圭一は、建物の側面にある狭い足場へ移動していた。
「……ふぅ」
一度、周囲を確認する。ここまでのところ、目立った問題は起きていない。何人かの研究員の姿を見かけたものの、こちらに気づいた様子はなかった。もっとも、順調かと言われれば微妙だった。
「……いやぁ、見事に何も分からねえな」
圭一は苦笑した。研究所の建物は複雑に繋がっており、外から眺めているだけでは、その用途を正確に把握できない。しかも、どの部屋もそれらしい研究設備ばかりである。
「……ま、当たり前っちゃ当たり前なんだけどよ」
圭一は壁へ背中を預けた。この研究所には、何かがある。そう信じてここまで来た。しかし、怪しいからといって、何でもかんでも疑っていてはきりがない。
「……もうちょっと頭使わねえとな」
圭一は考え込んだ。リナが話していたのは、研究所での実験だった。金銭を受け取り、何らかの試験に参加したという。だとすれば、研究所のどこかに、被験者に関する記録があるかもしれない。あるいは、身体能力の強化について研究している部門。そういう場所を見つけられれば、何か分かる可能性がある。
「……でもなぁ」
圭一は小さく溜息をついた。
「そんなん、どこにあるんだよ」
その時だった。建物の下から、金属製の台車が転がる音が聞こえた。圭一は顔を上げた。敷地の奥にある搬入口から、数人の職員が大きな箱を運び出している。箱の表面には、研究所の管理番号らしいものが記されていた。そして、その横には。
『第二研究部門』
「……おっ?」
圭一は目を細めた。先ほど、廊下を歩いていた研究員たちが話していた名前だった。
「……第二研究部門、ねぇ」
圭一は呟いた。もちろん、それだけで怪しいとは言えない。しかし、少なくとも何を研究している部門なのかは気になった。圭一は少し離れた場所から、搬入作業を眺めた。職員たちは箱を建物の奥へ運んでいく。その先には、一般の研究棟とは違う通路が伸びていた。通路の入口には、職員用らしい扉がある。そして、その脇には警備員が立っていた。
「……ふむ」
圭一は腕を組んだ。
「……何だか、こっちは雰囲気が違うな」
それまで見てきた研究棟は、どこも比較的開放的だった。窓が多く、外から研究室の様子が見える場所もあった。しかし、今目の前にある区画は違う。窓が少ない。扉も重厚で、出入りする職員の数は限られている。さらに、警備員が常駐している。
「……まあ、危ない薬品でも扱ってりゃ、そうなるか」
圭一は独り言を呟いた。しかし、何となく引っかかった。研究所に危険な物質や機材があること自体は、別に不思議ではない。だから、警備が厳重だからといって悪事を働いている証拠にはならない。それでも。
「……ちょっと、気になるよなぁ」
圭一は小さく笑った。
「……親愛なる隣人としては、見過ごせませんな」
そう呟くと、建物の外側をゆっくりと移動し始めた。
§
一方、社会見学の一行は、研究所の休憩室へ案内されていた。児童たちはそれぞれ椅子へ腰掛け、研究員から配られた飲み物を口にしている。窓の向こうには、手入れの行き届いた中庭が広がっていた。小さな花壇に、木陰へ設けられたベンチ。研究所というより、大学の構内を思わせる穏やかな景色だった。
「……ふぅ。随分と歩きましたわねぇ」
沙都子は椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「みぃ。沙都子は少し疲れたのですか?」
「そ、そんなことありませんわ! わたくし、このくらいで疲れたりいたしませんもの!」
「にぱー☆」
梨花は小さく笑った。
しかし、その視線は、時折休憩室の外へ向けられていた。
先ほどまで一行を案内していた鷹野三四は、研究員に今後の説明を任せ、別の仕事があると言って席を外していた。彼女がどこへ向かったのか、梨花には分からない。
もっと話を聞いてみたかった。
この世界の鷹野が、どのような研究をしているのか。雛見沢について、どこまで知っているのか。そして、なぜ自分の知っているカケラとは、これほどまでに歴史が違ってしまったのか。
もちろん、それらを鷹野へ直接尋ねたところで、答えが返ってくるとは思えない。そもそも、鷹野自身がこの世界の違いを知っているわけではないだろう。
それでも、何か手掛かりが欲しかった。
「……やあ、二人とも!」
その時、富竹が近づいてきた。
「社会見学は楽しんでいるかい?」
「……あら、富竹さん!」
沙都子は顔を上げた。
「ええ。思っていたよりは面白かったですわ」
「ははは! それはよかった!」
富竹は嬉しそうに笑い、二人の近くへ腰掛けた。
「研究所って、普段はあまり身近に感じられない場所だからね。こういう機会に色々と知ってもらえると、僕も嬉しいよ」
「……それにしても、富竹さん」
沙都子は不思議そうに首を傾げた。
「あれほど強いのに、科学のことは分からないんですの?」
「ははは! もちろん、分からないことだらけさ。僕は研究者じゃないからね」
「……そうなんですの?」
「うん。強い力があるからって、何でもできるわけじゃないんだよ。だからこそ、色々な人に助けてもらっているんだ」
梨花は、その言葉を静かに聞いていた。
少なくとも、富竹の考え方は、梨花の知る彼と大きく変わっていないように思える。国家公認の英雄になっても、自分一人の力を過信していない。そのことは、梨花にとって少しばかり安心できる材料だった。
「……みぃ。富竹は、ここの研究所にずっといるのですか?」
「……ん?」
富竹は梨花へ目を向けた。
「そうだね。毎日というわけじゃないけれど、仕事で来ることは多いかな」
「……そうなのですか」
「うん。僕自身、ここで随分とお世話になったからね」
富竹は少し照れ臭そうに笑った。
「今でも分からないことがあれば、研究者の人たちに教えてもらっているんだ」
「……では、鷹野とも仲良しなのですね」
「ははは! そうだね。三四さんとは長い付き合いだから」
梨花は小さく頷いた。
長い付き合い。
それは、以前のカケラと同じだった。
しかし、この世界では何年も前から、二人が巨大な研究所に関わっていたらしい。富竹の身体能力も、その研究成果と無関係ではないのだろう。
一体、どこから歴史が変わってしまったのか。
梨花が考え込んでいた、その時だった。
「……富竹さん」
廊下の向こうから、一人の職員が近づいてきた。何やら急いでいる様子で、富竹の姿を認めると足を速めた。
「……ん? どうしたんだい?」
「少々、お時間をいただけますでしょうか。警備部門から連絡がありまして……」
職員は二人の少女へ目を向けると、少し声を落とした。
富竹の表情が僅かに変わった。
「……なるほど。分かった、すぐに行こう」
「ありがとうございます」
職員が頭を下げる。富竹は二人へ向き直り、いつもの笑顔を浮かべた。
「ごめんね、ちょっと仕事の用事ができたみたいなんだ。二人とも、残りの見学を楽しんでおいで」
「……あら。もう行ってしまわれるんですの?」
「ははは! また後で会えるさ」
富竹は軽く手を振ると、職員とともに休憩室を後にした。
梨花は、その背中を静かに見送った。
警備部門。
かろうじて聞き取れたのは、その言葉だけだった。
何かあったのだろうか。
しかし、休憩室の様子は先ほどまでと変わらない。職員たちが慌てている様子もなく、引率の教師は次の見学について案内を受けていた。
富竹が呼ばれたのも、単なる業務上の確認かもしれない。
「……梨花?」
「みぃ?」
沙都子の声で、梨花は顔を上げた。
「どうしましたの? また難しいお顔をしていますわよ?」
「……何でもないのです」
梨花は微笑んだ。
「ボクは、もう少し研究所のことを知りたいと思ったのですよ」
「まあ! それでしたら、次の展示も一緒に見て回りましょう!」
「……はいなのです」
梨花は小さく頷いた。
ここで勝手に動くべきではない。
研究所は広く、内部の構造も分からない。自分一人で調べようとしたところで、何かを見つけられる保証などなかった。
それに、沙都子を心配させるわけにもいかない。
梨花は、いったんその考えを胸の奥へしまい込んだ。
§
それからしばらくして、休憩を終えた児童たちは次の展示室へ案内された。
「はい、皆さん! 次はこちらです!」
研究員の案内に従い、一行は本館の廊下を進んでいく。壁には研究所の沿革や施設の案内図が掲げられ、途中には職員専用の通路へ続く扉も設けられていた。
梨花は、その案内図へ目を向けた。
本館。第一研究棟。第二研究棟。そして、設備関係の建物。
いずれも大まかな位置が示されているだけで、それぞれの内部で何が行われているのかまでは分からなかった。
「……」
「……梨花?」
沙都子が振り返る。
「何を見ているんですの?」
「……研究所には、いっぱい建物があるのですね」
「そうですわねぇ。全部見て回ったら、一日では足りなさそうですわ!」
「みぃ。そうなのです」
梨花は頷き、沙都子の後を追った。
それでも、先ほどの案内図が頭から離れなかった。
一般の見学者が入れるのは、研究所のほんの一部に過ぎない。今日見てきた研究成果が嘘だとは思わないが、だからといって、それがこの施設のすべてだとも限らなかった。
もし、鷹野が何かを隠しているとすれば。
それは、子供たちへ公開されている展示室にはないのだろう。
しかし、今の梨花には、そこまで確かめる方法がなかった。
「……梨花! 早くしてくださいまし」
「今行くのですよ」
梨花は小走りで沙都子の隣へ追いついた。
§
次の展示室では、研究所が開発している人工生体材料についての説明が始まっていた。室内には様々な模型や試作品が並び、研究員が子供たちへ一つずつ紹介している。
「例えば、これは人間の身体に使われる材料について研究したものです。人工的に作った素材を利用することで、身体の働きを補う技術も研究されているんですよ」
「……へぇ!」
「すごい!」
子供たちが興味深そうに声を上げた。
沙都子も展示物へ顔を近づけ、研究員の説明に耳を傾けている。
「……では、こういうものを使えば、怪我をした人も元気になれるんですの?」
「そうですね。まだ研究段階のものも多いですが、将来的には役立つかもしれません」
「……なるほど」
沙都子は満足そうに頷いた。
一方、梨花は少し離れたところで、別の展示を眺めていた。
そこには、人間の筋肉や神経の働きを説明する図が並んでいる。
筋肉の動き。
神経の伝達。
そして、身体の機能を回復させる研究。
そのどれもが、かつて梨花が知っていた鷹野の研究とは、大きく異なっているように思えた。
この世界の鷹野は、本当に医学の発展を目指しているだけなのだろうか。それとも、同じ目的に向かっていても、以前とは異なる手段を選んだのだろうか。
梨花には、まだ判断できなかった。だからこそ、もう少し知りたい。
せめて、あの女性が研究所の奥で何をしているのかだけでも。
「……みぃ」
梨花は小さく息を吐いた。
けれど、今はその時ではない。梨花は再び沙都子の隣へ戻り、研究員の説明に耳を傾けることにした。
§
その頃、研究所の警備室では、数人の職員が監視装置の前に集まっていた。
壁には施設の配置図が掲げられ、机の上には各区画からの報告書が並んでいる。その中央に、富竹ジロウの姿があった。
「……なるほど」
富竹は資料へ目を落とした。
「それで、不審な人物が入り込んだ可能性があるということだね?」
「はい。ただし、まだ断定できる状況ではありません」
警備担当者が答えた。
「施設の一部で、通常とは異なる動きが報告されています。巡回していた職員が、建物の外壁付近に何者かの姿を見た可能性があると」
「……外壁?」
「ええ。ただ、見間違いという可能性もありますし、今のところ身元は確認できていません」
富竹は眉を寄せた。
「……そうか」
ここは、国家から支援を受けている重要な研究施設である。機密性の高い研究も行われている以上、部外者が自由に出入りできる場所ではない。
しかも、今日は子供たちが訪れていた。
万が一、何か問題が起きれば、研究所の職員だけではなく、見学者たちまで巻き込まれる可能性がある。
「……分かった。僕も直接確認してこよう」
「……よろしいのですか?」
「ああ。何事もなければ、それでいいんだからね」
富竹は穏やかに答えた。しかし、その表情には、先ほどまで子供たちを笑わせていた時とは違う厳しさが浮かんでいた。
「それと、見学者たちの安全は引き続き確保しておいてくれ。もし本当に侵入者がいるなら、子供たちを近づけるわけにはいかないからね」
「承知しました」
富竹は頷くと、部屋の奥に置かれた装備保管棚へ歩み寄った。
そこには、先ほどまで左腕に装着していた円形シールドが収められている。富竹は盾を手に取ると、固定具を確かめながら左腕へ装着した。
濃紺の外輪。鈍い銀色の表面。そして、中央に配された赤い日章。
富竹は軽く腕を動かし、装着具合を確認した。
「……それじゃあ、行ってくるよ」
警備担当者たちが頭を下げた。
富竹は扉へ向かい、研究所の奥へ歩き出した。
§
一方、圭一は研究所の建物の側面に張りついていた。
「……ふぅ」
ゆっくりと息を吐く。
先ほどまでとは、周囲の雰囲気が明らかに違っていた。窓が少なく、外から内部の様子を確認できる場所も限られている。警備員の姿も見かけるようになり、これまでの研究棟とは随分と印象が違っていた。
「……なるほどなぁ。こういう場所もあるわけか」
圭一は小さく呟いた。
研究所なのだから、一般の見学者が入れない区画があるのは当然だろう。しかし、先ほど研究員たちが話していた第二研究部門や、鷹野が入っていった区画については、まだ何も分かっていない。
「……ったく。調べりゃ調べるほど、分かんねえことが増えるなぁ」
圭一は苦笑した。
それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかなかった。
間宮律子が受けたという試験。
あの異常な身体変化。
そして、研究所との関係。
それらを確かめるために、今日ここへ来たのである。
「……さて、と」
圭一は建物の奥へ目を向けた。
そこには、研究棟と別の施設を繋ぐ通路が伸びている。外から見える範囲では、出入りする職員の数も少なかった。
「……もうちょっとだけ、調べてみるか」
圭一は小さく頷いた。
しかし、その時。
「……ん?」
遠くの建物から、何かの音が聞こえてきた。金属製の扉が閉まる音。続いて、複数の足音。圭一は一度動きを止め、周囲を確かめた。
「……まあ、研究所だしな」
そう呟きながらも、自然と身を低くする。どうやら、この先では少し慎重になった方がよさそうだった。圭一はそっと息を吐き、建物の奥へ移動を始めた。
その頃。別の通路では、円形の盾を装着した一人の男が、警備担当者から伝えられた場所へ向かっていた。
キャプテン・トミタケ。
富竹ジロウは、周囲の様子を確認しながら、研究施設の奥へと歩みを進めていた。
果たして、本当に侵入者がいるのか。
そして、いるとすれば、何者なのか。
今の富竹には、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、研究所の安全を確かめる必要があるということだけだった。
富竹は左腕の盾へ目を向けた。
「……さて」
そして、静かに呟いた。
「……何事もなければ、いいんだけどね」
その時、富竹の向かう先では、赤と青の蜘蛛男が、研究所の奥へと姿を消そうとしていた。
二人が顔を合わせるまで、そう時間は掛からなかった。
<次回予告>
次回、「スパイダーマンvsキャプテン・トミタケ」