騒がしく、楽しい朝が終わり、先生に言われた通りに席に着く。転校生といえば、初日はウハウハに持ち上げられるというもの。圭一はソワソワとしながら、周りの視線や雰囲気を伺う。朝礼中にも多少なりとも視線を感じていた。
朝礼はすぐに終わり、担任が教室を出ていく。
「…………」
圭一は静かに待った。
三秒。
五秒。
十秒。
誰も来ない。
「…………あれ?」
後ろでは男子数人が昨日の野球中継について話していた。窓側では女子たちが何かの雑誌を囲んでいる。別のところでは次の授業の宿題を見せ合っている者までいる。
誰一人として、転校生の圭一を囲みに来ない。
「いやいやいや……」
圭一は頬杖をつきながら、さりげなく周囲を見る。
転校生なのだ。東京からやって来た。しかも自分で言うのもなんだが、話題の一つや二つにはなるはずである。
普通ならば、
『東京ってどんなところ?』
『前の学校では何してたの?』
『彼女いるの?』
などと質問攻めにされ、その中心で圭一が華麗に受け答えをする。そんな展開を密かに想像していた。
しかし現実は残酷だった。
「……誰も来ねえ」
圭一が小さく呟く。隣の席で教科書を出していたレナが、その声を聞いて顔を上げた。
「どうしたの、圭一くん?」
「いや……なんでもない」
「なんでもない顔じゃないかな。かな」
「ちょっとくらいさ……こう……転校生を歓迎しようとか、ないのか?」
レナは一瞬ぽかんとしたあと、口元を押さえて笑った。
「もしかして圭一くん、囲まれるの期待してた?」
「ち、違う!」
「顔に書いてあるよ」
「書いてねえ!」
そこへ前の席から魅音が振り返った。
「そりゃ仕方ないって。ここ最近、転校生多いもん」
「……多い?」
「研究所とか企業の人が増えたからさ。親の仕事で引っ越してくる奴、結構いるんだよ。圭一で今月何人目だっけ?」
「四人目だったかな」
レナが指を折りながら数える。圭一の顔から期待が消えた。
「四人目……」
「だからみんな慣れちゃってるんだよ」
魅音は面白そうに笑う。
「残念だったねぇ。転校生様」
「くそっ……俺の輝かしい転校初日が……」
「何を期待してたの?」
レナが優しく圭一に問いかける。それを必死そうに答える圭一。
「もっとこう、質問攻めとかさ!」
「じゃあおじさんが質問してあげよっか?」
魅音は机に肘をつき、わざとらしく身を乗り出した。
「前原圭一君、ズバリ君の好きな女の子のタイプは?」
「お前、そういう質問しかないのか!」
教室に笑い声が広がる。
圭一が望んでいた「転校生としての注目」とは少し違ったが、結局のところ彼は早くもクラスの空気に馴染みつつあった。
午前の授業も特に問題なく進んだ。新しい学校、新しい教室、新しい教師。圭一は最初こそ周囲を気にしていたが、一時間、二時間と過ぎていけばそんなものにも慣れてくる。唯一妙だったのは、時折身体が妙に軽く感じることだった。
階段を上る時もそうだった。普段なら多少は脚に重さを感じるはずなのに、今朝から妙に身体がよく動く。昨日の引っ越し作業で疲れているはずなのに、むしろ普段より調子がいい。
だが圭一は、それを深く考えなかった。
「筋トレの成果だな」
程度にしか思っていない。
昼休みになると、圭一はレナと魅音に連れられて校舎の外へ出た。新校舎と旧校舎、その向こうには小学校側の校舎があり、広い中庭では年齢の違う生徒たちが思い思いに昼休みを過ごしている。
「おーい、梨花ちゃーん、沙都子ー!」
魅音が大きく手を振る。
小学校側から、梨花と沙都子がこちらへ走ってきた。
「みー。魅ぃなのですよ」
「お待たせしましたわ!」
沙都子はそのまま圭一の前まで来ると、腕を組んで胸を張った。
「圭一さん。朝以来ですわね」
「おう」
「ところで、転校初日はどうでしたの?」
「聞くな」
「おや? 何かありましたの?」
魅音が横から笑いを堪えながら口を挟む。
「圭ちゃんがさぁ、転校生だからクラス中の人気者になれると思ってたらしいよ」
「魅音!」
「まあ!」
沙都子が満面の笑みを浮かべた。
「なんという自意識過剰でございまことよ!」
「うるせえな!」
「さすが東京から来た都会人ですわね。自分が世界の中心だと思っていらっしゃる」
「そこまで言ってねえ!」
レナと魅音が笑う。梨花も口元を押さえながら、楽しそうに二人のやり取りを見ていた。
「沙都子、お前朝から俺に喧嘩売ってるだろ」
「何を仰いますの。私は事実を申し上げているだけですわ」
「ほーう」
圭一はゆっくりと沙都子に近づく。
沙都子の笑顔が少し引きつった。
「な、なんですの、その顔は」
「お前さぁ……先輩に対する敬意ってもんを教えてやらないとな」
「ちょ、ちょっと!」
圭一は沙都子の頭に手を置くと、その金色の髪をわしゃわしゃと撫で回した。
「ほらほらほら!これが前原圭一の歓迎だぜ!」
「や、やめなさいまし! 髪が乱れますわ!」
「生意気な後輩にはこれくらいで十分だ!」
「圭一くん、ほどほどにね」
レナが苦笑する。沙都子は圭一の腕を掴み、必死に頭から手を引き剥がそうとした。
「もう! いい加減に――」
そこで、沙都子の声が止まった。
圭一も手を動かすのを止める。
「……ん?」
「……圭一さん」
「なんだよ」
「手を離してくださいませ」
「離してるぞ?」
「離れてませんわよ!」
「は?」
圭一は手を上げようとした。
上がらない。
正確には、腕そのものは上がる。しかし手のひらに沙都子の髪がついてくる。沙都子の頭まで一緒に引っ張られた。
「いたたたたた!」
「わ、悪い!」
圭一は慌てて手を下ろす。
「何してますの!」
「いや、俺何もしてねえって!」
「髪を掴んでいるではありませんか!」
「掴んでねえよ!」
圭一は手を開いて見せようとした。だが、その掌には沙都子の髪が何本もぴったりと張り付いている。指の間にも絡んでいる。
「……なんだこれ?」
魅音が近づいて覗き込む。
「静電気じゃない?」
「静電気でここまでくっつくか?」
「圭一くん、力入れてるんじゃないのかな、かな?」
「入れてないって!」
沙都子も最初は怒っているだけだった。
だが、数十秒経っても取れない。圭一が指を開いても、髪はついたまま。沙都子が少し頭を引くだけで、頭皮まで引っ張られる。
「い、痛いですわ!」
「待て待て! 動くな!」
「圭一さんが離してくださいませ!」
「だから離れねえんだって!」
最初は笑っていた魅音も、次第に表情を変えた。
「……マジでくっついてる?」
「だからさっきから言ってるだろ!」
レナが圭一の手と沙都子の髪を慎重に見る。
「圭一くん、指一本ずつ動かしてみて」
「こうか?」
親指。
離れない。
人差し指。
これも離れない。
中指も同じ。
まるで圭一の掌そのものが接着剤になったように、沙都子の髪が貼り付いている。
「……なにこれ」
圭一の顔から笑いが消えた。
「圭一さん……」
沙都子の声も弱くなる。
「これ、本当に取れませんの?」
「……ちょっと待ってくれ」
圭一は反対の手で自分の手と沙都子の髪の間を剥がそうとする。
だが、剥がれない。
無理に引けば沙都子が痛がる。
「痛っ!」
「悪い!」
圭一はすぐに止めた。
少しずつ周囲にも人が集まり始める。
「どうしたの?」
「何やってんだ?」
そんな声が聞こえてくる。沙都子の顔が赤くなった。恥ずかしさと痛み、それからどうにもならない不安が混ざり始めている。
「圭一さん……早くしてくださいませ」
「分かってるって」
「私、髪を伸ばしているんですのよ……」
「……」
圭一は言葉を失った。数分後、保健室。養護教諭まで呼んで試したが、結果は同じだった。
水。
石鹸。
油。
何を使っても簡単には離れない。髪の毛は圭一の掌に奇妙なほど強く貼り付いていた。
「これは……切るしかないわね」
教師の言葉に、沙都子の顔が青ざめた。
「え……」
「全部じゃないわ。くっついているところだけよ」
「でも……」
沙都子は自分の髪へ視線を落とした。普段なら強がって、すぐに何か言い返しただろう。
しかし今ばかりは、声が出ない。やがて唇を噛み、目元に涙が滲んだ。
「……嫌ですわ」
圭一は自らの好意で胸を痛ませた。自分がふざけて頭を撫でただけだった。それだけのはずだった。
「沙都子……」
「だって……せっかく伸ばしてましたのに……」
声が震える。
圭一は何も言えなかった。結局、髪は圭一の手に張り付いた部分だけを慎重に切ることになった。ほんの一束。それでも沙都子にとっては大切な髪だった。
鋏が入る。
髪が落ちる。
圭一の掌には、切られた金色の髪だけがそのまま残った。
沙都子は堪えていたが、最後にはぽろぽろと涙を零した。
「……ごめん」
圭一は小さく言った。
「俺……本当に、そんなつもりじゃ……」
「分かってますわ……」
沙都子は涙を拭いながら答えた。
「圭一さんがわざとしたんじゃないことくらい……」
それでも悲しいものは悲しい。圭一は自分の右手を見つめた。掌に張り付いた髪。剥がそうと指で触れる。今度は、簡単に取れた。
「……え?」
床へ落ちた金色の髪を見て、圭一は固まった。さっきまで何をしても取れなかった。
それが今は、何事もなかったように離れている。
「圭一くん?」
レナが声をかける。圭一は答えなかった。手のひらを開く。
閉じる。
もう一度開く。何も変わったところはない。普通の手。
少なくとも、見た目は。
圭一の脳裏に、昨日の出来事が浮かんだ。
黒い蜘蛛。
手の甲。
小さな痛み。
そして、二つの噛み跡。
「……まさか」
昨日まで確かに普通だったその手を、初めて少しだけ恐ろしく感じていた。
その日の放課後。圭一は誰とも寄り道をせず、まっすぐ雛見沢の自宅へ帰った。朝はあれほど新しい学校に浮かれていたというのに、今はもうそんな気分ではない。頭に残っているのは、保健室で涙を堪えていた沙都子の顔ばかりだった。自分はただふざけただけだった。少し頭を撫でて、からかって、それで終わるはずだった。それが結果として、大切に伸ばしていた髪を切らせた。
「……最悪だな、俺」
玄関を開けて自室へ戻ると、鞄を机の脇へ放り、圭一は椅子にも座らず自分の右手を見つめた。見た目は何も変わらない。指も爪も、掌の皺も昨日までと同じ。それなのに、あの時は確かに沙都子の髪が離れなかった。
「なんだったんだよ、あれ……」
圭一はまず机の上にあったノートへ手を置いた。何も起きない。掌を上げても、ノートはそのまま机の上に残っている。
「……普通じゃねえか」
次に鉛筆立て。缶。教科書。何度か掌を押しつけてから持ち上げてみるが、どれも普通に離れる。沙都子の時だけ偶然だったのか。髪が絡まっただけだったのか。そう思いたかった。
「いや……でも、あれは絡まったって感じじゃなかったよな」
圭一は眉をひそめた。手で掴んでいたなら分かる。しかし、あの時は指を開いても離れなかった。まるで掌そのものが接着剤になったようだった。
ふと、視線が壁へ向かう。
「……さすがに、これはないよな」
圭一は立ち上がり、壁の前まで歩いた。白い壁紙。何の変哲もない自室の壁である。圭一は少し迷ってから右手をぺたりと押しつけた。
何も起きない。手を離す。
普通に離れた。
「だよな」
少しだけ安心する。だが、そこで終わらせる気にはなれなかった。圭一はもう一度手をつけた。今度はさっきより強く押す。
それでも何も起きない。
「……くっつけ」
自分でも何を言っているのかと思った。
「くっつけ……って」
その瞬間だった。
掌に妙な感覚が走った。
痛みではない。痺れでもない。指先から掌にかけて、無数の細かな何かが壁を掴んだような、奇妙な感触。
圭一はゆっくりと手を引いた。
離れない。
「……え?」
もう一度。
少し力を入れて引く。
それでも離れない。
「おいおい……」
今度は強く引いた。
腕が引っ張られるだけで、掌は壁から動かなかった。
「マジかよ……」
圭一はしばらく固まっていたが、やがて左手を使って右手首を掴み、思い切り引っ張った。
それでも取れない。
「どうなってんだ、これ」
焦りが込み上げる。昼間の沙都子と同じだ。今度は髪ではなく、壁。
「離れろ、離れろって……!」
圭一が強く意識した瞬間、ふっと掌の感覚が消えた。右手が壁から外れ、勢い余って身体が後ろへよろける。
「うわっ!」
尻餅をつく寸前でどうにか踏ん張る。圭一は目を丸くしたまま、自分の手と壁を交互に見た。
「……今、俺が離そうと思ったから離れた?」
試しに、もう一度。右手を壁へ置く。
「くっつけ」
ぴたり。
今度はすぐに感覚が来た。
「離れろ」
すっ。
離れる。
「……」
圭一は完全に黙った。
偶然ではない。
自分の意思で、くっつけたり離したりできる。
そこまで分かると、今度は別の疑問が浮かんできた。
「……どれくらい強いんだ?」
圭一は壁に右手をつけたまま、少しずつ身体を横へ倒してみる。普通なら当然、足の踏ん張りが利かなくなって倒れる角度まで身体を傾ける。
だが、倒れない。
右腕一本で身体が支えられている。
「……嘘だろ」
さらに傾ける。
肩に自分の体重がかかる。腕の筋肉が少し張る。だが、掌は微動だにしない。
ついには、身体のほとんどを右手だけで壁に預けるような格好になった。
「俺、今……片手だけで支えてるよな」
圭一は恐る恐る左手も壁へつけた。
ぴたり。
両手が吸い付く。
「じゃあ……足も?」
右足を壁へ当てる。
意識する。
くっつく。
左足も同じ。
その瞬間、圭一の身体は床から完全に離れた。
「…………」
両手両足で壁に張り付いている。
本来ならあり得ない姿勢。
圭一は自分の下にある床を見た。
「……俺、壁にくっついてる」
声に出してみても、意味が分からない。
少しだけ右手を上へ動かす。
左足を上へ。
続いて左手。
右足。
身体が一段、壁を上った。
「……登れる?」
もう一度。
手。
足。
手。
足。
気がつけば、圭一は床から一メートル以上高いところにいた。
「うわ……」
さっきまでの罪悪感や不安を押し退けるように、ほんの少しだけ興奮が湧いてくる。普通なら絶対にできない。壁をよじ登るというより、平地を這うような感覚に近い。
圭一はさらに上へ進んだ。
二メートル。
天井が近づく。
「……すげえ」
思わず笑いそうになる。
けれど、その直後。
圭一は下を見た。
床が遠い。
ほんの数メートルしかないはずなのに、その景色が急に現実味を帯びた。
自分は今、壁に張り付いている。
人間がするようなことではない。
「……俺、何してんだ?」
圭一の顔から笑みが消えた。
右手を見る。
左手を見る。
壁に吸い付いている。
昼間、沙都子の髪を離せなかったのも、これだったのか。
胸の奥に重いものが戻ってくる。
「……これのせいで、沙都子の髪……」
楽しい。確かに、少しだけ楽しい。
でも同時に、怖かった。
この力が何なのか分からない。いつからこうなったのかも分からない。そして一歩間違えば、自分以外の誰かを傷つける。
圭一はゆっくりと壁を下りた。今度はさっきまでのような面白半分ではなく、一つ一つの動きを確かめるように慎重に手足を動かす。
床へ戻る。
両足がついた瞬間、妙な安心感があった。圭一はその場に座り込み、しばらく自分の掌を見つめていた。
「……なんなんだよ、これ」
答える者はいない。
ただ部屋の上の方では、昨日自分を噛んだ蜘蛛が作った細い巣だけが、夕日の光を受けて僅かに揺れていた。