「俺は、貴女を覚えていたいですよ、大潮鯨さん」
俺は、人が死ぬ場面は母しか知らないが、死というのは本人が受け入れていても、怖いものだと思う。
外側では、平気そうに笑っていても、裏では不安でたまらない。そう記憶していた母は振舞っていた。
だからこそ、この大潮鯨もまた、寂しさだけじゃない恐怖を、そのうちに宿しているのではないか。
なら、こんな深海で、アニソンを歌っていた変人にも優しく話してくれた大潮鯨に、俺はできることがあるんじゃないか。そう思った。
でも、俺ができるのは、それこそ忘れないくらいだろうか。渡せるはなむけも、何も持っていないし、花を渡したとしてもこの暗闇じゃ愛でられなさそうだ。
何か、この死ににきた鯨一匹に送れる大切なものは無いか。
俺は、あまり良いとは言えない頭でなんとか考える。
「そうだ、俺から、名前を贈らせてくれませんか」
「名前? アンタがかい」
俺が思いついたのは、安直に名前を送ることだった。
大潮鯨は種族名だ。個人の名前ではない。でも、俺はこの大潮鯨を紛れもない個人として見ていた。
この俺の唯一の大潮鯨が、個の判別もできぬまま死んでいくのは、悔いが残りそうだ。
大潮鯨は瞬きを数回して、笑った。
「おお、深淵よ。深淵に潜む死の化身よ! 長く死にそびれたアタシめに、こんな贈り物をくださるとは! ……なんてね。こんな残りいくばくもないアタシに名前をくれるってのかい」
「ああ、あまりネーミングセンスには期待しないで欲しいけど」
「いや、いや、嬉しいもんだ。アタシは、名前ってもんがずっと羨ましかった。アタシはついに、大潮鯨以外の何かになれるのか」
確かに、名前というのはその人が何もにか示すためにある。名無しというのは、何者でもないということなんだろうか。でも、そう考えるのはまた寂しい。
個として定義づけられるとか、なんだか上から目線だし。
喜んでもらえたからには、良い名前を考えないといけない。
さてどんな名前にしようか。
「あの、名前の参考に、貴女のことをもっと教えてくれませんか」
知らないまま的外れな名前をつけるのは憚られる。
どうせなら、もっと彼女のことを知ってから見送りたい。
そう言えば、彼女は笑って了承した。
「そうだねぇ、アタシは大潮鯨って種の中でも、いっとう長生きした個体でね。土地によっては信仰されたり、神として貢物を貰ったこともあった」
「すごいですね」
「まぁ、貢物の魚はアタシにはおやつにも少なかったから返品したがね! ハハハ」
確かに、この巨体は1トンの魚でもおやつにすらならなそうだ。魚を食べるってことは歯鯨なのか。
「アタシはその土地に長くいるってのは性に合わなくてね。あちこちを旅した。サフィーロ、グランツ、ミチターニィ……アクシア、エンテーロ……」
出てきた単語は国名か地名か。聞いたことがないから、やはりファンタジーな未知の世界らしい。でも、そこで会うのが死の間際のかのじょとは、やはり深淵の縁か何かに見えた。
「印象に残った場所とか、ありますか」
「そうだね、やはりサフィーロ。サフィーロは良かった。水の多い場所で、港は活き活きして、美しい場所だ。海の中も、珊瑚や海の花が満開で……」
「へぇ、俺も行ってみたいな」
「ああ、存分に楽しむといい。アタシはあそこで死んでも良いくらい良い場所だったさ。まぁ、あそこではアタシの死体は、人間に大きすぎて処分されちまうだろうがね」
寂しげに、声は尻すぼみになっていった。
鯨の死体。それも大潮鯨ほどの巨体は、確かに人間社会に馴染むのは難しそうだ。
遺体がゴミに出されるというのは、確かに嫌だ。
死んだ後のことは、自分本人には関係ないとしても思うのは、死ぬものとして、当然のことだろう。
死んだ後の尊厳は、どこまでがわがままになるのか、俺にはまだわからない。
俺は、この世界のことをまだ何も知らない。
だから、こうして様々な土地を巡ってきた彼女にとって、赤ん坊みたいなものだろうか。
彼女はそれから各地の印象的な景色を語った。
厳しい氷河のミチターニィ。
情熱的な恋をしたエンテーロ。
子どもの鯨と昔話をしたアクシア。
信仰を受けたグランツ。
どこも知らない景色だけど、彼女が楽しく旅を……人生をいきたことは伝わってくる。
俺には、充実してやることをやりきった旅にも思えたけど、きっとまだ残したことがあるんだろうな。
「すごく面白い。俺には、おとぎ話みたいな人生だ」
「ハハハ、アタシはとびきり好奇心旺盛な大潮鯨だったからさ」
「そうだな、貴女にあげる名前が決まった」
世界中の海を旅した。色んな国の色を見て、大海を渡って。
それは、俺にとってはすごく自由で夢のようだったから。
「“リベルタ”……自由って意味さ。リベルタ。どうかな」
大潮鯨は、何度かリベルタ、という単語を口遊んだ。
響きは雄大に、でも意味は率直に。ただ知ってる単語の中でも、祝福を込めたつもりだ。
「リベルタ……ああ、良いね。ようやく、本当の鯨になれた気がする」
リベルタ。
俺は、忘れない彼女の名前を心に刻みつけた。
暗闇の中、リベルタのごきげんな歌が、しばらく波とともに漂っていた。