退院してから数日が経った。
早朝のランニングで身体を叩き起こし、ミルコのインターンで実戦の空気を思い出し、家へ戻ればレゼと飯を食べて眠る。そんな生活を繰り返しているうちに、日常動作だけなら入院前とさほど変わらない程度には身体が戻ってきた。少なくとも階段を上がっただけで息が切れることはなくなったし、軽く走る程度なら脚もついてくる。筋力そのものはまだ落ちているが、三ヶ月間まともに動かせなかった身体としては順調と言ってよかった。
だが、ヒーローとして見れば話は全く別だった。
雄英高校の演習場、その中央で心は両腕を軽く振りながら肩の具合を確かめていた。冬の空気は冷たく、吐いた息が白く残る。普段なら複数の生徒が使う広い訓練施設も、今日は相澤の許可を得て一角をほぼ貸し切っていた。心の個性は扱う量が増えるほど周囲へ影響が出やすい。今の状態なら大事故になるほどではないが、訓練初日から他の生徒を巻き込む理由もないという判断だった。
その少し離れた場所では、ジャージ姿のレゼがタブレットを片手に相澤から送られてきた訓練内容へ目を通している。
「生成速度、生成量、形状変化、伸長距離、外部金属の取り込み、それと鉄分消費量の確認。最後に対人での応用だって」
「先生さぁ……」
心は嫌そうな顔をした。そりゃ当然である、前以てきついとは言われていたが、本当にきついものを見せられたら多少なりとも顔に出ると言う物だ。
「なんで退院したばっかの人間に、こんな真面目なメニュー組むのかな」
「退院したからじゃない」
「普通もう少しこう、療養とか」
「昨日ミルコさんと山形まで行った人が言ってもなぁ」
「それは僕の意思じゃないんだけど」
「でも行ったでしょ」
「連れて行かれたんだよ」
レゼは肩を揺らして笑った。心も小さく笑い返したが、視線を自分の右手へ落とした時には表情が少し変わっていた。今回の訓練は、単純に個性の出力を上げるためのものではない。むしろ、今までの使い方を一度崩すためのものだ。
心の個性、流体金属。
体内の鉄分を消費して液体金属を生成し、それを身体から流し出すようにして操作する。剣にもなる。槍にもなる。盾にもなる。鞭のように伸ばすことも出来るし、対象へ纏わせて拘束に使うことも出来る。周囲に利用可能な金属があれば、それを液状化させて自分の流体金属へ取り込むことも可能だった。ただし、今の心が出来るのはそこまでだ。
身体から生成した液体金属を完全に切り離し、好きな場所へ浮かせたまま待機させる事など出来ない。離した瞬間に操作精度は大きく落ち、細かな形状を維持することも難しくなる。基本的には腕や脚、あるいは身体のどこかから流体金属を伸ばし、接続を保った状態で操る。その状態であれば感覚も伝わりやすく、形状変化も早い。
今まではそれで十分だった。足りなければもっと出す。届かなければもっと伸ばす。防げないなら厚くする。非常に分かりやすい。
「まず生成速度からやろうか」
レゼの声に心は頷いた。右腕を前へ出して呼吸を整え、自分の身体の中へ意識を向ける。血流。脈拍。体内を巡る鉄分。
個性を発動する時、それらを具体的な数値として認識しているわけではない。ただ、どれだけ使えるか、どの程度まで出しても問題がないかという感覚は、長く個性を使ううちに身体へ染み付いていた。心が軽く拳を握る。次の瞬間、手首から先を覆うように銀色の液体金属が滲み出した。
皮膚の上を滑るように流れ、掌へ集まり、そのまま指先から前方へ伸びる。水のように落ちることはなく、かといって固体のように完全に固定されているわけでもない。粘りのある銀色の金属が、腕から一本の細長い塊となって伸びていく。
「3.6秒」
レゼの言葉に思わず心は眉を寄せた。鈍っている……。
「遅い」
「入院前は」
「同じくらいの量なら約4秒ちょっと」
「じゃあ戻す」
「うん」
指先から伸びていた流体金属が、逆再生するように腕へ戻っていく。完全に体内へ戻しているわけではない。一度生成したものは、表面や装備側へ纏わせる形で保持し、再利用する方が負担が少ない。ただ、今は生成速度そのものを見るため、一度ほぼ初期状態まで戻してからやり直す
流体金属を動かすこと自体に、心はほとんど思考を必要としない。右腕を上げようと思えば右腕が上がる。視線を横へ向けようと思えば眼球が動く。それと同じだった。手首から銀色の流体を伸ばす。細くする。広げる。硬くする。柔らかくする。曲げる。引き戻す。その一つ一つに次はこう動かそうと考える必要など、本来ならない。だからこそ。
「……気持ち悪い」
心は思わず呟いた。右腕から伸ばした流体金属が、標的へ向かって鞭のように走る。軌道は正確だった。狙った場所にも当たった。傍から見れば何の問題もない。
だが心には分かる。遅い。ほんの僅か。コンマ何秒にも満たないような差だった。腕を振った時、本来なら完全に同時に追従するはずの流体金属が、ほんの少しだけ後からついてくる。
「外れてないよ?」
レゼが言う。
「外れてないんだけどね」
心は右手を開いたり閉じる、指は普通に動くが……次に流体金属を細く伸ばし、蛇のように左右へ振る。思った通りの軌道を描いたがそれでも違和感は消えない。
「なんて言えばいいのかな……自分の腕がちょっと重い感じ」
「個性の方が?」
「うん。動かせないんじゃない。動くんだけど、僕が知ってる速さじゃない」
それは技術不足とは全く違った。三ヶ月の間に操作方法を忘れたわけでもない、個性の扱い方なら身体が覚えている。自転車に久しぶりに乗ったからと言って乗り方を忘れないのと同じ理屈、寧ろ覚え過ぎているからこそ、僅かなズレが気持ち悪い。人間だって、長く寝たきりになった後でいきなり全力疾走すれば、自分の脚なのに以前とは違う感覚がするだろう。
「もう一回」
流体金属が伸びる。今度は途中で一気に広がり、盾へ変わる。レゼから見ても十分実戦でも使える程の速度だが……しかし心は眉を寄せた。
「……遅い」
「私には分かんないくらいだけど」
「僕には分かるんだよなぁ」
もう一度。鞭。盾。槍。拘束。
形状は滑らかに変わって一度止まることもない、考えてはいない。ただ、自分の腕を動かすように連続して変化させている、だがそれでも以前なら、もっと速かった。もっと軽かった。もっと自然だった。
「これ結構嫌だな。出来ない方がまだ分かりやすい。出来るのに鈍い」
レゼは少し考えてから、心の右手を見る。
「じゃあ新しく覚えるんじゃなくて、思い出す感じ?」
「多分ね」
心は頷いた。
「というか、身体に追いつかせる感じかな」
入院中に落ちた筋力。反射。持久力。血流。個性を発動した際の身体負荷への耐性。流体金属そのものを扱う技術は残っている。問題なのは、それを支える身体の方だった。心は一度深く息を吸ってそ右腕を前へ出した。
「だから、多分これ」
銀色の流体が一気に伸びる。標的へ届く直前で曲がり、そのまま側面へ回り込む。ほとんど反射だった。落ち着いて、やり方を思い出せ、思い出したやり方を身体にしみ込ませろ。
「考えない方が速い」
「いつも通りやるってこと?」
「うん僕にとってこれ、個性っていうより身体の一部だから」
だったら鍛え方も同じだ。何度も動かす。何度も伸ばす。何度も曲げる。何度も硬くする。何度も戻す。難しい理屈ではない、鈍った腕をもう一度以前のように動くまで振る。鈍った脚を、もう一度以前のように走れるまで使う。流体金属も同じだった。
「じゃあ私が動くから反射で追ってみて」
「了解」
次の瞬間、レゼが走る。それを目で追うが思考を介在させない、右腕から流体金属が走る。レゼが避ける。その軌道に合わせ、流体が曲がる。跳ぶ。追う。しゃがむ。低く這う、訓練でやるにしてはやたらハイレベルな技術を織り交ぜながらも駆け抜けていく。そんな彼女を見る心は攻撃というより、視線で相手を追うのと同じだった。
「っ」
僅かに遅れた。レゼの肩を捉えるはずだった流体金属が、その後ろを通り過ぎる。
「今の」
「遅かったね」
「うん」
心は悔しそうに笑う。けれど、さっきまでとは少し違った。何が悪いのかは、もう分かった。
「もう一回」
「休憩は?」
「まだ大丈夫」
レゼは心の顔を見る。数秒みてから、頷いた。
「じゃあもう一回」
「よし」
再び構える。心は流体金属を見ない、見る必要などない、自分の腕を見る人間がほとんどいないのと同じだ。見るのはレゼだけ、あとは身体が勝手に動けばいい……本来なら、それが出来る。だから今はその本来を、取り戻していけばいい。徹底的に身体に付いた錆を落としていく―――だが思った。そのイメージをより明確に、鋭角に、自然と身体が出来るように反復する、それしかない。地味な繰り返しが待っている。
「これ、インターンより先にやるべきだったのでは?」
「確かに……まあミルコさんにそれ言った所で聞き入れてくれると思う?」
「現場でやれば経験も詰めるな、よし一石二鳥だ!!って言うと思う、まあインターンだと肉弾戦主体だったからまともな操作してなかった気がする」