泣くな。こんなことで泣かないで、幼稚な自分。
私は目頭に力を入れると、顔を上げて廊下の天井を見上げた。
泣かないで。涙なんか流れないで。
こんなことで傷付かないで。
いま泣いたら、きっと涙を止められない。
(授業……そう、午後も授業……あるんだから)
私は鼻をすする。深く息を吸い込んで、大きく吐き出す。
いいじゃない。思い上がりに気付けてよかった。気付けないままだったら、私一人で勝手な勘違いを続けていた。この恥ずかしい自惚れを、誰にも知られないでよかった。友達の由莉耶にだって、佐竹くんへの気持ちを言わないでおいてよかった。誰かに知られていたら、きっと恥ずかしさで死にそうになっていた。
(大丈夫……なんでもない)
心の中で自己暗示のような呟きを繰り返して、私は教室へ歩きだそうとする。
でも、そんな私の肩を誰かが軽くたたいた。
「千葉」
名前を呼ばれ、驚いて振り向くと、そこにいたのは佐竹くんだった。
「さた、け……くん?」
「なんかお前、ぼうっとしてたぞ」
そうだ、中庭から教室へ戻るのに、この廊下は必ず通る必要がある。
やだな。いま、佐竹くんと普通に話せる気がしない。
「う、うん、ちょっと……眠いなーって……思ってたの」
声が震える。やめてよ、いつものように普通に喋って。
涙腺、ゆるまないで。持ちこたえて。
佐竹くんの前で泣く資格なんて、私にはない。愚かな期待を繰り返さないで。
もしかして、なんて考えないで。そんな希望、あるはずないんだから。
もっと思い知ってよ。私なんか、佐竹くんにとってはなんでもない存在なの。
お願い。胸の奥、痛まないで。静かにしてて。
「チャイム、鳴っちゃうね。教室、早く行こう」
私は佐竹くんを置いてけぼりにするように、足早に歩きだす。
もともと、私のこの思いは一方的なもの。叶うはずのない、小さなもの。
だから、きっといつか消える。大丈夫、痛いのは今だけ。
勘違いも思い上がりも、なかったことにする。大丈夫。
「おい、千葉」
佐竹くんに呼ばれたのが聞こえたけど、私は聞こえないふりをした。自分の中の感情を押し殺すことで、精一杯だった。
◆◇◆◇◆
なんとなくだが、千葉に避けられている気がする。
少し前までは、それなりにいい関係だったはずだ。少なくとも二学期に入ってから、千葉との距離はそれなりに縮められていると思っていた。
それなのに、最近の千葉はどこかよそよそしい。わざと俺を避けているような気がする。
そもそも、クラスメイトという以外にたいした接点もないので、そう思うこと自体が自意識過剰なのかもしれない。それでも、たしかに感じる違和。俺が千葉を好きだから、あいつの妙な不自然さがこんなにも気になるのだろうか。
「彩音、お弁当食べよー」
昼休みになって、クラスメイトたちは動きだす。机を移動させてくっ付ける者、ほかの教室へ行く者、食堂へ向かう者。その中で、俺は千葉の動きをそっと視界の隅に入れる。だが、いつかの総合学習の授業中のように、千葉の視線が俺を盗み見るような素振りは一切ない。自然に振る舞っているつもりだろうが、意識的に俺を見ないようにしている感じがして仕方がない。
「昨日のハレトーク、見た?」
「見た見た。あれ、見始めると止まらないよね。面白すぎ!」
千葉の隣にいる女子が、弁当箱の蓋を開けながら話し始める。
俺、千葉に何かしたか? 千葉の気に障るようなことをしただろうか。そのせいで、どこかおかしな空気になっているのだろうか。縮まっていると思っていた距離は、近付いてなどいなかったのだろうか。
いや、この距離感が――この接点のなさが、俺と千葉の本来の関係だったはずだ。以前よりも少しだけ千葉に近付けたなんて――距離を縮められたなんて、それ自体が錯覚だったのかもしれない。
「彩音は?」
「うーん、その時間はお風呂に入ってたかな」
千葉の声だけが、やけにクリアに聞こえる。
心地いいはずのその声から逃げるように、俺は教室を出ていった。
逃げ込むようにして向かった食堂で昼食のランチセットを注文し、空いている席に座る。喧騒が好きではないのであまり利用しない食堂だが、完全に一人になることを避けたかったので、うるさいほどに他人を感じる空間は、逆に気持ちが落ち着いた。
(俺が何したっていうんだ?)
いや、そんなふうに思うこと自体がおかしい。
先日、廊下で話しかけた時の千葉の違和感。それからここ数日、俺を避けているような千葉の空気。それらは、俺の気にしすぎによる思い込みかもしれない。でも、姿、形はなくても何か変だと、小さく主張している気がする。
「よっ、佐竹。珍しいじゃん、お前が食堂を使ってるなんて」
その時、カツ丼とカレーうどんの載ったトレイをテーブルに置きながら、ダチの日暮が隣に座った。
「別に」
「なに、なんか教室にいづらい理由でもあった?」
日暮は能天気そうに見えるが、意外と他人を鋭く観察していて、些細な違和感を早くに察知している。そして、遠慮や遠回しの表現は好まないから、何か変だと思ったら直球で尋ねてくる。
その察しの良さといい意味での無遠慮なところは、こちらが気遣う必要などないのだと、妙な気楽さを与えてくれた。
「いづらい、っつーか……」
さっきの千葉。先日の千葉。もっと前の千葉。思い出すだけでも心が休まる、やわらかい空気を醸し出す千葉の存在。
それなのに、いま感じている妙な距離感。
言葉にしづらいそれを、なんと伝えたものか。異性のことなんて、そう迂闊に相談できないぞ、小っ恥ずかしくて。
「千葉ちゃんのこと?」
「は?」
「二学期になってから、結構話しかけてるじゃん。好きなの?」
「かざらないのはお前の長所だが、直球すぎるのも考えものだな。誰もがお前ほどストレートに言えると思うなよ? しかも、女子のことなんて」
「つまり、答えはイエスなんだな。で、なんかあったの?」
話しにくい、と伝えたつもりだが、日暮はまったく気にせずに核心を突いてくる。茶化してこないだけいいか。
俺はため息を一つつくと、なるべくぼかした言葉を選びながら日暮に打ち明けた。
「なんていうか……よそよそしくなった……ような気がする」
「原因は?」
「わかんねぇ。最近急に……そんな気がする」
「まあ、原因らしい原因が生まれるほど仲良しってわけでもないしな」
「お前はいったいいつ、そうやって他人を見てるんだよ」
「いつっていうか、いつも? いいか、カッコいいゴールを決めるには、コート内の状況把握が大事なんだぜ。つまり、視野を大きく広げて、常に周囲を見るってことだ」
急にバスケ部らしいことを言い出したその態度が妙にうっとうしくて、俺は日暮の二の腕に肘打ちをお見舞いしてやった。
「いってぇな。せっかく相談に乗ってやってるのに」
「頼んでない」
「そんで、お前は今のままでいいわけ? つか、千葉ちゃんとどうなりたいわけ? 今の状況を不満に感じるってことは、こうなりたい、みたいな理想があるんじゃねぇの?」
千葉とどうなりたいか――という理想?
日暮のかざらなすぎる渾身のストレートパンチに、俺は目が点になった。
どうなりたい――それは考えるべきことなのか。考えてもいいのか。