けっこうガラッと変えます。
コポ、と僅かな空気が肺を抜けた。
その音で、自分がぼうっと意識を飛ばしていたことを自覚する。
さっきまで何をしていたのか、何を感じていたか、そういう記憶がすっぽりと抜けていた。
深く記憶の中を探ろうとしても、もう忘却として脳が捨て去ってしまった物を無理矢理漁るような、鈍痛が目の奥を揺らす。
視界は真っ暗で、目を開いているというのに、周囲には一切の光源も見えなかった。
いや、それにしては、自分の腕が見える。
動かそうとすれば、その通りに動いてくれる、白い腕。けれど、どこか見覚えが無い、自分らしく無い腕。
暗い中、脚を動かそうとしてみると、グラリと体勢を崩した。
片足を曲げようとしただけなのに、脚全体がぐにゃりと動いてしまったのだ。まるで、脚が繋がって一本になってしまった様に。
転ぶことを覚悟で目を瞑ったものの、遅れて、自分が水中にいる事に気づく。
息を吐けば、口から数粒の大きな泡が、ほんの少し見えて暗闇に溶けていく。
「わお……なんなんだ」
思わず独り言を漏らすも、その声はやはり知らない音をしていて、澄んだソプラノが耳に響く。
何か、自分が知らない、得体のわからない何かに変身しているらしい。
夢……と考えるには音が頭にはっきりと伝い、頬をつねれば僅かな痛みがあった。
「白いな。いや、そういう問題では無いかな」
自分の体が暗闇の中、やけにはっきりと見えるのは、どうやら自分自身が薄く発光しているらしい。光源は身近にあったようだ。
やけに落ち着いた思考の中、自分の体を観察してみる。
パッと胴体を見てみれば、細くくびれた腰や、控えめに膨らんだ胸が目に入る。
発光しているとは別に、色は白く透き通って見えた。
自分の認識と記憶の中では、俺は男だった筈なのに。
細い腕に、柔らかさを感じる胴体、高い声。
顔は自分で確認できないが、確かに女性のものに思える体の特徴の数々。
やはり、自分の知っている己の状況では無いのだろう。原因を探ろうにも、近場の記憶は丸ごと抜けてしまっている。
「うわっ、ザラザラしてる。ブニブニもしてる」
違和感の強い脚を触れば、そこは人の肉と肌の感触では無くなっていた。
全体的にヤスリのような質感。そして、水分を多く感じる指の沈み具合だ。
見た目は黒く、光っていても闇の中に溶け込みそうな深さと艶のある塊。
手では触れないものの、サメのような尾鰭がある。ザラついているのはサメ肌と考えると、人魚のように脚がサメのものとなっている認識で正しそうだ。
サメは、知識が浅くてどんな種類かはわからない。こんなに真っ黒なサメがいるのだろうか。
尾鰭とは反対に、腕や視界にチラチラと映る髪といい、人の部分は眩しいほどに真っ白で、浮世離れした神秘を纏うものだ。
しかし、俺は人間で、ボロアパートとはいえこんな暗い水中は無い陸地に住んでいた筈。
男で、20歳で、こんな身体で無かった。確実に。
この体になるまでの経緯はさっぱりだが、なんとなく、理由の一つは予想できた。
「転生って、やつかなぁ」
ネットや、そこから派生した本ではよく見かける、転生という要素。
仏教的な意味で信じられている方が先だが、日本の若者としては、人気の題材であるそっちが浮かぶ。
死んで、転生して、した先が異世界だったりして冒険する。ライトノベルとしては一大コンテンツとしてカテゴリに分けられる、あのファンタジーなシステム。
それによって、自分はこの体で、今ここにいるのではないか。
という考察が浮かぶも、システムを説明してくれる神様も、異世界らしい景色も、何も無い。覚えていないというより、体の経験としての記憶みたいなものも、一切無い。
そもそも死因はなんなのか。
心臓麻痺とか、脳出血とか、突然死にも色々あるけれど、心当たりのあるような生活は送っていなかった筈。
けれど、自分が死んでいたらという仮定は、ぼんやりと俺の心を安心させていた。
正直、俺は死にたかった。
母さんが死んで、父親……いや、義父は変わってしまったから。
酒も、ギャンブルも、借金も無い場所に行きたかった。
おかしくなってしまった家庭と、歪みが大きくなっていく人生に、嫌になっていたのは確かで、ここにきて死因の予想に自殺が浮かぶ。
「いや……無いな」
死にたかったけれど、自分で死ぬことを選ぶほど、俺は母さんに親不孝をしたくなかったはずだから。やっぱり、死因はわからない。
それに、転生とハッキリ誰かに言われたわけでも無いのだから、無理に悲観的にならなくても良いだろう。
俺の体に起こったことは不思議だが、深く考えるのは辞めにした。
今の事実は、俺が暗い海の中、美少女の人魚になったってことだ。
「それにしても、暗すぎる。夜の海でも、こんなんにはならないと思うが」
なんせ、自分の体は薄く発光しているから見えるものの、それ以外は正に一寸先は闇なのだから。
手を伸ばしても、光が弱過ぎて先の暗闇にすぐ負けてしまう。
自分が把握できるのは、自分の輪郭それだけだった。
光源が無く、地上の光も届かない深海にいるのだろう。
静かな水中で、少し尾鰭を伸ばせば砂が触れる。海流の殆どないここでは、巻き上げてもすぐに元の底へ沈んでしまった。
こんな場所では、まともに生きることもできない。
人は暗闇の中に一人にされると十数分で狂うというが、それは人魚になった今でも適用されるのだろうか。
そもそも、光も届かないほどの深海の水圧に耐えているこの体はなんなのか。
謎は深まるばかりだが、不思議と、その闇一色に恐怖心は湧かない。
慣れない尾鰭を、左右や上下に動かしてみる。
サメの尾鰭は、魚と同じく縦に付いている。イルカとは違い、サメが魚類である証拠だ。
水を蹴るように意識して動かせば、優雅とは呼べないだろうが数メートル先へ進む。軽く蹴っただけでも、なかなかの距離を泳ぐことができた。
そのまま、意識しなくても泳げるくらいに、周辺を廻遊する。
「風景が全くわからないな……ここはどこなんだ」
ここが異世界的な場所であれ、現代に近い世界観であれ、世界を測るには情報が何一つ足らない。
もっと上に行けば、光が届いて何かわかるだろうか。
まだぼんやりとした現実感に頭が働かないまま、尾鰭を動かす。
変わり映えのしない黒の中で、俺は記憶にある自分の情報を一から確認していく事にした。