アステルが部屋を出ていくと、急に静かになった。遠ざかっていく足音を聞きながら、リンは肩に掛けたタオルの端を握る。顔色を見れば、何かあったことくらい分かったはずだ。それなのに、事情を話せとも言われず、何をしたとも聞かれず、ただ泊まっていけと言われた。
「……あの人、昔からあんな感じなの?」
「ん?」
レミエールが濡れた翼を気にしながら振り返る。
「アステル。何も聞いてこなかったから」
「そうだね。聞いてほしくなさそうな時は、意外と聞かないかな」
「意外ってなに」
「昔はもっと遠慮なかったから」
少し懐かしそうに笑ったあと、レミエールはリンの顔を覗き込んだ。
「それより、まず自分をどうにかした方がいいよ。さっきからタオル持ってるだけじゃん」
「……拭く気力がない」
「しょうがないなあ」
レミエールが隣へ腰を下ろし、リンの頭に掛かっていたタオルを取って、乱暴にならない程度に髪を拭き始めた。
「ちょっ、自分でできるって」
「できる人はとっくにやってるよ」
「それはそうだけど……」
抵抗する気力もなくなり、リンはされるがままになる。しばらくすると、レミエールは満足したのか手を止めた。
「はい。これで多少はマシ」
「……ありがと」
「おや、今日は素直だね」
からかう声はいつも通りだった。そのままレミエールは、自分が使っていたもう一枚のタオルをリンへ差し出す。
「じゃ、次はリンちゃんの番」
「私の?」
「見れば分かるでしょ?」
白い翼がゆっくり広がり、先端から残っていた水滴が床へ落ちた。
「翼?」
「自分じゃ届きにくいところがあるんだよね。アステルに頼むのもなんか違うし」
「……あんた、アステルには頼まないんだ」
「頼んだら普通にやりそうだから、余計にね」
どういう意味なのかは分からない。ただ、その言葉を聞いた瞬間、リンの頭には昨日見た百年前の光景が浮かんだ。軍服姿のアステルと、その隣にいたレミエール、ベリオラ。三人とも今と変わらない顔で、同じ場所に立っていた。
「リンちゃん?」
「……ううん。後ろ向いて」
「はーい」
場所を入れ替わり、リンはレミエールの背後へ座る。タオル越しに翼へ触れると、思っていたよりも温かかった。濡れて重くなった羽根を傷めないよう、根元から少しずつ水分を取っていく。
「雨の日って、嫌いなんだよね」
レミエールがぽつりと言った。
「翼が濡れるから?」
「それが一番。重いし、なかなか乾かないし。乾かし方を間違えると羽根も傷むんだよ」
「飛べるのも大変なんだね」
「雨の日くらい人間になりたいよ」
「普段は?」
「翼ないなんて勿体ないなって思ってる」
「都合いいなあ」
少しだけ笑えた。レミエールもそれに気づいたのか、声が柔らかくなる。
「昔はね、こういう時ベリの部屋かアステルの部屋に行ってたんだ」
「二人の?」
「うん。濡れたままベッドに転がったりして」
「最低じゃん」
「怒られたよ。すっごく」
当然だ。けれど、そう話すレミエールは楽しそうだった。
「どれだけ怒ってても、最後はちゃんと拭いてくれるんだ。私じゃ届かないところまで、文句言いながらね」
リンの手が少し止まる。レミエールは前を向いたまま、小さく笑った。
「……今のリンちゃんみたいに」
窓の向こうでは、まだ雨音が続いている。
「ねえ、リンちゃん。新エリー都の記録だと、私とベリがどうなったことになってるか知ってる?」
「『沈黙の日』の作戦中に事故に巻き込まれて、二人とも殉職……だったよね」
「うん。それだけ」
レミエールは自分の翼へ視線を落とした。
「あながち間違ってもないんだけどね。私たちは、あの頃ずっと一つのものと戦ってたから」
「……アステルも?」
思わず名前が出た。レミエールが少しだけ振り返る。
「アステルは違うよ。軍にはいたけど、虚狩りじゃなかったから」
「そうなの?」
昨日見た軍服姿を思い出す。あの姿だけを見れば、レミエールたちと同じ場所で戦っていたようにしか見えなかった。
「前線にはいたけど、結使を相手にする作戦へ出るのは基本的に私たち虚狩りの役目だったんだよね」
レミエールはどこか懐かしそうに笑った。
「本人は虚狩りになりたがってたけど。『俺も行ける』って何度言われたことか」
「……アステルが虚狩りに?」
「うん。守ってもらってばっかりなのが嫌だったんじゃないかな。私たちと同じところに立ちたいって、ずっと思ってたみたい」
リンは何も言わなかった。百年前に墓を見た時には分からなかったアステルの輪郭が、少しずつ増えていく。その本人は今、この部屋の向こうで自分たちの着替えを探している。やっぱり、どうにも繋がらない。
「それで、戦ってた相手っていうのが……業核?」
「正確には結使だね」
リンは再び手を動かした。
「虚狩る戎具の中にあったやつでしょ?」
「そう」
レミエールの声音から、さっきまでの軽さが消えていく。大型ホロウを支配する「結使」と、その力の根源となる「業核」。かつて人類は結使を倒すことには成功しても、残された業核そのものを消滅させることができなかった。そこでアーチ教授や初代サンブリンガーたちは、フリンツ合金の中へそれを封じ、人間が扱える武器へ変えた。それが「虚狩る戎具」だ。けれど、強大な力には相応の代償があった。
「それで終わってれば、まだ良かったのかもね」
レミエールが言う。
「もっと安全に使えるようにしたい。もっと強くなりたい。ホロウを本当に人類の手で征服したい。あの頃は、そういうことばっかり考えてた」
「それが……逐日計画?」
「うん」
百年前、大量の合金を媒介にして、虚狩りの身体と戎具に封じられた業核を部分的に融合させる実験が行われた。成功すれば武器の負荷を減らし、さらに結使に近い力を人間のまま扱えるかもしれない。
「今考えれば、正気じゃないよね」
レミエールは自嘲するように笑った。
「でも私は信じた。教授も、サンブリンガーも、みんな人類の未来のためにやってるって。ベリが最後まで私と一緒に参加すると言った理由にも、ちゃんと気づけなかった」
リンは翼を拭いていた手を緩める。
「……アステルは?」
「ん?」
「逐日計画のこと、知ってたの?」
レミエールは少しだけ黙った。
「知らないよ。その頃にはもう、アステルは死んじゃってたから」
指先が止まった。昨日見た墓石が、今度こそはっきりと脳裏に浮かぶ。見間違いではなかった。名前も、時代も、あそこに眠っていたという事実も。
「じゃあ……ヴァイク大佐のことも?」
「当時は知らなかったよ。でも、今のアステルには私から話してる。ベリに何があったのかも、私が何をしたのかも」
「……そうなんだ」
少なくとも、今のアステルは知っている。自分が死んだあと、百年前に何が起きたのか。その全部ではなくても、レミエールとヴァイク大佐に起きたことは聞いている。それなのに、今はこの家の中にいる。聞けば、きっと何か分かる。けれどリンは、その疑問を胸の中へ押し戻した。
「ヴァイク大佐は、何か知ってたの?」
「たぶんね。でも、もう確かめられない」
レミエールが振り返ることはなかった。
「実験中に業核が暴走した。事故だったのか、誰かが最初から何かを隠してたのか、それは今でも分からない」
少し間を置いてから続ける。
「ベリは、結使になった」
リンは何も言えなかった。記憶の中で泣いていたレミエールと、あの別れの光景がようやく意味を持って繋がっていく。
「私はベリを……殺したよ」
タオルを握る手に力が入る。
「そうするしかなかったから。そうしなかったら、もっとたくさんの人が死んでた」
「レミエール……」
「それで私も無事じゃ済まなかった。タウミエルの業核と中途半端に融合して、今は人間とも結使とも言い切れない身体になってる」
白い翼が小さく動いた。
「半分は人間で、半分は怪物。そんなところかな」
「怪物って……」
否定しかけて、リンは言葉を飲み込んだ。安易に違うと言えば、レミエールが百年抱えてきたものまで否定してしまう気がした。代わりに、まだ湿っている羽根を丁寧に拭く。
「それで、百年間眠ってたの?」
「正確には仮死状態みたいなもの。タウミエルの『時序』の力で、自分ごと止めちゃったみたいなんだよね。目を覚ましたのは、一年くらい前」
「一年……」
百年前を知る人間が、今の時代にいる。レミエール、そしてアステル。また墓石が頭をよぎった。レミエールとは違う。逐日計画より前に死んでいたのなら、同じ理由で百年後まで残ったわけでもない。ますます分からなくなったが、今はレミエールが自分のことを話している。
「はい。私の話はこれでおしまい」
不意に声が明るくなった。レミエールがくるりと振り返る。
「次はリンちゃんね」
「え?」
「私ばっかり喋ったんだから、次はキミの番」
「そんな勝手な……」
「聞き逃げは禁止でーす」
人差し指を立てて笑っている。さっきまで百年前の親友を殺した話をしていた人とは思えない。でも、それもきっとレミエールなのだ。リンは小さく息を吐き、少しずつ話し始めた。
ヘーリオス研究所にいた頃のこと、セルピコとトリヴィアがやってきて、四人で同じ未来を目指していたこと。知能水晶体の実験で自分が暴走し、セルピコを死なせてしまったこと。病院で目を覚ました時には、トリヴィアがもう連れ去られたあとだったこと。そして旧都陥落の日、ようやく再会できたトリヴィアへ助けを求め、それを拒絶されたこと。
「私とお兄ちゃんは、研究所に戻りたかった。まだ助けられる人がいるかもしれないって思ってたから」
レミエールは黙って聞いていた。
「でもトリヴィアは来てくれなかった。それからずっと会ってなくて……今になってロスカリファで再会した」
話しているうちに、胸の奥がまた重くなる。
「昔のことを聞いても、あの子は自分のことなのに他人事みたいでさ。私がどう接したらいいのか分かんなくなって、それからずっと……誰かに見られてるような感じがしてた」
「誰かに?」
「トリヴィアなのか、セルピコなのか、それとも――」
「リンちゃん自身だったりして」
顔を上げる。レミエールは、いつものようには笑っていなかった。
「あの時こうしてればって思う自分と、今さらどうにもできないって知ってる自分。過去を引きずってる自分を、もう一人の自分がずっと見てる」
リンは黙ったまま視線を落とす。
「過去と折り合いをつけるって、難しいよ。やり直せる機会なんて、普通は来ないから」
その言葉は、レミエール自身にも向けられている気がした。
「もう来ないよ」
「リンちゃん?」
「今度は助けられなかった」
トリヴィアが倒れた光景が蘇る。
「今日、算枢局で……ドラキナ様の姿をした何かに、トリヴィアが襲われた」
レミエールの表情が変わった。
「ドラキナの姿をした?」
「うん」
リンは今日起きたことを話した。シンギュラ・リークを追ってドラキナの執務室へ辿り着いたこと、ビリーとシーシィアを退出させたあと、ドラキナが突然襲ってきたこと、トリヴィアが現れて目の前で攻撃されたこと。そして、自分は何もできないまま逃げたこと。話し終えると、レミエールはしばらく黙っていた。
「……なるほど」
「何か分かる?」
「分かったっていうより、嫌な予想が一つ増えたかな」
レミエールが考え込む。
「ドラキナ本人が結使になった可能性も考えられる。でも、それなら今まで通りの意識を保ったまま、シグリッドたちを騙すように振る舞えるとは思えない」
「じゃあ、あれは本当に偽物?」
「たぶんね。ギルタブルルかバシュム、それかまだ見つけてない三体目。あいつらのどれかがドラキナと融合して、身体を奪いかけてる……今の情報なら、そっちの方が納得できる」
「融合……」
「まだドラキナ本人も完全には消えてないと思う。そうじゃなきゃ、わざわざ本人のふりなんて続ける必要ないから」
そこで玄関の方から音がした。二人が同時に口を閉じる。戻ってきたアステルかと思ったが、違う。呼び鈴だった。
◇
「……誰だよ、こんな時間に」
寝室へ運ぶ着替えを抱えたまま、俺は玄関のモニターを見る。映っていた顔に眉を寄せた。シグリッドだった。しかも、仕事帰りの挨拶に来たような顔ではない。扉を開ける。
「こんばんは、でいいのか?」
「アステル殿」
シグリッドは俺の後ろへ視線を向けた。
「夜分にすまぬ。だが、某は公務で参った」
「嫌な予感しかしないな」
「リン殿は、こちらにおられるか?」
一瞬だけ迷ったが、隠しても仕方がない。
「いる」
シグリッドの目が僅かに細くなった。
「やはりか」
「どうやってここ分かった?」
「巡回中の兵より、雨の中を歩くリン殿らしき者と翼を持つ女を見たとの報告があった。ただし、この件はまだ公にはしておらぬ。某が単独で確認に来た」
レミエールまで一緒だったなら、行き先を考えるのは難しくなかったらしい。
「それで、連れて帰る?」
「それが某の務めだ」
「なら、その前に本人の話くらい聞いてやってくれ」
「アステル殿」
「俺は何があったのか知らない。だからリンが正しいとも言わない。でも、顔見た瞬間に縄かけて終わりってのは早いだろ」
シグリッドは答えなかった。その時、背後の扉が開く。
「シグリッドさん」
リンが出てきた。
「リン殿」
「アステルは関係ないよ。私が勝手にここに来ただけだから」
「それは後で聞こう。まず某と共に――」
「それは困るかな」
今度はレミエールが顔を出す。シグリッドの手が反射的に武器へ伸びた。
「レミエール・ダン……!」
「はいはい。ちゃんと会うのは初めてだったっけ、空巡局の二番手さん」
空気が一気に張り詰める。俺は持っていた服を近くの棚へ置いた。
「頼むから家の中で戦うのだけはやめてくれよ」
「安心して。向こうが何もしなければね」
「それはこちらの台詞だ!」
「じゃあ話が早いね」
レミエールは肩をすくめた。リンが一歩前へ出る。
「シグリッドさん。トリヴィアを傷つけたのは私じゃない」
「ドラキナ様は、そなたがやったとおっしゃった」
「そのドラキナ様が偽物なんだよ」
シグリッドの表情が固まった。
「……なんだと?」
俺も思わずリンを見る。
「待て。偽物って、どういうことだ」
「見た目はドラキナ様だった。でも、中身は違った。急に私を襲ってきて……」
「それでトリヴィアも?」
「うん」
そこでようやく、リンの顔色が悪かった理由が少し繋がった。ドラキナが偽物。その言葉を聞いた瞬間から、胸の奥が妙にざわついている。レミエールが壁へ寄りかかった。
「正確には、ドラキナの身体を使ってる別の何か、かな。たぶんキミたちが探してる結使の幼体」
「……ドラキナの身体を使ってる?」
思ったより強い声が出た。
「それ、本人はどうなってる」
レミエールが俺を見る。
「まだいると思うよ」
「思う、って」
「完全に消えてるなら、わざわざドラキナ本人のふりを続ける必要がない。身体も業核も、まだ奪い切れてないんだと思う」
「じゃあ助けられるんだな?」
少し間があった。
「そのつもり」
それを聞いて、ようやく肩から少し力が抜けた。初めて会った時から、あいつは妙に距離が近かった。膝に乗ってきたり、こっちの調子を勝手に気にしたりして、普通ならもう少し困ってもよさそうなのに、なぜか俺も強く拒む気になれなかった。理由は分からない。それでも、知らない何かに身体を使われていると聞いて平気でいられるほど、ドラキナを他人だとは思っていない。
「……そういうことなら、余計に連れて帰すわけにはいかないな」
シグリッドが俺を見る。
「アステル殿」
「リンをって意味だよ。偽物のところへそのまま戻すのは無理だろ」
「まだドラキナ様が偽物と決まったわけではない」
「だったら確かめよう」
自分でも少し意外なくらい、すぐに言葉が出た。
「本物ならそれでいい。偽物ならドラキナを取り戻す。どっちにしても、今ここでリンだけ連れていくよりマシだ」
シグリッドの眉が僅かに寄る。
「そなたまで、その話を信じるのか」
「信じるっていうか、確かめる価値はあると思ってるだけだ」
リンだけの証言なら、まだ判断はできない。けれど、レミエールまで同じ方向を見ている。それ以上に、目の前のシグリッド自身が何かを迷っているように見えた。
「お前も何か引っかかってるんじゃないの?」
シグリッドの表情が止まった。レミエールがこちらを見る。
「私が言おうと思ってたのに」
「悪い」
「まあいいけど」
レミエールがシグリッドへ向き直る。
「キミも変だと思ってたんでしょ。あのドラキナ」
シグリッドが黙る。その沈黙だけで十分だった。
「いつから?」
俺が聞く。
「……何がだ」
「ドラキナがおかしいと思い始めたの」
「アステル」
レミエールが少しだけ声を落とした。責めるな、という意味なのだろう。分かっているつもりだった。
「いや、責めたいわけじゃない。ただ、どれくらい前からなのか知りたい」
シグリッドは少し考えてから答える。
「明確にいつからとは言えぬ。些細なものだ。普段ならばなさらぬ判断がいくつか続いた」
「……そういうの、先に言ってくれよ」
「確証もない違和感だけで、サンブリンガー様を疑えと?」
「それは……」
言葉に詰まる。シグリッドの立場なら当然だ。俺だって、普段のドラキナを知っているからこそ、今まで何も疑っていなかった。
「悪い。今のは違った」
「いや」
シグリッドは短く答える。
「某自身、もっと早く違和感を確かめるべきだったのかもしれぬ」
リンが小さく息を呑んだ。レミエールはその反応を見逃さなかった。
「だったら、話だけでも聞いてよ」
シグリッドはまだ警戒を解かない。レミエールは先ほどリンへ話した内容から、必要な部分だけを選んで説明した。結使と業核、現代の三人のサンブリンガーが持つ力、そしてギルタブルルたちが、その業核を狙っている可能性。
「人間が完全に結使へ変わったら、元の意識をそのまま保って演技なんてできない。私はそれを知ってる」
レミエールの声が少しだけ低くなる。
「だからドラキナ本人が突然おかしくなったって考えるより、何かが身体と業核を奪おうとしてると考える方が自然なんだよ」
俺は黙って聞きながら、さっきより嫌な想像をしていた。ドラキナ本人はまだいる。けれど、何かがその身体と業核を奪おうとしている。もし間に合わなかったら。考えかけて、やめる。今必要なのは、その先じゃない。
「……某も、ここ数日のドラキナ様に違和感を覚えなかったわけではない」
シグリッドがようやく口を開く。
「勘違いされるな。そなたらの話を信じたわけではない」
「それで十分だよ」
レミエールが笑った。俺も息を吐く。
「だったら、助ける方法を考えよう」
シグリッドが俺を見る。
「最初から同行するつもりか?」
「ここまで聞いて、知らん顔できるほど器用じゃないよ」
ドラキナが本当に危ないのなら、放っておきたくない。どうしてそこまで気になるのかは、自分でも分からなかった。レミエールが少しだけ笑う。
「じゃあ、どうするか一緒に考えよっか」
「……その前に」
三人の視線が俺へ向く。俺はさっき棚へ置いた服を指差した。
「会議でも何でもすればいいけど、二人とも先に着替えてこい。その格好のままじゃ風邪引くぞ」
リンが自分の服を見る。髪はある程度乾いたものの、着ていた服にはまだ雨の湿気が残っている。レミエールも自分の袖を摘まんだ。翼の水気はほとんど取れていても、服まで乾いたわけではない。
「そういえば、着替え持ってきてくれたんだ」
「そのために部屋出てたんだよ」
俺は二人へ一組ずつ渡す。どちらも部屋着として使っているシャツとパンツだった。
「新品じゃないけど洗ってある。サイズは合わないと思うから、そこは我慢してくれ」
レミエールが受け取ったシャツを広げる。
「これ、アステルの?」
「俺の家で俺以外の服が出てきたら怖いだろ」
「確かに」
◇
レミエールは何でもない顔で服を抱える。そのやり取りを横で聞いていたリンも、自分の手元へ視線を落とした。黒っぽいシャツと、柔らかい素材のパンツ。アステルが普段部屋で着ているものらしい。つまり、これをアステルが着ていた。そこまで考えた瞬間、急に意識した。ただ服を借りるだけだ。濡れたままでいる方がおかしい。そんなことは分かっているのに、「男の人の服を借りる」という事実が頭に浮かんだ途端、さっきまで何とも思っていなかった布地が妙に持ちにくくなる。しかも、その相手がアステルだった。
「リン?」
「な、なに?」
「顔赤くない?」
レミエールが覗き込んでくる。
「赤くない!」
「そう?」
「雨に濡れてたからでしょ!」
「もうだいぶ経ってるけど」
「うるさい!」
思ったより強く返してしまった。アステルまでこちらを見る。
「嫌なら別の探すけど」
「嫌じゃない!」
また声が大きくなる。リンは慌てて少し声を落とした。
「……洗ってあるなら、それでいい」
「だからそう言ってるって」
本人は本当に何も気にしていない。そのことに安心したような、少しだけ面白くないような、妙な気分になる。リンは服を抱え直した。百年前、軍服姿で笑っていたアステル。そのあとに見た墓。そして今は、その本人の家で本人から服を借りている。昨日までなら、ただの知り合いの男の人から着替えを借りたくらいで、こんなに気にしただろうか。自分でも分からなかった。ただ、さっきアステルが何も聞かずに家へ入れてくれた時から、妙に胸の奥が落ち着かない。
「リンちゃん、行こ」
レミエールが声をかける。
「……うん」
二人で奥へ向かう。途中、リンはレミエールの腕の中にも同じような服があることへ目を向けた。当然だ。レミエールだってびしょ濡れなのだから、着替える。それなのに、気づけば口が動いていた。
「レミエールも、それ着るんだ」
「え?うん。そのためにもらったんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「何?」
「……ううん。着るよね、普通」
別に変なことではない。それなのに、レミエールがアステルの服を着るところを想像すると、胸の奥に小さく引っかかるものがあった。百年前からの仲で、今でも気軽に家へ来られる距離。さっきだって、アステルの家のことを自分よりよく知っていた。
「リンちゃん?」
「気にしないで」
自分でも少し不機嫌な声になったのが分かった。レミエールは数秒こちらを見たあと、何かに気づいたように口元を緩める。けれど、何も言わなかった。それが余計に気になった。
◇
先に着替えを済ませたリンは、鏡の前で立ち止まった。借りたシャツは思っていた以上に大きかった。袖から指先だけが覗き、裾も普段着ているものよりずっと長い。
「……でか」
アステルとの身長差を考えれば当然だ。袖口を少し持ち上げたところで、改めて今の自分の姿が目に入る。アステルの服を着ている。そう認識すると、頬がまた熱くなった。洗剤の匂いに混じって、部屋の中と同じような微かな匂いがする。アステル本人のものなのかどうかなんて分からない。分からないのに、一度考えてしまうと、ますます落ち着かなくなった。
「私、何考えてんの……」
額を手で押さえる。昨日、百年前の彼を見た。死んだことも、さっきレミエールから確かめてしまった。それなのに、その本人が普通に生きていて、自分を家に泊め、服まで貸してくれている。それだけでも十分おかしい。だから意識している。そういうことにしておけばいい。けれど、胸の鼓動が少し早い理由まで墓のせいにするのは、さすがに無理がある気がした。
「……いや、今それ考える?」
トリヴィアがあんなことになったばかりなのに。自分で自分が嫌になる。それでも、鏡に映る姿から目を逸らすまでには少し時間がかかった。
「リンちゃん、終わった?」
扉の向こうからレミエールの声がする。
「今出る!」
リンは慌てて袖を整え、部屋を出た。入れ替わりにレミエールが着替えに入る。
◇
少しして、レミエールも戻ってきた。
「お待たせ」
リンは思わずそちらを見る。レミエールもアステルのシャツを着ていた。翼があるため背中側は少し工夫しているものの、それ以外は何の違和感もなく着こなしている。袖を何度か捲り、長い裾も本人はまったく気にしていない。
「やっぱり大きいね、これ」
「……そうだね」
自分も同じようなものを着ている。なのに、なぜかレミエールの方ばかり気になった。似合っている、というより妙に馴染んで見える。それが少しだけ面白くない。
「レミエールってさ」
「うん?」
「アステルの服借りるの、初めて?」
聞いてから後悔した。何を聞いているんだ、自分は。レミエールが一度目を瞬く。
「たぶん?百年前まで数えろって言われたら覚えてないけど」
「百年前まで……」
「どうしたの?」
「……ちょっと意外だっただけ」
「ふーん」
明らかに面白がっている。
「何その顔」
「リンちゃんって分かりやすいなあって」
「何が!?」
「それは自分で考えてみたら?」
それ以上言わず、レミエールは先にリビングへ戻っていく。リンはその背中を睨んだ。何を分かったつもりなのか。自分でもまだ分かっていないのに。リビングへ戻ると、アステルとシグリッドが待っていた。アステルは二人を見て、一度だけ目を止める。
「やっぱデカかったな」
それだけだった。リンは思わず眉を寄せる。
「……それだけ?」
「何が?」
「いや。もういい」
本当に何も意識していない。自分だけ気にしていたのが馬鹿みたいだった。その横で、レミエールが小さく吹き出す。
「何笑ってんの」
「リンちゃん、忙しいなあって」
「誰のせいだと思ってるの!?」
「二人とも静かにしろ。話し合い始めるんだろ?」
アステルに呆れた声で止められ、リンは口を閉じた。けれど、席へ着いてからも、長すぎる袖が視界に入るたび、さっきまでとは違う意味でアステルを意識してしまった。
◇
俺の家のテーブルを囲んで、なぜか指名手配犯と空巡局の二番手が作戦会議を始めていた。数時間前まで、俺は明日の仕事から逃げる方法を考えていただけだったはずなんだけど。
「まず、算枢局の通信は使わない方がいいね」
レミエールが言う。
「偽ドラキナがどこまで掌握してるか分からない。電子通信は全部見られてる前提で考えた方がいい」
「某も同意しよう。このところドラキナ様は通信シグナルの監視を、以前より厳しくするよう命じておられた」
「自分を探られないため、か」
俺が言うと、シグリッドが頷いた。
「ドラキナ本人が中にいるなら、外から連絡取る方法はないのか?」
「難しいだろうね」
レミエールが答える。
「身体の主導権をどこまで奪われてるのかも分からないから」
「……そっか」
何とか本人に聞ければ早い。そんな単純な話でもないらしい。リンは腕を組みながら考え込む。
「算枢局の中で直接捕まえるのは無理だよね。あそこじゃ周りに人が多すぎるし」
「だったら、向こうから出てきてもらうしかない」
レミエールの言葉に、リンの目が動く。
「歓迎会」
「うん?」
「ドラキナ様主催の歓迎会なら、本人が出てこない方が不自然でしょ。そこで偽物を別の場所へ飛ばせれば……」
「ドラキナごと飛ばすのか?」
俺が聞くと、リンが頷いた。
「うん。でも人のいないところに。そこで偽物だけどうにかできれば――」
「本人まで傷つける可能性は?」
リンの表情が止まる。レミエールが代わりに答えた。
「ある」
「あるのかよ」
「だから準備するんでしょ」
即答されて、口を閉じる。
「できるだけドラキナ本人を傷つけずに引き剥がす。その方法を探す時間も必要だよ」
「……分かった」
納得したわけじゃない。でも、何もしなければもっと悪くなる。シグリッドが片眉を上げた。
「リン殿。その歓迎会についてだが、一つ伝えておくことがある」
「なに?」
「当初は明日の夜を予定していたが、開催は数日後へ延期された」
リンとレミエールが顔を見合わせる。俺も思わず聞き返した。
「……延期?」
「ああ。本日の算枢局での一件を受け、来賓の警護体制と会場周辺の動線を再点検することになった。ヴィルリウム側の歓迎行事も同様だ」
「ヴィルリウムも?」
「無論だ。片側だけ予定を変えれば不自然であろう」
俺は椅子の背にもたれた。今日一日、リンドヴェルヌにあっちへ行け、こっちを確認しろと言われ続けた記憶が蘇る。
「……今日まで必死に準備してたんだけど」
「準備したものが無駄になるわけではあるまい」
「そういう問題でもないんだよな……」
レミエールが笑いを堪えている。
「良かったね。もう何日か準備を楽しめるよ」
「お前あとで覚えてろよ」
「でも、こっちには都合いいかも」
リンの言葉で話が戻る。
「数日あるなら、必要なものを揃える時間ができる」
「必要なもの?」
「シンギュラ・リーク」
シグリッドが露骨に嫌そうな顔をした。リンは慌てて手を振る。
「会場をホロウにするわけじゃないよ!偽物がシンギュラ・リークを使ってドラキナ様のところまで来たなら、逆に同じ仕組みを使って外へ送り出せないかなって」
「外へ……」
「人のいない場所まで追い出して、そこで捕まえる。それなら会場の客も巻き込まずに済む」
レミエールが楽しそうに頷く。
「敵が使った道を、そのまま返してあげるってわけだ」
「でも、そのためには安定したホロウの観測データが必要なの。私のお兄ちゃんにもFairyにも今は連絡できないし、H.D.Dも使えないから……」
「観測データなら、心当たりがある」
シグリッドが言う。
「スカモールホロウの深層に、ロスウィックと呼ばれる廃墟がある。以前の巡回で、算枢局にあるものと似た巨大な設備が残っているとの報告を受けた」
「ロスウィック……」
レミエールの顔から笑みが消えた。
「知ってるの?」
リンが聞く。
「……知ってるよ」
短い返事だった。そこに何かあることは俺にも分かったが、レミエールはそれ以上話さなかった。
「設備がまだ動くなら、使えるかもしれない」
リンは少し考える。
「でも、あの規模の設備ならエンザンボンプが必要になるかも」
「それなら私から頼んでみるよ。あの子たちが素直に手を貸してくれるかは分かんないけど」
「移動については某が手を打とう」
シグリッドは立ち上がった。
「空巡局の巡回経路と警備配置を確認する。数日の猶予ができた以上、焦って余計な痕跡を残す必要はない。明日、改めてここへ来よう」
「俺も行く」
三人がこちらを見る。
「ロスウィックに?」
リンが聞く。
「ああ」
「でも、アステルはヴィルリウムの仕事が――」
「歓迎会延びたんだろ」
シグリッドを見る。
「一日くらいどうにかならない?」
「某に外計局の勤務を決める権限はない」
「そこをなんとか」
「知らぬ」
「冷たいな」
レミエールが小さく笑った。
「まあ、来ると思ったけど」
「ドラキナのこと聞いといて待ってろって方が無理だろ」
自分でも、なぜここまで気になるのかは分からない。ただ、行かないという選択肢は最初から浮かばなかった。
シグリッドは玄関へ向かいかけて、ふと足を止めた。
「……一つ、聞いてもよいか」
レミエールが顔を上げる。
「何?」
「そなたはエルダ様に刃を向けた。そのそなたが、なぜ今度はドラキナ様を救おうとする」
部屋が静かになる。レミエールは少しだけ目を伏せた。
「……あの三人は、私が探してたサンブリンガーじゃなかったから」
シグリッドが黙って聞く。
「でも、だからどうでもいいってわけじゃない」
レミエールは窓の外へ目を向けた。
「この街も、あの三人も。あの人がこの世界に残していったものなんだと思う」
胸の奥が一度だけ強く鳴った。レミエールは気づかない。
「だったら、どこから来たかも分からない怪物に勝手に奪われるのはムカつく。それだけ」
「……そうか」
シグリッドはそれ以上聞かなかった。玄関へ向かい、扉を開く直前にこちらを見る。
「アステル殿」
「ん?」
「今夜ここで見聞きしたことは、しばらく口外せぬよう願う」
「言われなくても。俺まで指名手配されたくないし」
「……冗談に聞こえぬな」
「俺も言ってから思った」
シグリッドは小さく息を吐き、今度こそ出ていった。
◇
時計を見ると、とっくに日付が変わっていた。
「……で」
俺は残った二人を見る。
「話し合い終わった?」
「一応?」
「じゃあ次。二人ともシャワー使ってこい」
リンが目を丸くする。
「今から?」
「今から。雨に濡れてタオルで拭いただけで寝るのはなし」
「アステル、急にお母さんみたいになったね」
「誰がお母さんだ」
レミエールが自分の翼を見る。
「せっかくリンちゃんに乾かしてもらったんだけどなあ」
「翼はまたびしょ濡れにしなくてもいいだろ。普段どうやって風呂入ってんだよ」
「ちゃんと濡らさないようにできるよ」
「なら問題ないだろ」
「はーい。じゃあ私から借りよっかな」
レミエールは立ち上がると、浴室の方へ向かっていく。
「タオルは?」
「脱衣所の棚!」
「シャンプー勝手に使うよー」
「好きにしろ」
◇
声が遠ざかり、扉が閉まる。急に静かになった。リンは向かいの席に座ったまま、借りたシャツの袖口をいじっている。
「……何?」
「いや。さっきからずっとその袖触ってるなと思って」
「見なくていいでしょ」
「別に見張ってたわけじゃないって」
二人きりになると、さっきまでより妙に落ち着かない。もちろん、アステルはいつも通りだ。
「風呂上がったら、その服もう一回着ればいいから。濡れた方は明日までに乾かしとく」
「そこまでしてもらわなくてもいいよ」
「泊めるって言ったの俺だろ」
「そうだけど」
当たり前のように言われると、それ以上何も返せなくなる。リンは長い袖の中へ指先を少し引っ込めた。
「……アステルってさ」
「ん?」
聞こうとした。百年前のこと、軍にいたこと、虚狩りになりたかったこと、そして自分の墓を見たこと。レミエールから、逐日計画より前にはもう死んでいたと聞いたことまで。けれど、本人を目の前にすると、どこから聞けばいいのか分からなかった。
「……ごめん。やっぱ今はいい」
「なんだそれ」
「今度聞く」
「変なやつ」
「誰のせいだと思ってんの」
「俺?」
本気で分からなそうな顔をされた。その時、浴室の方からレミエールの声が飛んできた。
「アステルー!これどっちがコンディショナー!?」
「ラベル読め!」
「字ちっちゃい!」
「知らねぇよ!」
リンは思わず吹き出した。百年前の墓も、軍服姿も、さっきまで胸の奥で引っかかっていたものも、一瞬だけ遠ざかる。目の前にいるのは、間違いなく今のアステルだった。
◇
レミエールが戻ってきたあと、今度はリンがシャワーを借りた。身体に残っていた雨の冷たさがようやく抜け、浴室を出る頃には少しだけ頭も落ち着いていた。借りたシャツへもう一度袖を通す。結局、意識するものは意識したままだったけれど。
◇
少しして、リンがリビングへ戻ってきた。
俺はソファの周りを片付けていた。
「終わった?」
「うん」
「じゃあ寝ろ」
「そんな簡単に切り替える?」
「明日も動くんだろ。今から続きを始めたら朝になる」
「もう朝に近いけどね」
レミエールが余計なことを言う。
「だからだよ」
俺は寝室の方を見る。
「リンは俺のベッド使え」
「え、アステルは?」
「ソファ」
「いや、そこまでしてもらわなくても――」
「どうせ昨日からまともに寝てないだろ」
反論しかけたリンが口を閉じる。
「レミエールは前使ったやつ出すから」
「私だけ扱い慣れてない?」
「何回来てると思ってんだ」
「数えるほどだよ?」
「十分だろ」
少し離れたところで、リンがこちらを見ていた。シャワーを浴びたあとも、借りた服の袖から指先だけが出ている。さっきも何度か見た姿だ。
「どうした?」
リンはしばらく俺を見たあと、小さく呟いた。
「……ほんとに、ここにいるんだなって」
「は?」
口にしてから、自分でも驚いたらしい。
「あ、いや!今の忘れて!」
「急に無茶言うなよ」
「いいから寝る!」
逃げるように寝室へ向かっていく。意味は分からない。レミエールを見ると、こっちは口元を押さえていた。
「何笑ってんの?」
「アステルも大変だね」
「何が?」
「さあ?」
レミエールは自分用の寝具を広げながら、小さく笑う。俺はソファへ腰を下ろした。今日は一日で色々ありすぎた。歓迎会は数日延期され、ドラキナは偽物かもしれない。リンはこのままなら指名手配されかねず、明日からはロスウィックの調査まで始まる。レミエールも、まだ百年前の話をいくつも抱えている。数時間前まで、俺は仕事から逃げたいだけだったはずなんだけど。
「なあ、レミエール」
「なに?」
「お前が人に翼触らせるの、珍しいな」
レミエールの手が止まった。ソファの横には、まだ少し湿ったタオルが置かれている。
「ああ、これ?」
白い翼が一度だけ揺れる。
「今日は特別」
「ふーん」
「それだけ?」
「他に何があるんだよ」
レミエールはしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……別に」
なぜか呆れたような顔をされた。外ではまだ雨が降っている。けれど、さっきまで重たそうだった白い翼からは、もう水滴は落ちていなかった。