事件が片付いてから、数日。
外計局にもようやく普段の空気が戻ってきた。
戻ってきたはずだった。
「おはようなのだ、ビューティーエンジェル・ヴェリナ様!」
朝一番。
ノルムーの声が執務室に響いた。
書類を読んでいたヴェリナの手が止まる。
「……ノルムー」
「なんなのだ、天使様?」
「その呼び方、そろそろやめてくれないかしら?」
「どうしてなのだ?ボンプたちもみんなそう呼んでるのだ!」
「だから困っているのよ」
扇子が開く。
口元は隠れた。
でも耳が少し赤い。
まだ慣れてないらしい。
「おはよう、天使様」
「アステル?」
今度は俺を見る。
「あなたまでノルムーの真似をしなくていいの」
「いや、せっかく定着した呼び名だし」
「定着させる必要がないでしょう?」
「でも実際、ボンプたちからしたら天使なんだろ?」
「そういう問題じゃないのよ」
ヴェリナは扇子を閉じると、机の上に積まれていた書類を一つ取った。
その動きだけはいつも通り。
声も落ち着いている。
「天使様、この書類どこ?」
「右から三番目の棚よ」
答えてから、ヴェリナが止まった。
「……アステル」
「何?」
「今のはわざとでしょう?」
「何のこと?」
「その顔で誤魔化せると思わないことね」
「さすが天使様。人を見る目まである」
「そう。ずいぶん楽しそうね」
ヴェリナがにこりと笑う。
嫌な予感がした。
「それなら今日の仕事、少しくらい増えても問題なさそうね?」
「すみませんでした」
「よろしい」
横を見る。
ノルムーが爆笑していた。
「アステル!お前天才なのだ!!」
「お前が言い始めたんだろ」
「ノルムーは真実を広めているだけなのだ!」
「はいはい」
ヴェリナが書類へ目を戻す。
「二人とも、遊んでいないで仕事に戻りなさい。今日中に終わらせるものがまだ残っているでしょう?」
「はい」
「はいなのだ」
怒鳴らない。
でも逆らう気にもならない。
そこだけはいつも通りだった。
◇
昼前になると、今度は外が騒がしくなった。
窓から覗くと、何体ものボンプが外計局の入口に集まっている。
「なんだあれ」
「また来たのだ!」
ノルムーが椅子から飛び降りる。
「天使様への参拝なのだ!」
「参拝って言うな」
「なんでもいいのだ!行くぞアステル!」
腕を引かれ、そのまま入口へ連れていかれる。
そこには見覚えのあるボンプもいた。
事件の時に助けた連中。
それ以外にも、噂を聞きつけたらしいボンプが何体か混ざっている。
「ンナ!」
「ンナナ!」
俺たちを見るなり一斉に鳴き始めた。
ノルムーが胸を張る。
「静粛に!天使様は多忙なのだ!」
「お前いつから天使様の巫女さんになったんだ?」
「手下二号には関係ないのだ!」
「誰が二号だ」
「ちなみに一号はノルムーなのだ!」
「ないの?プライド」
そんなことをしている間に、後ろから足音がした。
「何の騒ぎかしら?」
ヴェリナだ。
その姿を見た瞬間、ボンプたちが一斉に振り向いた。
「ンナナ!」
「ンナ!」
「ンナナナ!」
「……」
ヴェリナが止まる。
俺を見る。
ノルムーを見る。
もう一度、ボンプたちを見る。
「天使様のお出ましなのだ!」
「ノルムー」
「なんなのだ?」
「あとで少し話しましょうか」
「なんでなのだ!?」
自業自得だろ。
一体のボンプがヴェリナの前へ出る。
抱えているのは、小さな箱だった。
中には花と、簡単なお菓子。
どうやら礼を言いに来たらしい。
別のボンプも何かを渡す。
その次も。
また次も。
気づけば、ヴェリナの両手がいっぱいになっていた。
「ちょっと待ってちょうだい。みんな、こんなことまでしてくれなくてもいいのよ?」
「ンナ!」
「ンナナ!」
「天使様に遠慮は不要なのだ!」
「お前は天使様の何なんだよ」
俺はヴェリナの手から、落ちそうになっていた箱を一つ受け取る。
「諦めた方がいいんじゃない?」
「アステルまで……」
前なら、この辺りでどうにか逃げようとしていた気がする。
けれど今回は小さく息を吐いただけで、ヴェリナは次のボンプへ向き直った。
「ありがとう。大切にするわ」
「ンナ!」
嬉しそうに返事をしたボンプが下がり、今度は別の一体が前へ出る。
ヴェリナはそれも受け取った。
一つずつ。
そのたびに、きちんと礼を返していく。
恥ずかしいのは変わらないらしい。
扇子は何度も口元へ上がっていた。
それでも、もう逃げようとはしなかった。
「やっぱり天使様なのだ」
ノルムーが満足そうに頷く。
「そうだな」
「アステル?」
聞こえたらしい。
「何?」
「あなたもノルムーと一緒に、あとで少し話しましょうか」
「なんで俺まで?」
「心当たりがないなら、ゆっくり思い出す時間をあげるわ」
笑っている。
なのに逃げ道がない。
やっぱり怒らせない方がいい。
◇
昼休み。
俺とノルムーは廊下の端で並んで立っていた。
目の前にはヴェリナ。
「それで二人とも、少しは反省したかしら?」
「しました」
「したのだ」
「本当に?」
「はい」
「はいなのだ」
ヴェリナがじっと俺たちを見る。
信じてない。
まあ、正しい。
「天使様は疑い深いのだ」
「ノルムー」
「なんなのだ?」
「今日提出する予定だった設計資料、まだ途中だったわよね?」
「……」
「せっかくだから、午後は私が横で見ていてあげるわ」
「そんな慈悲はいらないのだぁ!」
ノルムーが走る。
「こら、待ちなさい!」
ヴェリナも追う。
「逃げたら仕事が増えるだけよ!」
「それ先に言うのは卑怯なのだ!」
廊下の向こうへ二人が消えていった。
俺はその場に残る。
「元気だな……」
朝からずっとこれだ。
事件の後とは思えない。
少し前まで、査問だの、ボンプの侵蝕だの、シンギュラ・リークだので騒いでいたのに、今は天使様なんて呼び名一つでこれだけ騒げる。
悪くない。
窓の外には青い空が広がり、そこを一機の輸送機が横切っていく。
それを見て、ふと白い翼を思い出した。
シンギュラ・リークの中、ピュロイスに運ばれる俺たちの外を一人で飛んでいたレミエール。異形を引きつけ、俺たちが逃げる時間を稼ぎながら、最後まで外に残っていた。
あの時の俺にも、やることはあった。
トビーを守って、ノルムーを助けて、リンとピュロイスを信じる。
それでいい場面だった。
でも、もし次も同じ状況になったら?
ピュロイスがいなかったら。
レミエールが一人で飛んでいったら。
俺はまた地上から見ているしかない。
新エリー都で研修していた頃、一度だけ空を飛ぶ方法を教わったことがある。
結果は、まあ……あまり思い出したくない。
身体を浮かせるところまではできても、その先が続かなかった。
高さを保とうとすれば前に進めず、前へ進もうとすれば姿勢が崩れる。
結局、俺には向いてないと諦めた。
「……やっぱり」
今は、あの頃とは違う。
昔は飛べなくても困らなかった。
地面があれば戦える。
刀が届けば、それで十分だった。
でも、今は違う。
次も同じことが起きた時、地面がないというだけで追いかけられないのは困る。
「……もう一回、頼んでみるか」
そんなことを考えていると、遠くから声がした。
「アステル!」
振り返る。
ノルムーが全力で走ってくる。
その後ろにはヴェリナもいる。
「助けるのだ!天使様が怒ってるのだ!」
「自分で蒔いた種だろ!」
「手下なら親分を助けるのだ!」
「誰が手下だ!」
「二人とも、廊下を走らない!」
「俺も!?」
「アステルもそこで見てないで、ノルムーを捕まえてちょうだい!」
「結局巻き込まれるのかよ!」
ヴェリナのため息が聞こえる。
「まったく……」
結局、その場で考えをまとめる暇はなくなった。
◇
その日の夜。
部屋に戻った俺は、ベッドへ腰を下ろして端末を眺めていた。
昼間に思い出したことが、まだ頭に残っている。
少し考えてから、久しぶりに連絡先を開き、短く文章を打つ。
『久しぶり。ちょっと教えてほしいことがあってさ。今度そっちに行ってもいいか?』
送信。
しばらく待つつもりで端末を置こうとした、その時。
思ったより早く返信が来た。
『珍しいな。お前さんから連絡してくるとは。どうかしたのか?』
少し迷ってから、もう一度打つ。
『前に教えてもらったやつ。もう一回ちゃんと教わりたい』
今度の返事も早かった。
『そうか。学びたいことがあるなら、何でも聞いてみろ。時間がある時に来るといい』
相変わらずだ。
昔、一度諦めた俺を責めるでもなく、どうして今さらなんて聞くでもない。
来るなら教える。
それだけ。
思わず少し笑って、最後に一言だけ返した。
『ありがとう、儀玄』
さて。
今度こそ。
ちゃんと飛べるようになるだろうか。
今後の展開についてアンケートです。 現在は原作ストーリーに沿って進めていますが、今後はどちらが読みたいでしょうか? ①原作沿いの展開を続けてほしい ②原作は必要な部分だけ取り入れ、オリジナル中心にしてほしい ②になった場合、現在の第13・14話と投稿予定の第15話は削除し、第13話から書き直す予定です。
-
原作ストーリーに沿った展開
-
アステルたちのオリジナルストーリーを中心