リベルタは歌っている。
俺はそっとその歌に耳を傾けていた。
鯨の歌というのは、重低音で、波の音を纏っていた。さざ波のように押しては引いて、鼓膜を揺さぶるのは美しいコントラバスの音色のようだった。
心臓の音のようなビート。血の巡る音のような旋律。
俺だけが観客でいるのは勿体無いくらいだった。
けれど、その歌もじわじわとか細くなっていく。
リベルタの命が尽きようとしているのだ。
あれだけ明朗に笑っていた鯨だったけど、もうその引き出した元気も底をついたと見えた。
俺は、ゆったりと消えていく歌声にそっと拍手を送った。
にぶい手のひらの動きが、海流を混ぜた。
「ブラボー、リベルタ」
『ああそうだ、アタシはリベルタ……。ありがとう、こんなにも嬉しいことはないよ』
「そこまで気に入ってもらえるなんて。もっと時間をかけて考えればよかったかな」
『いんや、変えようったってそうはいかないよ。この“リベルタ”はもうアタシのもんだ』
リベルタはそう瞼を数度閉じた。俺も、冗談だと笑う。
けれど、このやりとりにももう、最初の元気さは無くなっていて、リミットが過ぎていくのを感じる。
リベルタの白濁した目は、俺の姿がちゃんと見えているかも怪しかった。
でも、こんなに大きな瞳の片目にしか写ってないのだから、最初から俺がちゃんと見えているかはわからないか。でも、リベルタにはどうか俺の姿を覚えて逝ってほしい。そう思った。
『アンタがこんな素敵な贈り物をくれたんだ。アタシも渡したいものがある』
「何かな」
『アタシの魂さ』
また、時が止まったように思えた。
リベルタは、もうじわじわと沈みかけている。そんな彼女の魂は、もう天へ昇るか、深海へ沈むか時間の問題だ。
俺は、彼女の残り時間を無駄にしないよう、動揺を内に隠した。
リベルタは、俺に魂をくれるらしい。
『なぁに、アタシの祝福さ。魂を使う上等なモンだよ。この老いぼれの命の最後の仕事にゃ、立派すぎるモンだろう』
「それで貴女の寿命が削られるとしたら嫌だよ、リベルタ」
『いんや、この祝福はアタシが死んでから生まれるもんさ……。今をどうこうってものじゃあ無い』
それを聞いて安心した。ひとまず、今の彼女を蝕むものではないようだ。
祝福。
大層な名前であるそれは、どんなものなのか。
気になることではあったけど、今はこの老いきった鯨に安らかに眠ってもらうため、話を説明に割くのは惜しい。
「サフィーロはここから近いのかな。貴女の絶賛する海に行ってみたい」
『ああ、そうだね。アタシの体ならひと泳ぎだけど、アンタは苦労するかもしれない』
「たしかに、そうだ」
リベルタの体は今も全貌が見えない。どれほどの大きさか、俺の体全体をもってしても受け止められないのだ。そんな彼女にとって、この海は狭過ぎたのかもしれない。
「深淵は、どうか貴女がゆったりと過ごせる広さであると良いな」
「ハ、ハハ、船よりも大きいアタシが寛ぐには、それこそ海より大きい、場所が必要だね」
リベルタの魂は、深淵に行けるのだろうか。
俺はこの世界のことも自分の存在もよくわからないが、きっとそうであると確信できる。
リベルタが俺に魂を授けてくれるなら、俺は彼女を連れて行ける。
そう、言葉にすることなく感じた。
俺は深淵なのだろうか。でも、この内側は深淵にはやけに熱く、光がある気がする。
人の熱とも違う、人魚の熱だ。
俺はそっと彼女の体に触れた。分厚さがわかる皮膚は、ごわごわしていて、所々に小さな傷か凹凸があった。
長年の、旅路の果てといった体だろうか。巨木の年輪のように、年月を積み重ねた存在と思うと、なんだか神格化されるのもわかる気がした。
「おやすみ、リベルタ。貴女の隣にはいつも
『ハ、ハハ、ハ……おやすみ、セイ。アンタが最期に会う人魚で、よかっ……──』
言い切る前に、彼女の全身から力がふっと抜けた。 そうして、重力に従って、海流に乗って底まで落ちていく。黒い鯨は、物言わぬ物質になって、これから底の底で新たな生態系を紡ぐのだろう。
俺の方の変化、であるのか、その沈みゆく身体を眺めていると、ふと目の前に鯨の形をしたシルエットが現れた。
丸っこい、淡く光を放つそれは、濃紺に色を持ち、ふわふわと軽く浮いていた。
ぷかぷかと、泡のように思う。それがなんなのかわからなかったけれど、俺はそれをそっと手で囲み、手元に導いた。
すると、それは俺の手元で、ころんと小さなビー玉のように転がった。重さのあるそれは、先ほどとは違い物質的な感触をまとっている。
ビー玉とも違う。宝石とも違う。俺はそれに見覚えがあった。
「……飴だ」
昔、おやつに舐めていたキャンディと似ている。
丸い形に、少しだけ凸の帯のようなものがあるそれ。カラコロと口の中で弄んだら、どんな味がするのだろう。
俺はなんとなくこれがリベルタの魂だとわかっていたし、それを食べることに何の抵抗もなかった。いや、むしろ積極的に食べるべきだと思ってすらいた。
濃紺のそれは俺と同じく薄く光っていて、一体何味なのかも見当がつかなかったが、リベルタのものなら、きっと深みのある永きを生きた鯨の味がするだろう。
俺は、リベルタの魂を口の中に放り込んだ。