「あ、猫」
ある日の放課後、帰ろうと思って学校の敷地を出ようとしていた私は、校舎裏のほうへ歩いていく猫を見つけてしまった。
黒い毛に金色の瞳。野良だと思ったけれど、ゆっくり追いかけて近付くと、きれいな毛並みをしていることに気が付く。もしかしたら、野良ではなく飼い猫なのかもしれない。さわろうと思って伸ばした私の手を嫌がりもせず、むしろすり寄ってきたところを見ると、ますます飼い猫のように思われた。
(かわいいなあ)
私は動物を飼ったことがない。両親があまり動物を好かないからだ。
でも私は結構動物が好きで、特に猫は好きなほうだ。こうしてさわれるなんて、それも人懐こい猫だなんて貴重な機会で、嬉しくていつまでも構いたくなってしまう。
「ニャァ」
喉をなでてやると、猫はごろごろと甘えた声を出した。ああ、かわいいなあ。
でも猫が好きなのは、かわいいからというだけじゃない。猫を見ると、なんとなく佐竹くんを思い出すからだ。
片思い相手の佐竹くんは、とても同い年とは思えないくらいに大人びている。そんな彼は基本的に自由気ままで、いつだってマイペースに我が道を行き、まるで猫みたいだ。人と一緒にいることを嫌っているわけではないようだけど、一人の時間も好きみたいだから、一匹狼というより猫のようだなと思う。
「ニャ~」
もっとなでて。そう言っているみたいに、猫が鳴いた。
そのきれいな毛並みは、佐竹くんの髪みたい。佐竹くんもこんなふうにさらさらでつやつやの髪だよね、なんて、何事につけても私は佐竹くんを思い出してしまう。
好きだけど、絶対に手の届かない人。両親がお医者さんで、頭が良くて、顔も整っている、いわゆるイケメン。部活には入っていないけど、球技大会や運動会では、運動部に負けないくらいの活躍をする運動神経も持ち合わせている。考え方が大人で、下品だったり馬鹿みたいだったりするような冗談は言わない、理知的な男の子。
そんな佐竹くんに、平凡な私が釣り合うわけがない。いま同じクラスで毎日を過ごせるだけでも、たぶん、一生分の幸せなのだろう。
「はあ……」
猫と戯れながらも、私の頭の中は佐竹くんでいっぱい。目の前のこの猫が、佐竹くんの変身した姿だったらいいのに、なんて妄想までしてしまうほどだ。
もしもこの猫が佐竹くんだったら、家に連れ帰って、両親を説得してでも飼いたいなあ。でも無理か。きっとこの子は、どこかの家の飼い猫だもんね。
(佐竹くん……)
会いたい。
もっと近くにいたい。
佐竹くんのために、何かしたい。
好き。大好き。君が好き。
「佐竹くん……」
「呼んだ?」
「え……ええっ!?」
予想していなかった返事に、私はとても驚いて振り向く。素っ頓狂な叫び声を上げてしまった私の背後にいたのは、正真正銘、佐竹くんだった。スクールバッグを肩に掛けているので、帰るところのようだ。
「え、あ、佐竹くんはっ……何?」
「何って訊かれても」
「えっと……あ、帰るところ? この時間に残ってるの、珍しいね」
どうしよう。佐竹くんに会えたことが嬉しくて、でも動揺してしまう。もっと普通に話したいのに、おかしなことを言ってしまう。
「夕焼けがきれいだったから、見てた」
「え、夕焼け?」
そういえば、そんな時間だっけ。
私は帰りのホームルームが終わったあとに放送委員会の集まりがあったのだけど、それが終わって猫を見つけてなでていたら、結構な時間が経っていたようだ。
「お前は、猫と遊んでたのか」
「あ、うん。かわいくて、つい」
佐竹くんは、私がまだなでている猫をじっと見つめて、それからゆっくりと私の隣に腰を下ろした。そして、自分も猫へと手を差し出す。私は、佐竹くんが猫と戯れるのを観賞することにした。
「どこかの飼い猫か」
「たぶん……毛並みがきれいだし」
「ボンベイだろうな。黒猫しかいない種類だ。推測だけど」
「佐竹くんって、猫が好きなの?」
黒猫なんてどれも同じで、「黒猫」が種類名のように思える。それなのに、「ボンベイ」という固有種の名前がさらっと出てくるなんて、かなりの猫好きなんじゃないかな。
「嫌いではないな。少なくとも、犬よりは好きだ」
そう言って、佐竹くんは猫を抱き上げて立った。
なんだか、妙に手馴れた扱い。猫も全然嫌がっていない。すごいなあ。
「犬より、ね。うん、なんか……やっぱり、って感じ」
猫っぽい佐竹くんが、猫を抱く。その構図はとてもほほ笑ましくて、私は立ち上がって笑ってしまった。
「なんだよ、やっぱりって」
「佐竹くんは猫っぽいな、って思ったの」
「そうか?」
「うん。だから、犬よりも猫が好きっていうのは、ああ、やっぱりなって」
いつでも背筋を伸ばし、自分を信じて歩く。自由気ままなところがあるけれど、その誇り高さが美しい。猫のような佐竹くん――。
「私も好きだよ」
「は?」
「あ、猫がね! どちらかというと、犬より猫がね!」
本当は、君が好き――だけど。
今はまだいい。まだいいの。ただ好きなだけでいいの。
「お前、ちゃんと家に帰れよ?」
佐竹くんは猫を地面に下ろした。猫は私と佐竹くんを見上げてニャアと鳴くと、すたすたとどこかへ歩いて消えてしまう。別れの挨拶もできるなんて、本当に人慣れしている猫ちゃんだ。
話題の中心だった猫がいなくなってしまい、二人の間に沈黙が流れる。
緊張した私はその場をごまかすように、佐竹くんが見ていたという夕焼けを今になって見てみた。校舎と校舎の隙間にかろうじて見えたそれは、たしかにきれいなオレンジ色だった。
「ほんとだ。きれいだね、夕焼け」
「明日も晴れだな」
「えっ」
「なんだよ」
「いや、なんか……佐竹くんが明日の天気についてコメントするなんて」
「お前は俺にどんなイメージを持ってんの」
「うーんと……猫みたいだな、って」
「それはさっき聞いた。ほかになんかないのか」
「えっと……えーと」
人に答えを催促するくせに、佐竹くんは私が答える前に、ズボンのポケットに手を入れて、夕焼けを背にしてゆっくりと歩きだしてしまう。向かう先が正門だったので、帰るところだった私もなんとなく追いかけるように、佐竹くんに続く。
「なんだろう……クラスメイト、かな」
「それは単なる事実」
「じゃあ、うーん……」
大きな背中が向きを変える。私をまっすぐに見つめて、佐竹くんは尋ねる。
「千葉には、俺はどう見えてんの」
「どう、って……あの……格好いいと…………思う、よ……」
だから好き。君が好き。本当は、今すぐ伝えたいくらいに。
「ま、当然だな」
佐竹くんはにやりと笑うと、またさっさと歩きだした。自信に満ちていて颯爽としたその雰囲気は、やっぱり猫みたいだった。
「ほら、帰るぞ」
「う、うんっ」
佐竹くん――。
君が好き、君が好き。心から、本当に君が好き――。
夕焼け色の道を二人で並んで歩く時間が幸せすぎて、私の頭の中はその言葉で埋め尽くされた。
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