昭和五十八年、六月二日。木曜日。興宮の街が、夕暮れに包まれようとしていた。
再開発地区から少し離れた住宅街。その一角に建つ四階建ての集合住宅の二階に、古手梨花と北条沙都子の暮らす部屋があった。
西の空は薄い茜色に染まり、街のあちこちに建ち並ぶビルの窓が、夕日を受けて鈍く輝いている。道路には帰宅途中の車が列をなし、遠くからは工事現場の機械音が聞こえていた。近年、急速な発展を遂げつつある興宮では、こうした光景もすっかり日常の一部となっていた。
二間の和室と、小さな台所。決して広い住まいではないが、二人で暮らすには十分だった。窓の向こうには、雛見沢の山々ではなく、幾重にも並ぶ住宅の屋根と、遠くにそびえるビル群が見えている。梨花は、その景色を静かに眺めていた。
かつて、古手家が暮らしていた家は、今ではダム湖の底に沈んでいるという。それを聞いた時、梨花は何とも奇妙な気分になったものだった。百年もの間、何度となく帰ってきたあの場所が、この世界には存在しない。その事実は、梨花にとって、興宮に並ぶどんな高層ビルよりも、この世界の異質さを感じさせるものだった。
「……ふぅ」
梨花は、開け放たれた窓の傍に腰を下ろしていた。
六月に入ったばかりとはいえ、日中は随分と暑くなってきた。もっとも、日が傾けば風も涼しくなる。開いた窓から入り込んでくる夕風は、少しばかり心地よかった。
台所からは、包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。
「……梨花ー?」
沙都子の声だった。
「はいなのです」
「お醤油はどこにしまいましたの?」
「みぃ。流しの下の棚なのですよ」
「流しの下……ああ、ありましたわ!」
再び、調理の音が聞こえ始めた。
梨花は小さく笑った。
こうしたやり取りも、随分と慣れたものだった。
二人がこの家で暮らし始めてから、既に半年以上が経過しているらしい。
らしい、というのも、梨花自身にはそのすべての記憶があるわけではなかった。
少なくとも、今ここにいる梨花が、この家で初めて目を覚ましたのは、今年の春のことだったのだから。
「…………」
梨花は、窓の外へ目を向けた。
遠くに見えるのは、興宮の新しい街並みだった。以前の梨花が知っていた興宮には、あれほど高い建物などなかった。商店街も、駅前も、住宅地も、もっと小さく、どこかのんびりとしていたはずだった。
しかし、今では違う。
街の中心部には中高層のビルが建ち並び、郊外では新しい住宅地の開発が進められている。研究施設や企業の事業所も増え、かつての地方都市とは思えないほどの賑わいを見せていた。
そして、雛見沢。
梨花が何よりも見慣れていた、あの小さな村もまた、随分と姿を変えてしまっていた。
ダム計画は中止されなかった。
村の低い土地は湖の底へ沈み、残された高台の集落には、昔ながらの家屋と新しい建物が入り混じっている。
古手神社は今も残っていたが、その周囲の景色さえ、梨花が知っていたものとは異なっていた。
まったく、奇妙な世界だった。
梨花は小さく息を吐いた。
かつて、梨花は百年にも及ぶ長い時間を過ごしてきた。
幾度となく繰り返された昭和五十八年。何度やり直しても訪れる六月の終わり。どれほど努力しても、容易には覆せなかった運命。
それでも、最後には仲間たちの力を借りて、その運命を乗り越えることができた。
ようやく手に入れた未来だった。
もう二度と、同じ時間を繰り返さなくてもいい。
そう思っていた。
しかし、その後に起きた事故によって、梨花は一度、まったく別の世界へ迷い込んだことがある。
そこでは、死んだはずの両親が生きていた。それに入江診療所は全く別の物であったし、圭一はいない。
雛見沢の歴史も、人々の関係も、梨花が知っていたものとは違っていた。誰も罪を背負っていない世界。
そして何より、オヤシロさまの生まれ変わりとされていたのは、梨花自身ではなく、母親だった。
あの世界で、梨花は一つの選択をした。
自分が生きてきた世界へ戻ること。そして、その世界で与えられた人生を、自分自身のものとして生きること。
もう、カケラの向こう側にある別の可能性ばかりを見つめる必要はない。
そう思ったはずだった。
それなのに。
「……まったく」
梨花は、この世界の歴史についても少しずつ調べていた。不思議なことに、以前の世界と共通するものは少なくなかった。オヤシロさまの祟りは存在し、雛見沢症候群も、その研究施設も存在している。そして、昭和五十四年から五十七年にかけて、四年連続で祟りが起きていた。
ただし、最初の年から違いがあった。本来ならばダム工事の現場監督が犠牲となるはずだった昭和五十四年。この世界で亡くなったのは、園崎お魎だった。
一方、二年目から四年目にかけては、梨花が知る祟りと表向きの出来事が一致していた。しかし、それらが同じ理由で起きたのか、裏側で同じ人間が動いていたのかまでは分からない。何より、研究所の規模が違っていた。かつての入江診療所とは比較にならない巨大な施設が存在し、鷹野三四がその所長を務めている。雛見沢も大きく変わっていた。ダムによって村の一部が水没し、学校は興宮へ移された。
綿流しの祭りさえ、今では興宮を中心に行われている。そして、園崎お魎がいない。かつて園崎家が利用していた、オヤシロさまの祟りを巡る威圧や噂も、この世界では以前ほどの力を持っていなかった。少なくとも、仲間たちが園崎家を疑い、互いに疑心暗鬼へ陥る危険は、以前より小さいように思えた。
けれど、それで安心できるわけではない。祟りは、今も続いているのだから。梨花は、窓の向こうに広がる興宮の街並みを眺めた。何が同じで、何が違うのか。そして、何がこれから起こるのか。それを確かめるには、まだ知らないことが多すぎた。
「……梨花ー!」
再び、台所から声が聞こえた。
「何ですか、沙都子?」
「ちょっと、こちらへ来てくださいまし?」
「みぃ?」
梨花は立ち上がると、台所へ向かった。
そこでは、沙都子が鍋を前にして腕を組んでいた。
「……どうしたのですか?」
「味見をお願いしたいんですの」
「味見?」
「ええ。ちょっと味が薄いような気が…」
沙都子は小皿に煮汁を取り、梨花へ差し出した。
梨花はそれを口に含んだ。
「……みぃ」
「どうですの?」
「……少し薄いのです」
沙都子は悔しそうに眉を寄せた。
「もう少しお醤油を入れた方がよろしいかしら?梨花」
「みぃ。入れすぎには気をつけるのですよ」
「分かっていますわよ」
沙都子はそう言いながら、醤油の瓶を手に取った。梨花はその様子を眺めていた。
まったく、沙都子は沙都子だった。
昔から、何事にも一生懸命で、妙なところで負けず嫌い。自信満々に振る舞っていても、時々こうして小さなことで悩んでしまう。
その姿を見ると、梨花は少しだけ安心できた。
この世界がどれほど変わっても、目の前の沙都子は確かに沙都子なのだ。
もっとも。
「……あら?」
沙都子が顔を上げた。
「そういえば梨花、明日の準備は終わっていますの?」
「……明日?」
「もう! 社会見学ですわよ……最近の梨花は少しぼーっとしすぎではありませんこと?」
「みぃ。もちろん覚えているのです」
「本当ですの?」
「はいなのですよ」
沙都子は少し疑わしそうな顔をした。
「だったらよろしいですけれど……。せっかく大きな研究所へ行くんですもの。忘れ物なんてしたら恥ずかしいですわよ?」
「にぱー☆」
「もう! 笑って誤魔化さないでくださいまし!」
梨花は小さく笑った。
しかし、その表情は、沙都子が鍋へ向き直ったところで静かに消えた。
明日。
六月三日、金曜日。
興宮総合学園の社会見学。
行き先は、鹿骨総合生体科学研究所。
梨花は、台所の壁に掛けられた予定表へ目を向けた。
そこには、沙都子の字で大きく「社会見学」と書き込まれていた。
その文字を眺めながら、梨花は考え込んだ。
鹿骨総合生体科学研究所。
この世界で、雛見沢症候群の研究を中心となって進めている施設。
その所長が、鷹野三四だった。
「…………」
梨花にとって、決して聞き流せる名前ではなかった。
鷹野三四。かつて梨花が長い時間を繰り返すことになった、その運命の中心にいた人物。雛見沢症候群の研究。秘密裏に行われていた計画。
そして、昭和五十八年六月の終わりに訪れるはずだった惨劇。梨花は、それらを忘れていなかった。だからこそ、この世界に来て、鷹野が巨大な研究所の所長になっていると知った時には、少なからず驚いた。
しかも、研究所は以前の世界とは比べものにならないほど大きな規模で運営されているらしい。政府から支援を受け、数多くの研究者を抱え、医療技術だけでなく人間の身体機能そのものについても研究しているという。
そして、その研究の成果として、富竹ジロウが超人的な力を獲得していた。初めてテレビでその姿を見た時、梨花はしばらく言葉を失っていたものだった。
あの富竹が、盾を手に人々を救う英雄になっている。まるで冗談のような話だった。しかし、テレビの中で笑っていた男は、確かに梨花の知る富竹ジロウだった。
それだけではない。
テレビには、もう一人の奇妙な英雄が映し出されていた。
赤と青の奇妙な衣装に身を包み、蜘蛛の糸を使って高層ビルの間を飛び回る謎の人物。世間では『スパイダーマン』と呼ばれているらしい。
梨花は初めてその映像を見た時、思わず目を疑った。人間が壁を這い、蜘蛛のように空を飛び回るなど、いくら何でも現実離れしている。けれども、テレビでは連日のようにその姿が報じられ、街では彼の活躍が話題になっていた。
そして、その正体は誰にも分かっていないという。
いったい、この世界では何が起きているのだろう。
梨花には分からなかった。
以前の世界には存在しなかった英雄たち。そして、富竹の超人的な力を生み出した研究所を、よりによって鷹野三四が率いている。
以前の世界で鷹野が企てていたことを、今の鷹野も考えているのだろうか。それとも、歴史が大きく変化したことで、彼女自身も別の道を歩んでいるのだろうか。
少なくとも、かつての惨劇がこの世界でも繰り返されると断定することはできなかった。
それに、この世界の鷹野を、以前の鷹野が犯した罪だけで裁くわけにもいかない。梨花は、そのことをよく理解していた。
だが、警戒するなという方が無理な話だった。何しろ、梨花は知っている。鷹野三四が、目的のためならどこまで進んでしまう人物なのかを。
「……はぁ」
梨花は小さく息を吐いた。そして、もう一つ。この研究所には、梨花にとって無視できない事情があった。
母親のことだった。この世界の母親は、雛見沢症候群の研究に関わっていたという。その後、昭和五十六年に行方不明となり、現在に至るまで消息は分かっていない。父親の死も、母親の失踪も、雛見沢ではオヤシロさまの祟りと連続怪死事件として結びつけて語られている。
しかし、梨花には、その説明を素直に受け入れることができなかった。かつての世界で、梨花は何度となく連続怪死事件について調べてきた。その結果、祟りと呼ばれていた出来事の裏側に、人間の思惑が存在することを知った。
だからといって、この世界の事件にも同じ犯人がいるとは限らない。
しかし、古手家の人間が研究に関わり、その後に姿を消したという事実は、どうしても気にかかった。それに、梨花自身にも不思議なことがあった。
この世界へ来る以前の記憶がないにもかかわらず、周囲の大人たちは、梨花が昔から研究所や診療所と関わりを持っていたかのように話すことがあった。もちろん、それがどのようなものだったのか、梨花には分からない。ただの健康診断だったのかもしれない。母親に付き添われていただけかもしれない。それ以上のことを考えるには、あまりにも情報が足りなかった。
「……困ったものね」
梨花は、心の中で呟いた。
以前ならば、羽入に尋ねることもできただろう。同じ時間を経験し、梨花の傍らにいた存在。
もっとも、羽入がすべてを知っていたわけではない。肝心なところで頼りにならないことも、決して少なくなかった。それでも、話し相手がいることと、いないことの違いは大きかった。
今、この世界には羽入がいない。どれだけ呼びかけても返事はなく、カケラについて尋ねようにも、答えてくれる相手はいなかった。
梨花は、自分一人で考えなければならなかった。そして、自分一人で確かめなければならなかった。明日の社会見学は、そのための貴重な機会だった。もっとも、子供たちを案内する見学会で、研究所の秘密を教えてくれるとは思えない。見せてもらえるのは、せいぜい一般向けの展示室や、公開されている研究設備くらいだろう。本当に重要な資料があるとしても、そんな場所へ案内されるはずがなかった。
まして、梨花は小学生である。研究者たちに疑問をぶつけたところで、子供向けの説明を返されるだけかもしれない。だからこそ、梨花は慎重に考える必要があった。研究所の規模。働いている人々。鷹野の立場。そして、雛見沢症候群に関する研究が、現在どこまで進んでいるのか。そうしたことを少しでも知ることができれば、今後の判断材料になるだろう。
もちろん、何も分からない可能性もある。むしろ、そちらの方が大きいかもしれなかった。
しかし、何もしないまま六月を迎えるよりはいい。梨花は、そう考えていた。
「……梨花?」
不意に、沙都子の声がした。梨花は顔を上げた。
「……みぃ?」
「また考え事ですの?」
沙都子は鍋の火を弱めると、不思議そうに梨花を見つめた。
「最近、時々ぼんやりしていますわよ?」
「……そうですか?」
「そうですわよ。昨日だって、わたくしがお話ししているのに、何度も聞き返していましたもの」
「……それはごめんなさいなのです」
梨花が素直に謝ると、沙都子は少し意外そうな顔をした。
「……別に、怒っているわけではありませんわ」
「みぃ」
「ただ……」
沙都子は少し言い淀んだ。
「何か気になることがあるのでしたら、わたくしにも話してくださってよろしいんですのよ?」
梨花は、沙都子を見つめた。
「……沙都子」
「何ですの?」
「……何でもないのですよ」
梨花は小さく微笑んだ。
「ちょっと、明日のことを考えていただけなのです」
「……明日の?」
「はいなのです。研究所へ行くのが、少し楽しみなのですよ」
「まあ!」
沙都子は途端に表情を明るくした。
「それでしたら、そう仰ればよろしいのに!」
そして、得意げに胸を張った。
「わたくしも、明日はとても楽しみにしていますのよ」
「……みぃ?」
「だって、あのキャプテン・トミタケが案内してくださるんですわ」
「そうらしいのです」
「ふふん! せっかくですから、わたくしが色々と質問して差し上げますわ!」
沙都子は嬉しそうに笑った。
「何しろ、あの方は本当に人間離れした力を持っていらっしゃるんですもの。どういう仕組みなのか、少しくらい教えていただきたいですわ!」
「……沙都子は科学者になるのですか?」
「そ、そういうわけではありませんけれど!」
沙都子は慌てて首を振った。
「でも、面白そうではありませんこと?」
「にぱー☆」
梨花は小さく笑った。
それを見て、沙都子も満足そうに頷いた。
「さて! そろそろ夕食ができますわよ。梨花はお皿を並べてくださらない?」
「はいなのです」
梨花は食器棚へ向かった。茶碗を二つ取り出し、食卓へ並べる。その隣に箸を置くと、自然と二人分の席ができあがった。何ということもない光景だった。特別なことなど、何一つ起きていない。
しかし、梨花はこうした時間が嫌いではなかった。かつて、何度も繰り返した昭和五十八年。そこで梨花が本当に望んでいたものは、決して大それたものではなかった。仲間たちと学校へ行き、くだらないことで笑い合い、夕方になれば家へ帰る。
そして、明日も同じような一日が続く。
ただ、それだけだった。今の梨花には、その日常があった。確かに、この世界は梨花が選んだ世界ではない。
街も、人々の人生も、かつての記憶とは異なっている。
それでも、今ここにいる沙都子は、本当に楽しそうに夕食を作っている。
学校へ行けば、圭一も、レナも、魅音もいる。あの賑やかな部活も、この世界で確かに続いている。
だからこそ。
「…………」
梨花は、食卓に並べた二つの茶碗を見つめた。もし、この世界でも何かが起きようとしているのなら。
それを、ただ見過ごすわけにはいかなかった。かつての梨花は、幾度となく運命に抗ってきた。そして、その果てに、ようやく自分の人生を生きることを選んだ。
ならば、今度も同じだった。
何が起こるか分からないからといって、何もしなくていいわけではない。ただし、知っているつもりになってはいけない。過去のカケラで得た知識は、あくまでも過去のカケラのもの。
この世界には、この世界の歴史がある。この世界の鷹野三四が何を考え、何を成し遂げようとしているのか。それは、実際に確かめなければ分からなかった。そして、母親のことも。
梨花は、もう一度窓の外へ目を向けた。夕日はほとんど沈みかけていた。
街の向こうでは、次々と明かりが灯り始めている。遠くに見える高層ビルの窓も、いつの間にか橙色から白い光へ変わっていた。あの街のさらに向こうに、明日訪れる研究所がある。
そこに、何が待っているのだろう。何かを知ることができるのか。それとも、何一つ分からないまま帰ってくることになるのか。
梨花には分からなかった。
ただ、明日が来ることだけは確かだった。
「……梨花ー!」
沙都子の声が、再び居間へ響いた。
「お料理、運びますわよ!」
「はいなのです!」
梨花は立ち上がった。
そして、台所から大皿を運んできた沙都子を迎えた。
「……おお。美味しそうなのですよ」
「当然ですわ!」
沙都子は得意げに笑った。
「今日の煮物は、我ながらなかなかの出来ですのよ!」
「みぃ。楽しみなのです」
「ふふん! たくさん召し上がってくださいまし!」
二人は食卓へ腰を下ろした。
窓の外では、興宮の街が夜を迎えようとしていた。
今日もまた、何事もなく一日が終わる。
そして、明日が始まる。
それは、かつて梨花が何よりも望んでいたことだった。
もっとも。
その翌日、ダム研究所で起きる出来事について、この時の梨花はまだ何も知らなかった。
知るはずもなかった。
明日、自分たちが訪れるその場所で、正体不明の蜘蛛男と、あの富竹ジロウが対峙することになるなど。
そして、その出来事が、梨花の知るどのカケラにも存在しなかった新しい運命の始まりになることなど。
今の梨花には、想像することさえできなかったのである。