名前は……
20歳、男。職業はアルバイター。義父と二人暮らし。
実父は俺が産まれる前に亡くなり、シングルマザーをしていた母が再婚。その後、18歳までは三人家族で暮らすも、母も病によって亡くなった。
趣味は水族館へ行くこと。好物は寿司と塩昆布。
直近の記憶には欠けがあるものの、それより前の記憶はちゃんとある。自分の電話番号や、小学校の名前だって覚えていた。
名前は、幸い男女両方で違和感の無い響きだから、このまま使ってしまおう。体が変わったからと、無理に新しい名前を考えても、俺にはネーミングセンスが無いから思いつかない。
一人称や喋り方は、体とのギャップに違和感があったら変えればいい。今のところ、話し相手になる小魚すら見つからないから、意味無いけどな。
サメの下半身は、よく動く。細い人間の部位よりも筋肉があって、力強く水を蹴れる。
深海にも、サメがいることは知っていた。大体、光をより集めるために目が発達していて、ギョロリとした大きな目玉がなかなか不気味だ。
キバは、確認したが生えていなかった。抜けたら生え変わるような感覚も薄い。あったら武器になったかもしれないが、舌噛みそうだし、得体の知れないものに噛みつきたくないから無くて良かった。
尾鰭だけじゃなく、背鰭を背中についていたが、あまり大きくはない。
そもそも深海サメは、深海で生き抜くためにサメらしさを捨てたような姿をしている。
ホホジロザメみたいな、大口を開けた顎も牙も無く、ノコギリザメやシュモクザメのような特徴的な武器を持っているわけでもない。
黒くて、目がデカくて、そこまで大きくない。
そういう、地味な印象があった。
もっと強そうな人魚になってみたかった所はある。ミノカサゴとか、派手だし毒があるし。カジキとか、早そう。シャチは……哺乳類だから範囲外だろうか。
しかし、今思い浮かべた魚たちは極度の深海には耐えられない。沈んだら、水圧でペチャンコになって終わりだ。
どうして深海がスタート地点なのかもわからないが、深海サメになったのは水圧面では大いに頼りになる。
宇宙より、深海の方が身近な未知だと、誰かが言っていた。
遠い遠い空の果て、何億キロメートルも先の宇宙よりも、たった何千キロメートルほどの深さしかない海に、人間は手こずっているのだ。
深海の生き物はどんどん新種が発表されているが、その生態は多くが謎に包まれている。カメラに収めるのも一苦労だという。
そんな世界にロマンや恐怖を感じる人が多いのは、当たり前だろう。
人魚がいる世界では、海はどれくらい既知になっているのだろうか。
俺みたいに深海でも生きれる人魚がいるなら、案外未知でもなんでもないのかもしれない。
しかし、もう最初の場所から数キロは離れた場所にやってきたのに、生き物の気配は見えない。
いや、近くにいても暗すぎて気付いてなかったのかもしれないが。
「こう何も無いと、暇だ……」
ただひたすら、暗い空間を泳ぐだけというのは、思考の空きが多すぎる。
スマホも無いし使えない環境の今、音楽を聴きながらのんびり散歩、というわけにもいかない。
敵に襲われるよりは余程平和だが、そろそろなにか見つかってほしいものである。
「歌でも、歌おうかな」
独り言を呟くのも虚しい。
俺は、一人なのを良いことに大声で歌い始めた。カラオケで歌うような、J-POPやアニソンだ。歌詞がうろ覚えの部分もあるけれど、覚えてる箇所は喉を使って熱唱した。
ヒトカラに来たような気分だ。音楽は脳内再生だけれども。
人魚の歌は魚を呼ぶとか船を沈めるとか、いろいろ伝説があるけれど、こんな所に船が来れるわけがない。
だが、魚と話せるタイプの人魚なら、寄ってきた魚と情報交換できるだろう。
暇だからってだけで馬鹿みたいに歌ってるわけじゃないのだ。
「声が高くて歌い慣れない!」
地声が性別ごと変わったことで、俺の音程キーは随分グチャグチャになっていた。
カラオケの採点機能では、自己記録は覚えている範囲では最高95点。つまり、音痴というまではいかない筈なのだが、今だと平均で40点くらいになりそうだ。
ガタガタの音程に、うろ覚えの歌詞は、嫌に高い声や鼻歌で誤魔化されていく。
今の俺を見たら人魚は歌が上手いという幻想が打ち砕かれること間違いなしだ。
そうして、そろそろ覚えている範囲のレパートリーが尽きてくるほど海中を進んでいた頃、俺は思わず口を噤んだ。
『そこの、変な歌を歌っているのは誰だい?』
年老いた女性の、低く枯れ気味な音が、耳ではなく頭に流れ込んできたのだ。