しばし皆を見つめていた織田信秀だが、意を決して口を開いた。
「すまぬ……すまぬ美津里殿。わしには、我が子を守る手立てがこれしか思いつかぬ。馬鹿な親だと笑ってくれていい。怨んでくれても良い。お主が望むならこの身、この魂が地獄に落ちても構わぬ。どうか、何とぞ、娘を、息子を守ってやってはくれまいか。今生の頼み聞き入れてはくれまいか。」
そう言って頭を下げた。
その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「わしにはそなたに報いる事は何もしてやれん。織田家の家督をそなたに譲る事も出来ん。財産も我が子らの物。
わしがそなたにくれてやる事が出来る物はたった一つだけ、織田信長と言う名、それだけじゃ。すまぬ、美津里殿。だが、どうか、どうか……」
頭を下げながら必死に懇願をする。
そして周りを見渡せば平手政秀、森可成、池田恒興までもが畳に額を擦りつける様に頭を下げていた。
この光景を見つめる丹羽長秀は全てを理解した。
ここに集まった者達は、尾張織田家の為に一介の商人である八房美津里と言う男を人身御供にしようとしているのだと。
万千代、丹羽長秀は織田家の中でも貴重な常識人、こんな暴挙を許す訳には行かない。
「殿! これはいくら何でも……」
酷すぎますと続くはずだった長秀の言葉は横からの腕によって遮られる。
「全く、全くだ。人を勝手に廃嫡しといて十数年経ってから急に帰って来いとは……我が親父ながら勝手な物だな。」
幻灯館主人のこの言葉に部屋の中に居た人物全員が絶句した。
この男は織田信秀の企みを理解した上でそれを飲むと言っているのだ。
それがどんな危険な事かも知った上で。
「み、美津里殿!」
長秀は声を上げるが、当の本人は平静を装いながら口を開く。
「さがれ長秀。俺は今親父殿と話をしている。家臣が口を挟む時では無い。」
紡ぎ出された言葉は威厳に満ちていた。
真っ赤な偽物のはずなのだが、その佇まいは産まれながらの武家の者の様だった。
その気と言うべきかオーラに気押され長秀は口を閉じた。
眼前に座る平手、森の両名も表情には出さないが驚きを感じていた。
まるで織田信秀が語った法螺話が真実であったかの様だったからだ。
「家督? 財産? そんなもんは要らん。今織田家の家督や財産を受け取ったら徳をするのは親父殿達だけだからな。」
幻灯館主人、いや、信長のこの発言にこの場の人物全員の頭に?マークが浮かぶ。
それを感じ取ったのか一同の表情をグルリと眺めた後、悪党の笑みから悪魔の様な笑みに変わった信長は衝撃の事実を口にする。
「大体今の織田家は借金まみれだと言う事を忘れたか?」
そうだった、今目の前に居るのは織田家の長男であり、借入先の大本である男なのだから。
この発言に場の空気が僅かだが和んだ様だった。
この瞬間を見、信長は廊下に控えていた男を部屋に呼び寄せる。
「親父殿、この者は我が命を救ってくれた者でな、一つ親父殿の診察をと思って動向願った。」
紹介を受けた森宗意軒は静かにうやうやしく頭を下げた。
だが、織田信秀の答えは否定的な物だった。
「信長よ、ありがたい事だがわしの病はもう治らん。このまま荼毘に伏すのが運命よ。」
「それは俺が知った事では無い。俺の願いは宗意軒殿に診察を受けてもらいたいと言う事だけだ。」
この言葉を皮切りに親子の口喧嘩は勃発した。
「受けろって言ってんだろ!」
「無駄だと言っておろうが!」
「あったまの硬い親父だな! この……クソ親父!」
「何じゃとこの放蕩息子!」
グルル、ガルルと睨み合う二人。
丹羽長秀、池田恒興などはハラハラ、オロオロしながら見つめていたが、織田家の重鎮二人は嬉しそうにその光景を見つめる。
そしてこう思う、これが事実、真実なのだと。
これからは彼を若として、織田家長男織田信長としてつかえて行こうと。
それが織田家、ひいては織田家に仕える者として彼に渡すことの出来る唯一の褒美なのだから。
丹羽長秀、池田恒興は思う、この話を受けても彼には一切の理は無い。
だが彼は悩まずにこれを受け入れてくれた。
織田家の為、ひいては自分達の幼馴染であり自分達が仕える主人の為に。
長秀と恒興の頭は自然に下げられた。
決して漏らせぬ秘密を共有する者達が意を決める中、当の二人の決着も付いた。
根負けしたのは織田信秀の方だった。
織田信秀と森宗意軒の二人を残し他の者は部屋を出る。
隣室へと移動し腰を降ろした時、池田恒興が幻灯館主人の前に正座し深々と頭を下げた。
「信長様。」
「何だ?」
「何卒姫様と勘十郎様を……」
この言葉を聞き幻灯館主人、いや、織田信長は短く息を吐くと、恒興のおでこをパチンと弾き
「是非も無し。」
短く言い切った。
しばしの会談と長秀の点数付けの後、障子に人影が映る。
宗意軒の診察が終わった様だ。
それを見、平手、森の両名と恒興が主人織田信秀の寝室へと移動する。
部屋の中には幻灯館主人、織田信長と丹羽長秀、森宗意軒が残った。
その中で信長が宗意軒に声をかける。
「で、どうだった?」
問われた宗意軒は右手を顎に当てながら難しい表情で首を横に振る。
「そうか。それで患部はどこだった?」
「恐らくは腎(じん)と思われますな。」
「腎臓か……」
信長の言葉に宗意軒は首を縦に振るに留まる。
「そうなると…………透析か。完治を見るならば移植しかないか。」
そうポツリと信長はつぶやく。
が、この時代ではどちらも不可能な治療法だと知っている。
だからこそ信長は口を開く。
一つは許可を取る為に、一つはこれからの為に。
「万千代。いや、長秀。」
「万千代で結構ですよ信長様、そちらの名の方が九十点です。」
長秀のこの言葉に小さな笑いを浮かべながら信長は言葉を続ける。
「親父の、いや信秀殿の側近の方々に状況を質問する許可をくれないか?」
「状況の質問ですか?意味不明なのですが、それでは十二点です。」
「うむ。信秀殿が体調を崩したと思われる時期から今日までの彼の様子を知りたい。それも出来るだけ細かくだ。」
「はあ。それならば織田信長の名でお達しを出せばよろしいかと。」
「そうか。それで宗意軒。」
言って視線を長秀から宗意軒へ向ける。
「俺が今言った事をお前が聞き出し記録し記憶しろ。」
「承知しました。しかし主殿。」
「何だ?」
「一体何の為に?」
この言葉を受けた信長は表情を一層険しくし
「今後の為だ。初期症状が解れば助けられる人が一人でも増えるかも知れん。」
宗意軒は言葉を理解し深々と頭を下げると
「は。森宗意軒、力の限り事に当たらせて頂きます。」
このやり取りは流れる様に進行していた。
だが、長秀には一つの疑問が生まれる。
「信長様、今後とは一体?」
「今後とはこれからの事、ボケる年でもあるまい?」
信長のこの発言に長秀は少女の様にプウッっと頬を膨らませながら
「そんな事は解っています三点です。」
「そう怒るな。奇麗な顔が台無しだ。」
信長はそう冗談めいた言葉を言いながらも視線を細め言葉を続ける。
「心の臓や肝、腎は表からは非常に解り辛いものだろ?」
「は、はい。」
「だからこそその初期症状を記録し記憶する……これは先ほども言ったが、そうすれば助けられる人が一人でも増えるかも知れんだろ?」
信長の説明に納得は出来る。
しかし長秀にはもう一つ疑問が浮かぶ。
「しかしそれだと、そちらの宗意軒様が家を一軒一軒回る事になるのでは?」
そう、その通りだった。
現代とは違い、この時代では医者が患者の方へと出向くのが一般的だった。
だからこその長秀の疑問だった。
だが、信長は長秀の疑問を覆す言葉を口にした。
「そんな事か。それならば患者の方から医者の所に行けば良い。そうだろ?」
この言葉に驚いたのは長秀。
だから長秀は口を開く、そんな事が出来るはずが無いと。
「そ、そんな! 患者は動けないのですよ、一体どうやってお医者様の所まで行くと言うのですか! 五点、いえ、0点です。」
長秀の言葉はこの時代では当たり前の事だった、だが相手は信長、幻灯館主人なのだ。
「そう言う者の所へは往診もするさ。だが、体調が悪いなと思ったらすぐに医者の下へと行けば良い。それなら行けるだろ?」
信長の言葉はもっともな事だった。
しかし時代は戦国の世。
「お医者様にかかるのに一体幾らのお金が掛るのか信長様はご存じないのですか? そんな策は愚策です、二点です」
「ふん、そんな事か。ならば診療に掛る金を安くすれば済むことだ。」
「そんな事出来るはずがありません!」
「ならば賭けをしよう。出来れば俺の勝ち。出来なければお前の勝ち。勝者は敗者に何でも一つだけ言う事を聞かせる事が出来る。どうだ?」
言って信長は悪党の笑みを浮かべる。
「いいでしょう。その賭けこの丹羽長秀がお受けします。」
長秀はこの数年後に、このような賭けをした事を大いに悔やむ事になるのだが、それはまだ先の話。
この後二日程かけて宗意軒は側近から情報を集め、幻灯館主人は雫里の里へと帰郷した。
そして一月後………………織田信秀の訃報が知らされた。
次話では場所を移していよいよあの娘の再登場です。