四月。
雄英高校の校門をくぐるのは、これで二度目だった。正確には毎日のように通っていた場所なので、校門をくぐること自体に特別な感慨があるわけではない。ただし今日だけは少し意味が違う。
去年は新入生として。今年は―――留年生として。
「……いやぁ、なんとも言えない気分だなぁ」
桜の花弁が風に流れていくのを眺めながら、心は小さく呟いた。制服姿で肩には鞄。一年生を示す学年章、物の見事に去年と同じ格好。違うのは身体が少し大きくなったことと顔付きがほんの僅かに大人びたこと。そして何より、既にこの学校の中身を知り尽くしていることだった。
どこへ行けば体育館があるのかも知っている。食堂の混む時間も知っている。食堂で人気の席も知っている。教師陣の機嫌が悪くなる条件もだいたい知っている。なのに一年生。
「留年って不思議だなぁ」
「何を今更言ってるんだ」
背後から聞こえた声に振り返る。相澤だった。いつも通りの無精髭に、いつも通りの眠そうな目。新学期だからといって服装に気合を入れるような人間ではない。むしろ去年より眠そうに見える。
「おはようございます、相澤先生」
「ああ」
「先生、今日くらいもう少し新学期らしい顔しません?」
「お前に言われたくない」
「僕はちゃんと新入生らしいですよ」
「二回目だろ」
「そこ突くのは禁止カードっす」
相澤は無視しそのまま歩き出す。心も隣へ並ぶ。二人で校舎へ向かって歩いていると周囲には当然ながら見覚えのない顔ばかり。新入生。少し緊張した顔で校舎を見上げている者もいれば既に友人を作って楽しそうに話している者もいる。中には雄英の制服を着ているという事実だけで興奮しているらしい生徒もいた。
心はなんとなくその様子を眺めた。去年の自分もこうだったのだろうか。あまり覚えていない。
「それで」
相澤が唐突に言う。
「今日、お前は俺と一緒に動け」
「……はい?」
心は横を見る。相澤は何でもないことのように歩き続けている。
「一緒にって、どういう意味です?」
「そのままの意味だ。新入生の案内、出欠確認、教室移動の補助。それと個性把握テストの準備」
心は数秒黙った。
「先生」
「なんだ」
「僕、生徒ですよね」
「ああ」
「一年生ですよね」
「ああ」
「助手じゃないですよね」
「似たようなもんだ」
「似てないですよ」
即座に返した。相澤は面倒そうに目だけを向ける。分かれ、言外に敷いてくるような顔だ。
「お前は雄英の校内を知ってる。仮免を持ってる。インターン経験もある。去年の授業内容も把握してる。新入生に混ぜて何も知らない顔をされる方が面倒だ」
「合理性で人を雑に使わないでもらえますかね」
「使えるものを使って何が悪い」
「僕、人なんですけど」
「知ってる」
「知っててそれとか何この教師」
会話が成立しているのかしていないのか分からない。だが相澤が本気で言っていることだけは分かったので心は深く息を吐く。
「つまり僕、今年一年、生徒やりながら先生の補助もする感じになるんですか」
「場合による」
「否定しないんだ……」
「少なくとも授業進行上、お前に一から説明する必要はない。去年やった内容なら、分からない奴の面倒くらい見ろ」
「はいはい」
心は肩を竦めた。不満がないわけではない。だが少しだけ本当に少しだけなら、悪くないとも思っている。自分は一度この一年を経験している。それをただ繰り返すだけではあまりにも勿体ない。ならば別の立ち位置で見るのも、それはそれで面白いかもしれない。
「でも僕が変なこと教えても知りませんよ」
「その時は俺が消す」
「個性ごと」
「存在ごとでもいい」
「教師の発言じゃないなぁ」
そんなやり取りをしながら、二人は一年A組の教室前まで来た。扉の向こうから声が聞こえる。もう何人か来ているらしい。心は扉へ手を掛ける前に、少しだけ立ち止まった。ここだ。去年もこの教室だった。中の机も、窓の位置も、黒板も変わっていない、なのに。
そこへいる人間だけが、全部違う。一瞬だけ妙な感覚がした。懐かしいような、寂しいような、それでいて、少し楽しみなような。
「どうした」
相澤が聞く。少し奇妙そうな顔をしている。
「いや」
心は小さく笑った。
「本当に二回目なんだなって」
「今更だな」
「先生って情緒ないですね」
「必要ない」
「はいはい人生が楽しくなさそうで何よりですねっと」
心が扉を開けた。
教室内の視線が一斉にこちらへ向いた。その瞬間、空気が止まった、理由は簡単だった。心の顔を知っている者が多かったからだ。
ハルドメルグ。雄英一年生でありながら六月に仮免を取得、ミルコのインターン生、ヒーロー活動中に民間人を庇って重傷、長期入院、そして、留年。
テレビやネットを見ていたなら、知らない方が珍しい程度には名前が知られている。教室の手前、なんだったら扉の前で女子生徒と顔を赤くしながらも話していた生徒が小さく声を漏らした。
「あ……」
別の誰かも。
「ハルドメルグ……?」
「えっマジ?」
心はその反応に少し困った顔をした。
「あー……」
どう挨拶するべきか。去年なら普通に自己紹介すればよかったのだが今回は少し事情が違う。考えた末。結局いつも通りにした。
「おはようございます鋼流心です、一応、今日から皆と同じ一年A組」
そこまで言ってから少し間を置く。
「去年も一年A組でした。まあ要するに、留年です」
何人かの表情が固まりざわめきが起きた。心は苦笑した。当然だった。学生にとってそれが重い事は皆理解している、それなのに本人があまりにも軽く言うから、むしろ反応に困っているらしい。その後ろから相澤が入ってくる。
「騒ぐな」
一言。それだけで空気が少し締まった。
「担任の相澤消太だ。鋼流はお前らと同じ生徒だ。ただし去年の授業内容を一通り経験してる。分からないことがあれば聞け」
「ちょっと先生、マジで僕を便利使いする気ですか、おい聞けよ」
相澤は止まらない。
「校内のことも大体知ってる。授業によっては俺の補助もさせる」
「やっぱ助手じゃないですか」
「違う」
「何が違うんです」
「給料が出ない」
「最悪じゃん多少は出せよ」
「校長に言え」
「多分相澤先生の給料から天引きっすよ」
「有り得るからやめろ」
「うっす」
教室の何人かが吹き出した。最初の緊張が、少しだけ解ける。心はそれを見て、内心ほっとした。こういう空気は嫌いではない。相澤はそんなことを気にする様子もなく、出席簿を開いた。
「席につけ」
「先生、僕どこ?」
「一番後ろ」
示されたのは唯一誰も座っていない余り物と言ってもいい席だった、これも留年した結果か。
「なんで?」
「見渡せるだろ」
「だから助手扱いじゃん」
「座れ」
「はい」
素直に従った。教室の後方だが窓際ではない、ほぼ中央、確かに全体を見渡しやすい位置だった。心が席へ座ると、周囲から何度も視線が向けられる。
興味。警戒。尊敬。好奇心。色々混ざっている。
無理もない。同級生のはずなのに、去年から雄英にいる。しかも仮免持ち。実戦経験あり。インターン経験あり。本人は普通にしているが、どう扱えばいいのか分からないのだろう。心は気付いていた。だが、あえて触れなかった。しばらくすれば慣れる。去年もそうだった。
心の視線が動いた。緑色の髪の少年、見覚えがある。多古場海浜公園でゴミを運び続けていた少年。雄英へ入るために、一人で砂浜を片付け、それをトレーニングとして組み込んで奉仕活動をしながら努力を重ねていた。少しだけ口元を緩めると緑谷もこちらを見た。目が合って緑谷の目が大きくなったのを見て小さく手を上げた。声は出さない、ただ
約束通りだね。そんな意味を込めて。緑谷の表情が明るくなった。
新しい一年A組の中で鋼流心だけが、少し違う場所にいる。同級生。だが先輩。生徒。だが時々教師の補助。一年生。だが仮免持ち。どの枠にも完全には収まらないイレギュラーが流れを変えていく、どの流れに流されるのか、それとも利用するのか……その立ち位置は、後になればなるほど奇妙になっていく。
「さて自己紹介なんて時間の無駄だ。ジャージに着替えてグラウンドへ出ろ」
始まった、と思わず笑ってしまった。さて、2年目の付き合いとなる教師だ、同輩で後輩のA組のフォローをするとしよう。