『そこの、歌の主。すまんね、暗くてどこにいるかわからんのだ。この声が聞こえるなら、こっちに来ておくれ』
咄嗟に歌を止めると、老婆の声は少し申し訳なさそうに、その声をしぼめた。
俺としては、下手なアニソンを大合唱していたことが恥ずかしくて、上がっていたテンションが正気に戻りつつある。
そもそも、俺は気安い友人の前以外で熱唱するのは、かなり嫌だ。しかし、ずっと暗闇が続く中で、なんだか無敵になったような気持ちでついやってしまった。
暗闇は人を狂わせるというが、人魚もきっと狂うのだろう。
得体の知れない声は、俺の耳ではなく脳に直接響くようだ。水の波も、音としては感じられない。
つまりこの声の主はテレパシー的な手段で、俺に声を伝えているのだ。どうやっているのだろうか? そもそもテレパシーができる海の生き物を俺は知らない。
エコーロケーションは、また違う気がする。
『変と言ったのに気を悪くしたかね。つい、聴き慣れないものだったからね、許しておくれ』
まぁ、日本のアニメソングなんてここで知ってる生き物がいる方がおかしいんだろうな。たぶん異世界だし、人間では無さそうだし。
俺は、その声がよりハッキリと聞こえる方向を、首を回して探し当てる。
おそらく、その方向に声の主がいる気がする。
恐る恐る、速度を落として近寄った。
その水の動きを、相手も感じ取ったのか、呼び声は端的なものになっていく。
暗すぎて、やはり周囲がわからないが、泳いでいくうちに何かにぶつかった。
岩にしては体温があって、肉感がある。しかし、岩としか思えない不動さと大きさがあった。
鮮明になった声が、どこか慌てた調子になる。
『おお、怪我は無いかい、ぶつかってしまったね。アタシは、図体がでかくてね』
「あ……大丈夫、です」
何故か数日ぶりに人と話す気持ちになり、申し訳程度の返事を返す。
俺がぶつかった「何か」は、気配からして、俺の何十倍も大きいと予想が出た。
その巨体は、光る体を近づければ、周りを支配する黒よりも、すこし薄く青みがかっている。微かな光の中では、ハッキリとした色は見えない。
『とって食わんから、怖がらんでおくれ。そうさね、もう少し、上の方に来れるかい』
「上?」
言われるがままに、少し上へ泳ぐ。
『もう少し、もう少し……ああ、その辺りだ』
もう少し、という言葉のわりには、数メートル泳いだ。俺と相手では、距離の規模感も違うのだろう。
ちょうど良いらしい場所で止まると、ぶわりと何かが開くような水の動きがあった。
「ひぇっ……」
『おお、こんな場所で人魚を見るとはねぇ。珍しいこともあったもんだ』
それは、この生物が瞼を開く波だった。
ギョロリ、なんて小さなオノマトペでは表現しきれない、瞳孔だけでも俺の全長よりデカい瞳が、俺を見つめている。
その瞳は、どこか白濁としていて、俺の発する光を強く吸収し、また反射もしていた。
目線は、しっかりと俺を捉えている。
迫力に、思わず震えた。下手なホラーよりもホラーをしている驚き描写だ。
俺を見つめる巨大な瞳は、そのデカさ分の迫力と威圧感を放っていたが、敵意は見えない。
俺としても、話し相手は求めていたものだ。逃げ出さず、努めて動揺と歌への羞恥を隠した。
『私は名も無い
「自分、は……
『いやねぇ、こんな深海の辺鄙な場所で、歌声なんて聞こえたもんだから、思わず声をかけちまったよ』
「あー、その、話し相手がいなかったので、つい……」
大潮鯨という彼女は、気さくに話しかけてくる。どこか、声色も跳ねているようだ。
俺は、なんだか萎縮してしまって、辿々しく言葉を繋ぐしかない。コミュニケーションは、そこまで苦手じゃなかった筈なんだが。
大潮鯨というのは、日本では聞いたことのない種族だ。
俺の体長が一般的な人間サイズと仮定すると、この鯨は規格外の巨体。日本どころか海外でも見つからないレベルの、大きな体を持っている。
現代にはいない、ファンタジーな種族なのだろう。
『いやぁ、独特な歌を歌うもんだね。深海の人魚なんて、長い生で初めて見たけれど、深海の人魚ってのはそんな歌を歌うもんなのかい』
「自分以外の人魚に会ったことがないので、なんとも……。深海には、普通人魚はいないんですか?」
『そりゃあ、こんな場所、余程の適正がある生き物以外いるわけないよ! 普通の人魚がこんなトコに来ようとしたら、その前に水圧でおっ死んじまう』
「あ、やっぱり。実は、あなたが初めて会う生き物で」
俺はやはり変な場所にいる人魚らしい。
ここでも水圧が脅威なことは変わりないか。だとしたら、ここにいる俺も大潮鯨も、かなりの水圧耐性を持ってるんだな。
大潮鯨も驚いていたし、じゃあなんで俺はあんなところに居たんだ?
『こんな深いところにいて無事で、自分で光る人魚なんて見たことないね。おまえさんどっから来たんだい』
「ここより、もっと深い……それこそ、海底です。俺自身、どうして自分がここにいるのか、わからなくて」
転生という部分は伏せるが、俺は現状の情報が欲しい。
この大潮鯨は、長生きして物知りそうだし、なにかわかることは無いかと、自分のこれまでを話した。
と言っても、気づいたら海底にいて、浅いところを目指して泳いでいたくらいしか話すことは無いけど。
俺の話を聞いた大潮鯨は、なにやら考え込むようなそぶりを見せた。大きな瞳が、半分瞼で隠れる。
『ふむぅ、海の底で生まれた、いる筈のない人魚……ねぇ』
「なにか、知ってることは無いでしょうか」
『深淵──いや、信仰の末……? アタシたちの……』
「……あの」
『ああ、悪いね。長生きしていると、不思議なものを目にするもんだ。ここでおまえさんに会ったのも、何かの縁に感じるよ』
大潮鯨は、その瞳をゆるりと細めた。目以外は闇に包まれ、全貌がわからないが、口元は笑っているのだろう。
「大潮鯨さんは、どうしてここに?」
『ああ……少し用があってね。普通は、ここまで来ないから、暗闇がこんなにも深いことを知らなかったよ』
「用、ですか」