六月三日。金曜日。
ダム研究所の正面玄関には、朝から子供たちの賑やかな声が響いていた。
「……うわぁ」
バスから降りた北条沙都子は、目の前にそびえる建物を見上げ、思わず声を漏らした。広々とした敷地の中央には、白と灰色を基調とした巨大な本館が建っている。正面には大きなガラス窓が並び、その向こうには明るい玄関ホールが見えた。さらに敷地の奥には幾つもの建物が連なり、山の斜面に沿って道路が伸びている。学校の理科室を何十倍にも大きくしたような場所だった。
「……随分と大きな建物ですわね!」
「みぃ。とても立派なのです」
隣に立つ古手梨花も、建物を見上げながら小さく頷いた。しかし、その胸中は沙都子とはまったく異なっていた。ようやく、この日が来た。梨花はバスの中でも、今日の見学予定が書かれたプリントを何度となく読み返していた。何時に到着し、どの施設を見学し、誰が案内するのか。普段の梨花であれば、そこまで熱心に確かめることはなかっただろう。
だが、今回は違う。鷹野三四。その名前を聞いた時から、梨花は今日という日を待ち続けていた。
その間に梨花が知ったのは、自分がこれまで生きてきた世界と、今いる世界の歴史があまりにも異なっているということだった。雛見沢の一部はダムに沈み、興宮には見慣れない高層建築が立ち並び、園崎家を取り仕切っていたお魎は既にいない。そして、何よりも奇妙なのが、研究所の存在だった。かつて梨花が知っていた鷹野三四は、入江診療所に所属する研究者であり、幾つもの惨劇の背後にいた人物だった。ところが、この世界では巨大な研究施設の所長となり、莫大な予算と人員を動かしているらしい。単に立場が違うだけなのか。それとも、過去のカケラと同じように、何かを企てているのか。それを確かめるには、実際に会ってみるしかない。
もっとも、梨花には一つ厄介な問題があった。この世界の梨花が、鷹野とどの程度の面識を持っていたのか、まったく分からないのである。梨花が引き継いでいるのは、別のカケラで過ごした記憶だった。この世界にも古手梨花という少女は以前から存在していたはずだが、彼女が誰と会い、どのような生活を送ってきたのかまでは分からない。
沙都子との何気ない会話でさえ、時折、覚えのない出来事が出てくるほどだった。不用意な発言は避けなければならない。
しかし、何もせずに見学を終えるつもりもなかった。
「……梨花?」
「みぃ?」
沙都子の声で、梨花は顔を上げた。
「どうしましたの? 随分と真剣に建物をご覧になっていましたけれど」
「……とても大きいので、驚いていたのですよ」
「確かに、こんな立派な施設はなかなか見られませんものね」
沙都子は得意げに胸を張った。
「それに、今日はあのキャプテン・トミタケもいらっしゃるそうですわよ」
「みぃ。沙都子は楽しみなのですか?」
「べ、別に! わたくしは、そんな子供じみたことで喜んだりいたしませんわ!」
「……そうなのですか」
梨花は小さく笑った。
「にぱー☆」
「まったく、梨花ったら!」
沙都子が頬を膨らませる。その様子を眺めながら、梨花はほんの少しだけ気持ちを和らげた。世界がどれほど変わっても、こういうところは変わらないらしい。やがて、引率の教師が児童たちを集めた。
「はい、皆さん! 今日は研究所の方が特別に案内してくださいます。勝手に歩き回らないで、きちんとお話を聞くようにしてくださいね!」
「はーい!」
元気な返事が響いた。その時だった。
「やあ、みんな! おはよう!」
玄関の方から、よく通る声が聞こえた。児童たちが一斉に振り返る。そこには、赤と白を基調とした特殊な戦闘服に身を包んだ、一人の男が立っていた。がっしりとした体格に、親しみやすい笑顔。そして背中には、中央に赤い円を描いた大きな盾が装着されている。
「……あっ!」
誰かが声を上げた。
「キャプテン・トミタケだ!!」
途端に歓声が上がった。
「本物だ!」
「すげえ!」
「盾だ! 本当に盾持ってる!」
富竹ジロウは、そんな子供たちを見て朗らかに笑った。
「ははは! いやぁ、そんなに喜んでもらえると嬉しいなぁ!」
富竹は軽く手を振った。
「改めまして、僕は富竹ジロウ。陸上自衛隊二等陸尉。階級は…まだギリギリキャプテンじゃないんだけどね。キャプテン・トミタケと呼んでくれると嬉しいな。今日はみんなの社会見学をお手伝いすることになったんだ。よろしくね!」
「よろしくお願いしまーす!」
子供たちの元気な返事に、富竹は満足そうに頷いた。しかし、その様子を見つめる梨花の表情には、僅かな戸惑いがあった。富竹ジロウ。以前のカケラでは、写真を撮ることが好きな、どこか頼りないところもある男。
そしてその実は、自衛隊であり研究所の監査役も務めるというキーパーソンになっている人物だ。
それが今では、国家から認められた英雄として人々の前に立っている。確かに身体つきは違っている。身につけている装備も、梨花が見たことのないものだった。けれど、あの笑い方だけは、どうにも変わっていないように思えた。
「……あの!」
沙都子が一歩前へ出た。
「ん? どうしたんだい?」
富竹が目を向ける。
「あなたが、あのキャプテン・トミタケですの?」
「ははは! そうだよ。まあ、普段はただの富竹ジロウなんだけどね」
「……ふぅん」
沙都子は富竹をじろじろと眺めた。そして、腕を組む。
「テレビで見るより、随分と普通のおじさまですわね」
一瞬、周囲が静まり返った。しかし、次の瞬間。
「はっはっは!」
富竹は大きく笑い出した。
「いやぁ、参ったなぁ! これは手厳しい!」
「……あら?」
沙都子は少し驚いた。富竹はまるで気にした様子もなく、楽しそうに笑っている。
「でも、その通りだよ。僕だって普段は普通の人間だからね。ご飯も食べるし、眠くなることだってある。趣味だってあるんだよ」
「……趣味、ですの?」
「うん。写真を撮るのが好きなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、梨花は僅かに目を細めた。写真。やはり、そこは変わっていないらしい。
「みぃ。富竹は、今でも写真が好きなのですね」
「おや、梨花ちゃん!」
富竹は嬉しそうに顔を向けた。
「もちろんだよ! 最近は仕事が忙しくて、なかなか撮りに行けないんだけどね」
「……そうなのですか」
梨花は微笑んだ。何気ない会話だった。しかし、梨花にとっては一つの確認になっていた。富竹は、当然のように自分の名前を呼んだ。少なくとも彼は、この世界の古手梨花を知っている。だが、それだけでは分からない。この世界の梨花と富竹が、どんな関係だったのか。そして、鷹野三四とも同じように顔見知りだったのか。
「……あらあら。随分と盛り上がっているじゃない」
玄関の方から、新たな声が響いた。富竹が振り返る。
「おや、三四さん!」
そこには、白衣を纏った一人の女性が立っていた。長い金髪に、どこか人をからかうような微笑。鷹野三四である。その姿を認めた瞬間、梨花の胸中に緊張が走った。ようやく、会えた。
「まったく、ジロウさんったら。子供たちと遊んでばかりいないで、ちゃんとお仕事もしてちょうだいね」
「ははは! もちろん分かっているよ!」
「本当かしら?」
鷹野は呆れたように笑った。そして、児童たちへ向き直る。
「皆さん、初めまして。私はこの研究所の所長を務めている、鷹野三四といいます」
「こんにちはー!」
「はい、こんにちは」
鷹野は柔らかく微笑んだ。
「今日は皆さんに、私たちがどんな研究をしているのか、少しだけ紹介したいと思います」
その声を聞きながら、梨花は鷹野の顔を見つめていた。見慣れた顔だった。あの笑顔も、子供たちに話しかける時の柔らかな口調も、以前のカケラとほとんど変わらない。しかし、だからこそ恐ろしかった。
梨花は知っている。この女性が、どれほど自分の研究を愛し、その純粋さが、時としてどれほど恐ろしい方向へ向かうのか。ただし、それは梨花が知る別の世界の話である。今、目の前にいる鷹野三四が同じ道を歩んでいるとは限らない。梨花は静かに一歩前へ出た。
「……みぃ」
鷹野の視線が、梨花へ向けられる。
「……あら?」
「鷹野。今日はよろしくお願いしますなのです」
梨花は、いつものように小さく頭を下げた。
「……ふふっ。こちらこそ、よろしくね」
鷹野は微笑み、梨花へ頷いた。それだけだった。特に驚いた様子もない。かといって、親しい相手へ話しかけるような態度でもない。梨花には、その反応をどう解釈すべきか分からなかった。古手家の娘として名前を知っているのか。それとも、この世界の梨花と以前から面識があるのか。少なくとも、今の短いやり取りだけでは判断できそうになかった。
「それじゃあ、早速中へ入りましょうか」
鷹野が玄関の方へ歩き出す。富竹も児童たちを促した。
「さあ、みんな! こっちだよ!」
子供たちは期待に胸を膨らませながら、研究所の中へ入っていった。その中で、梨花はできるだけ鷹野の近くを歩くようにした。敷地内には幾つもの建物が並んでいる。本館の奥には別の研究棟があり、その周辺では白衣姿の職員たちが行き交っていた。さらに離れた場所には、窓の少ない建物も見える。梨花には、それらが何のための施設なのか分からない。ただ、ここで行われている研究が、表向きに紹介されているものだけなのかどうかは、気になっていた。
「……梨花?」
沙都子が声を掛けた。
「どうしましたの?」
「……何でもないのです」
梨花は小さく首を振った。
「早く行かないと、遅れるのです。沙都子」
「ええ、そうですわね」
沙都子は梨花の手を取った。梨花はその手を握り返し、もう一度だけ鷹野の背中へ目を向けた。今日、すべてが分かるとは思っていない。けれど、少なくとも何か一つくらいは確かめたい。この鷹野三四は、一体何者なのか。
§
研究所の内部は、外から見た以上に立派だった。広々とした玄関ホール。磨き上げられた床。壁には研究所の沿革や研究成果を紹介する展示が並び、中央には大きな案内図が設置されている。天井からは明るい照明が降り注ぎ、白衣を着た研究員たちが忙しそうに行き交っていた。
「……うわぁ!」
沙都子は思わず声を上げた。
「随分と綺麗なところですわね!」
「みぃ。学校の理科室とは大違いなのです」
「そりゃそうですわよ」
沙都子は笑った。一方、梨花は玄関ホールに設置された案内図へ目を向けていた。一般展示室。講堂。研究紹介室。そして、関係者以外の立ち入りが制限されている区画。どれも普通の研究所にあって不思議ではないものだったが、少なくとも一般の見学者が自由に歩ける場所は限られているらしい。その時、鷹野が児童たちを振り返った。
「それじゃあ、まずは生物の身体について勉強しましょうか」
一行が案内されたのは、様々な生物の標本や細胞の構造を紹介する展示室だった。壁には動物の身体を説明する図が並び、中央には大きな細胞模型が置かれている。
「……これが、細胞?」
児童の一人が模型を見上げた。
「そうよ」
鷹野は頷いた。
「人間の身体は、非常にたくさんの細胞から出来ているの。もちろん、人間だけじゃないわ。動物も植物も、基本的には細胞という小さな単位から成り立っているのよ」
「……へぇ!」
子供たちが感心したように声を上げた。鷹野は模型の一部を指差した。
「この中には核というものがあって、そこには生物の身体を作るための大切な情報が収められているの」
「……情報、ですの?」
沙都子が首を傾げた。
「そう。例えば、どうして人間には人間の身体があって、猫には猫の身体があるのか。そういうことにも関係しているのよ」
「……ふぅん」
沙都子は少し考え込んだ。そして、手を上げた。
「では、人間の細胞を猫の細胞に変えたら、人間も猫になれますの?」
鷹野は目を丸くした。そして、楽しそうに笑い出した。
「ふふふっ! 面白い質問ね!」
「……え?」
「でも、そんなに簡単にはいかないわ。生物の身体というのは、ただ一つの細胞だけで出来ているわけではないもの」
「……そうですの?」
「ええ。たくさんの細胞が、それぞれ違う役割を果たしているの。皮膚になる細胞もあれば、筋肉になる細胞もある。神経になるものだってあるわ」
鷹野は模型を示した。
「だから、身体の一部分だけを変えたとしても、生物全体が別の生き物になるわけではないのよ」
沙都子は感心したように頷いた。しかし、その時。
「……みぃ。鷹野」
梨花が静かに手を上げた。
「……あら。梨花ちゃん、だったわね。どうしたの?」
「……身体を変える研究というのは、元に戻せなくなることもあるのですか?」
鷹野は、僅かに目を細めた。
「そうね。どのような変化を起こしたかによるわ。失われた身体の働きを取り戻す治療と、健康な身体を別の状態に変えることでは、意味が違うもの」
「……では、元に戻せないまま、その人が研究をやめたいと言ったら、どうするのですか?」
鷹野は一瞬、考えるように黙った。
「……ふふっ。難しいことを聞くのね」
彼女は膝を折り、梨花と目線を合わせた。
「もちろん、本人の意思は大切よ。ただ、どんな研究にも危険はあるし、結果をすべて予測できるわけではないの。だからこそ、私たちは慎重に研究を進めなければならないのよ」
「……みぃ」
梨花は小さく頷いた。
質問の答えとしては、間違っていない。しかし、鷹野が説明したのは研究者の心得であって、実際に取り返しのつかない変化が起きた場合の対応ではなかった。
もっとも、子供相手の見学で、そこまで説明しなかっただけかもしれない。
「……ありがとうなのです」
「ふふっ。どういたしまして。それにしても、梨花ちゃんは随分と難しいことを考えるのね」
「みぃ。元に戻れなくなったら、怖いと思っただけなのですよ」
鷹野は穏やかに微笑んだ。
「……そうね。その気持ちは、とても大切だと思うわ」
梨花も笑みを返した。
これ以上、問いを重ねる必要はない。今の答えだけで鷹野の本心を判断することはできないし、あまり追及すれば、かえって不自然に思われる。
まずは、何を説明し、何を説明しないのか。
それを確かめることにした。
§
同じ頃、圭一は研究所の外壁を這っていた。
「……よいしょっと」
蜘蛛の能力を得て以来、壁を登ること自体は難しくなくなっていた。しかし、窓の向こうには研究員がいる。姿を見られれば、たちまち騒ぎになるだろう。
圭一は窓の下を慎重に移動しながら、内部を覗き込んだ。
昨日、詩音から受け取った図面によれば、この辺りが研究棟のはずだった。
実際、窓越しには測定器らしい装置や、机に向かう研究員たちの姿が見える。
「……何だよ。案外普通じゃねえか」
圭一は小さく苦笑した。
しかし、考えてみれば当然だった。本当に怪しいものがあるとしても、外から丸見えの場所には置かないだろう。
問題は、どこを調べればいいのか分からないことだった。
建物の規模は想像以上に大きい。無闇に歩き回ったところで、目的の資料に辿り着けるとは思えない。
「……せめて、何か手掛かりがありゃなぁ」
その時、建物の奥から低い機械音が響いた。
圭一は顔を上げた。
一定の間隔で繰り返される、重い振動。音のする方へ視線を向けると、研究棟の奥に窓の少ない別棟が見えた。
「……あっちは何だ?」
移動しようとした時、窓の向こうに二人の研究員が現れた。
圭一は身を低くした。
「……例の装置、まだ調整が終わっていないそうですよ」
「またか。第二研究部門も大変だな」
「要求されている性能が性能ですからね」
「まったく。最近は上からの注文が多すぎる」
二人はそう話しながら、廊下の奥へ消えていった。
「……第二研究部門?」
圭一は眉を寄せた。
研究所に複数の部門があること自体は珍しくない。しかし、今の会話は気になった。
何の装置で、誰がその性能を要求しているのか。
「……ま、行ってみりゃ分かるか」
圭一は、機械音のする別棟へ向かって移動を始めた。
§
一方、研究所の見学は順調に進んでいた。
次に案内されたのは、顕微鏡を使って細胞を観察する部屋だった。机には標本が並べられ、子供たちは次々とレンズを覗き込んでいる。
「……梨花ぁ! ちょっと見てくださいまし!」
沙都子に呼ばれ、梨花も顕微鏡へ顔を近づけた。
「……みぃ。植物の細胞なのですよ」
「植物? これがですの?」
「はいなのです」
「……何とも不思議ですわねぇ。普段見ている葉っぱの中が、こんなふうになっているなんて」
沙都子は感心したように、もう一度レンズを覗き込んだ。
梨花は微笑みながら、その隣で室内を見回した。
壁には細胞の写真や研究内容の紹介が掲示されている。どれも一般向けの説明であり、不審なものは見当たらない。
もっとも、研究所が社会見学で公開する情報を選ぶのは当然のことだった。
先ほど鷹野は、身体の変化について説明してくれた。しかし、その研究が実際にどこまで進んでいるのかは語らなかった。
ならば、別の方向から聞いてみよう。
梨花は顕微鏡から離れ、職員と話していた鷹野へ歩み寄った。
「……鷹野」
「あら、梨花ちゃん。今度は何かしら?」
「……病気の原因を調べる時は、その人が暮らしている場所も調べるのですか?」
「ええ。病気によっては、土地の環境や生活習慣が関係することもあるわ」
「……では」
梨花は少しだけ首を傾げた。
「雛見沢から引っ越した人も、調べることがあるのですか?」
鷹野は、僅かに目を瞬かせた。
「……引っ越した人?」
「はいなのです。もし雛見沢の環境が病気に関係しているなら、よその町へ行った人と比べれば、何か分かるかもしれないと思ったのですよ」
鷹野は、感心したように微笑んだ。
「あら。いいところに気がついたわね」
「……みぃ?」
「そうね。地域による違いを調べるなら、その場所に暮らしている人と、そうでない人を比較することも大切よ。もっとも、何をどこまで調査できるかは研究によって違うけれど」
「……そうなのですか」
梨花は頷いた。
今の答えは、一般的な研究方法として正しい。しかし、鷹野は鹿骨研究所で実際にそうした調査を行っているかどうかについては答えていない。
それは、単に具体例として聞かれたと思ったからかもしれない。
だが、梨花にとっては重要な違いだった。
この世界にも雛見沢症候群が存在するとしたら、土地と発症の関係は無視できない。地域外へ移った人々の状態を追っているかどうかは、研究の方向を知る手掛かりになるはずだ。
「……ありがとうなのです」
「ふふっ。どういたしまして」
鷹野は嬉しそうに頷いた。
「研究ではね、梨花ちゃん。何かを見つけることだけでなく、何と何を比べるかも大切なのよ」
梨花は小さく微笑んだ。
その言葉には、確かに納得できた。
ただし、鷹野が今、何を何と比較しているのか。
それはまだ、聞き出せていなかった。
§
次に一行が案内されたのは、人間の身体能力を紹介する展示室だった。
壁には筋肉や神経の構造を示した図が並び、握力や反射速度を測定できる装置が用意されている。
「さて、みんな!」
富竹が明るい声で呼びかけた。
「ここでは、人間の身体がどんなふうに動くのか、実際に体験してもらおうと思うんだ!」
子供たちから歓声が上がった。
富竹は反応測定器を示した。
「この装置は、光が点いてからボタンを押すまでの時間を測るものなんだ。誰か試してみるかい?」
「はいですわ!」
真っ先に手を挙げたのは沙都子だった。
「こういう勝負なら、わたくしの得意分野ですわ!」
「ははは! それは頼もしいね。それじゃあ、やってみようか!」
沙都子は椅子に座り、ボタンへ指を添えた。
光が点くと同時に、勢いよく指を動かす。
「……えいっ!」
測定器に数値が表示された。
「おっ! なかなかいい反応だね!」
「おーっほっほっほ! 当然ですわ!」
沙都子は得意げに胸を張った。
他の子供たちも次々と挑戦し、展示室はたちまち賑やかになった。
やがて、一人の児童が富竹へ尋ねた。
「あの! キャプテン・トミタケは、どれくらい速いの!?」
その言葉に、子供たちの視線が一斉に集まった。
「そうだよ! テレビですごかった!」
「見せて!」
「ははは! 参ったなぁ」
富竹は困ったように笑ったが、鷹野は楽しそうに目を細めた。
「あら、いいじゃない。ジロウさん」
「……三四さんまで」
「せっかくの機会ですもの」
富竹は頭を掻き、それから装置の前へ座った。
「……それじゃあ、一回だけね」
子供たちが期待に目を輝かせる。
鷹野が装置を操作した。
光が点く。
ほとんど同時に、富竹の指が動いた。
梨花には、いつ彼がボタンを押したのか、はっきりと分からなかった。ただ、気づいた時には既に測定が終わっていた。
「……え?」
沙都子が目を丸くした。
「今、押しましたの?」
「ははは。ちゃんと押したよ」
測定結果を確認した研究員が、感心したように頷いた。
子供たちから驚きの声が上がる。
梨花も、富竹の姿を見つめていた。
やはり、普通の人間とは違う。
テレビで見た時から分かってはいたが、目の前でその動きを見ると、改めて異常さが際立っていた。
ただ、それだけでは何も分からない。
どれほど優れた能力を持つかよりも、梨花が知りたいのは、いつからその能力を持っていたのかだった。
「……富竹」
「ん? どうしたんだい、梨花ちゃん?」
「……富竹は、昔からこんなに速かったのですか?」
富竹は、一瞬だけ目を丸くした。
「……昔から?」
「はいなのです。ボクたちも、いっぱい練習したら、富竹みたいになれるのですか?」
子供らしい質問だった。
しかし、梨花にとっては、単なる憧れから出た言葉ではなかった。
今の能力が生まれつきのものなのか、後から獲得されたものなのか。それによって、鷹野の研究が持つ意味も変わってくる。
「……ははは。どうだろうねぇ」
富竹は少し照れくさそうに笑った。
「少なくとも、昔の僕にはこんなことはできなかったよ」
「……みぃ?」
「もちろん訓練もしてきたけれど、僕一人の力で今のようになれたわけじゃないんだ。たくさんの人に支えてもらったからこそ、ここまで来られたんだよ」
「……そうなのですか」
梨花は頷いた。
富竹は、かつて普通の人間だった。
少なくとも本人は、そう話している。
そして、現在の力を得るまでには、訓練だけではない何らかの事情があったらしい。
具体的な方法までは分からない。しかし、今の証言は、研究所が人間の身体能力に関わる技術を持っている可能性を強めるものだった。
「……でもね、梨花ちゃん」
富竹は、膝を折って目線を合わせた。
「こういう力があれば、何でもできるというわけじゃないんだ。できることが増えた分、考えなきゃいけないことも増えるからね」
「……みぃ」
「だから僕は、この力をできるだけ人の役に立てたいと思っているよ」
富竹は笑った。
「……もっとも、おかげで写真を撮る時間が減ったのは、ちょっと残念だけどね!」
「……にぱー☆」
梨花も、小さく笑った。
写真の話になると、富竹の表情は以前と変わらない。少なくとも、目の前にいる彼が自分の力を誇示したがっているわけではなさそうだった。
その隣では、鷹野が富竹を見つめていた。
「……まったく。ジロウさんったら」
「ははは!」
二人は親しげに笑い合った。
梨花は、その様子を眺めながら、今日得られた情報を整理した。
鷹野は、身体を元に戻せない場合について、具体的な対応を語らなかった。
地域の病気を研究する方法については説明したものの、実際の調査内容は明らかにしていない。
そして富竹は、以前にはなかった身体能力を獲得している。
それぞれを結びつければ、いくつもの可能性が考えられる。
しかし、どれもまだ仮説にすぎなかった。
梨花は、改めて展示室を見回した。
ここには成功した研究や、子供たちに見せられる技術が並んでいる。
では、成功しなかった研究は、どこにあるのだろう。
そもそも、そうした研究が行われたのかどうかさえ、梨花には分からない。
だが、確かめるべきことは、少しずつ明確になってきた。
研究所が何を実現できるのか。
それだけではない。
何を実現しようとして、何が起きたのか。
その違いを知る必要があった。
「……梨花?」
沙都子が声を掛けた。
「どうしましたの? また難しいことを考えていらっしゃるんですの?」
「……みぃ?」
梨花は顔を上げ、いつもの笑顔を浮かべた。
「何でもないのですよ、沙都子」
「……本当ですの?」
「はいなのです。ボクは、もっといろんなものを見てみたいのです」
「まあ! それでしたら、次の展示も一緒に見て回りましょう!」
沙都子は嬉しそうに手を差し出した。
梨花は小さく頷き、その手を取った。
そして歩き出す前に、もう一度だけ鷹野の方へ目を向けた。
この研究所が、何を隠しているのか。
あるいは、本当に隠すものなどないのか。
その答えは、まだ分からない。
ただ、今日見せてもらったものだけでは、判断できないことは確かだった。