千葉彩音という奴は、特別でもなんでもない、普通のクラスメイトだ。成績がものすごく良いわけでもなければ、運動神経が突出しているわけでもない。音楽や美術の才能があるわけでも、部活に所属していてそこで頑張っているわけでも、学校外の活動で素晴らしい実績があるわけでもない。本当に、なんでもない普通のクラスメイト。
なのに、彼女にはなぜかとても心地のいい空気を感じる。ほかの女子生徒に比べたら、感情の起伏がゆるやかでおとなしいせいかもしれない。気に障るほどうるさい声で興奮して騒ぎ立てることはなく、いつも真面目で落ち着いていて、思慮深そうな印象がある。人をよく見て考えすぎるあまりに、時折、言葉を呑み込んでしまっているようにも思う。
そんなふうに見えているが、俺と千葉の間に接点らしい接点はない。ただ同じクラスであるというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
けど、その距離感こそがいいのかもしれない。すぐ隣にいるような気配の濃さではなく、安らぎをふと感じる程度の薄いつながりを、俺は心地よく思っているのかもしれない。
(でも、千葉には好きな奴がいるんだよな……)
少し前、掃除の時間中にした千葉との会話で、その事実を知った。
どちらかというとサボることの多い掃除当番だが、あの時は千葉と同じ班だったから、千葉の近くで和みたいとか思って、俺は珍しく、サボらずに掃除をしていた。そして、廊下で千葉と何気ない会話をした。
千葉が放つゆるやかな雰囲気はその日も健在で、不思議な心地よさがそこにあった。けれど、千葉が言った一言に対して、俺の胸の中には拭き取れない汚れのような寂しさが残った。
千葉から「カノジョ?」と訊かれて曖昧にごまかしたが、今の俺に付き合っている相手はいない。むしろそう尋ねる千葉に対してこそ、恋愛感情と呼べるものを抱いているのではないかと思う。
でも、彼女には好きな奴がいるらしい。千葉に告白して振られたわけではないが、彼女が誰かを特別に想っているのだと知り、なんとも言えないむなしさが胸の奥で波紋を作った。
千葉は誰にも恋などしないと、どこかで勝手に思っていた。けど、千葉も恋の一つや二つ、したっておかしくない。俺たち高校生の日常において恋愛は、週一の授業のようにわりと定期的に発生する身近なイベントだ。気安く他人に言いふらしたり、すぐに行動に出たりしないだけで、心の中に思いを秘めている生徒がいることは、不思議ではない。
身勝手なむなしさを抱えたあとも、俺は毎日の学校生活の中でこっそりと千葉を観察した。決して乱れない一定の波を描くように千葉はいつも落ち着いていて、何気ない振る舞いが上品だった。 その姿をちらりと見るだけでも、心が休まる気がする。
彼女が誰のことを特別に想っているのかはわからないが、せめて同じ教室にいる間だけは、彼女の周囲に感じる穏やかな空気に癒やされたいと思った。
◆◇◆◇◆
水曜日の四時間目は、十数年前に始まった「総合学習」という、なんとも無駄に思える授業だ。森林破壊やら温暖化やら、あるいはジェンダー、差別、人権侵害など、社会問題についてグループごとで発表しろという内容の授業で、大学受験にまったく関わりがなく、かったるくて仕方がない。
だが、偶然かそれとも何かの因果があってか、俺はこの授業で千葉と同じ六人グループになった。
発表するテーマを決めたのち、図書室にあるパソコンやら本やらで資料を探しつつ、有能な奴らが着々と発表の準備を進めているが、俺は基本的にノータッチだ。教師の目が向いたときだけ参加しているように見えればいい。受験に関係のない、こういう曖昧な趣旨の授業は、掃除と同じでほどよくサボるに限る。
そんな俺と違って、千葉は真面目に話し合いに参加しており、時には新しい意見を言ったり、あるいは書記役に回ったりしている。相変わらず、なんでもないことのように見えるが、律儀で細やかなその気配りには感心する。
そうしてなるべく気付かれないように千葉を観察していたが、その千葉がふと顔を上げた。そしてその瞬間、俺はばっちり千葉と目が合ってしまった。
「あっ……」
「なに?」
「う、ううんっ、なんでもない」
目が合った瞬間は戸惑ったが、千葉が先に不自然な声を上げたので、俺のほうは不自然でない態度をとることができた。
千葉はすぐに俺から視線を外し、話し合いで決まったことを自分のノートに丁寧に書き連ねていく。俺は千葉から視線を外して、窓の外を見やった。
恋愛は、詰め将棋のようなものだと思う。ルールがあって、勝つ法則がある。それに則って王手をかけ、相手を手に入れれば試合終了。あっという間にゲームは終わる。それだけの遊興にすぎない。
でも、こんなふうにただ見ているだけでなかなか距離を縮められなかったり、同じ空間にいるだけでほかには接点がなかったりする状況が妙に楽しいと思える恋愛もあるんだな。好き合えばそれで終わってしまうような感覚がないからだろうか。好きな奴がいると言った千葉の、その相手は誰なんだろうとか、俺ではないんだろうかとか、勝手な憶測をしては、どうにでもなれそうな千葉との距離感を楽しんでいる自分がいる。
そうだ、俺は千葉のことが好きだ。
好きな奴がいると聞けば落ち込み、同じ空間に一緒にいられればこっそりと舞い上がる。そうした至極単純な、気持ちの変化。大きくもあり小さくもあるその変化の波に無防備に揺られている状況は、千葉を好きだからこそ生まれるものだ。
そんなことを考えていた俺は、視界の端にぼんやりと視線を感じて、ゆっくりとそちらに視線をやった。見られていると思ってそちらを向いたのだが、俺を見ていたのは千葉で、でも俺が視線をそちらにやると、千葉は視線が合う前にさっと顔ごと俺からそらした。
自分の顔が悪くないことを自覚している俺は、女子から見られることには慣れている。今も授業中だというのに、ほかのグループにいる数名の女子からの視線が、いくつかこちらに向いている。この総合の授業は二クラス合同で行われるので、違うクラスの女子がせっかくの機会だと思って俺を見ているのだろう。
でもどうして、千葉とも視線が合うんだ。千葉も俺のことを見ているのか。それなら、それはなんでだ。何なんだよ。
不意にざわつく胸の中。
別になんでもないはずだ。目が合いそうになることなんて、なんでもない。
俺と千葉はクラスメイト。そして、俺が千葉を気にしているだけ。
千葉も俺を気にしているなんて――ないだろ、そんなこと。
「おい、千葉」
「えっ、あ、はいっ……なに?」
それなのに、俺は千葉を呼んでいた。何でもいいから、彼女と話をしたかった。この胸の中のざわつきを、どうにか鎮めたかった。
「いま、何が決まってるんだ?」
「え、えっと……」
千葉は話し合いの内容をメモしていたノートを俺に向け、そして丁寧に説明する。
「乗り物によって引き起こされる騒音とか排気ガスの環境問題の、今と昔の違いを調べて発表しようかなって方向だよ」
「ふーん……で?」
千葉の説明を聞きながら、千葉の書いた字を眺める。千葉らしい、細くてまとまったきれいな字だ。
「家庭用自動車とかバスとか、道路を使う乗り物のグループと、電車とか飛行機とか、道路を使わない乗り物について調べるグループに分かれて、それぞれ調べていく予定なんだけど……」
千葉はちらりと違う方向を見る。そこには、テキパキと進行しているリーダーの恩田の姿。
「恩田さん、佐竹くんはどっちのグループに入る?」
「佐竹はどっちがいいとか、希望はないよね? 千葉さんと一緒に、電車・飛行機グループでよろしく。佐竹がサボっても、千葉さんがいれば最低限のことはできるでしょう」
恩田がからかうように言うので、俺はへいへい、とおざなりに返事をした。
「じゃあ佐竹くんは、来週までに飛行機の騒音問題の過去のことを調べてきてもらえる? 国内のことだけで大丈夫だけど、海外の事例があっても平気だよ」
「気が向いたらな」
「うん、あの……それで構わないのでお願いします。念のため、私も同じテーマで調べておくから」
千葉は口元だけで小さく笑う。
そう、結局はこんなもんだ。俺は千葉が好きで、でも千葉にとって俺は、ただの気だるげなクラスメイト。
それでいい。この関係でいいんだ。視線なんて、ただの偶然だ。真面目にグループ活動をしない俺を咎めたい気持ちで見ていただけだろう。千葉はただ、ほかの奴を好きでいればいい。それが俺かもしれないなんて、期待するほうが間違ってる。
でも、「お願いします」と言って笑った千葉の顔が忘れられなくて、来週のこの時間を少し楽しみにしている俺がいた。
◆◇◆◇◆