深海廻葬   作:月日は花客

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6話:大潮鯨④

 

 リベルタは歌っている。

 俺はそっとその歌に耳を傾けていた。

 鯨の歌というのは、重低音で、波の音を纏っていた。さざ波のように押しては引いて、鼓膜を揺さぶるのは美しいコントラバスの音色のようだった。

 心臓の音のようなビート。血の巡る音のような旋律。

 俺だけが観客でいるのは勿体無いくらいだった。

 

 けれど、その歌もじわじわとか細くなっていく。

 リベルタの命が尽きようとしているのだ。

 

 あれだけ明朗に笑っていた鯨だったけど、もうその引き出した元気も底をついたと見えた。

 俺は、ゆったりと消えていく歌声にそっと拍手を送った。

 にぶい手のひらの動きが、海流を混ぜた。

 

「ブラボー、リベルタ」

『ああそうだ、アタシはリベルタ……。ありがとう、こんなにも嬉しいことはないよ』

「そこまで気に入ってもらえるなんて。もっと時間をかけて考えればよかったかな」

『いんや、変えようったってそうはいかないよ。この“リベルタ”はもうアタシのもんだ』

 

 リベルタはそう瞼を数度閉じた。俺も、冗談だと笑う。

 けれど、このやりとりにももう、最初の元気さは無くなっていて、リミットが過ぎていくのを感じる。

 リベルタの白濁した目は、俺の姿がちゃんと見えているかも怪しかった。

 でも、こんなに大きな瞳の片目にしか写ってないのだから、最初から俺がちゃんと見えているかはわからないか。でも、リベルタにはどうか俺の姿を覚えて逝ってほしい。そう思った。

 

『アンタがこんな素敵な贈り物をくれたんだ。アタシも渡したいものがある』

「何かな」

『アタシの魂さ』

 

 また、時が止まったように思えた。

 リベルタは、もうじわじわと沈みかけている。そんな彼女の魂は、もう天へ昇るか、深海へ沈むか時間の問題だ。

 俺は、彼女の残り時間を無駄にしないよう、動揺を内に隠した。

 リベルタは、俺に魂をくれるらしい。

 

『なぁに、アタシの祝福さ。魂を使う上等なモンだよ。この老いぼれの命の最後の仕事にゃ、立派すぎるモンだろう』

「それで貴女の寿命が削られるとしたら嫌だよ、リベルタ」

『いんや、この祝福はアタシが死んでから生まれるもんさ……。今をどうこうってものじゃあ無い』

 

 それを聞いて安心した。ひとまず、今の彼女を蝕むものではないようだ。

 祝福。

 大層な名前であるそれは、どんなものなのか。

 気になることではあったけど、今はこの老いきった鯨に安らかに眠ってもらうため、話を説明に割くのは惜しい。

 

「サフィーロはここから近いのかな。貴女の絶賛する海に行ってみたい」

『ああ、そうだね。アタシの体ならひと泳ぎだけど、アンタは苦労するかもしれない』

「たしかに、そうだ」

 

 リベルタの体は今も全貌が見えない。どれほどの大きさか、俺の体全体をもってしても受け止められないのだ。そんな彼女にとって、この海は狭過ぎたのかもしれない。

 

「深淵は、どうか貴女がゆったりと過ごせる広さであると良いな」

「ハ、ハハ、船よりも大きいアタシが寛ぐには、それこそ海より大きい、場所が必要だね」

 

 リベルタの魂は、深淵に行けるのだろうか。

 俺はこの世界のことも自分の存在もよくわからないが、きっとそうであると確信できる。

 リベルタが俺に魂を授けてくれるなら、俺は彼女を連れて行ける。

 そう、言葉にすることなく感じた。

 俺は深淵なのだろうか。でも、この内側は深淵にはやけに熱く、光がある気がする。

 人の熱とも違う、人魚の熱だ。

 俺はそっと彼女の体に触れた。分厚さがわかる皮膚は、ごわごわしていて、所々に小さな傷か凹凸があった。

 長年の、旅路の果てといった体だろうか。巨木の年輪のように、年月を積み重ねた存在と思うと、なんだか神格化されるのもわかる気がした。

 

「おやすみ、リベルタ。貴女の隣にはいつも深淵(おれ)がいる」

『ハ、ハハ、ハ……おやすみ、セイ。アンタが最期に会う人魚で、よかっ……──』

 

 言い切る前に、彼女の全身から力がふっと抜けた。 そうして、重力に従って、海流に乗って底まで落ちていく。黒い鯨は、物言わぬ物質になって、これから底の底で新たな生態系を紡ぐのだろう。

 俺の方の変化、であるのか、その沈みゆく身体を眺めていると、ふと目の前に鯨の形をしたシルエットが現れた。

 

 丸っこい、淡く光を放つそれは、濃紺に色を持ち、ふわふわと軽く浮いていた。

 ぷかぷかと、泡のように思う。それがなんなのかわからなかったけれど、俺はそれをそっと手で囲み、手元に導いた。

 すると、それは俺の手元で、ころんと小さなビー玉のように転がった。重さのあるそれは、先ほどとは違い物質的な感触をまとっている。

 ビー玉とも違う。宝石とも違う。俺はそれに見覚えがあった。

 

「……飴だ」

 

 昔、おやつに舐めていたキャンディと似ている。

 丸い形に、少しだけ凸の帯のようなものがあるそれ。カラコロと口の中で弄んだら、どんな味がするのだろう。

 俺はなんとなくこれがリベルタの魂だとわかっていたし、それを食べることに何の抵抗もなかった。いや、むしろ積極的に食べるべきだと思ってすらいた。

 濃紺のそれは俺と同じく薄く光っていて、一体何味なのかも見当がつかなかったが、リベルタのものなら、きっと深みのある永きを生きた鯨の味がするだろう。

 

 俺は、リベルタの魂を口の中に放り込んだ。

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