朝、目を覚ましたリンは、しばらく天井を眺めていた。見慣れない部屋だった。カーテンの隙間から差し込む光に目を細めながら、昨夜の出来事を思い返す。算枢局での一件、トリヴィアのこと、雨の中でレミエールに拾われたこと。そして、アステルの家に泊めてもらったこと。
「……そっか。アステルの家だった」
身体を起こすと、掛け布団が肩から滑り落ちた。昨夜借りた大きなシャツは、袖から指先が少し覗くほどのサイズだった。寝る前に散々意識していたことまで思い出して、リンは思わず顔を伏せる。
「……朝から何考えてんだろ、私」
小さく呟き、ベッドから降りた。昨夜の服は、アステルが乾かしておくと言っていたはずだ。着替えを取りに行こうと寝室の扉を開けると、リビングから話し声が聞こえてきた。
「だから、一日だけだって」
アステルの声だった。
『昨日もそう言っていたでしょう?あなた、ヴィルリウムの準備で手が回らないって』
続いて聞こえた女性の声には覚えがある。ヴェリナだ。リンが顔を出すと、キッチンに立っていたアステルがこちらに気づいた。片手には端末を持ち、もう片方ではフライパンを動かしている。
「おう、おはよう。よく眠れた?」
「うん、おかげさまで。……電話中?」
「ああ、ちょっと仕事のことでな」
『アステル?誰かいるのかしら?』
「ああ、昨日から客が泊まってるんだよ」
『そう。朝食まで作ってあげているのね』
「なんで分かった?」
『さっきから何か焼いている音が聞こえているもの。あなた、通話中に料理をするのは今に始まったことではないでしょう?』
「……よく聞こえるな」
リンは思わず笑いそうになった。どうやら二人は普段からこういうやり取りをしているらしい。
『それで、今日の件なのだけれど。歓迎行事が延期されたおかげで、多少は調整できそうよ。ただし、昨日までの準備がなくなったわけではないのだから、帰ってきたら手伝ってもらうわね』
「ああ、助かる。明日からまた働くよ」
『……明日から、ね』
「何その言い方」
『今日もあまり無茶をしないでほしいと思っただけよ。あなたの言う「大丈夫」は、少し信用できないところがあるもの』
「ひどくない?」
『ふふ。今までのことを思い出してみたら?』
アステルは返事に困ったように口を閉じた。その時、通話の向こうから別の声が割り込んできた。
『アステルー!聞こえてるのだ!?』
「うおっ、ノルムー!?急に大声出すなよ!」
『うるせーのだ!ヴェリナから聞いたのだ!お前、今日も仕事サボる気なのだ!?』
「サボるんじゃねえよ!ちゃんと用事があるんだって!」
『用事ならノルムーにもあるのだ!今日中に終わらせたい仕事が山ほどあるのだ!』
「それ、お前の仕事だろ」
『上司の仕事は部下の仕事なのだ!』
「そんな理屈が通るか!」
リンはとうとう笑ってしまった。アステルがちらりとこちらを見る。
「……悪いな、朝からうるさくて」
「ううん。なんか、いつも通りって感じ」
『ん?誰かいるのだ?』
「リンだよ。昨日から泊まってる」
『リン!?なんでアステルの家にいるのだ!?』
「ちょっと事情があってな」
『事情!?ノルムーは聞いてないのだ!』
「そりゃ言ってないからな」
『言うのだ!』
「今度な」
『絶対忘れるやつなのだ!』
さらに騒ごうとするノルムーを、ヴェリナが遮った。
『ノルムー、少し落ち着いてちょうだい。事情は帰ってきてから聞けばいいでしょう』
『でもヴェリナ!こいつ、ノルムーに何も相談してないのだ!』
『ええ。それについては私も聞きたいわね』
「……俺、帰ったら二人に怒られる感じ?」
『ふふ。ちゃんと説明してくれたら、考えてあげるわ』
困ったように笑うアステルを見て、リンはまた少し笑ってしまった。
『それより、アステル。昨夜はちゃんと休めたの?』
「休んだよ。ソファだったけど」
『ソファ?』
「客にベッド譲っただけだって。別に変なことじゃないだろ」
『ええ、あなたらしいと思うわ。でも、自分のことも少しは大切にしてちょうだい』
「分かってるよ。ヴェリナこそ、ちゃんと休めよ。昨日も遅くまで仕事してただろ」
『あら、私の心配までしてくれるの?』
「そりゃするだろ。前に休みの日まで仕事のこと考えてたじゃん」
『……あの時のことは、もう忘れてくれてもいいのだけれど』
「無理だな。せっかくの休みなのに、街の案内板まで気にしてたし」
『もう、アステルったら』
通話の向こうでヴェリナが笑った。二人は上司と部下という関係のはずなのに、その会話には仕事だけでは生まれない親しさがあった。アステルがヴェリナと仲がいいことは知っていたが、こうして休日の話まで自然に交わせるのだと、リンは少し意外に思った。
『とにかく、今日の勤務は調整しておくわ。帰ってきたら、ちゃんと顔を見せてね』
「ああ、ありがとな、ヴェリナ」
『どういたしまして。気をつけて行ってらっしゃい』
『アステル!帰ってきたらノルムーの仕事も手伝うのだ!』
「自分でやれよ!」
『恩知らずなのだー!』
そこで通話が切れた。アステルは端末を置き、フライパンの中身を皿へ移していく。
「……相変わらず騒がしいな、あいつ」
「ふふ。仲いいよね、三人とも」
「まあな。ノルムーには散々振り回されてるけど、あいつがいなかったら今の俺はいないし。ヴェリナにも世話になってるからな」
そう言いながら、アステルは三人分の食器をテーブルへ並べた。
「さて、腹減ってない?レミエールもそろそろ起こさないとな」
「……ちょっと減ったかも」
リンは椅子へ腰を下ろした。昨夜はあんなことがあったのに、こうして朝食が用意されている。百年前の墓を見た時には、こんな朝が来るなんて思いもしなかった。
◇
「アステルー、私の分ある?」
寝室からレミエールが現れたのは、それから十分ほど経った頃だった。まだ少し眠そうな顔をしているものの、翼だけはきちんと整えられている。
「あるから座れ。あと、髪くらい直してこい」
「えー、そんなに変?」
「片側だけ跳ねてる」
「それくらい可愛いものでしょ?」
「はいはい。ちょっとこっち向け」
アステルが手を伸ばすと、レミエールは何の疑問も持たずに顔を向けた。指先が頬のすぐ横を通り、跳ねていた髪を軽く押さえる。アステルは何度か指で梳くように整えると、最後に毛先を撫でて手を離した。
「ほら、これでマシになった」
「ありがと。キミ、昔からこういうの気にするよね」
「お前が気にしなさすぎなんだよ。翼は毎朝ちゃんと整えるくせに」
「だって翼と髪は違うじゃん」
「どっちも自分で見えるところだろ」
レミエールは楽しそうに笑い、そのままリンの隣へ腰を下ろした。アステルも何事もなかったようにキッチンへ戻っていく。リンは二人を交互に見た。アステルが手を伸ばした時、レミエールは驚くどころか、顔を向けただけだった。髪に触れられている間も普段と変わらず、終われば当たり前のように礼を言っている。百年前から一緒にいたというのだから、こういうことも珍しくないのかもしれない。それでも、リンは自分が同じことをされたらどうするだろうと考えてしまった。
「リンちゃん?」
突然声をかけられ、顔を上げる。
「あ、おはよ。レミエール」
「おはよ。ちゃんと眠れた?」
「うん。レミエールは?」
「久しぶりによく寝た気がする。やっぱり知ってる人の家って安心するよね」
「……そうなんだ」
リンはパンへ視線を落とした。昨夜はアステルの服を借りたことばかり気にしていたけれど、今の二人を見ていると、百年前からの付き合いというものが少し羨ましくなる。
「リンちゃん、まだ眠い?」
「もう起きてるって。それより、今日は早く出るんでしょ。食べないと冷めるよ」
「おやおや」
レミエールは何か言いたそうに笑ったが、それ以上は追及せず、朝食へ手を伸ばした。
「そういえばアステル、仕事は大丈夫なの?」
リンが尋ねると、アステルは肩をすくめた。
「ヴェリナが調整してくれるってさ。まあ、帰ったら溜まった仕事とご対面だろうけど」
「大丈夫大丈夫。私も応援してるから」
レミエールが笑顔で言う。
「手伝う気は?」
「ないよ?」
「だろうな」
そのやり取りに、リンも少し笑ってしまった。昨夜はずっと重たかった胸の奥が、今は少しだけ軽い。
「さて、そろそろ準備するか。シグリッドが来るまでに着替え終わらせるぞ」
「あ、うん」
リンは洗面所へ向かいながら、借りていたシャツの裾を無意識に引っ張った。もうすぐ返さなければならない。当たり前のことなのに、少しだけ名残惜しかった。
◇
「……で、これは何?」
リンが着替えを終えてリビングへ戻ってきた頃、シグリッドは大きな箱を二つ並べていた。箱の中に収まっていたのは、見覚えのある丸い頭。
ミスター・ガオ。
ロスカリファでは有名なパンケーキ屋のマスコットであり、以前レミエールが着ぐるみ姿で騒ぎを起こしたこともある。それが二着も並んでいる。
「……もしかして、これ着るの?」
「うむ。そなたら二人は現在、空巡局の監視対象となっておる。堂々と前哨基地を通過するわけにはいくまい」
「それはそうだけど……」
「安心されよ。アステル殿は外計局からの警備協力者として同行していただく。某も共にいる以上、不審に思われることはあるまい」
「いや、むしろ不審だろ」
思わず口を挟むと、シグリッドが不思議そうに首を傾げた。
「空巡局の次官と外計局の職員が、ミスター・ガオ二匹連れてホロウに入ろうとしてるんだぞ?」
「二匹ではない。二人だ」
「そこじゃねえよ」
レミエールが額を押さえている。
「あのさ、シグリッド。どうしてこれにしたの?」
「一着は昨日の巡回中に部下が拾得したものだ。もう一着は某の私物でな」
「……私物?」
俺とリンは思わず顔を見合わせた。シグリッドは何でもないことのように頷く。
「うむ。以前から所有していたものだ」
「いや、なんで持ってるんだよ」
「何か問題があるのか?」
「問題っていうか……」
どうして空巡局の次官がミスター・ガオの着ぐるみを持っているのか、むしろ俺が聞きたい。その隣で、レミエールが拾得された方の着ぐるみをじっと見つめていた。
「……これ、あの時のやつじゃん」
そういえば、以前レミエールがミスター・ガオの着ぐるみを着て、脱げなくなっていたことがあった。
「お前、またそれ着るの?」
「私だって好きで着るわけじゃないんだけど!?」
「前は結構楽しそうだったろ」
「最初はね!最後の方は本当に大変だったんだから!」
リンが小さく笑っていると、レミエールがそちらを振り返った。
「じゃあ今回はリンちゃんも着てみよっか。きっとよく似合うよ」
「え、私も?」
「二着あるからね」
「……そうだった」
二人は諦めたように箱へ手を伸ばした。シグリッドは満足そうに頷いている。
「では、準備が整い次第出発するとしよう」
俺はもう一度、箱に入った着ぐるみを眺めた。本当にこれで大丈夫なのか。シグリッド本人が大真面目なのが、一番不安だった。
◇
結論から言うと、通れてしまった。
前哨基地を抜けたあと、俺は隣を歩くミスター・ガオ二匹を眺めた。片方は暑さで頭を抱え、もう片方は時々こちらへ助けを求めるような視線を向けている。
「……なんで通れたんだ?」
「何を不思議がっておる?某が同行しているのだ。当然であろう」
「いや、さっきの兵士、完全に納得してたぞ」
検問所では、シグリッドが二人をパンケーキ屋の関係者だと説明した。すると兵士が勝手に、食材の調達に向かうのだと勘違いしてしまったのだ。しかもシグリッドはそれを訂正しなかった。結果、俺は『パンケーキの材料調達に同行する外計局の職員』という、意味の分からない立場に収まってしまった。
「……外計局って、そんな仕事するところだったっけ」
「ロスカリファの経済活動を支えることも、立派な仕事ではないか?」
「それはそうだけど、限度があるだろ」
シグリッドはまったく気にしていない。隣のミスター・ガオが俺の肩を軽く叩いた。
「……がお」
リンだ。たぶん励ましてくれているのだろう。もう一匹は完全に無言だった。
「レミエール、生きてる?」
「……暑いがお」
「そりゃそうだろうな」
「アステル、笑ってるでしょ」
「いや、そんなことないぞ」
「絶対笑ってる!」
着ぐるみ越しでも分かるほど不満そうな声がした。シグリッドが振り返る。
「そなたら、あまり騒がぬように。ここから先はホロウ内部だ」
「分かってるって」
俺は笑いを引っ込め、腰の武器へ手を添えた。ふざけた格好ではあるが、目的は遊びではない。目指すのはスカモールホロウの深層、百年以上前に失われた街、ロスウィックだ。
◇
「ぷはっ……!」
安全を確認したところで、リンが着ぐるみの頭を外した。続いてレミエールもどうにか脱ぎ、ようやく大きく息を吐く。
「ほらね。言ったでしょ、これ本当に大変なんだって」
「……うん。前に笑ってごめん」
「分かってくれればいいよ」
二人が休んでいる間、俺は近くの岩へ腰を下ろした。ここまで何度かエーテリアスと遭遇したものの、シグリッドとレミエールがいる以上、大した問題にはならなかった。もっとも、着ぐるみ姿で戦おうとしたレミエールを止めるのには少し苦労したが。
「……本当に、この二人が初代虚狩りとパエトーンなのか」
俺の呟きにシグリッドが小さく頷く。
「某も同じことを考えていた」
「聞こえてるよー」
レミエールがこちらを見る。
「キミたち、記録に残ってる私たちがどれだけ立派だったと思ってるの?」
「少なくとも、着ぐるみ姿で文句を言っているところは想像できんな」
「そりゃ記録には残らないでしょ。みんなが知りたいのは、強くて格好いい英雄の話だもん。でも実際は、もっと普通の人たちだったんだよ」
俺もよく知っている。レミエールは昔から食べ物のことになると騒がしいし、ベリオラは普段こそしっかりしていたが、時々妙なところで意地を張ることがあった。記録に残っているのは、あいつらのほんの一面でしかない。
「実際、食い物のことで言い合うなんて珍しくなかったしな」
「ちょっとアステル。それ私のこと?」
「誰とは言ってないだろ」
「絶対私じゃん!」
リンが吹き出し、シグリッドも興味深そうに俺たちを見比べていた。
「ふむ。アステル殿から聞く百年前の話は、やはり興味深いな」
「そんな大した話じゃないぞ。英雄だって普段は普通に暮らしてたってだけだ」
「なるほど。某も、いずれ詳しく聞いてみたいものだ」
「食い物の話ならいくらでもしてやるよ」
「アステル!」
レミエールが不満そうに声を上げる。その姿を見ていると、百年前に戻ったような気さえしてくる。
ただ、あの頃はここにもう一人いた。
俺は立ち上がり、服についた埃を払った。
「さて、そろそろ行こうぜ。目的の場所まではまだあるんだろ?」
「うむ。この先のトンネルを抜ければ、ロスウィック地区に入る」
シグリッドが先頭に立つ。俺たちは着ぐるみを人目につかない場所へ置き、再び歩き始めた。
◇
トンネルを抜けた先に広がっていた光景を見て、思わず足を止めた。
「……嘘だろ」
覚えている街とは、何もかも違っていた。巨大な建造物が不自然な角度で傾き、道路は途中で途切れている。上を見れば、本来なら地面にあるはずの構造物が遥か高い場所に浮かんでいた。エーテルの光がその隙間を満たし、遠くでは巨大な建物がゆっくりと回転しているように見える。ホロウ内部の空間が歪むことは珍しくない。それでも、目の前の景色を昔のロスウィックと結びつけるのは難しかった。
「ここが……ロスウィック?」
リンが呟く。その隣で、レミエールも立ち尽くしていた。
「……レミエール?」
「うん。ごめん、ちょっとびっくりしちゃって」
「……そうだよな。俺もだよ」
昔はもっと普通の場所だった。研究施設が集まっているとはいえ、そこで働く人間たちの生活もあった。昼になれば食事へ出かける人がいて、仕事を終えた研究者たちが連れ立って歩いている。子供の頃は大きな建物を見上げて驚いたものだったし、大人になってからも何度か訪れた覚えがある。軍へ入ってからは機会が減ったものの、時間が合えばレミエールやベリオラと顔を合わせることもあった。
「アステル殿?」
シグリッドがこちらを振り返る。
「いや、昔来た時とは随分変わったなと思ってさ」
「む……そうか。アステル殿は、かつてのロスウィックをご存じなのだな」
「ああ。子供の頃から何度も来てたよ。大人になってからも、たまに顔を出してたし」
「ならば、某たちよりもこの地に詳しいのではないか?」
「昔の道なら多少は覚えてるけど、この有様じゃ役に立つか怪しいな」
以前なら建物が続いていた場所に、今は道路の断片が浮かんでいる。見覚えのある通りも、どこへ繋がっているのか分からなくなっていた。
「ふふ。アステル、昔はよく迷子になってたもんね」
隣でレミエールが笑った。
「子供の頃の話だろ、それ」
「大人になってからも、一回間違えて別の研究室に入ってなかった?」
「……よく覚えてんな、お前」
「覚えてるよ。キミ、昔からそういうところ変わらないもん」
リンが笑いを堪えている。シグリッドは興味深そうに街を見渡した。
「ふむ。百年前のロスウィックか……。某も、一度この目で見てみたかったものだ」
「まあ、研究者が多い普通の街だったよ。今みたいに物騒じゃなかったし」
そう答えながら、街の中心にある建物へ視線を移す。
「あれ、子午館だよな?」
「うん。よく覚えてたね」
レミエールが頷いた。
「サンブリンガーの研究所だったところだよ。ジョイアスくんたちとロゼッタデータの解析モデルを検証してたんだ」
かつて見上げた建物の外観は、一部だけが残っていた。入口へ続く階段や窓の並びには覚えがあるが、その周囲にあったはずの街路は歪んでいる。
「アステルも、あそこによく来てたの?」
リンが尋ねる。
「ああ。子供の頃はよく人を待ってたよ。大人になってからも来たけど、研究のことは最後までさっぱりだったな」
「ふふ。アステル、あの頃は結構退屈そうにしてたよね」
「そりゃそうだろ。難しい話なんか聞いても分かんないし」
「でも、たまにお菓子もらって喜んでたじゃん」
「……そういうことまで覚えてんのかよ」
レミエールは楽しそうに笑った。俺はもう一度、子午館を見上げる。昔は早く帰りたいと思っていた場所なのに、こうして戻ってみると、不思議と懐かしかった。
「でも、あの中の設備はまだ使えるはずだよ。合金製のものが多いから、普通のエーテル侵蝕なら耐えられると思う」
レミエールが説明を続ける。
「問題は、どうやって入るかだよね」
リンが言う。
「そうだね。残されている復旧装置に期待するしかないかな」
「復旧装置?」
「ふふ、着いてからのお楽しみ」
そう言って歩き出すレミエールを、俺は追いかけた。昔もあいつは、あんな調子で何でもないように先へ行った。俺とベリオラが後からついていくこともあれば、逆にレミエールの方が寄り道をして遅れることもあった。百年前の街に戻ってきたはずなのに、懐かしいものを探す方がずっと難しかった。
◇
子午館へ向かう途中、何度かエーテリアスに襲われた。最初の群れはシグリッドが片付け、二度目は俺とレミエールで対処した。敵の数は多かったものの、狭い通路のおかげで一度に相手をする数は限られている。
「アステル、右!」
「見えてる!」
レミエールの声に合わせて身体を捻り、横から飛びかかってきたエーテリアスを斬り払う。背後から近づいてきたもう一体は、こちらが振り返るより早く白い光に貫かれた。
「はい、おしまい」
レミエールが軽く手を振った。
「お前、本当に便利だよな、その力」
「便利って言い方、なんか嫌なんだけど」
「褒めてるって」
そんなやり取りをしていると、先を歩いていたシグリッドが足を止めた。
「そなたら、あれを見よ」
視線の先には、何かが淡い光を放っていた。近づいてみると、金属製の奇妙な部品が地面に半ば埋まっている。
「……これ、何?」
リンが屈み込む。レミエールも隣へしゃがみ、部品を確かめると目を丸くした。
「うそ。まだ残ってたんだ」
「知ってるのか?」
「うん。これ、子午館の鍵だよ」
「鍵?」
どう見ても普通の扉に差し込める形ではない。
「子午館には緊急時の復旧装置があるんだ。空間が歪んだ時に、周囲の構造を正常な状態へ戻すためのものだよ。ただし鍵は二つに分かれてるから、両方揃えないと動かないんだけど」
「なら、もう片方を探す必要があるね」
リンの言葉に、レミエールが頷く。
「そのことなんだけど……」
妙に歯切れが悪い。俺は嫌な予感がした。
「お前、まさか」
「いやあ、百年以上前のことだからね?」
「何した?」
「ちょっと、近くに隠しちゃっただけ」
「……なんで?」
「だって持って帰るの面倒だったんだもん」
俺は額を押さえた。こういうところは昔から何も変わっていない。
「でも結果的に助かってるでしょ?私が持って帰ってたら、今ここに鍵はなかったかもしれないし」
「それは結果論だろ」
「細かいこと気にしないの」
堂々と言い切られた。リンも呆れたようにレミエールを見ている。
「それで、どこに隠したの?」
「えっと……たしか高いところだったかな。眺めがいい場所だった気がする」
子午館の近くには高台があったはずだ。何度か行った覚えもあるが、今の景色では場所を特定できそうにない。
「昔なら心当たりあるけど、この状態じゃなあ……」
俺が周囲を見回していると、シグリッドが近くの高台を指差した。
「まずは一つ目の鍵を装置へ取り付け、あの高台を調べてみてはいかがか。空間が多少戻れば、昔の地形とも照らし合わせられよう」
「そうしよっか」
レミエールは気軽に頷いた。俺は思わずシグリッドを見る。
「お前、よくそんな冷静でいられるな」
「百年以上前の記憶を頼りに調査するのだ。多少の誤差は仕方あるまい」
「多少で済むかな……」
何となく、今日は長くなりそうな気がした。
◇
最初の鍵を装置へ取り付けると、遠くで重たい音が響いた。建物の位置が少しずつ変わり、途切れていた通路の一部が繋がっていく。百年以上前の技術だというのに、目の前で起きている現象は十分に異常だった。
「まだ半分だけだけどね。もう一つ揃えば、子午館までの経路をちゃんと復旧できるはず」
レミエールの言葉に、リンが頷いた。
「じゃあ、急いで探そう」
途中、通路が完全に途切れている場所に出たが、リンが残されていた作業用ロボットを利用して道を作ってくれた。
「……便利だな、お前も」
俺が感心すると、リンは少し得意げに笑った。
「これくらいならね。私、プロキシだから」
「そういえばそうだった」
「今さら!?」
「いや、いつも普通に喋ってるから忘れるんだよ」
「忘れないでよ……」
レミエールが楽しそうに笑う。俺は開いた通路を渡りながら、リンが操作している端末へ目を向けた。昨夜まで、あいつは自分が何もできなかったと責めていた。けれど今は、俺たちが進めない道を当たり前のように開いてくれている。少なくとも、リンがいなければここまで来ることはできなかっただろう。そう思いながら歩いていると、不意に声が聞こえた。
『……諸君……』
足が止まる。途切れ途切れの声だった。誰かが遠くで話しているようにも、耳元で囁いているようにも聞こえる。
「……今の」
リンも振り返っていた。
「ああ、昔の残響だね。ホロウじゃ珍しくないよ」
レミエールが周囲を見渡しながら答える。
「残響?」
「過去に起きたことが、エーテルの影響で再現されることがあるんだ」
説明を聞きながら、俺は声の聞こえた方を振り返った。聞き間違えるはずがない。子供の頃、何度も聞いた声だった。仕事を終えて帰ってきた時も、休みの日に一緒に出かけた時も、あの落ち着いた話し方は変わらなかった。
「……サンブリンガーの声だ」
俺が呟くと、レミエールがこちらを見た。
「うん。懐かしいね」
「ああ。こんなところでまた聞けるとは思わなかったよ」
シグリッドも声の聞こえた方へ目を向ける。
「初代サンブリンガーの残響か。百年以上も前の声が、今なおこの地に残されているとは……」
「ここで研究してたんだもんな。何か残っててもおかしくないか」
俺は再び歩き始めたが、耳の奥にはまだ声が残っていた。百年前の声だというのに、思い出すのは仕事を終えて帰る途中の何でもない会話ばかりだった。
◇
二つ目の鍵は、高台の奥に残されていた。途中で何度かエーテリアスに妨害されたものの、シグリッドが先陣を切り、俺とレミエールが後を支えることで問題なく進めた。鍵を回収したところで、また声が聞こえた。
『……奇跡の……始まり……』
今度は女性の声だった。途切れ途切れで、ほとんど聞き取れない。けれど、その声を聞いた瞬間、俺の手が止まった。
「……ベリオラ?」
レミエールも動きを止めていた。
「レミエール?」
リンが声をかける。レミエールはゆっくり振り返り、小さく笑った。
「……うん。ベリだよ」
「ヴァイク大佐の?」
「そう。あの頃の記録が残ってたみたい」
レミエールは手に持っていた鍵へ目を落とす。
「こんなところに置きっぱなしにしちゃって、ごめんね。今からちゃんと使わせてもらうから」
冗談めかしているようで、その声はいつもより少し静かだった。俺は何も言わず、レミエールの隣へ立った。ベリオラの声を聞くのは、もう百年以上ぶりになる。俺が死んだあと、彼女が結使になったことはレミエールから聞いていた。それでも、こうして声を聞くと、どうしても昔の姿が浮かんでしまう。
「……あいつ、相変わらずだな」
レミエールがこちらを見る。
「え?」
「こういう時、絶対にお祝いしようって言い出すんだよ。ベリオラは」
レミエールは少し驚いた顔をしたあと、ゆっくり笑った。
「……そうだね。ベリなら言うよ」
それからしばらく、二人でその場に立っていた。リンもシグリッドも急かすことはなかった。やがてレミエールが鍵を持ち直す。
「じゃ、戻ろっか。せっかく見つけたんだし、ちゃんと使わせてもらうから」
「そうだな」
俺たちは来た道を引き返した。途中、レミエールが何度か後ろを振り返っていたことには気づいたが、声はかけなかった。
◇
二つ目の鍵を取り付けると、子午館の周囲で再び大きな変化が起きた。歪んでいた建物がゆっくりと動き、途切れていた階段が繋がっていく。やがて閉ざされていた入口が姿を現した。
「……本当に戻った」
リンが感嘆の声を漏らす。
「全部が元通りってわけじゃないけどね。でも、中に入るくらいなら問題ないはず」
レミエールが答えると、シグリッドも頷いた。
「ならば急ぐとしよう。いつまでも安全とは限らぬ」
俺たちは子午館へ足を踏み入れた。中は思っていた以上に綺麗だった。外の街があれほど歪んでいたのに、建物の内部には研究施設らしい面影が残っている。長い廊下に古い案内板、奥へ進むほど増えていく研究設備。入口から少し進んだところで、俺は足を止めた。
「……ああ、ここか」
見覚えのある廊下だった。壁の形や通路の曲がり方は昔と変わっていない。その脇には、今にも壊れそうな長椅子が残っていた。
「……まだあったんだな、これ」
「アステル?」
リンが振り返る。
「ああ、悪い。昔、ここでよく人を待ってたんだよ。長い時は何時間もさ」
「ここで?」
「そう。子供の頃は待ち時間が長くて、何度も寝ちゃってたな」
リンも長椅子へ目を向けた。
「そっか。じゃあ、結構思い出がある場所なんだね」
「まあな。当時は退屈で仕方なかったけど」
レミエールが隣へ来た。
「懐かしい?」
「ああ。こんなにボロボロになってるとは思わなかったけどな」
「キミ、昔からここで本読んだり寝てたりしてたもんね」
「そうそう。一回、あんまり退屈だったから研究室を覗こうとして、警備の人に止められたこともあったな」
「ふふ、覚えてる。そのあと怒られてたじゃん」
「結局バレたんだよな、あれ」
二人で笑っていると、シグリッドも近づいてきた。
「アステル殿にとっては、思い出深い場所なのだな」
「まあ、そうだな。大人になってからも何度か通ったけど、椅子に座ることはほとんどなくなったし」
「長い年月を経て、こうして再び訪れるというのも不思議なものだ」
「ああ。まさか百年経ってから、こんな形で戻ってくるとは思わなかったよ」
俺はもう一度、古びた長椅子を見た。昔は退屈で仕方なかった場所なのに、こうして戻ってみると、思った以上に色々なことを覚えている。
「じゃ、そろそろ行こうぜ。リンも先に進んでるし」
レミエールが頷く。俺は長椅子から視線を外し、二人を追いかけた。
◇
廊下を抜け、研究設備の並ぶ区画へ差しかかったところで、金属が擦れるような音が聞こえた。壁際に積もっていた瓦礫が崩れ、その奥から数体のエーテリアスが現れる。建物の外で遭遇した連中より身体が大きく、狭い通路を塞ぐようにこちらへ向かってきた。
「リン、下がってろ!」
俺が武器を抜くと、シグリッドも素早く前へ出た。
「某が正面を引き受けよう。アステル殿は左を頼む」
「了解!」
先頭の一体が腕を振り下ろす。壁を砕くほどの勢いだったが、俺は横へ踏み込み、その腕をかわして懐へ入り込んだ。刃を走らせると、エーテリアスの身体が大きく傾く。そこへシグリッドの一撃が重なり、通路を塞いでいた巨体が崩れ落ちた。だが、その後ろからもう一体が飛び出してくる。
「アステル!」
レミエールの声と同時に、白い光が俺の頭上を通り過ぎた。振り返ると、飛びかかろうとしていたエーテリアスが光に貫かれ、そのまま床へ倒れていくところだった。
「助かった!」
「あとでお礼よろしくね!」
「飯くらいなら奢ってやるよ!」
「言ったね?覚えておくから!」
残っていた敵も間もなく片付き、通路に静けさが戻った。リンは安全を確認してから、端末の画面を覗き込む。
「この先に大きな研究区画があるみたい。たぶん、目的の設備もそこだと思う」
「ならば先へ進もう。まだ敵が潜んでいる可能性もある」
シグリッドが周囲を警戒しながら歩き出す。俺は武器を収め、レミエールと並んでその後に続いた。
◇
「おーい、二人とも!」
先の方からリンの声がした。駆け寄ると、大きな端末が置かれていた。
「たぶん、あれじゃない?」
「これ、ロゼッタデータの検証用プロトタイプだと思う。ちょっと古いけど、基本的な仕組みは今のシステムと似てるみたい」
「使えそう?」
レミエールが聞く。
「うん。少し調整すれば、必要なデータは取れるはず」
リンは端末の状態を確かめながら、表示されている情報を次々と読み取っていく。
「じゃあ、始めちゃうね」
操作を確定させると、端末の奥で低い駆動音が響き始めた。消えていた画面に光が灯り、壁際の装置も一つ、また一つと起動していく。百年以上眠っていた研究設備が、再び動き出した。
「……すげえ」
思わず声が漏れる。昔、ここに来た時には何のためにあるのかと不思議に思っていた装置だ。それが今になって、俺たちの役に立とうとしている。
「やった!ちゃんと動いてる!」
リンが嬉しそうに声を上げた。レミエールは点灯した画面を見つめたまま、少しだけ目を細めている。
「懐かしいな……。この画面がまた点くところを見られるなんて」
「レミエール?」
「あ、ううん。それよりリンちゃん、分からないところがあったら聞いてね」
「うん。でも、これなら大丈夫そう。操作もH\.D\.Dと結構似てるんだ」
リンは端末の前へ座り、袖を捲った。
「じゃあ、ここからは私の仕事だね」
目の前の画面へ集中し、次々と表示される情報を確認していく。
「まずは外部との接続を確保して……あ、これならいけそう」
「何をしておるのだ?」
シグリッドが尋ねる。
「算枢局に直接繋ぐと監視に引っかかるかもしれないから、別の中継を使うの。『預言者様』っていうボンプに手伝ってもらって、外からは普通の通信に見えるようにする」
「なるほど……某には難しい話だな」
「大丈夫。ここは任せて」
しばらくすると、通信音が鳴った。
『……お嬢……聞こえるか……?』
「グリフ?」
レミエールが顔を上げた。
「うん。繋がったみたい!」
リンは嬉しそうに頷き、外部との通信を安定させて演算を始めた。俺には何をしているのか半分も理解できなかったが、どうやら順調らしい。
「……見事なものだな」
シグリッドが感心したように頷く。
「だろ?あいつ、こういうの得意なんだよ」
「ずいぶんと信頼しておるのだな」
「何回か一緒に動いてるからな。まあ、たまに無茶するけど」
「聞こえてるからね、アステル!」
端末を操作したままリンが抗議してきた。
「聞こえるなら集中しろ!」
「してるってば!」
レミエールが楽しそうに笑った。けれど、その笑い声は途中で小さくなる。レミエールはリンの背中をじっと見つめていた。どこか懐かしいものを見るような顔だった。
◇
百年前、まだ子午館が研究者たちの声で賑わっていた頃。ロゼッタデータの理論を検証する、大きな実験が行われた日のことだった。研究室にはいくつもの端末が並び、研究者たちが絶えず情報を確認していた。最後の演算が終わるまで結果を断言できないため、室内には期待と緊張が入り混じった空気が漂っている。レミエールは落ち着かず、何度も画面を覗き込んでは、隣にいるベリオラに窘められていた。
そんな二人から少し離れた場所で、アステルは椅子を二つ並べて寝そべっていた。もともとは廊下で待つように言われていたのだが、あまりにも時間がかかるので勝手に研究室へ入り込んだらしい。気づいた時には空いていた椅子を占領し、退屈そうに天井を眺めていた。
「……ねえ、アステル。キミ、いつからそこにいたの?」
レミエールが尋ねると、アステルは寝そべったまま片手を上げた。
「結構前から。お前らが真剣な顔して画面見てるから、邪魔しないようにしてたんだよ」
「邪魔しないようにって……そもそも、ここに入ってきちゃ駄目だったんじゃないの?」
「だって廊下で待ってても、いつまで経っても終わらないんだもん」
「だからって、勝手に入ってきたら怒られるよ?」
「もう入っちゃったし、今さら追い出されてもなあ」
悪びれる様子もなく返され、レミエールは呆れたように笑った。ベリオラも振り返り、椅子に寝そべるアステルを見て小さく息を吐く。
「アステル、せめてきちんと座ってください。ここは休憩室ではありませんよ」
「はいはい」
返事だけは素直だったが、アステルは背もたれに頭を預け直しただけだった。
「……聞いていませんね?」
「聞いてるって。ほら、静かにしてるだろ?」
ベリオラは少し困った顔をしたものの、それ以上は注意しなかった。研究設備に触れるつもりがないことくらいは、彼女にも分かっていたのだろう。
やがて、最後の検証を終えたサンブリンガーが皆の前へ戻ってきた。その表情は普段と変わらなかった。
「……どうだった?」
レミエールが思わず身を乗り出す。サンブリンガーは手元の資料を確認したあと、一同を見渡した。どういう結果だったのか、誰もが息を詰めて待っている。そんな周囲の様子など気にしていないのか、サンブリンガーはいつもの落ち着いた口調で、ロゼッタデータの理論検証が無事成功したことを告げた。あまりにも淡々とした報告だった。
「ちょっと、もっと嬉しそうに言ってよ!そんな真面目な顔で報告するから、何か失敗したのかと思っちゃったじゃん!」
サンブリンガーは不思議そうにレミエールを見た。成功したという事実を伝えたのに、なぜそんなに騒いでいるのか分からないらしい。その様子を見て、近くにいた三代目が感心したように頷く。
「む…サンブリンガー。私が勧めた『ポーカーフェイスの修行』を、みごと実践しているな。」
「もう…キミん家のおかしな伝統に、これ以上みんなを巻き込まないで!」
レミエールが抗議すると、周囲から笑いが起こった。どうやら三代目本人は本気で褒めているらしい。それが余計にレミエールを困らせているのだが、当の二人はまるで気にしていなかった。
その声を聞いて、椅子に寝そべっていたアステルも身体を起こした。
「……終わった?」
「終わったよ!大成功!」
「やったじゃんどんどんパフパフ~!」
「君は何もやってないよねぇ?」
レミエールが呆れていると、サンブリンガーがようやくアステルの存在に気づく。
「……アステル。君には廊下で待つように言ったはずだが」
「待ってたよ。最初は」
「では、なぜここにいる?」
「途中で飽きたから」
あっさり答えたアステルに、サンブリンガーは少しの間、何も言わなかった。
「……研究設備には触れていないだろうな?」
「触ってないって。ずっと座ってただけだよ」
「ならばいい。だが、次からは許可を取るように」
「はーい」
返事を聞いたサンブリンガーは、資料へ視線を戻した。レミエールはそんな二人を見比べ、思わず吹き出した。あれだけ大きな成果を上げた直後だというのに、やり取りはいつもと何も変わらない。
騒ぎを聞きつけたジョイアスが、眠そうに目を擦りながら顔を上げる。
「……なんだよ、騒がしいな。実験はどうなった?それだけ盛り上がってるなら、成功したってことでいいんだよな?」
「そうだよ。大成功!ジョイアスくんも色々頑張ってくれたし、もう好きなだけ寝てていいよ」
「起きたばっかりの相手によく言うぜ。こっちは、お前らならやってくれるって信じてたから休んでたんだよ」
ジョイアスは大きく伸びをすると、点灯した端末へ目を向けた。安堵の色を浮かべていたその顔が、やがて少しだけ真面目になる。
「まあ、喜ぶのはいいさ。ただ、これで全部終わったわけじゃない。ようやく世界を取り戻すための最初の一歩を踏み出したところだろ」
その言葉に、研究室の空気がわずかに引き締まった。ロゼッタデータの理論が検証されたからといって、すぐに世界が変わるわけではない。実用化までには多くの課題が残っているし、ホロウの脅威そのものが消えたわけでもなかった。それでも、今まで手探りで進んできた研究が、確かな成果になったことに変わりはない。
そんな皆を見て、ベリオラが穏やかに口を開いた。
「皆さん、こういう時くらい素直に喜びましょう。小さな一歩かもしれませんが、ここから始まるものもあるはずです。せっかくですし、今日はお祝いにしませんか?」
ベリオラはそこで通信端末へ目を向けた。実験が始まる前、サンブリンガーが連絡を取っていたアーチ教授のことも忘れていないらしい。
「もちろん、教授も参加していただきますよ」
「賛成!やっぱりベリは話が分かるね!」
レミエールが真っ先に手を上げる。ジョイアスも身を乗り出した。
「だったら、メイフラワーに勘定を持ってもらって、久しぶりに盛大にやるか!」
「うーわ、ジョイアスくん。また夜通し飲むつもりでしょ」
レミエールが呆れたように言うと、ベリオラも苦笑した。
「前回のようになったら、また教授にお願いするしかありませんね」
「おいおい、お前ら最初から俺が飲みすぎる前提で話してないか?」
三人のやり取りを聞いていたサンブリンガーが、静かに口を開いた。
「では、今日は酒を控えることにしよう。それなら皆も安心できるだろう」
「いや、なんでそうなるんだよ!」
ジョイアスが抗議すると、再び笑いが起こった。そんな中、アステルは椅子から立ち上がり、ベリオラの隣へやってきた。
「なあ、ベリオラ。飯行くなら俺も行っていい?」
「もちろんです。ですが、その前にサンブリンガー様へきちんと謝ってくださいね。勝手に研究室へ入ったのでしょう?」
「もう怒られたから大丈夫だって」
「そういう問題ではありませんよ」
ベリオラは呆れたように言いながらも、口元には笑みを浮かべていた。レミエールが二人の間から顔を出す。
「アステル、キミ何もしてないのにご飯だけ参加するつもり?」
「いいだろ。みんな頑張ったんだから、お祝いくらい一緒にさせてくれよ」
「ふふ、まあいいけど。じゃあ今日はアステルの分も頼まないとね」
「お、やった」
嬉しそうに笑うアステルを見て、ベリオラもとうとう声を立てて笑った。サンブリンガーは資料を片付けながら、そんな三人を静かに眺めていた。
誰もが嬉しそうだった。
これで世界を変えられる。ホロウに奪われた土地を、少しずつ人類の手へ取り戻せる。レミエールも、あの時はそう信じていた。まだ長い道のりが残されている。それでも、仲間たちと一緒なら、その先にある未来へきっと辿り着けると思っていた。研究のことはほとんど分かっていないくせに、皆が喜んでいるからと自分まで嬉しそうに笑っていたアステルも、確かにその輪の中にいた。
あの頃は、またこんな日が来ると信じて疑わなかった。
◇
「……レミエール?」
声をかけると、レミエールがこちらを向いた。
「ん?どうしたの、アステル」
「いや、さっきからリンのこと見てたからさ」
「ああ……ちょっと昔を思い出してたんだ」
そう言って、もう一度リンの背中へ目を向ける。端末の前では、リンが相変わらず忙しそうに作業を続けていた。
「ここの設備でロゼッタデータの検証に成功した時のこと。覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。お前らがすげえ喜んでた日だろ」
「ふふ。キミも結構喜んでたよね」
「そりゃ、みんながずっと頑張ってたのは知ってたし。何がどうすごいのかは、正直あんまり分かってなかったけどな」
「そうだったね。説明しても、途中で眠そうにしてたし」
「難しい話は苦手なんだよ」
レミエールは古びた研究設備へ目を向けた。
「あの時は、みんなあれで世界が変わるって思ってたんだよ。まだまだ先は長いって分かってたけど、きっと最後には何とかなるって」
俺は黙って聞いていた。
「あの頃は、みんなで同じ未来を見てたんだよね。……でも、結局そこまでは行けなかった」
その言葉に、すぐ返事はできなかった。レミエールがどんな思いで百年を越えてきたのか、俺には全部分かるわけじゃない。あいつらが逐日計画へ参加した頃、俺はもう死んでいた。ベリオラが結使になった時も、その場にはいなかった。目が覚めてから聞かされた話と、俺の知っている百年前の三人の姿は、今でも簡単には重ならない。
「……まあ、あの頃は俺も、いつか虚狩りになってお前らと一緒に戦うつもりだったしな」
「そうだったね。アステル、何度も言ってたもん」
「そのたびにお前らに止められてたけど」
「だって、キミって昔から無茶するんだもん」
「お前にだけは言われたくねえよ」
いつものように言い返すと、レミエールが少し笑った。俺はリンの方へ目を向ける。あいつは目の前の仕事に夢中で、こちらの会話には気づいていないらしい。
「……レミエール。帰ったら、何か食いに行こうぜ」
「え?」
「朝から動きっぱなしだろ。腹減ったし、どうせ帰ってからも準備があるんだからさ」
レミエールは一瞬きょとんとしたあと、笑い出した。
「なにそれ。今そういう話?」
「悪いか?」
「ううん。全然」
そう言って、もう一度研究所を見渡す。
「……いいね。行こっか。ベリも、こういう時はお祝いしようって言ってたし」
「そうだな」
俺は頷いた。あいつなら、きっとそう言う。
◇
「……よし!」
リンの声で、俺たちは顔を上げた。
「終わった?」
レミエールが尋ねる。
「うん。必要なデータは取れたよ。これならシンギュラ・リークの経路を予測できると思う」
「本当か!」
シグリッドが一歩近づいた。
「ただ、まだ全部準備できたわけじゃないからね。実際にどうやって偽物を移動させるかは、これから詰めないと」
「それでも大きな前進だ」
シグリッドが満足そうに頷く。俺もようやく肩の力を抜いた。昨日の夜に立てた計画が、ひとまず形になったらしい。あとは歓迎会までに準備を整えればいい。
「じゃあ、そろそろ戻るか」
「うん。データの転送が終わったら出発できるよ」
リンが端末を片付け始めると、レミエールが露骨に嫌そうな顔をした。
「帰りもあれ着るのか……」
「当然だ。前哨基地を通過する以上、変装は必要であろう」
シグリッドは平然と答える。
「……アステル」
「なんだよ」
「代わって」
「嫌だよ」
即答すると、レミエールが不満そうに翼を揺らした。リンはその様子を見て笑っている。昨日の夜には、あれほど追い詰められた顔をしていたのに、今はこうして笑っている。もちろん、トリヴィアのことが解決したわけではない。ドラキナだって、まだ助かったわけじゃない。それでも、少しは前へ進めたのだと思う。
シグリッドが出口へ向かって歩き出し、リンもそのあとに続く。俺は最後にもう一度、研究所の奥を振り返った。
百年前の声は、もう聞こえない。
それでも、あの日の賑やかな光景が頭に残っていた。
「……アステル?」
レミエールが足を止める。
「どうしたの?」
「いや。ちょっと昔のこと思い出してた」
「昔のこと?」
「ああ。ベリオラのこと」
そう答えると、レミエールはしばらく黙っていた。やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「そっか」
「お前もだろ?」
「……うん。まあね」
俺たちは並んで歩き始めた。思い出していたのは、戦場でも研究所でもない。三人で食事をして、くだらないことで言い合って、最後にはベリオラが呆れながら笑っていた、そんな何でもない日のことだった。
百年経った今でも、あの光景だけは驚くほど鮮明に覚えている。