本日、二話分投稿です。
「圭ちゃん、もう少し寄ってください。狭いです」
ガタンと、バスが揺れる。圭一と詩音は雛見沢行のバスに乗っていた。いつもならば、圭一は徒歩か走りで登下校をしていた道ではある。登校初日以降、蜘蛛に嚙まれて以降の圭一は超人的な体力も得たので、5キロほどある道を走っていた。しかし、そんな一般的な感覚も忘れていた圭一は詩音とともに圭一宅に行くのにあろうことか、歩きで移動しようとしていた。当然、詩音は圭一のデリカシーのなさにドン引きしつつ、バスを使うことになった。
「なんでついて来るんだよ」
不満そうに言う圭一。一方、詩音はニコニコだった。
「だから、さっきも言ったじゃないですか。圭ちゃんの家に行きたいんですよ」
「それほんとか?来ても、あまり冴えない家だぞ?親もこの時間ならいるかもしれないし」
「まあ細かいことはいいじゃないですか。あんまり同じ質問ばかりすると嫌われますよ?」
「へいへい」
圭一は長い溜息を吐いた。ある意味、昨日の夜に詩音に正体がバレたのはそれだけ面倒ごとが増えたという事実を実感していた。
バスを降りてから、二人は雛見沢ニュータウンの坂道を歩いた。
興宮とは違い、こちらは夕方になると随分静かだった。道路沿いには新しく建てられた住宅や集合住宅が並んでいるが、少し視線を上げれば、その向こうには山の緑が残っている。さらに遠くには、巨大なダム施設の一部も見えた。
「へぇ。圭ちゃん、こんなところに住んでるんですね」
「こんなところって何だよ」
「いえ。もっと田舎のぼろい一軒家を想像してました」
「ここも十分田舎だろ。まあ建物が立ち始めたから...微妙ではあるが」
「でもこんなにマンションあったんですね。私も雛見沢がダムに沈んでからはあまり行く機会がなかったので」
詩音が見上げる。
「詩音は、雛見沢に何かしらの縁があったのか?」
「ええ、ありますよ。私、園崎家ですから。元々は雛見沢に住んでたんです」
「ほんとか?」
「ええ。お姉から全く聞いてなかったんですか?」
「ああ。魅音のやつ、ずっと俺のいじりやらであんまり魅音自身の話はしてなかったな」
「ふふ、お姉らしいです。好きな人に強がって」
「?」
圭一は詩音の意図を掴めずにいた。文脈が飛んでいたからか、あるいは詩音は独り言っぽく行っていたから、圭一はとりあえずスルーすることにした。
「それじゃ、行きますか、圭ちゃん☆」
五階建てのマンションへと入る二人。ダム開発以降、この辺りへ移り住んできた研究者や技術者、その家族などを想定して建てられた住宅の一つである。
圭一は入り口へ向かいながら、まだ少し不安そうに辺りを見た。
問題は両親だった。
詩音を連れているところを見つかれば、説明が面倒になる。特に父親は面白がるに決まっているし、母親も一度興味を持てば妙なところまで聞いてくる。
「頼むから、親がいたら変なこと言うなよ」
「変なことって?」
「昨日の夜がどうとか、俺が覆面つけてたとか」
「じゃあ『圭ちゃんに家まで連れ込まれました』くらいにしておきますね」
「もっと悪いじゃねぇか!」
詩音はくすくす笑った。
部屋の前まで来る。圭一は一度耳を澄ませてから鍵を開けた。
「ただいまー」
返事はない。
玄関には父親の靴も母親の靴もなかった。
圭一はほっと息を吐いた。
「……よし。いない」
「そんなに私を見られたくないんですか?」
「違う。後が面倒なんだよ」
「ふーん」
その返事が妙に含みのあるものだったが、圭一は無視した。
靴を脱ぎ、詩音を中へ通す。
「まあ、上がれよ」
「お邪魔しまーす」
詩音は遠慮なく入ってきた。
そして、本当に遠慮がなかった。
「あ、ここリビングですか?」
「おい」
「広いですねぇ。こっちは?」
「勝手に開けんな」
詩音は廊下の扉へ手を伸ばしかけ、圭一に止められた。
「何なんだよお前、人ん家来て早々」
「だって気になるじゃないですか。圭ちゃんが普段どんな生活してるのか」
「観察対象みたいに言うな」
「似たようなものですよ」
「帰れ」
口ではそう言いながらも、本当に追い返す気はなかった。
結局、圭一は詩音を自分の部屋へ連れていった。
扉を開けた瞬間、詩音が足を止める。
「へぇ……」
「何だよ」
「思ったより普通ですね」
「どういう部屋想像してたんだよ」
机。本棚。ベッド。床にはダンベルが置かれ、部屋の隅にはベンチプレス台もある。引っ越してからまだそれほど経っていないこともあり、段ボールもいくつか残っていた。
ただ、よく見れば普通とは言い難い。
四月の終わりだというのに窓は大きく開けられ、机の脇では扇風機が窓へ向かって回っていた。風を浴びるためではない。部屋の空気を外へ逃がすためだ。
机の上にはビーカーやガラス棒、小さな計量容器。使いかけの紐や細いロープが何本も転がっている。その中には途中で固まって棒のようになったものや、逆にべたべたして紙へ張り付いたまま剥がれなくなったものまであった。
そして何より多いのは本だった。
蜘蛛の図鑑。日本に生息する蜘蛛をまとめた本。蜘蛛の巣の構造を扱ったもの。生物の筋肉や神経、反射について書かれた本。高校生向けの化学参考書から、合成繊維や樹脂、接着剤についての一般書まで、統一感があるようでない本が机と本棚の一角を占領していた。
詩音が一冊手に取る。
「……圭ちゃん、いつの間にこんな勉強家になったんです?」
「元から馬鹿じゃねえよ」
「そういう意味では言ってません」
「じゃあどういう意味だよ」
詩音は本の山を見てから、机を見る。
「これ、全部あの力について調べるためですか?」
「まあな。壁登れるようになりました、力が強くなりました、はいおしまい、じゃ気持ち悪いだろ」
何が起きたのか。
どこまでできるのか。
何が普通の人間と違うのか。
分からない以上、自分で調べるしかなかった。
詩音は机の端に置かれたビーカーへ手を伸ばしかけた。
「それ触んな」
「危ないんですか?」
「別に爆発はしねえけど、服についたら面倒なのもある」
圭一は机の一番下の引き出しを開けた。
中には教科書ではなく、小瓶や容器が並んでいた。それぞれ圭一の字で簡単なラベルが貼られている。
詩音が眉を上げる。
「隠してるんですか?」
「親に見つかったら絶対うるせえだろ。部屋で何やってるのって」
「それは聞かれるでしょうね」
「だから使う時だけ出して、終わったらしまう。窓も開ける。アセトン使うと臭いきついし、蒸気こもるからな。扇風機も外向き」
「意外とちゃんとしてるんですね」
「意外は余計だ」
圭一は引き出しのさらに奥から、一つの瓶を取り出した。
中には黒い蜘蛛がいた。
赤みがかった特徴的な模様を持つ、小さな蜘蛛。
詩音の顔から笑みが消えた。
「……これですか?」
「ああ」
瓶を机の上へ置く。
「俺を噛んだ奴」
詩音は顔を近づける。蜘蛛は瓶の中でじっとしていた。
「普通の蜘蛛には見えますけど」
「俺にもそう見える」
「どこで捕まえたんです?」
「この部屋。引っ越してきた日にいたんだよ。噛まれた後、一回逃げられたけど、数日してまた見つけた」
詩音は瓶を持ち上げようとしたが、すぐに圭一が止めた。
「開けんなよ」
「開けませんよ。私まで壁を登り始めたら困りますし」
「俺も困る」
圭一は瓶を戻した。
その横には、小さなケースが置かれている。
「それは?」
「こいつが作った糸」
詩音がケースを見る。
「蜘蛛の糸?」
「ああ。普通の蜘蛛の巣だと思ってたんだけど、全然違った」
圭一は保存してある糸の一部を見せる。照明に透かすと、細い糸がわずかに光った。
「やたら丈夫で簡単には切れない。それに伸びるし、物へ絡むと妙に外れにくい」
「それで昨日の縄を?」
「最初はな」
「最初は?」
圭一は部屋の隅を指した。
そこには何本もの縄がまとめて置かれていた。
太すぎるもの。表面だけ白く固まっているもの。途中から形が崩れているもの。壁へ粘着した跡が残っているものまである。
「こいつ一匹が出せる量なんて知れてるんだよ。いくら丈夫でも、蜘蛛の糸だけで俺が使う長さの縄なんか作れない」
圭一は一本を持ち上げた。
「だから、似たものを人工的に作れないか試した」
詩音が圭一を見る。
「自分で?」
「他に誰がやるんだよ」
「圭ちゃん、そういうことできたんですね」
「だから俺を何だと思ってんだ」
圭一は机の上にあった二冊の本を開いた。
「最初は蜘蛛の糸そのものを調べたんだよ。タンパク質がどうとか、繊維がどういう構造だから強いとか。でもそんなもん家で再現できるわけねえだろ」
「でしょうね」
「だから考え方を変えた。別に本物の蜘蛛糸を作る必要はない。俺が欲しいのは、軽くて、ある程度伸びて、切れにくくて、先っぽが物にくっつく糸だ」
詩音は頷いた。
「なるほど」
「それで合成繊維とか樹脂とか接着剤とか調べてたら、ポリスチレン系の材料をアセトンみたいな溶剤で――」
「はいはい」
「まだ二行しか説明してねえぞ!」
「長くなる顔してます」
「顔で判断すんな!」
詩音は机へ肘をつく。
「つまり?」
「つまり、普通の材料でも、組み合わせれば粘りのある樹脂っぽいものは作れる。でもそれだけじゃ縄にはならないし、強度も全然足りない」
圭一はケースに入れた蜘蛛糸を指した。
「だから、こいつの糸をそのまま縄にするんじゃなくて、糸から取った少量の素材を混ぜたり、表面に使ったり、別の繊維と合わせたりして試してる」
「それで成功したんです?」
「見れば分かるだろ」
圭一が床を指した。
失敗作の山。
「十二連敗中」
「結構負けてますね」
「うるせえ」
もっとも、全部が完全な失敗というわけでもなかった。
圭一は一本の細い縄を持ち上げる。
昨日使ったものだった。
見た目は普通のロープに近いが、表面には僅かに白っぽい繊維が絡んでいる。
「今のところ一番マシなのがこれ。芯は普通の縄だけど、その周りを俺が作ったやつで補強してる。先端には粘着する部分もつけた」
「じゃあ完全に蜘蛛の糸じゃないんですね」
「当たり前だ。蜘蛛一匹に夜勤させ続けても足りねえよ」
詩音が吹き出した。
「可哀想な蜘蛛さんですね」
「だから働かせてねえって」
詩音は縄を受け取る。
「これで昨日、柱に引っ掛けて飛んでたんですね」
「飛んでたっていうか……振られてたっていうか」
「結構格好よかったですよ?」
「本当か?」
「仮面衣装以外は」
「一言多い」
詩音は笑いながら縄を戻した。
そのとき、机に置かれていた二つの小さなビーカーへ目が向いた。
片方は透明に近く、もう片方は白く濁っている。
「圭ちゃん」
「ん?」
「この二つを混ぜたら、さっき言ってたすごい糸になるんですよね?」
「いや、それは――」
詩音はビーカーを一つずつ持った。
「やってみていいですか?」
「待て、それは今まだ配合――」
言い終わる前だった。
「いいですか?」
そう言いながら、もう混ぜていた。
「聞けよ!!」
一瞬。
何も起きなかった。
詩音が首を傾げる。
「……普通ですね」
「だからそれ、適当に混ぜると――」
ぶくっ。
白い塊が盛り上がった。
「……え?」
さらに膨らむ。ぶくぶくと粘ついた泡のようなものがビーカーの縁まで上がり、一気に溢れ出した。
「うわっ!」
「だから言っただろ!」
詩音が慌ててビーカーを机へ置く。しかし遅かった。白い粘液状の塊が机の上へ落ち、紙へ広がり、詩音の指と袖口にまで付着した。
しかも空気に触れた部分から急速に粘りが増していく。
「ちょ、ちょっと圭ちゃん! 取れないんですけど!」
「動かすな動かすな! 余計広がる!」
「そんなこと言ったって――あっ」
詩音が反射的に反対の手を使った。今度は両手がくっついた。
「…………」
「…………」
詩音がゆっくり圭一を見る。
両手の間には白い粘着物が糸のように伸びている。袖口にも小さな白い塊がつき、机の紙まで一枚ぶら下がっていた。
圭一は数秒耐えた。
だが、無理だった。
「ぶっ……」
「笑いましたね?」
「いや……っ、お前……聞いてから混ぜろよ……!」
「私はちゃんと『やってみていいですか』って聞きました!」
「答える前にやってんじゃねえか!」
「だって圭ちゃんの説明長いんですもん!」
「それ俺のせいか!?」
圭一はとうとう腹を抱えて笑った。
昨日、あれだけ余裕ぶって自分の正体を暴いた女が、今日は白い粘着物を両手につけて困り果てている。
あまりに締まらなかった。
「笑ってないで助けてくださいよ!」
「分かった分かった……動くなって。今取るから」
「服についたんですけど」
「知らねえよ。だから触んなって言ったんだろ」
「圭ちゃんの実験、危なすぎません?」
「お前が勝手に混ぜたんだろうが!」
しばらくして、ようやく詩音の手から大部分を取り除く。
机の一角には白い失敗作が新たに一つ増えていた。
詩音がそれを恨めしそうに見つめる。
「……これも失敗作ですか?」
「十三号だな」
「私の名前付けないでくださいよ」
「詩音一号、なんてな」
「怒りますよ」
そんなやり取りをしながらも、詩音は机の上を改めて見渡した。
本。図鑑。ビーカー。薬品。何本もの失敗した縄。
そして瓶の中の蜘蛛。
先ほどまでとは少し違う目だった。
「圭ちゃん」
「ん?」
「これ、全部一人でやったんですよね」
「まあ」
「夜に出るだけじゃなくて?」
圭一は肩を竦めた。
「最初はこの蜘蛛の正体とか、自分の状態を調べるためにいろいろ手を出してたんだ。でも、調べていく内に俺のパワーとか以外にも、意外と工夫して使える物が多いって気づいたんだよ。それに昨日みたいに人数多い奴が相手なら、離れたところから武器取れた方がいいし、高いところへ行くのにも使える。せっかくこんな力あるんだから、使えるもんは使いたいだろ」
詩音はしばらく黙っていた。
「……本気なんですね」
「何が?」
「人を助けるの」
「別に、そんな大げさなもんじゃねえよ」
圭一は少し目を逸らした。
詩音は何も言わず、笑った。
それから圭一は、自分に起きたことをもう一度、今度は河川敷で話した時より詳しく説明した。
沙都子の髪へ手が張り付いたこと。壁へ登れるようになったこと。本棚が簡単に動いたこと。ベンチプレスの重量がまるで負荷にならなかったこと。怪我の治りが異様に早いこと。そして、危険が迫った時に現れる、あの妙なむず痒さ。
詩音は途中から冗談を挟まなくなっていた。
「じゃあ、本当に昨日見たことだけじゃないんですね」
「まあな」
「壁、登ってみてもらえます?」
「ここで?」
「ここで」
圭一は少し迷った。だが、今さら隠す意味もない。
机から離れ、壁へ掌を当てる。そのまま右足を上げる。
詩音の目の前で、圭一の身体が壁を登っていった。
「…………」
圭一は天井近くまで来ると、壁へ横向きに張り付いたまま下を見る。
「こんな感じ」
「すご……」
詩音が珍しく素直な声を出した。
圭一は床へ下りる。
「昨日もほんの少しだけ見てただろ?」
「夜でしたし、あの時は状況が状況でしたから。でも明るいところで見ると、やっぱり変ですよ」
「変言うな」
「褒めてます」
「褒め方下手すぎるだろ」
詩音は少し考え込んだ。
「力も強い。身体能力も高い。壁にも張り付ける。危険まで何となく分かる。それに、自分で蜘蛛の糸っぽいものまで作り始めてる……」
指を折りながら整理していく。
圭一はベッドの端へ腰掛けた。
「だから最近、夜に出てるんだよ。最初はそこらの不良くらいだったけど」
「昨日みたいな人たちまで出てきた」
「ああ」
「それ、結構危ないですよね」
「……まあ」
昨日の相手は、それまでとは違っていた。
人数も多く、武器も持っていた。詩音がいたから飛び込んだものの、一つ間違えればどうなっていたか分からない。
詩音は試作ロープを見つめた。
「圭ちゃん、一人で全部やるつもりです?」
「全部って?」
「町を見回って、悪い人を見つけて、戦って、逃げられないようにして、警察までどうにかする。それに道具まで一人で作る」
「……そこまで考えてない」
「でしょうね」
即答だった。
「おい」
「だって圭ちゃん、考えているように見えて、まず格好からして何も考えてないじゃないですか」
「また仮面かよ」
「仮面だけじゃありません」
詩音は圭一の方を向く。
「顔を隠すなら、声も隠した方がいい。服も普段着じゃすぐ特徴を覚えられる。昨日みたいな相手なら、圭ちゃん自身が強くても道具はあった方がいい。それに、どこで何が起きてるのか知らなかったら、毎晩適当に歩き回るだけですよ?」
圭一は少し黙った。
言われてみれば、その通りだった。
今までの圭一は、本当に思いつきで動いていた。
夜の興宮を歩く。事件を見つける。止める。
それだけ。
「……じゃあ、どうしろってんだよ」
「ちゃんとやればいいんですよ」
「何を」
詩音は少し笑った。
「ヒーローを」
「…………は?」
圭一は間抜けな声を出した。
詩音は至って真面目だった。
「今までは、力を持った圭ちゃんが勝手に夜回りしてただけですよね?」
「言い方」
「でも、その力を使って人を助けたいんでしょう?」
「……まあ」
「だったら、中途半端にやるよりちゃんと形にした方がいいと思います」
「形?」
「まず名前」
そこから、詩音の表情に少し楽しそうなものが戻ってきた。
「昨日、圭ちゃんはなんて名乗りましたっけ?」
「いつも名乗ってるのは、えーっと……蜘蛛男とか、仮面男とかか」
「えっ! ヒーローを名乗る者がそんなダサい名前でやって来たんですか!? ありえなーい! これだから圭ちゃんはモテないんですよ」
「ああ、自分でも...そう思うよ」
詩音は腕を組み、少し考え込んだ。
「でも、名前を付けるなら圭ちゃんの特徴が分かるものがいいですね」
「特徴って言ったってなあ……壁登って、力強くて、蜘蛛に噛まれて……」
圭一も腕を組む。
「だったら……壁男」
「却下です」
「早えよ!」
「ただ壁にくっついてる人じゃないですか」
「じゃあ、怪力蜘蛛男」
「もっとダサくなりました」
「うるせえな! じゃあ……蜘蛛仮面」
「昭和の怪人みたいです」
「今昭和だろ!」
「そういう意味じゃありません!」
詩音は呆れたようにため息をついた。
圭一も負けじと考える。
「蜘蛛戦士」
「戦隊ものですか?」
「ウェブマン」
「急に英語になりましたね」
「スパイダーボーイ」
詩音は圭一の顔を見る。
「圭ちゃん、自分でボーイって名乗るんですか?」
「……やっぱなし」
「でしょうね」
「じゃあ、スパイダーヒーロー」
「説明そのものじゃないですか」
「文句ばっかりだな、お前!」
「だって圭ちゃんの案が全部微妙なんですもん」
詩音は楽しそうに笑いながら、手を顎に当てて部屋の中をゆっくり歩き始めた。
「んー……でも、たしかに能力は蜘蛛由来ですし、蜘蛛は残したいですね」
「俺もそう思う」
「蜘蛛……蜘蛛男……」
そこで詩音が立ち止まる。
「あ」
「何だよ」
「蜘蛛男を、そのまま英語にしたらどうです?」
「そのまま?」
「蜘蛛は?」
「スパイダー」
「男は?」
「マン」
圭一は一瞬黙った。
口の中で二つの言葉を繋げる。
「スパイダー……マン」
詩音の目が輝いた。
「それです!」
「……スパイダーマン」
「いいじゃないですか! 短いし、分かりやすいし、圭ちゃんが何者なのか一発で分かります!」
「まあ……確かに」
さっきまで自分で出していた名前より、ずっとましだった。
蜘蛛仮面よりはいい。
壁男よりもいい。
口に出してみる。
「スパイダーマン」
変ではない。
むしろ、妙にしっくり来る。
詩音は満足そうに腕を組んだ。
「いやあ、圭ちゃん。私が居てほんとによかったですね」
「……そこまで言うほどお前一人で考えてねえだろ」
「でも決め手は私です」
「はいはい」
圭一はもう一度、確かめるように呟いた。
「スパイダーマン、か」
今までただの思いつきで夜を走り回っていた自分に、初めて名前が付いた。
そんな感じがした。
「次は格好ですね」
「まだやるのかよ」
「当然です」
詩音は圭一が夜回りで使っている服を見た。
黒いパーカーに、即席の覆面。
「これは駄目です」
「即答すんな」
「だって悪者の方ですよ、これ」
「俺も最初そう思ったよ!」
「もっと見ただけで分かるようにしないと。あ、あの人は悪い人じゃないって」
「そんな服あるのか?」
「作ればいいんですよ」
詩音は当然のように言った。
圭一は眉を寄せる。
「作るって言ったって、俺裁縫なんてできねえぞ」
「園崎家の付き合いなら、服を扱ってるところくらいあります。細かい事情を話さなくても、生地や加工の相談くらいなら何とかなると思いますよ」
「お前、そんなこと勝手にして大丈夫なのか?」
「何でも園崎の名前使うわけじゃありませんよ。そこは上手くやります」
妙に頼もしかった。
「それに昨日の縄」
詩音が試作品を持ち上げる。
「圭ちゃん、これ毎回持ち歩くんですか?」
「今はな」
「邪魔でしょう?」
「めちゃくちゃ。それにたまに勢い余って、自分に当たることがある……」
「だったら、小さくできないか考えましょうよ。必要な時だけ糸を伸ばせるとか」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単じゃないから考えるんです」
圭一はロープを見る。
確かに、このままでは限界がある。
持ち運びにくい。ちょっと移動するのに、投げるたびに回収しなければならない。街中を移動するにも使えるが、取り回しが悪すぎる。
「……手首から出せたら楽なんだけどな」
何気なく言った。
詩音の目が動く。
「それ、いいじゃないですか」
「無理だろ」
「今すぐは」
「今すぐじゃなくても無理だろ」
「圭ちゃん、三週間前までは壁を登るのも無理だったでしょう?」
「それとこれは違う!」
詩音は楽しそうに笑った。その時だった。玄関の方から音がした。
ガチャ。
圭一の顔が固まる。
「…………」
詩音も扉を見る。下から母親の声が聞こえた。
「ただいまー」
「やべっ!」
圭一が飛び上がった。
「何がです?」
「お袋だ、あ、この感じ親父もいる」
「帰ってきたんですね」
「冷静に言ってる場合か!」
続いて父親の声も聞こえる。二人ともいる。圭一にとって、最悪だった。
「詩音、お前ちょっとここいろ!」
「ここにいますよ?」
「そうじゃなくて! 静かに!」
「なんで隠れる必要が?」
「後で絶対面倒になる!」
圭一は慌てて部屋を見回した。
隠れる場所。
押し入れ――ない。
ベッドの下――どう考えても不自然。
クローゼット――もっと不自然。
そもそもなぜ隠す必要があるのか自分でも分からなくなってきた。
その間にも足音が近づいてくる。
「圭一ー? 帰ってるの?」
「帰ってる!」
声が裏返った。
母親の足音が止まった。
「……何その声」
「何でもない!」
詩音が口元を押さえて笑っている。
圭一は睨んだ。
「笑うな!」
小声で言う。その直後。
コンコン。
扉が叩かれた。
「圭一?」
「何!?」
「開けてもいい?」
「駄目!」
即答してしまった。
沈黙。
圭一はしまったと思った。
扉の向こうで、母親と父親が何か小声で話している。
「……圭一」
今度は父親だった。
「何だよ!」
「何か隠してないか?」
「隠してない!」
「じゃあ開けてもいいだろ?」
「…………」
詰んだ。
圭一は詩音を見る。詩音は楽しそうに手を振った。
「開けちゃえば?」
「お前絶対楽しんでるだろ」
「少しだけ」
「少しじゃねえ」
仕方なく圭一は扉へ近づき、ゆっくり開けた。
母親。
その後ろに父親。二人とも圭一の顔を見る。
それから。
部屋の奥を見る。
詩音がにっこり笑った。
「こんにちは。お邪魔してます」
沈黙。
圭一は目を閉じた。
終わった。
母親の表情が、ぱっと明るくなった。
「あら!」
父親も目を丸くする。
「圭一、女の子連れてきたのか?」
「違う!」
何が違うのか自分でも分からないまま否定した。
「学校のお友達?」
「まあ、そんな感じです」
詩音が答える。
「園崎詩音です。圭ちゃん...ごほん、圭一くんとは同級生で、家に誘われました」
おい、と圭一は肘で詩音をつつく。圭一が誘ったのではなく、実質詩音が押し掛けたのに、どういう盛り方なのか。
「あらまあ」
母親は嬉しそうだった。父親まで妙に感心した顔をしている。
「圭一、やるじゃないか」
「何がだよ!」
「東京にいた頃は、女の子を家に連れてくるなんてなかったからなぁ」
「だからそういうんじゃねえって!」
詩音が横で笑いを堪えている。
「圭ちゃん、随分期待されてますね」
「お前は黙ってろ!」
「ふふ、圭ちゃん面白ーい」
揶揄いが増す詩音。圭一はただ天井を見上げた。
頼むからこれ以上広げないでくれ。
「まあまあ、夕飯食べていけば?」
提案する母。詩音は女の子。それに知ったばかりの子に対して何を言っているのか。圭一は呆れすぎて、理解が出来なかった。
「いや、詩音はもう帰るから!」
「圭ちゃんが追い出そうとします」
「ちょ、詩音!」
詩音の演技的な言い方でも本気でお袋は受け止めていた。
「せっかく来てくれたのに失礼でしょう?」
「違うんだって……」
完全に味方がいなくなった。結局、詩音は「今日は家の人が迎えに来るので」と丁寧に断った。その前に電話を借りることになった。リビングの電話から番号を回す。
「もしもし、葛西? 私です。今、雛見沢にいるんですけど……はい。圭ちゃんの家です」
圭一が横から睨む。
詩音は全く気にしない。
「迎えお願いできます? はい。場所は――」
電話を切る。
「葛西さんが来てくれるそうです」
「そうか」
少しして、外に車の音が聞こえた。詩音は玄関で靴を履く。母親が見送りに出てきた。
「また遊びに来てね、詩音ちゃん」
「はい。ぜひ」
「来なくていい」
「圭一」
母親に睨まれた。
「……またどうぞ」
詩音は笑った。
「では、お言葉に甘えて」
玄関を出る前、詩音は一度だけ圭一へ振り返った。
「じゃあ、また考えましょうね」
「何を?」
「もちろん」
少し間を置く。
「スパイダーマンのことですよ」
小声だった。圭一は思わず周囲を見る。幸い両親には聞こえていない。
「声がデカい!」
「小声ですよ」
詩音は満足そうに笑うと、そのまま階段を下りていった。外では葛西の車が待っていた。
圭一は部屋へ戻る。
机の上には、瓶の中の蜘蛛。その隣には、白い糸。そして床には、不格好な試作ロープが置かれている。圭一はベッドへ腰を下ろした。
「……スパイダーマン」
もう一度、口に出してみる。
昨日までなら、妙に恥ずかしいだけの名前だったかもしれない。
だが今は、不思議と悪くない。
蜘蛛に噛まれた。力を手に入れた。夜の町へ出た。人を助けた。そして今日、その行為に初めて名前がついた。
圭一は机の上の蜘蛛を見る。
「……ったく。とんでもないもん置いていきやがって」
瓶の中の蜘蛛は、当然何も答えなかった。それでも圭一は、少しだけ笑っていた。