大潮鯨は、その白混じりの目を伏せるようにした。それが、相槌なのか何かを感じ入っているのかは、わからない。
片目だけで得られる情報は、思いを測るには少なすぎた。
しかし、俺はどこか、この鯨が覚悟を持ってこの深海に来ているのではないかと感じている。普段は来ない、こんな、何もない海の底に何をしに来たのか。
自分の弱い光しかない空間では、どこか不穏なものを感じざるを得ない。
『この海は……底というものがどんな場所なのか、ほとんどわかっていない。本能だけの生き物が幾つかと、ただただ暗く静かな空間だけがあることだけが、判明していることさ』
「確かに、俺が最初にいたところも、何も無かったですね」
『アタシみたいな奴じゃなきゃ、ここまでは来れない。だから、海の奴らはみんな、信じているものがある……海の底は、深淵と繋がっているってさ』
「深淵……ですか」
深く、暗く、静かな底は、確かに深淵と呼ぶにふさわしい場所だろう。
そこには砂があるばかりで、明かりも綺麗な景色も無い。ひたすらの、無だ。
そこに、畏怖や好奇が混ざった結果、深淵と繋がると言われるようになったのだろうか。
なんだかとても、しっくりくる。
『アタシゃ、おまえさんは深淵の使いなんじゃないかと思ってるよ。こんなとこに、ポツンといる人魚なんて、まるで寝物語に出てきそうなもんじゃあないか』
「そ、んな、大した存在じゃあないと思いますけど」
海のものが信じる深淵が遣わしたものなんて、それこそ神話とか、土着の民話のような存在だ。
こんな、一人でアニソンを熱唱するような、俗っぽい人間の精神が宿っているとは、考えたくない。もっと、神秘的でロマンがあってほしい。
万が一そうだとしても、俺は深淵の使いとして何をすべきなのか、全くわからないのだから。
『もちろん、これはアタシが勝手に感じてることさ。
「……最期、ですか?」
あまりにも簡単に吐き出された不穏な単語に、俺は思わず俯いていた顔を瞳へと向かせる。
大潮鯨は、悲観的な雰囲気は感じさせず、今日の夕飯の話をするかのように軽く用を明かした。
『アタシはねぇ、死ににきたのさ』
泡のような声が頭に響く。だけれども、その膜は決して破れない、覚悟を纏わせていた。
濁った瞳は、その深意を、俺に見透かさせてくれない。
生物の気配が、ふたつしかない空間に、似合うような沈黙が降りてきた。
「死にに……ですか」
少し言葉が詰まった。
暗い暗い深海の中、死という単語は水圧より重く感じる。
彼女は、この海の底で死ぬらしい。
それは、俺には現実感が無かった。少なくとも、今目の前にいる彼女は元気そうで、死期など微塵も感じなかったから。
「どうして、深淵がありがたいんですか」
俺は深淵の使いかもしれないというけど、それはありがたがるような存在なんだろうか。深淵と繋がっていることは、彼女にとって大切なことらしいけど。
大潮鯨は、ゆったりとまばたきをした。
それは、彼女なりの頷きに見えた。
『ああ。深淵は全ての死と繋がっている。それは、死があったとしても深淵がいつまでも隣にいてくれるということさ』
「寂しくない、ってことですかね」
『そうさね、覚えていてくれている……という安堵にもアタシは思うがね』
「安堵?」
彼女なりの哲学なのか、この世界の信仰なのかはわからない。だけど、その安堵という言葉には、なんだか切実なものを感じる。
恐れているのだろうか、この鯨は。
死して、忘れられるということを。
『アタシたち大潮鯨は、死ぬ時は大抵深海に来る。深海にも、ちったぁ生き物がいるからね。そいつらの飯になるには、この身体はちょうど良いのさ』
俺は、それを聞いて水族館のある企画展を思い出した。
鯨骨生物群集。
確かそういう名前だった。
鯨の死体は大きく、その肉は一つの生態系を生み出すほどの力がある。死んだ鯨の周りに深海や水底にすむ生き物が集まってきたりするんだ。
それは海の資産になる。
「下の生き物たちにとっては恵みでしょうね」
『ああ。でも、あそこにまともな知能のあるものはいない。本能だけの口があるだけさ』
「それは……恩恵ではあるけれど、覚えられるかと言われると、そうですね」
俺が見てきた魚も、何か話したりコミュニケーションを図るなんてできなかった。
『アタシは長く生きて長く海を旅したけど、出会った彼らもまた死んでいくもんさ』
大潮鯨は、死んだ未来を寂しがっていた。
『だから、深淵は全て覚えていてくれるのさ……』
俺は、なんだかこの鯨を抱きしめてあげたくなった。
大きさの関係でできないけれど、何かしてあげたかった。
「俺も貴女を覚えていたい」
俺の心の深く、暗いところが呼応したような声が震えた。
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