじゃないよね」
律子の表情が険しくなった。
「……何?」
「昨日、あんたが暴れたせいで、関係ない人まで危ない目に遭ったんだ」
「……っ!」
「それは、違うだろ」
律子は圭一を睨んだ。
しかし、今度はすぐに言い返さなかった。
圭一も、それ以上は何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、律子は小さく呟いた。
「……うるさいね」
その声は、先ほどまでよりもずっと小さかった。
大石は、二人の様子を静かに見つめていた。
そして、やがて手帳を閉じた。
「……さて」
大石は椅子から立ち上がった。
「今日は、この辺りにしておきましょうか」
「……ああ」
圭一も頷いた。
「……間宮さん」
大石は、律子へ向き直った。
「今のお話については、こちらでも確認させていただきます。また何か思い出したことがあれば、教えてくださいねぇ」
「……勝手にしな」
律子は顔を逸らした。
大石は小さく頷き、圭一を促した。
「……では、スパイダーマンさん」
「……うん」
圭一は立ち上がった。
そして、扉へ向かいかけたところで、一度だけ振り返った。
間宮律子は、相変わらず机の向こう側に座っていた。
今の彼女は、昨日の巨大な怪物ではない。
ただ、疲れ切った一人の女性だった。
もっとも、それで昨日の事件がなかったことになるわけではない。
圭一は、しばらく彼女を見つめた。
そして、小さく口を開いた。
「……じゃあね」
律子は答えなかった。
ただ、圭一を一瞥すると、再び顔を逸らした。
圭一は、それ以上何も言わずに部屋を出た。
§
廊下へ出ると、圭一はゆっくりと息を吐いた。
「……いやぁ」
思わず、そんな声が漏れた。
「……なかなかすげえ話だったな」
「……そうですねぇ」
隣を歩く大石も頷いた。
「実に興味深いお話が聞けました」
「……ああ」
圭一は、少し考え込んだ。
間宮律子。
北条鉄平。
そして、鹿骨総合生体科学研究所。
今まで別々に存在していた疑問が、ようやく繋がり始めたように感じられた。
しかし、同時に分からないことも増えている。
「……なあ、刑事さん」
「……何でしょう?」
「あの研究所のこと、警察は調べるの?」
大石は、ゆっくりと圭一へ目を向けた。
「……さて、どうでしょうねぇ」
「……え?」
「もちろん、今のお話を無視するわけにはいきません。ただ、間宮律子の証言だけでは、まだ分からないことも多いですから」
「……そっか」
圭一は頷いた。
大石は続けた。
「そもそも、研究所へ通っていたこと自体は、何ら不思議な話ではありません。問題は、その研究で何が行われていたのか、ということです」
「……ああ」
「もし本当に、あの女性の身体に異常な変化が起きるような研究が行われていたのだとすれば、詳しく調べる必要がありますねぇ」
「……そうだよな」
圭一は頷いた。
しかし、そこでふと疑問が浮かんだ。
「……でもさ、刑事さん」
「はい?」
「そんな研究、普通にできるもんなの?」
大石は、少し考え込んだ。
「……私も医学について詳しいわけではありませんからねぇ。ただ、あんな身体の変化が起きるとなれば、相当特殊な研究だとは思いますよ」
「……だよなぁ」
圭一は腕を組んだ。
「それに、鉄平の野郎もいるしさ」
「……北条鉄平、ですか」
「ああ。あいつも普通じゃない装備を持ってたんだ。もしかしたら、同じところに関係してるかもしれない」
大石は、静かに頷いた。
「……可能性はありますねぇ」
そして、少しだけ声を落とした。
「ただし、スパイダーマンさん。そこは慎重に考えた方がいいですよ」
「……ん?」
「今のところ、間宮律子が研究所に通っていたという証言は得られました。しかし、北条鉄平については、まだ何も確認できていません」
「……ああ」
「二人とも普通では考えられない力を持っていたからといって、必ず同じ原因があるとは限りませんからねぇ」
圭一は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
放課後、詩音にも同じことを言われたばかりだった。
分かっていることと、まだ分からないことを混同してはいけない。
確かに、研究所への疑いは強くなった。
しかし、今の段階で事件のすべてが解明されたわけではない。
「……それにしても」
大石は、ふと足を止めた。
「一つ、気になることがありますねぇ」
「……何?」
大石は、圭一へ向き直った。
「……あんた、あの研究所をご存じだったんですか?」
圭一は、思わず言葉を詰まらせた。
「……え?」
「いやぁ、先ほど間宮律子がダムの近くの研究所について話した時、あんたはすぐに名前を挙げましたでしょう?」
「……ああ」
「随分と詳しいなぁと思いましてねぇ」
大石は、にっこりと笑った。
しかし、その目は真剣だった。
圭一は、少し考えた。
鷹野三四と出会ったことまで話す必要はない。
それに、研究所の名前自体は秘密でも何でもない。興宮に住んでいれば、知っていても不思議ではないはずだ。
「……まあ、ちょっとだけね」
圭一は肩を竦めた。
「前に、近くまで行ったことがあるんだ」
「……なるほど」
大石は、小さく頷いた。
「それで、研究所の名前をご存じだったと」
「……そういうこと」
圭一は答えた。
大石は、しばらく彼を見つめていた。
しかし、それ以上は追及しなかった。
代わりに、ゆっくりと歩き始めた。
「……いやぁ、それにしても不思議なものですねぇ」
「……何が?」
「このところ、普通では考えられないような事件が続いているでしょう?」
大石は、廊下の窓から外を眺めた。
「北条鉄平の件もそうですし、今回の間宮律子もそうです。それに、あんたのような方まで現れた」
「……ははは」
圭一は乾いた笑いを漏らした。
「まあ、そうだね」
「……世の中というのは、分からないことだらけですなぁ」
大石は小さく笑った。
しかし、次の瞬間、その表情が少しだけ変わった。
「……ところで、スパイダーマンさん」
「……ん?」
「一つ、聞いてもいいですかねぇ」
「……何?」
大石は、ゆっくりと口を開いた。
「……あんた、一体何者なんです?」
「……!」
圭一は、一瞬言葉を詰まらせた。
大石は笑っていた。
しかし、その目は真剣だった。
「壁を這い、建物の間を飛び回り、普通では考えられない力を持っている。しかも、昨日の事件だけでなく、北条鉄平の件まで知っている」
大石は続けた。
「……そんな人物が、突然警察署へ現れたんですからねぇ。こちらとしても、気にならないわけがありませんよ」
「……まあ、そりゃそうだね」
圭一は苦笑した。
「でも、正体は秘密なんだ」
「……秘密?」
「うん」
圭一は頷いた。
「ほら、正義の味方って、色々と事情があるからさ」
「……んっふっふっふ」
大石は小さく笑った。
「なるほどねぇ。では、いずれその事情も聞かせていただきましょうか」
「……ははは。考えとくよ」
圭一は乾いた笑いを漏らした。
大石は、しばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……まあ、今日のところは、ここまでにしておきましょう」
「……え?」
圭一は目を瞬かせた。
「……帰っていいの?」
「本来なら、もっと詳しく事情を聞きたいところですがねぇ」
大石は肩を竦めた。
「ただ、あんたから聞いた話は、こちらにとっても無視できないものです。今は、まずその確認を進める必要がありますから」
「……そっか」
圭一は、小さく頷いた。
「もちろん、だからといって、あんたを完全に信用したわけじゃありませんよ」
大石は、にっこりと笑った。
「……それだけは、忘れないでくださいねぇ。スパイダーマンさん」
「……了解」
圭一は頷いた。
その後、署員の立ち会いのもと、圭一は建物の外へ出ることになった。
もっとも、来た時と同じように勝手に窓から出ていくわけにはいかない。大石に案内され、署員の確認を受けてから、外へ出ることになったのである。
「……じゃあ、刑事さん」
建物の裏手に出ると、圭一は振り返った。
「今日はありがとね」
「……いえいえ」
大石は笑った。
「こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました」
「……また何か分かったら、教えるよ」
「それは助かりますねぇ」
大石は頷いた。
「……ああ、そうそう。スパイダーマンさん」
大石は何かを思い出したように足を止めた。
「……ん?まだなにか?」
「一つ、渡しておきたいものがありましてねぇ」
そう言うと、大石は背広の内ポケットから名刺入れを取り出した。
「……はい、これです」
「……名刺?」
圭一は差し出された一枚の紙を受け取った。
そこには、興宮警察署の所属とともに、大石蔵人という名前が印刷されていた。その下には、警察署の電話番号も記されている。
「……へえ。刑事さんの名刺?」
「ええ。何か分かったことがあれば、そちらへ連絡してください。私の名前を出していただければ、取り次いでもらえると思いますよ」
「……なるほど」
圭一は名刺を眺めた。
「何だか、本当に刑事さんと知り合いになっちゃったみたいだな」
「……んっふっふっふ。そうですねぇ」
大石は小さく笑った。
「もっとも、こちらとしては、まだあんたの名前すら知らないわけですが」
「……あ」
圭一は思わず顔を上げた。
大石は、にっこりと微笑んだ。
「……どうです? せっかくですから、あんたの連絡先も教えていただけませんかねぇ?」
「……いやぁ、それはちょっと」
「……おやおや。残念ですなぁ」
大石は、いかにも残念そうに肩を竦めた。
「これでは、こちらから連絡することもできませんねぇ」
「……まあ、そういうことになるかな」
圭一は苦笑した。
すると、大石は再び口元を緩めた。
「……では、仕方ありません。当面は、あんたから連絡していただくことにしましょうか」
「……了解」
圭一は頷いた。
そして、名刺を軽く掲げた。
「じゃあ、何かあったら電話するよ。刑事さん」
「ええ。お待ちしておりますよ」
大石は答えた。
しかし、圭一が名刺をしまおうとしたところで、もう一言付け加えた。
「……ただし、一つ勘違いしないでくださいねぇ」
「……ん?」
「名刺を渡したからといって、警察の捜査情報を何でもお教えできるわけではありませんよ」
「……ああ、分かってるって」
「それなら結構です」
大石は頷いた。
「……もっとも、こちらとしても、あんたから聞きたいことは色々ありますからねぇ」
「……へえ?」
圭一は首を傾げた。
「例えば?」
「……それは、またの機会に」
大石は、にっこりと笑った。
「……何だよ、それ!」
圭一は思わず声を上げた。
しかし、大石は楽しそうに笑うだけだった。
「……んっふっふっふ。では、今後ともよろしくお願いしますよ。スパイダーマンさん」
「……ったく、食えねえおっさんだなぁ」
圭一は苦笑した。
そして、もう一度名刺へ目を落とした。
興宮警察署。
大石蔵人。
今まで怪物と戦う時には、詩音や葛西の助けを借りることが多かった。しかし、事件を調べるとなれば、警察との繋がりも役に立つかもしれない。
もちろん、大石を完全に信用していいのかは、まだ分からない。
それでも、今後何かが起きた時、話を聞いてくれる相手が一人増えたのは確かだった。
「……じゃあ、刑事さん。またな!」
「ええ。お気をつけて」
大石は片手を上げた。
その表情には、いつもの人のよさそうな笑みが浮かんでいた。
しかし、大石にとっても、今回の出会いは決して無意味ではなかった。
北条鉄平。
間宮律子。
そして、鹿骨総合生体科学研究所。
警察が把握しきれていない事件の事情を、あの蜘蛛男はどこまで知っているのだろうか。
少なくとも、今後も話を聞いてみる価値はありそうだった。